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趣味の人生を楽しむサラリーマンの日記

ピアノ・レッスン 第49回 - 自分の演奏を録音してみた

(ピアノレッスンの記事は自分のための備忘録を主目的としています)

チェルニー Op.261-No.33。右手で1番の音を軸に3番5番の重音と、2番4番の重音を交互に繰り返す曲で、まずはその3番5番の重音、2番4番の重音をしっかり合わせて出せるかがポイント。曲の前半では、1番と2番が2度、1番と3番が3度という間隔で、ここはまずます上手くできている。しかし、後半ではそれぞれ3度、4度と開き、指が離れたことによって重音が揃わなくなってしまう。更に問題なのは3番5番のときに間の薬指が一緒に降りてしまうようになって鍵盤に触れ、ときに少し音を出してしまうという崩れ方。

もちろん家で練習していたときから後半がグダグダな状態だったことはわかっていたんですが、グダグダすぎて何がどういけないのかをまだ考える前の段階だったため、レッスンで上記指摘と修正ポイントを押していただき、また家で練習に励むことに。薬指が言うことをきかない(動いてほしいときに動かず、動かなくて良いときに動いてしまう)という初心者によくある悪癖はそう簡単には直りそうにありません。

さて、今回はいつも借りているアップライトピアノの部屋ではなく、グランドピアノの部屋でのレッスン。2年前、ピアノレッスンの第1回めが実はグランドピアノの部屋だったんですが、当然初めてピアノを弾く自分にその弾き味、弾き心地がわかるはずもなく、実質はじめてグランドピアノを弾いてみたことになります。

日々家の電子ピアノ(YAMAHA NU1)に触れ、月に2回アップライトピアノ(毎回同じもの)を弾く生活を続けてきた、49歳からピアノを始めた初心者が、グランドピアノに違いを感じることができるのか?ということを自分でも楽しみにしてこの日レッスンをした結果、どうだったかと言うと、アップライトとの違いは明らかにわかりました。

アップライトは鍵盤を押した状態が上に戻るときの反動がピョコンっと速く、一方で家のNU1は遅いので、レッスンのときに毎回違和感があります。グランドピアノでは鍵盤の戻り速度は特に速いわけではなく、NU1と大きくは違わない印象で自分の感覚としてはナチュラルに感じる。また、グランドピアノの鍵盤のタッチも、NU1、アップライトとも違ってクセがなく弾きやすい。力の入れ具合、打鍵の仕方による音の変化も、感覚に合った自然なもので、自分ごとき初心者でも弾きやすく、キレイな音が出る。そもそもピアノというのはグランドピアノのことであり、アップライトピアノや電子ピアノはその代用品であることはもちろんわかっていたんですが、ああ、これが本来のピアノなのかと初めて実感できました。やはりグランドピアノの弾き心地は素晴らしい。本当はこれで練習もレッスンもできたら、と思ってしまう。

この日もうひとつの目的は、着手してから1年5ヶ月経過した「月光 第1楽章」を録音するということ。「月光」は家での練習でも必ず1回は弾くことにしていて、この2週間は特に時間を割いて練習してきました。音符通りに音を追うことはもうだいぶ前からできるようになっているので、練習は鍵盤のタッチ、テンポのメリハリの付け方がメイン。それなりに仕上げてこの日、録音に臨みました。

ところが、あんなに練習してきたはずなのに、間違える、頭が白くなって演奏が止まる、など散々な状態に自己嫌悪に陥る始末。録音しているというプレッシャーで平常心で弾くことがまったくできない。これでは発表会など論外でしょう。先生曰く、発表会だと緊張もするけれど、高揚感もあるからきっとまた違う気分で弾けるのでは?録音は楽しくないからただ緊張するだけ、という慰めのお言葉。それでも、何度かやり直しつつ30分ほど弾いたところで、なんとか形になる演奏で弾き通すことができたので録音を終了。全精力を使い果たし、しばし放心状態に。

家で聴き直してみる。録音して自分の演奏を聴くと、頭の中で曲を補完(美化)して上手く弾けている気になってしまっていることがわかる、という意見を目にしたことがあるので、恐る恐る自分の演奏を聴き始めたのです。あれ?思ったよりはいい感じで弾けているし、表現も思ったよりはうまくできているではありませんか。もちろんCDや先生の演奏と比べたら素人感丸出しではあるんだけれども、意外と曲としてうまくまとまっていてそれらしく聴こえている。どうやら僕は自分で弾いているときの自己評価が低いようで、客観的に自分の演奏を聴いてみたら思ったより上手く弾けていてなんだか嬉しくなってしまいました。ずっと練習し続けてきた甲斐があったというものです。もっと改善できるところも当然あるとはいえ、譜読みをしていたころ、ただ単に音符を追っていただけのころのことを考えるとずいぶんうまく弾けるようになったなあと、自分のことながら感慨深いものがありました。「月光」はもっと表現を磨きたいので、これからも練習を続けて行くつもりですが、よりモチベーションを持って練習に臨むことができそうです。いやあ、ピアノって本当に楽しいです。

スピードラーニング:競馬エピソードの間違い

先に書いた通り、スピードラーニングで聞き流し英語学習をやっているわけですが、Vol.42でなんと競馬のエピソードが少しだけ出てきます。

ここでの会話で、Win、Plcae、Showの馬券の解説が入り、"Win is first, Place is second, Show is third"と説明されます。それぞれ「1位、2位、3位を当てる」(1着、2着と言ってほしい)と続く日本語で説明されるので誤訳ではないのですが、競馬ファンのみなさんならご存知の通り、英文からしてほぼ間違いと言っていいくらいの説明不足です。

こちらのサイト(https://turfnsport.com/win-place-show-wagering/)には以下のように書かれています。

Win: If you wager $2 to Win on your horse, you collect only if your horse finished first.

Place: If you wager $2 to Place, your horse must finish first or second for you to collect. But remember, you don’t get the Win payoff, just the Place payoff, which is generally smaller than the win payoff.

Show: If you wager $2 to Show, your horse must finish first, second, or third. But remember, you only collect the Show payoff.


アメリカでは、単勝、複勝は$2単位で賭ける(馬単、3連単などは$1単位)のが一般的のため$2ベースの話になっていますがWinは日本で言う単勝、Placeは2着以内に入る馬を当てる複勝、Showは3着以内に入る馬を当てる複勝であることが説明されています。決して2着を当てる、3着を当てる、ではありません(そんな賭け面白くないでしょ)。

もうひとつ、Twenty to Oneのオッズを20倍と説明していますが、これも厳密に言うと間違いです。日本語にすると掛け率が20対1("20:1" "20-1" などと表記される)という言い方になると思いますが、オッズが20倍ではなく21倍が正解です。これは、賭け事には親と子がそれぞれお金を出し合って勝った方が総取りするという欧米の賭けの考え方に基づいていて、馬券オッズで20対1の場合、主催者が20ドル、賭ける人が1ドルを出し合って、勝った方が総取りとなるため21ドルを手にするというわけです。これの応用として 3:5 のオッズは、5ドルを賭けたら8ドル戻ってくることになるので日本式倍率では1.6倍ということになります。

あと払い戻しを賞金と訳すのもなんだかなあという感じです(賞金は競走馬のオーナーや関係者が手にするもの)。

ま、あんまり大したことじゃないんですけど、スピードラーニングに報告する窓口が見つからなかったので、いち競馬ファンとしてボヤいてみました。そもそも、このスピードラーニングのエピソードに競馬ネタが必然ということはなく、こんな(その世界で当たり前に使われている用語を使わずに訳語をあてる)こと、どうでもいいやと思うようなら題材として取り上げなくて良いと思うのですが。

映画やドラマの演技は日本人のメンタリティに合っていないんじゃないだろうか



遅ればせながら(?)、1年ほど前から英会話の勉強をと思ってスピード・ラーニングを聴き始めている。この教材はすでに広く世間に知られている通り、英語のセリフが出てきて次にその日本語のセリフが出てくる、というもの。勉強というよりは数多くの英会話を聴いて慣れることで英語を身に着ける、という教材になっていて、どんな子供でも見よう見真似でそのうち言葉が喋れるようになるという考え方に基づいているんだそうです。とはいえ、宣伝文句通りに聞き流していると、日本語だけが耳に残り、英語は文字通り流れてしまうので身に付く可能性は低そう。毎日聞き流しで続けていると、意味がわからないのに聞き流す習慣が身に付いてしまうので内容がほとんど頭に入ってこなくなります。真剣に聴き続けることができれば多少効果はあるかも、というのが個人的な感想です(喋っている内容が非常につまらないので真剣に聴き続けるのはかなりの忍耐が必要)。普段英語に触れる機会が少ない人が英語特有の響きに慣れるという点では多少の効果はあるかもしれません。

そんな教材の在り方の是非はともかく、聴いていてものすごく違和感を覚えてしまうところがある。その違和感とは同じ状況で同じ内容の言葉を、それぞれ英語と日本語で喋っているのに、その温度感や感情の伝わり方がまるで違っているところ。もちろん、しゃべっている人の声が違うから違和感がある程度あるのは仕方がないんだけれども、同じ内容を喋っていてもまるで別のことを喋っているんじゃないかと思うくらい情感が違うところが少なからずあります。

もちろん、本物の会話ではないので、英語部分の会話も作られた感はあるんですが、日本語部分は多少感情を込めた風でありつつも朗読的で、むしろ中途半端に感情表現しようとしてわざとらしさが目立ってしまっている。更にひどいところでは、例えば、英語では声を震わせて苛立った様子を伝えてくるのに、それに続く同じ意味の日本語ではNHKのアナウンサーのような端正な喋り方に少し色が付いている程度の、つまりは棒読みに近い喋りが出てきてしまうような部分まである。

本題とは関係ないけれど、Vol.40からの日本語喋りの男女2人は、日本語台本が会話的でないことも手伝ってかなりひどい。37歳のスコットの声は50歳以上と思しき声質で(「相棒」で同じ喋り方で同じ声の50歳以上と思しき俳優が出演していた)、セリフで「○○さ」「○○だなぁ(語尾を上げる)」を多発、カコは発声すら覚束ない小刻みに震えた力ない声で淡々と話し続ける。本を持って朗読している姿が目に浮かぶかのようにお仕事的に、しかし微妙に感情を込めた会話が流れて行くのです。会話劇として見た場合に教材制作側の力不足は明らかで、この不自然な調子の会話が気になってリスニングに集中できない。まあ、単なる教材なのだから、そこまで気にしないでくれよ、ということなんでしょうけれど、もう少しなんとかならなかったのかと思ってしまう。

このような違和感について考えると、以前から僕が思っていたことにまた行き着いてしまうのです。

僕は、テレビや映画で見る日本人の俳優は、老若男女、どうしてこう揃いも揃って演技が下手なんだろうと常々思ってきました。その大きな原因のひとつは、デーブ・スペクター氏が言っているように、日本の芸能界は事務所が強すぎて、事務所が推す、演技の勉強も訓練もあまりやっていない役者を制作側が使わざるを得ないから、という事情がまずはあります。

一方で僕が思うのは、そもそも日本人は映画やドラマでその役を演じるというメンタリティを持っていないんじゃないかということ。その架空の人物になりきって、自分の内面をさらけ出しながら人物を表現する、という行為ができない。もう少し踏み込んで言うと、我を前面に出すという行為を美徳としない古来からの日本文化からくる、控えめ、あるいは恥ずかしがり屋なメンタルが演技に向いていないように思えるのです。

例えば会社でカンファレンスがあり、最後に質問は?となったときに手を挙げる人が日本では非常に少ないことは、他の国の人にもよく知られているところです(その場に外国人が混じっていると特に)。昔、ハリウッドのユニバーサル・スタジオのアトラクションで、「じゃあ、これに参加したい子は?」と進行役が観客に尋ねたときに、アメリカの子供たちの多くが「私を指名して」という熱意を前面に出して手を上げてアピールしていた様子を見たことがありますが、似たようなシチュエーションで、日本の子供があそこまで積極的になっている姿は見たことがありません。これも、出しゃばりは品がなく、控えめで慎ましくあることを美徳とする日本人のメンタリティがそうさせているんでしょう。出る杭は打たれる、という慣用句がここまで浸透している国は恐らく日本だけだと思います(少なくとも英語にはそのような慣用句は僕が知る限りない)。

そのような日本人のメンタリティが、演技の世界においては全部悪い方に出てしまっているんじゃないかと思うわけです。抑揚のない淡々とした演技しかできない、あるいは妙な喋り方の型を恣意的に作ったクサイ演技(田村正和、松田優作、木村拓哉、森本レオなど)しかできない、あるいは昭和中期のドラマのようなドラマの中でしか存在しない不自然に角ばった演技しかできない、という状態を作ってしまいるのは、役の人物になりきれないことをごまかすための小手先の手法でしか演技できないからではないか、と僕は考えています。

自分をアピールする習慣がない人種が、映画やドラマで必要とされる役になりきる表現ができない、言い換えるとそもそも日本の社会には演技というパフォーマンスをするという下地、文化がない。いやいや、日本にだって、歌舞伎や能があるじゃないかという声もあることでしょう。でも、映画やドラマの演技と歌舞伎や能の演技は誰が見てもわかるように別物です。歌舞伎や能は、演じている人物がどんな外見なのかわからない完全に作り上げられたメイクと衣装で、まったくの架空の世界の人物を決められた手法で演じるものであるのに対して、映画やドラマの演技にはお決まりのセオリーはなく、その俳優そのままの姿、そのままの声、そのままの喋り方で現実の世界を自己表現することが求められます。役の人物と役者の魅力が入り混じったものが最終的に「演技」として視聴者が目にするわけです。

手法ではなく、自分の内面をさらけ出してその人物を表現することが求められるリアルワールドの演技は、前述のような日本人のメンタリティに合っていない、だから日本の俳優の演技は稚拙(表現に乏しい、あるいは自分の内面を隠すかのような不自然に芝居掛かったもの)になってしまう。特に演技力の差が顕著に現れているのが子供の俳優たちです。外国の子役の演技が演技に見えないほど自然かつ個性的であるのに対して、日本の子役がセリフを棒読みして表情すら作れず、誰がやっても同じようなものになってしまうのは、演技の勉強や技術が足りない(演技の教育が足りない)のではなく、生活習慣や文化の違いという根深いところからくるメンタリティの違いが原因であるように思えます。

以前「日本の音楽を聴かない理由」という記事を書いたことがありますが、欧米でメジャーな映画、音楽、ダンスという娯楽のレベルが日本で数段落ちてしまうのは、日本の生活や文化、日本人のメンタリティに合っていないからという、身も蓋もない話に落ち着いてしまう。もちろん、それぞれの分野において世界の第一線で活躍、評価されている人もいますが、ごく一部であり、世界との間にある大きな壁を乗り越えるのは簡単なことではないな、なんてことをスピード・ラーニングを聴いていると考えてしまうのでした。

ピアノ・レッスン 第48回


(ピアノレッスンの記事は自分のための備忘録を主目的としています)

前チェルニー Op.261-No.11,12。前回レッスンからのインターバルが3週間あり、練習に費やした時間は十分。後半の左手4番5番の指を多用するメロディは、それでもスムーズとはいえず、もたつき、転びながらなんとか乗り越えるのが精一杯。3番の中指で始まるつながりのところを意識的に強めに出すことで転びにくくなることを教えていただいて、やってみると確かにその通り。これは前半の右手メロディのところも同じで、メロディ全体にメリハリがついて音楽的な表現でも良い結果をもたらしてくれる。力を入れてハッキリ打鍵すべきポイントがわかるだけで、こんなに上手く行くようになる、という勉強になりました。左手メロディの部分は引き続き自主練することにして修了。

次のチェルニー Op.261-No.33は、音符の並びだけ見ればそれほど難しくなさそうな曲に素人目には見える。

チェルニー261-33

しかし、譜面の指定通りAllegro Vivace(快速に・活発に)を守ろうとするとまるで格好がつかない。正確に刻まなくてはならないリズムは、休符が入ると更にリズムの取り方がややこしくなり、左手のメロディ(簡単なのに)と同期させるのは、初挑戦の今回では到底無理な何曲。リズムのとり方のポイントと、右手親指に力が入りやすく、しかし弱く弾くべきであるところを教えていただいたところまでで今回は終了。

次はリトルピシュナ46番、左手のみの練習。徐々に精度が上がりつつあるとはいえ、つっかえ、音を外しながらという状況は未だに継続中。ひとつには、チャレンジングに早めのテンポでやっていることが原因で、とはいえゆっくりやっていると練習にならないので、この早めのテンポを維持して精度を上げたいところ。一部、音の途切れ(返しのところを繋げられない)が目立つ部分については、1番(親指)をベタっと重く置きすぎていること、その指を置く位置が鍵盤手前すぎることであることを教えていただき、そこを意識することで多少は滑らかに回るようになる。あと小指で黒鍵を打鍵するときにズルっとなってしまうことろは、なるべく指を上から落とす感覚にするとズルっとなりにくくなることを教えていただく。こういうところは実際に先生に見てもらって良い方法を提案してもらわないと気づけないものです。これらを意識して、さらなるスムーズな指の返しを目指すことにします。

「ワルツ・フォー・デビー」は、エンディング手前のパートの譜読み。右手の4番5番をトリルのように進めるところで悶絶。この曲、「月光」のようなクラシックと違い、音階や指の運びに法則性があまりなく、覚えるのも指を動かすのも難しくて体に馴染ませるのにとにかく苦労します。また、ここまで譜読みしてきたところの音は取れるようになってきてはいるものの、曲の表現としてはまだぜんぜんできていない。譜読みじたいは終盤を迎えているとはいえ、聴ける状態になるまでにはまだ結構かかりそうです。

さて、今回は普段の練習についても書いてみます。幸いにして仕事が落ち着いているおかげで、ほぼ毎日1時間以上練習できている過去半年間。よって、これまで取り組んできた練習曲でうまく弾くのが難しい曲、あとベートーヴェン「トルコ行進曲」「月光」、ラ・ラ・ランド「ミアとセバスチャンのテーマ」もずっと弾き続けているんですが、その上達のスピードはほんの少しずつといったところ。曲が弾けるようになる、というのは自分が今できる技量というのがまずはあって、練習はそこに到達するためのプロセスというのが1点、もう1点は今の自分の技量を少しずつ引き上げるのも練習、という2つのステップがあるんじゃないかと最近わかってきました。自分の技量のレベルまで来たら更にその上に上げるのが難しいというのがなかなか上達しない最大の要因と考えられます。自分の技量の範囲である程度弾けるようになると練習で惰性で流してしまうから、自分のレベルを引き上げるところが疎かになってしまう。その曲の難しいポイントをどうこなすかを明確に意識して、集中して弾かないと自分の技量を上げることができないのだと最近ひしひしと感じ始めています。だから、ただ練習時間を取って漠然と弾いているだけでは上手くなれない。でも、1時間ずっと集中し続けるのはかなり大変で、そういう意味でもピアノ(というか楽器習得)の難しさを思い知らされている昨今です。

今回のレッスンまでの教訓
●転ぶときには主張する音を見つけてメリハリを付けることで改善できる
●左手小指の黒鍵打鍵は上から落とす感じにするとズルっとなりにくくなる
●練習はただ時間をかけて弾くのではなく、向上させるポイントを強く意識する必要がある

ラ・フォル・ジュルネ 2019

LFJ201905

もうそろそろ行かなくていいかなと思いつつ、気がつけば8年連続参加になっているラ・フォル・ジュルネ。引っ越して国際フォーラムまでは30分の距離になり、より気軽に行けるようになったことでまた今年も、となりました。

5/3(金)
【1】
指揮:リオ・クオクマン
演奏:ウラル・フィルハーモニー・ユース管弦楽団
演目:
・フロレンツ:交響詩「クザル・ギラーヌ(赤照の砂漠)」op.18
・ブルッフ:スコットランド幻想曲op.46 (vl:梁美沙[ヤン・ミサ])

【2】
演奏:アナスタシア・コベキナ(vc)、パロマ・クーイデル(p)
演目:
・ブーランジェ:チェロとピアノのための3つの作品
・ヒナステラ:パンペアーナ 第2番
・フォーレ:ゆりかご op.23-1
・ブラームス:チェロ・ソナタ第2番 ヘ長調 op.99

【1】
ユースオケということで、ハードルを上げず、より気軽な気持ちで聴いてみる。日本初演のフロレンツの曲は長い(20分以上)わりには、これと言った展開もメリハリもない曲で睡魔に襲われてしまう。ブルッフは、元気いっぱいの若いソリストの熱演とオケの好サポートもあって、なかなかの好演。あまりオケへの技術的要求度が高い曲ではなさそうではあったんですが、僕の目からみたら子供みたいに見える、女性比率8割以上の若いメンバーで聴く演奏は予想以上に良い演奏で、あまり生で聴く機会のないこの曲を楽しめるプログラムでした。

【2】
94年生まれという若きチェリストをメインに、それほど馴染み深くない小曲とブラームスのソナタというプログラム。現代的なブーランジェ、モダンなラテン・テイストのヒナステラ、ロマンチックなフォーレと選曲が良かった。コベキナのチェロは若さ溢れる激しさ(ちと鼻息が大きすぎるけど・・・)と瑞々しさがあるし、ルックスも良くてこれからスターになる可能性十分という感じです。こういう若く有望な演奏家を紹介するのもLFJの大事な役割。サポートのクーイデルのピアノも素晴らしい・・・と思えるようになったのは自分でもピアノを弾くようになったからで、足元まで見えていたのでペダルの観察などしながら聴き入りました。やはりプロのピアニストって凄いなあ・・・。これまでLFJで聴いた中で屈指の演奏でした。

もう来年はいいかも、と思いつつ来てしまうのは、普段あまり聴いていない曲に触れてその素晴らしさを肌で感じることができるから。今年はなかなか良いプログラムに当たり、かなり楽しめて満足度が高かったです。

終演後も恒例となっているVIRONでディナー。キノコに形を模したプティアグール(羊のチーズ)のクセがたまらないアスパラ、草のみを食べさせて育てたというアイルランド産リブロースは和牛とも熟成肉ともまったく違う脂控えめで野性味に溢れた味わい。いつも通り、美味しくいただきました。

VIRON201905-01VIRON201905-02

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