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趣味の人生を楽しむサラリーマンの日記

「ブルックリン」(ネタバレあり)

ブルックリン201707

僕は愛知県で生まれ、岐阜県境に近いところで育った。3歳から同じ家に住み、15歳になる直前(中学3年生の夏休み)に千葉県浦安市に引っ越した。これが人生で一番距離の離れた引越であり、唯一の転校だった。

生活に不便するような場所ではなかったとはいえ、のんびりした空気の田舎(なにせ男子全員五分刈りの校則が当たり前の社会で、小学生のときには川で泳いだこともある)で15年間育ち、東京に近い浦安の新興住宅街に引っ越してきたのは物凄く大きな生活環境の変化でカルチャーショックという言葉を覚えたのは実にこのときだった。夏休みが明け、創設2年目の新しい中学校に行くと「こちらに起こしください」と部屋に通され、そこには同じ日に転校初日となる生徒が17人も集まっているというまさに新興住宅街ならではのもてなしに唖然。クラスに案内されると、教室にいる女子生徒の半分は分裂前の中学校のセーラー服、残り半分は一人一人バラバラ(それぞれの転校前の制服)という、なかなか体験できない「新しい」中学校だった。

初めての転校、真新しい校舎、長髪の男子達に恐れ慄いていたものの、皆フレンドリーですぐに打ち解けて友達ができた。そのあっけらかんとした親しみやすさは転校前の田舎とは大違いで、ずいぶん気分的に助けられたものだった。皆、明るく楽しいクラスメイトばかりで、自分で言うのもなんだけれど、女子も含めて結構慕われていたから、わずか半年だった残り半年の中学生活は今でもはっきり思い出せるくらい楽しいものだった。

卒業して春休みになると、かつて住んでた愛知県の友達の家に遊びに行き、自分が慣れ親しんできた場所に帰って半年前まで一緒に過ごしていた友達と遊んだ。一言で言うならば懐かしかった。浦安の新興住宅街の中学生活は確かに楽しかったし、垢抜けた都会っ子の級友たちとの付き合いは自分も都会っ子になったような気分にさせてくれたけれど、長年育った場所の空気はまったく違ったものだと痛感することになった。やはり気心知れた古くからの友達と一緒にいることは安心できたし、「自分の居場所はここだ」と思わずにはいられなかった。

愛知県の田舎と浦安で違っていた点はたくさんあった。特に友達関係はかなり違っていて、浦安ではフレンドリーで幅広くいろいろな人と仲良くなれたけれどどこか浅くて表面的、愛知県の友達付き合いは、もっと心の奥深くから付き合っている感じがあった。

高校、大学に進んでからも長期休みのときにはよく愛知の友達の家に遊びに行っていた。その度にやはり「ここが自分の場所だ」という思いを抱いたものだった。しかし、社会人になったあとくらいからは、そう単純に割り切れるものではないと思い始めるようになっていった。まず、高校進学のときを思い出してみると、愛知県にいたときはせいぜいA高校かB高校の二択しかなかったのに、浦安では選択肢は無数にあった。就職も応募する企業は(バブル期だったこともあり)数え切れないくらいあった。これは首都圏に住んでいたからこその選択肢だったことは間違いない。愛知県のときの級友は、皆、僕よりも成績が良かったけれど、地元企業で日々代わり映えのしない、さして給料の高くない(しかし安定した)仕事をやっている。住んでいるところが違うというだけで生活が、人生がまったく違うものになるということを感じずにはいられなかった。

また、人付き合いの観点でも大人になってみると田舎が良いとは思えなくなってきた。たまに愛知県に帰ると「◯◯があのパチンコ屋におった」「◯◯と◯◯が結婚したらしいわ」のように、どこで誰に会って、どんな生活をしているのかが筒抜けになっている。首都圏近くに住んでいるとそんなことはほとんどない。僕は「人は人、自分は自分」という考えなので大人になると近すぎる人間関係が時に煩わしく、どこで誰がどんなふうに暮らしているのか筒抜けの田舎暮らしは耐えられそうにないと思うようになっていた。

そんなこんなを含めて、僕はもう子供時代に住んでいた場所で暮らすつもりはなく、東京近辺での生活を快適に思っている。

今回も前置きが長くなりました。

スケールは大きく違えど、この映画も表現しているのは基本的には同じものであるように思う。閉鎖的なアイルランドの田舎暮らしと、大都会マンハッタンの隣にあるブルックリンの暮らし(ベッドタウン浦安を重ねてしまう)の対比。新しい友だち、新しいボーイフレンド(僕の場合はガールフレンド)、新しい人間関係に囲まれ、言葉遣いも服装も垢抜けてくる。一方で、久しぶりに生まれ育った場所に帰ると「ここが自分の場所だ」という思いに囚われてしまう。4時間もあれば昔住んでいたところに行けた僕とは違い、何日もかけて船で渡らなくてはならず、電話をすることも簡単ではなかった時代であれば、その思いは尚一層強いものになるであろうことは想像に難くない。

映画レビュー板では、シアーシャ・ローナン演じる主人公エイリッシュが地元に戻ってジムと良い関係になってしまうことに「共感できない」「許せない」という声が少なからず上がっている。そりゃ、正しいか正しくないかと訊かれれば、それは正しくない行為である。しかし、他の記事でも書いている通り、映画というのは他人の人生(の選択)を疑似体験する娯楽である。自分がそういう選択をしないから共感できないと拒絶していたら、自分の価値観しか受け入れられなくない狭量な人間になってしまう。正しくない行為をしてしまった人の人生を疑似体験して味わうのが映画という面白い娯楽じゃないですか。

そのエイリッシュ、生まれ育った田舎町という「自分の場所」に帰ると、地元の居心地の良い空気に流されてしまう。旧友との時間は気遣いもなく、自然体の自分で付き合うことができる。更に自分に想いを寄せてくれる教養のある紳士も現れる。働く場所もないから去った土地なのに、NYで取得した資格で仕事を得ることまで叶ってしまった。「(NYに)行く前にこうだったら良かったのに」というセリフ(ちょっと違ったかも)がエイリッシュの心情のすべてを表している。帰国前に入籍してブルックリンに置いてきた、英語が怪しいイタリア人亭主のことを思い出したくないほどの心地良い毎日。

ところで、エイリッシュに共感できないと言っている人は、シアーシャ・ローナンの、清純な外見と雰囲気、透き通るような青い瞳に幻惑されているんじゃないだろうか。NHKの朝ドラでも通じそうなこの清純キャラのエイリッシュは、しかし、同じ寮に新しくやって来た一風変わった友達をダンスパーティで置き去りにするなど聖人君子としては描かれていない。また男性関係も、自分から恋をして成就させているというよりは、自分に言い寄ってくる良さそうな人を選んでいるという、見方によっては高飛車な態度である。それでいて、ダンスパーティを去るときには口実を作らないと逃げ出すことができず、熱心に言い寄ってくる優しい男を切れないという優柔不断なところもあり、自分の気持はあるのに、自分で決めて行動できない人物として描かれている。

こうした人生を総括した上で、「忘れていた。ここはそういう町だった。」と言い放って、ブルックリンに戻る決断する主人公を、だから僕は清々しく見送り、これからがんばって自分の人生を歩めよとエールを送りたくなってしまうのだ。

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