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趣味の人生を楽しむサラリーマンの日記

映画における「共感する」とは?

映画を観たあと、ネット掲示板でいろいろな人のレビューを読むことが良くある。サイドストーリーが書かれていたり、自分で受け止めきれなかったこと補足してくれたりすることもあり、映画の理解が深まるから、というのが1番の理由。あとは、他の人の感想を読むことで、自分以外の別の視点や考え方を知ることができる、というのももうひとつの大きな理由。

映画レビュー掲示板でよく見かける感想が「共感できなかった」というコメント。その文言を補足するならば、「共感できなかったから面白くなかった」「共感できなくて感情移入できなかった」ということを言っているらしい。

ここで少し自分自身の話に転じます。

僕は若い頃から正義感が強く、曲がっていることが嫌いだった。最初の会社を辞めたのは、曲がったことをコソコソ隠れてやっていた上司に正面から反論して「あなたがチームメンバーに謝罪しないのなら私は辞める」、という経緯で辞めたほどの(正義感の観点で)潔癖症だった。正義感が強いことは今でも悪いことだとは思っていない。でも、行き過ぎると組織的な利害に配慮できなくなったり、「自分(の価値観)だけが正しい」という思い込みに陥ったりしやすいものである、ということは今では一応わかっているつもりではある。

一時期、70名のチームの運用責任者を担っていたときがある。お客様からまず要求されるのは業務の品質を高いレベルで維持することで、特にヒューマンエラーによるオペレーションミスはもっとも問題視される。だからヒューマンエラーについてはいろいろ勉強した。ヒューマンエラー対策は、人間とはどういう生き物なのを掘り下げて理解することがまずはスタート地点になる。「ミスをしない人間はいない。怠けたり、周囲に流されて誤った方向に走ったりする特質を人間は持っている」という、不完全な生き物であるという理解から、それを踏まえた上でミスを防ぐ対策をしましょう、というのが根幹的な考え方になる。気が緩んでいたから注意力を上げるという精神論ではミスが減ったりはしない。ヒューマンエラーの勉強をしていると、人間がいかにダメな部分を沢山抱えてた生き物であるかを思い知ることになる。

そうした研究の末に、ヒューマンエラー対策をいろいろ作り上げたあと、今度はチーム全体に落とし込む作業がある。これがまた難物で「どうしてそんな面倒なことをやらないといけないんだよ」という反論が出ることも少なくなかったし、新ルールとして展開したはずなのに、現場の理解がバラバラだったりすることもよくあった。直接声を聞くと、よくもまあそんな自分だけに都合の良い考え方をするものだと驚いたり、呆れたりしたことも一度や二度ではない。

そうした経験をしていると、つくづく痛感させられてしまう。ホント、世の中にはいろいろな人がいる、いろいろな考え方があるということを。また、掘り下げて行くと、なぜそのような考え方に至ったのかという背景もおぼろげながら見えてくる。客観的に見れば悪い行為であっても、背景や人間の弱さによって、そうせざるを得ない状況になってしまう。追い詰められたら、本音では不本意と思っていることでもやってしまうのが人間という弱い生き物だと思えるようになるには、それなりの(苦い)人生経験を積まないとなかなか理解できるようにならない。特に正義感が強い人ほど、そうした理解に至るまでに時間を要するのではないかと思う。

映画レビューで登場人物に「共感できない」と言っている人のほとんどは、自分ならそんな考え方をしない、自分ならそんな行動を取らない、だからこの人物のやっていることは理解できないし、理解できない人物を映画で観ていても面白くない、という意味で書かれているように見える。

僕は30歳になってから映画を良く観るようになった遅れてきた映画ファンで、話題作程度しか観なかった20代や、映画を観るようになりはじめた30代くらいまでは、自分の考え方に共感できるか、できないかという視点で映画を観ていたように思う。でも、今ではそんな幼い視点で映画を観ることはないし、映画ファンで自分が共感できるか否かを視点に映画を観ている人はまずいない。だから、映画掲示板で「共感できない」「感情移入できない」というコメントが多い映画ほど、ニワカ映画評論家が多く観に行く話題作なんだなとわかる(最近だと「天気の子」が最たるもの)。普段ほとんど観ないニワカ映画評論家が、「話題の映画をこき下ろすことで自分の格が上がると」と勘違いして書く批評、その内容が「共感できない」というのはあまりにもお粗末だと言わざるを得ない。

映画を数多く観ていくと、「自分ならこうする」と思えない人がどんどん出てくる。それは脇役に限らず、主役ですらそういう人物が無数に現れる。

例えば、以前記事にも書いたことがある2014年の「ナイトクローラー」。素直さがなく、社交的でない主人公は何かと嫌われている。それでも人並みに承認欲求を持っている。パパラッチという仕事を知り、少しずつ仕事がうまくいくようになる。その仕事で喜ぶ人が現れ、お金も手に入るようになってくることで、徐々にそのパパラッチぶりがエスカレートして、人でなしとも言えるところにまで踏み込んでしまう。このパパラッチに共感できる人はまずいないと思う。だから面白くない、だと自分の価値観の枠にハマるか否かを分別するだけで話が終わってしまう。行くところまで行ってしまった、もはや人でなしとも言える主人公は、決して天罰を受けない。しかし、世の中には人としてろくでなしでも、天罰を受けず、富を謳歌している人なんていくらでもいる。それは、そんなろくでなしを必要とする人がいるから、という社会の縮図を見せつけられている気分になり、まあ、映画(架空の話)だから「酷いやつだな、まったく」と呆れながらも、しっかり人間を描けている映画として楽しめる。

例えば、2005年にカンヌでパルムドールを獲った「ある子供」という映画の主人公は、若くして恋人との間に生まれた赤ん坊の父親となる。決して悪い人間ではないが、とにかく自分のことしか思考が回らず、恋人のことも赤ん坊のことも考えていない。そんな主人公が、ある日その赤ん坊を世話しなくてはならないことになり、いろいろ事件が起きて行く。それをフランス(とベルギー)映画らしく、淡々と描いている。この主人公に共感できる人も恐らくほとんどいないと思う。だから面白くないのか、というかとそんなことはない。部分的な行動は他の人でもやっているようなことだし、「ああ、ダメだよ、そんなことしたら」と思いつつ、人間がいかに自分勝手な部分を持った生き物なのかと我に返ってしまう。

ウディ・アレンの「男と女の観覧車」(2017年)に至っては、出てくる人物すべてに共感できない。ああ、あの人の気持ち、よくわかるという気分にさせる人がまったくいない。自分勝手な人ばかりが、自分勝手なことばかりをしゃべりまくり、自分勝手なことをやってしまう。でも、それぞれの自分勝手な言動の中には、人間誰もが抱く人としての身勝手さがあって、「自分にも部分的にはこういうところがあるよな」と我に返ってしまう(余談ながら、自分勝手を極めたほぼノーメイクで出ているケイト・ウィンスレットが放心する最後のシーンの表情の美しさが秀逸)。

映画というのは、自分がその世界に入り込んで、自分ならどうするというシミュレーションを楽しむ娯楽ではないと思う。いろいろな考えの人がいて、自分なら選択しない人生を選択する登場人物の生き方を疑似体験して、人間の多様性を見て楽しむもの。それは自分の価値観と合う「共感」ではなく、人間という生き物への「共感」であり、多様な人間を描くからこそ映画は面白い娯楽として愛されているのだと僕は思う。

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