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趣味の人生を楽しむサラリーマンの日記

指揮者が何を考えているのかがわかる良著

ロマン派交響曲201509

クラシックを聴き始めてもう少しで3年になろうとしている。より楽しめるように知識を身に着けるにあたり、ネットの情報に加えていくつかの本も読んでみた。一番おもしろく、参考になったのが金聖響氏(玉木正之氏と共著体裁だが内容はほとんど金聖響さんの語り)の「ベートーヴェンの交響曲」「ロマン派の交響曲」「マーラーの交響曲」のシリーズもの。

この一連の本、実はかなり画期的だと思う。指揮者自らがどう曲を捉えて、どう考えて、どう演奏しているのかを金聖響氏が赤裸々に語っているから。恐らくは氏のサービス精神がそうさせているのだと思うけれど、ここまで手の内を見せてしまっていいのだろうかとすら思ってしまう。今でもときどき手にとって読みながら、曲を聴いているんだけれど、やはり音楽がより楽しく聴ける。これからクラシック(ここでは管弦楽に限りますが)を聴く人にはこの本を真っ先に薦めたいと思うほど、この本は素晴らしいと思う。

とはいえ、書いてある内容に全面的に納得しているというわけではない。指揮者自らが語っているだけに指揮者の身勝手さもよく書かれている。たとえば金聖響氏はよく「大指揮者時代」という言葉を使っているんだけれども、それは(ごく大雑把に言うと)フルトヴェングラー、トスカニーニ、カラヤン、ワルター、ベーム、バーンスタインなどの巨匠たちが作曲家が指定した編成や譜面から逸脱してより大規模でスケールの大きな演奏に変貌させていったこと、そしてそれを大衆が支持したことでそのスタイルがクラシックの王道になっていったことに対するアンチテーゼとした意味合いで使っているようだ。これは「譜面と作曲された時代を尊重するべき」という、15年~20年前に流行ったピリオドスタイルの演奏に共通するもので、金聖響氏自身もそのようなスタイルで演奏している。

僕がクラシックの演奏で魅力を感じるのは、金聖響氏の言う「大指揮者時代」のスタイルで、まあ言ってみれば大袈裟で大見得を切った表現が好きだ。だからピリオドスタイルという演奏を知ったときに「まあ、そういう考え、表現もありかな」くらいにしか思わなかった。実際に聴いてみると、確かに巨匠たちのスタイルとは違う魅力があると感じたのと同時にこうも思った。これは「逃げ」ではないかと。

音楽というのは時代とともに発展、進化していくのが当然であり、譜面を元に演奏するクラシックであってもそれは同じなんじゃないだろうか。譜面を元に演奏家が解釈して表現するのがクラシックであり、その到達点のひとつが「大指揮者時代」のスタイルなんだと思う。そして、レコードというものが広く普及したために、生演奏を聴くことができない人にまでそれが知れ渡るようになってしまった。そしてその手法も90年くらいまでにはほぼやり尽くされてしまった。そうなると困るのは、モノマネをせずにより良い演奏をしなくてはならないその後の指揮者、演奏家たちだった。そこに与えられた逃げ道がピリオドスタイルだったのだと、クラシック歴2年足らずの時点で僕は思ってしまったのだ。

確かに「作曲された時代の編成、楽器、演奏スタイルで」という主張は純粋さをイメージさせる。指揮者の解釈によってそれを変貌させることをある意味「悪」と捉えて、譜面に忠実に演奏することを正義とすることは正統な主張のように見えて、違う道を探していた指揮者と演奏家に大義名分を与えただろうことは想像に難くない。

ちなみに、著書の中で金聖響氏は「私は解釈という言葉を使いません」という意味のことを胸を張って言っている。譜面に書いてあることを再現することこそが指揮者がすることなので「解釈」で曲をねじ曲げるのは良くないという主張が感じられる。でも、それは違うと思う。そもそも譜面で音楽がすべて表現できるわけではない。指揮者は行間を読まなくてはならないし、そこに解釈を加えることは当然のこと。以前にも紹介したけれどもルドルフ・ブッフビンダーが「ストラヴィンスキーだって同じ自作曲を指揮するときに違うスタイルで演奏した」と言っていた通り、「指揮者の意図するもの」ですらひと通りではない。それなのに譜面に忠実であることを正義とするのは詭弁ではないだろうか。

そして金聖氏響も著書の中で自己矛盾に陥っていると思えるところが多々ある。シューマンの交響曲第1番冒頭のファンファーレはリハーサルのときに当時のホルンだと初稿の譜面通りに演奏できなかったので、書き換えられたことについて触れている。ここは現代のホルンだと初稿の通り演奏できるので、書き換える前の本来シューマンが意図したものを尊重するべきだと主張。一方で、ベートーヴェンの交響曲第9番第4楽章の冒頭のトランペットは当時の演奏技術では演奏が難しいために吹きやすい途切れ途切れのものを書いていて、指揮者によっては現代の楽器と技術なら途切れ途切れにならずに吹けるので滑らかに演奏させる人がいる、しかしそれは最初から途切れと途切れで書いたベートーヴェンの意志ではないと主張。これは見方によっては矛盾があると思う。ベートーヴェンはリハーサルで気づくまでもなく(というか当時は耳が聴こえなくなっていたはず)、最初から途切れ途切れにしただけで本当にそうしたかったのか、つまりそれが本来のベートーヴェンの意志だったのかどうかはわからない。

僕はどちらが正しいなどと言うつもりはない。ただ、こういったことこそが「解釈」だと思う。他ではブラームスの項目では「繰り返しは省略しないでください。ブラームスが指定しているのですから」と言っておきながら、シューベルトの「ザ・グレイト」では繰り返しが多すぎるので譜面通りに演奏する(1時間10分くらいになるらしい)ことに疑問を感じていることを言っている。「解釈」しないのであれば疑問を抱くことなく譜面通りに演奏するのが筋ではないだろうか。

誤解なきように言っておくと、だから金聖響氏はダメだ、おかしいなどと言いたいわけではない。指揮者というのはこうやって自分勝手に自分が正しいと思う理由を探しながら、まるで高いものを買うときに自分に言い訳を考えるのと同じように正当化する人種なんだな、ということがわかる。それこそがこの本の面白いところだし、指揮者はそうやってそれぞれに「解釈」をしながら音楽をどんどん個性的に演奏してほしいと僕は思うわけです。

この一連の交響曲シリーズを大推薦しているのはそんな面白さがあるから。次は温存している「ブルックナーの交響曲」をお待ちしていますよ、聖響さん!

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