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Enjoy Life, Enjoy Hobby

趣味の人生を楽しむサラリーマンの日記

クリス・ボッティ @ブルーノート東京 2019

クリス・ボッティ201902

2019年2月23日(土) ブルーノート東京、クリス・ボッティの2ndセット。

参加メンバー:
Sy Smith(vo)
Andy Snitzer(sax)
Joey DeFrancesco(org)
Eldar Djangirov(p)
Erin Schreiber(vln)
Leonardo Amuedo(g)
Reggie Hamilton(b)
Lee Pearson(ds)

最近、ジャズのライヴはご無沙汰だなあ、と調べてみると2017年6月のジェフ・バラードが前回のライヴで、もう1年半も前のことだった。

たまにはジャズも生で聴きたいなあと思っていたからというわけでもないんだけれど、どうしても行きたいアーティストというよりは、一度生演奏を聴いてみてもいいのかな、というくらいの軽い気持ちで選んだのが今回のクリス・ボッティ。

実は、クリス・ボッティはジャズを聴き始める前から知っていたトランペター。98年4月にキング・クリムゾン・プロジェクトと銘打って赤坂ブリッツでライヴがあった。当時のクリムゾンはダブルトリオ編成活動のあと、それぞれのメンバーのスケジュールの都合で6人揃っての活動が難しくなり、メンバーを自在に組み合わせてアルバムを発表するというプロジェクト方式での活動を行っていた。その番外編として、トニー・レヴィン、ビル・ブラッフォード(今はブルフォードと表記する)をメインにしたBruford Levin Upper Extrimitiesというグループが組まれて、アルバムを発表していた。そのユニットのメンバーに、ギタリストのデイヴィッド・トーンとクリス・ボッティがいたというわけです。

このグループ、レヴィンを中心に、変拍子を自在に操るブラッフォードとのリズム・セクションに、およそ普通のフレージングとは世界を異にするデイヴィッド・トーンの奇妙なサウンドのギターとクリス・ボッティのクールなトランペットが乗って独自のアヴァンギャルド・ミュージックを創造、僕はかなり好きなグループだった。特にライヴ盤がカッコ良くて今聴いてもスリリングでカッコいいと思っている。

BLUE Nights201802

この時期、並行してクリス・ボッティはスティングの活動などに参加し始め、あれよあれよと言う間にメジャーになり、豪華ゲストを迎えたライヴ盤まで発売されるようになった。ただし、ボッティ名義のアルバムは、聴きやすい有名な曲を中心にクールなスタイルの、それでいて温もりのあるトランペットで上品な安楽な音楽を志向していて、「トランペットのケニーG」と呼ぶ人がいる(褒めているのか貶しているのかわからない・・・)くらい、良くも悪くも毒のない、心地良い音楽に徹したトランペッターとしての地位を確立している。

そんな方向性の音楽は実はそれほど興味があるわけではないんだけれど、あのクールで甘味なトランペットを一度生で聴いてみたかったというのもあってブルーノートに足を運ぶことになったという経緯なのでした。

この小さな会場で聴くあのトランペットのサウンドはやはりイイ。管楽器の生音(半分PA通しの音ですが)ってイイなあ、と改めて思い出す。1曲めはキーボードだけをバックにお得意の"Ave Maria"で入る。その後は、ベース(曲によってウッド・ベースとエレキを使い分け)とドラムが出ずっぱりなだけで、あとは入れ代わり立ち代わりと目まぐるしくメンバーが変わる。"I Thought About You" "So What" "When I Fall In Love" といったマイルス縁の曲を中心に、"Cinema Paradiso" や、レッド・ツェッペリンの "Kashimir"(ボッティ抜けてヴァイオリン中心)まで飛び出す幅の広さ。とにかくメンバーがコロコロ入れ替わり、それに応じてさまざまな曲が演奏されるので観ていて楽しくて飽きない。特筆すべきは揃いも揃って演奏技術が素晴らしく高いこと。誰一人として「まあ、この程度の人もいるかも」と思わせれることがなく全員、演奏の腕が確かなこと。これだけ上手い人たちが入れ替わり、さまざまな組み合わせで聴かせるのだから楽しくないはずがない。特に印象に残るのは、セントルイス交響楽団でアシスタント・コンサートマスターを勤めているというエリン・シュレイバーのヴァイオリンと、ジョーイ・デフランセスコ(12年前にマンハッタンのJazz Standard)で観たことがある)のオルガン、そして鉄壁かつ聴かせどころを心得たベースとドラム。ギターも含めてみんな上手い。上手すぎる。

演奏が始まって1時間くらいが経過して、もうそろそろ最後の曲かなと思っていると、会場席に歌手のサイ・スミスが登場して歌い始める。ショウは更に続いて、終わったときには1時間半以上が経過、ボリューム感でもお腹いっぱいに満足させてくれる。

演奏中は、お休み中のメンバーが合いの手を入れたり、観客とカジュアルな会話をしたり、とにかく楽しく、リラックスした様子が会場を包み込む。ボッティのCDを聴いて「悪くないんだけど安楽でお高くとまったムード・ミュージック」と思っていたんだけれど、ライヴは熱量も表現も幅が広いし、根底にはバート・バカラックやトニー・ベネットのようなアメリカン・エンターテイメントの世界にも通じていて、観ている者を楽しませるショウとして一級品だった。確かにCDは、一定のイメージ作りや統一感が必要な商品で、作り込む必要があるんだけれど、ライヴはそんなことは関係なく、自由に伸び伸びと自分の音楽を演っているクリス・ボッティ。ボッティの本来の姿はライヴだからこそ、ということがよくわかった。

一度生演奏を聴いてみてもいいのかな、なんてノリで行ってホントすいませんでした。こんなに充実した楽しいライヴは初めてと言って良い素晴らしい体験で、ああ、行っておいて良かったと思えるライヴでした。

ピアノ・レッスン 第43回


(ピアノレッスンの記事は自分のための備忘録を主目的としています)

先週に続いてのレッスン。インターバルが1週間だとさすがにあまり練習は進まず。

チェルニーOp.261-No.16は間違えて覚えてしまっていたところの修正にこの1週間を費やし、全体もあまりスムーズに弾けるとまでは言い難い仕上がり。それでも、レッスンの場で何度か弾いているうちになんとかそれなりに形になって先生から修了印をいただく。前回注意点となっていた右手の4番5番の力の入れすぎは今回も修正しきれていませんでしたが、こちらもレッスンの場でなんとかそれらしい形になりました。

次の練習曲は、同じくチェルニー Op.599-No.19で、その前半部部分の譜読み。この曲も譜読みは簡単ながら、いかにズムーズに指を動かすかが課題になりそうです。

次に左手練習だけで取り組んでいるリトルピシュナの46番。前回から4小節進めた部分まで弾いて、音を外さずに弾けることについてはお褒めの言葉をいただく。ただ、この曲の課題は手の返しをスムーズにすることで、ところどころ返しが遅れるところがあり、その理由は5番の指を話すのが遅れているからとのこと。1音1音しっかりと押さえようとしているからそうなってしまっていて、そこまでずっと押さえ続けていなくても良いとの指導で、指離れを早めるように弾いてみると、なるほど、返しのアクションに余裕が生まれることがわかりました。自分で練習しているときには気づかないものです。あるいは、こういうところに気づけるようになることも上達ということなのかもしれません。指離れを意識して更に練習するところが次の課題。

「ワルツ・フォー・デビー」は、2回めのテーマに続く部分に差し掛かり、ここが指の動きが複雑でどう弾けば良いかがわからない状態。ここは時間がかかりそうで、あせらずじっくり練習して行くしかなさそうです。先生に弾いてもらうと、この部分がとてもカッコいいし、いかにもジャズらしい響きで、なんとか弾きこなしたいとモチベーションが上がるのでした。各小節のコードを意識して、1音目を強調するところもデモしてもらって、確かにそうすることで曲の音楽の形が明確になることがわかりました。

今更ですが、ピアノというか音楽というのはいろいろな作法、セオリーを守らないと綺麗な形にならないことをしみじみ感じています。

今回のレッスンまでの教訓
●力が入りにくいからと言って力を入れることに注力すると動きが硬くなってしまう(繰り返しですが)
●手の返しを意識して弾き終えた指を早めに離す、
●音階を意識して出す音と引く音を弾き分ける。

ピアノ・レッスン 第42回


(ピアノレッスンの記事は自分のための備忘録を主目的としています)

3週間ぶりのレッスン。この期間、結構練習の時間が取れました。

チェルニーOp.261-No.16は、一番練習の時間を割いたものの、これがなかなか上手く弾けない。右手と左手が同じ音とはいえ、両方でメロディを弾き続ける曲は初めてで、なおかつ後半の3度、3度、5度と上昇して行く指の運びがなかなか上手くいかず、続くソファソファソファが右手だと54545番と力が入りにくいために却って力を入れすぎてしまうという、ぎくしゃくした演奏になってしまう。と、書いてみたものの、自分で気づいたわけではなく、レッスンで先生にみてもらって教えてもらったから。いくら時間をかけて練習しても、49歳からピアノに触れた初心者はそんなことにも気づけないのです。また、3度、3度、5度と上昇して行く指の運びをスムーズにすすために体を右に寄せていくような動きをした方が良いとのこと。

次に左手練習だけで取り組んでいるリトルピシュナの46番。前回はまったくスムーズに音をつなげることができなかったけれど、指移動が大きいところでは、無理してキッチリと音を連ねなくても良い(音と音の間で少し空白の時間があっても良い)と教えてもらっていたので、その考え方で練習してきて、ある程度格好がつくようになりました。音が切れても良いと先生が言っていたのは、普通の曲だとペダルを踏んでいるので、問題ないから。というわけで、ペダルを踏んでやってみましょう、となってやってみると、なるほど確かに指が多少離れていても音切れなく綺麗につながる。一方で、調が変わるところでペダルを踏み変えないと音が濁るので、ペダルの踏み変えの練習になる、という別の側面も出てきて、これはこれでまた練習になりそう。次の4小節に(また別の調に)新たに進めてこの日は終了。

「ワルツ・フォー・デビー」は、前回譜読みした部分を正しくトレースできるかの確認。あとは3和音のところでの強弱(音楽らしく聴こえる表現)と、ペダルの踏み方(上げ方)を教えていただく。ここでの踏み方はとても繊細さを求められるので、ペダル扱いの難しさを思い知らされます。その先は、左手のパターンがまた変わり、左手内でも2つが並列で進むところが難しいので、上のパートはとりあえずなしにして、下のパートだけで練習することを勧めてもらう。下のパートだけで曲としては成立するので、なるほど、という感じです。

以上で、今回のレッスンは終了。

実は、レッスンでは今は弾いていないんですが、前課題曲の「月光」第1楽章は練習継続中。譜面通りに音を出すところはできるようになったところで、家にあるCDを何度も聴き返すと、同じ音を出しているのに別の曲に聴こえるのです。それはテンポのタメであるとか、強弱の付け方の違いによるもので、それだけでまったく違う曲に聴こえてしまう。CD(一流のプロの演奏)を聴くと、これこそが表現力というものだと思い知らされます。真似して少しでも近づけるように弾いてみると、ぐっと音楽的に聴こえるようになり、この曲の素晴らしさ、奥深さに感心させられます。そうやって、表現力をつけようと努力していると、更に曲の素晴らしさがわかるようになってきました。ようやく、ピアノという楽器の難しさ、奥深さについて気づき始めた、ピアノを弾くことのスタート地点に立ったということができるかもしれません。ピアノって本当に面白いと思えるようになって、ますます楽しくなってきました。

今回のレッスンまでの教訓
●力が入りにくいからと言って力を入れることに注力すると動きが硬くなってしまう。
●音の移動が大きいところは手や腕だけでなく体の移動も必要。
●片手の中で、音の進行が並行するところは、基本となるひとつの音だけから練習してみる。

「ファースト・マン」(ネタバレほぼなし)

ファーストマン201902


小学生のとき、学校の授業で人類初の月面到達を習った記憶がある。時期は恐らく77年くらいだろうか。初めて月に到達した人がニール・アームストロングという名前だったことをそこで知り、今でもはっきりと記憶に残っているのは授業に力が入っていたのか、子供の頃の自分にはとても刺激的だったからなのか、今となっては思い出せません。

70年代はUFOなどSFブームもあって宇宙ネタは割と身近にあったとはいえ、今も思えば月に降り立ったのは69年と、授業で聞いてからずいぶん時間が経過しているにもかかわらず、そんなに昔のこととしてではなく、ほんの少し前かのように聞いていた記憶があります。それにしても、なぜあんなことを丁寧に授業で採り上げていたのか今となっては不思議です。

そんなニール・アームストロングを主人公に描いた映画の監督は「セッション」「ラ・ラ・ランド」のデイミアン・チャゼル。これまでは自身の経験を生かしてジャズをネタにした映画を作ってきたチャゼル監督が、どんな映画を作るのかに興味があり、映画館へ。

事前情報でわかっていたとはいえ、「セッション」「ラ・ラ・ランド」が良く練られた演出による娯楽作だったのに対して、この映画は華やかな演出はなく、ドキュメンタリー風に淡々とエピソードをつないだ作り。ただし、表面上に華はなくとも演出は良く練られたもので、終始ニール・アームストロングの視点で描く手法を採って、ドラマとしての外連味よりも、人物描写と、アームストロングの置かれた立場、現代の水準からすると原始的と言っても良い貧弱な宇宙船、当時のアメリカの引くに引けない宇宙開発事業の追い込まれた状況を描くことを主眼にしている。

この映画は特に映画館で観ることをオススメしたい。というのは、アームストロング(あるいは他の乗船員)の視点を中心に描くことで、当時の宇宙船が如何にショボく、少しのアクシデントで過酷な状況に陥るかを描写しており、ブレまくりのカメラと轟音によって観る者に疑似体験させようとしている。これはどんなサイズのテレビとオーディオで観ても家庭では再現できないもので、映画館でこその体験を味わうべきだと思うのです。

そうした視覚的、聴覚的な作りにリアリティを持たせる一方で、光や照明の使い方、あるいはガラス越しに移っている人や物もすべて緻密に計算されていて、カメラ、音響、撮影、演出のレベルはとても高い。チャゼル監督は単なる音楽オタクで音楽を元ネタに面白おかしく撮る監督なだけではなく、どういう方向性で、どういった手法で映画をまとめて作品として仕上げるかという、映画監督としての実力が一級品だったことをこの映画で証明したんじゃないでしょうか。

映画に精通している人なら、映画館で観て後悔することはないと思います。

ところで、この映画は割と評価が2極化していて、悪い評価のほとんどすべてが「ドラマチックじゃない(娯楽的な興奮がない)」とか「スペクタルじゃない」といったもので占められています。宇宙冒険モノは派手でドラマチックな感動がなくてはならないという「こうあるべき」論を勝手に作り上げて、そのイメージと違っていたから気に入らないということらしい。星条旗を立てるシーンがないのは、アームストロングの人物描写に主軸を置くこの映画には必要なかったからであって、星条旗を立てるシーン、あるいはそういったヒロイックな描写による高揚感があるべきという考えは観ている人の勝手な願望でしかないわけです。劇中で出てくるの名言「人間にとっては小さな一歩だが人類にとっては偉大な一歩だ」に代表されるように、自分たちだけがヒーロー扱いされることを嫌い、人間が持ち合わせている私利私欲を完全に抑制することができる、寡黙で真面目一徹な人物をどう描くか、に対してチャゼル監督は、気持ちを高揚させるような映画ではなく地味でも実直で丁寧に作ることで表現した。たとえ、それが娯楽としてつまらなくても、アームストロングはそういう人物だったわけですから。

映画って、自分の中で勝手にイメージを作ってそれと違うからつまらないって評価するもんじゃないんですけどね。映画に限った話じゃなく、例えばクラシックのコンサート(演奏)でもそうなんだけれど、「こうあるべき」と勝手に決めて、それを絶対的な基準と考え、そんな偏った自分勝手な思い込みと差異があったからと言ってこき下ろす人って可哀想だなあと思います。そんなごく限られた視点でしか物事を楽しめないのかと。あなたの決め付けは、そんなしたり顔して上から目線で批判できるほど、物事に精通した知識と経験と分析力があるんですか?と尋ねたくなってしまいます。

僕は映画もコンサートの演奏も「こうあるべき」だなんて決めてかかることはなく、「ああ、そういう方向性で作った(演奏した)んだ、なるほど」と受け止めて、あとは中身(映画として撮影、音響、演技、演出など。演奏であれば楽器演奏とアンサンブルなど)の質と、それらの手法が描きたかった方向性の基礎としてちゃんと機能していたかを感じ取って総合的に見て良し悪しを判断している。仮にイメージを持っていたとしても、描こうとしている方向性が自分の思いと合っているかどうかが評価基準になることはなく、イメージと違っていて、それがどんな方向性であったとしても、作った人の意図を楽しむものだと思っています。「こうあるべき」なんていう愚かな決め付けは、その映画(音楽)に精通している人なら絶対にやりません。そんなことをやっているうちは映画(や音楽)を理解しているとは思えないですね。まあ、僕も映画が趣味と言えるようになる前は、そんな見方をしていましたけど。

映画も音楽も、批判はあって当然です。でも、自分勝手な決め付けと違っていたからという理由をおおっぴらに吹聴して批判している人は、なんにもわかっていないと胸を張って言っているようなもの。得意げに語れば語るほど無知を自慢していることになるので、ホントに止めた方がいいですよ。もっとも、それをやっている人は自分が決め付けていることにすら気づいていないのかもしれませんが。

「Trilogy / Chick Corea」

Trilogy201902

僕のチック・コリアへの関心度はそれほど高くない。鍵盤楽器奏者としてはピアノよりも電気系、また鍵盤楽器奏者よりもグループとして音楽を作るバンド・リーダーとして優れているという印象があり、また、人気盤の「Akoustic Band」がつまらないと思ったこともあってピアノ・トリオで持ち味が出る人ではないというのが僕の中のチック・コリア像だった。

関心が薄い故に、チックがかれこれ4年半も前にピアノ・トリオのアルバムをリリースしていることすら知らなかった。いや、仮に知っていたとしても聴いてみたとは思わなかったかもしれない。しかし、組んだ相手がクリスチャン・マクブライドとブライアン・ブレイドとなると話は変わってくる。

2010年と2012年に行ったツアーから厳選したというこのライヴ3枚組。なにもこんなにまとめて出さなくてもいいじゃないかとは思ったけれど、聴いてみてそんな思いは飛んでしまった。スタンダードとチックのオリジナル、わかりやすく親しみやすい曲からフリーな展開を見せる曲まで幅が広い。

演奏がまた凄い。クリスチャン・マクブライドとブライアン・ブレイドは伊達に知名度が高いわけじゃないことが嫌という程わかる。メロディックかつ鋭いソロを連発するマクブライド、小技大技を無限のバリエーションで繰り出すブレイドのソロという個人技だけで圧倒されるのに、チックのピアノと合わせての3者の絡みは、自由自在かつ有機的に変化する距離感が絶妙で一瞬たりとも耳が離せない。ビル・エヴァンス・トリオとはまったく別の形態のインタープレイは、高度な演奏技術とミュージシャンシップに支えられたもので、現在のジャズ界では最高峰のクオリティの演奏を聴かせていることに疑いはない。

ピアノ・トリオをさほど好まない僕が、これほど凄いピアノ・トリオはないと断言できるほどの凄い演奏の数々に、ただただ圧倒され、3枚通して聴いても飽きることがなく、もっと聴き続けたいとさえ思わせる。最後の曲で、お世辞にも上手いとは言い難い奥方の歌が入ってくるのはご愛嬌。拍手の音を聞いていると会場の規模もさまざまであることが伺えるけれど、楽器の音、バランスはそんなことを感じさせないほど安定しており、Fレンジは上から下まで幅広く、微細な音のニュアンスをすべて拾い上げた録音状態も素晴らしい。

ジャガーXE 1度目の車検を迎える

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(昨年秋、日光にて)

早いものでジャガーXEに乗り始めてから3年、1度目の車検を迎えました。

デビュー直後にオーダーした初期型のXEは、クルマのもっとも基幹となる部分がフォード製のエコブースト・エンジンとZF製8HPという実績のあるもので、期待していた通り、この部分の不具合は皆無。3年目の点検でも部品交換に及ぶものはなく、走行距離が短い(16,000キロ)こともあって、ブレーキパッド、タイヤもまだ十分に残っていて、消耗品のコストはまだしばらく先まで必要なさそう。

一方で走りに直接関係ないところでは、いくつかのトラブルは(やはり)ありました。とはいえ、実用で支障があったのはインフォテイメント・システムのモニター表示不良くらい。あとは、バック時に左ミラーが下向きにならないときがあったり(2回)、ドアハンドルを握ってもロックが解除されなかったりした程度(3回)。いずれも原因は不明で、でもまあこんな程度なら僕は気にしていません(気になる人は外車は向いていないです)アイドリングストップが機能していないのはこれまでも度々書いてきた通りで、これは走行頻度が低いためかアイドリングストップが機能する閾値を下回っているゆえの(バッテリー保護のために機能させない)仕様のようで、もうあきらめています。国産車と同等とまでは言えませんが、外車としては、不安なく乗れるクオリティにあるんじゃないでしょうか。ジャガーというと昔は信頼性に不安ありでしたが、ネットでも最近は信頼性に疑問を持たれるような書き込みはなく、細かいところが気にならなければ今は普通に安心して乗れると言って良いでしょう。

3年経って、まったく個人的な観点ながら、エクステリアの魅力はまったく陰りが出ていないところはとても満足できるところ。それは街中で見かける機会があまり多くないというのも理由もあると思いますが、控えめでエレガントなこのルックスは未だに魅力的だと勝手に思っています。インテリアは高級感こそないものの、シンプルでスッキリしているのでこちらも飽きがこない(古くならない)ので気に入っています。

あと、基本設計が新しく、XFやF-PACEと共用するジャガーの屋台骨を支える車体なだけにボディがしっかりしているところもお気に入り。しなやかな乗り心地と、それでいてしっかりした足回りで乗っていて気分がイイところも気に入っています。

ドイツ車と比べると、ハイテク分野で遅れを取っている(レーンキープ機能がない、ホールドモードがないなど)ものの、総じてクルマとして満足しています。逆に、最新装備の優先順位が高い人にはちょっと勧められないけれど、僕はそういう最新技術を競う家電のようなクルマ選びだけはしたくないタイプなので特に不満はありません。とはいえ、ブランド力があるドイツ車やレクサスに装備で遅れを取っていることは、日本でこのクラスのクルマを選ぶ層に受け入れてもらえないでしょうし、ドイツ車は嫌だという層もボルボに持っていかれてしまうでしょうから、僕のような変わった人だけにしか通じない商品を続けていたらマズイとは思います。実際、グローバルで販売好調が伝えられいるといっても牽引しているのはF-PACE/E-PACEで、セダン系は不調であることから、商品力の向上と、旧来のイメージから一新したブランド力の構築は課題でしょう。

クルマに対する唯一の不満は、納車当時から言っているエコブースト2.0Lガソリンの低速トルクの薄さ。インジニウムのガソリン・エンジンはどう変わったんだろうと興味があったので、試乗させてもらいました。乗ったのはXFスポーツブレイクの2.0Lターボ、250馬力仕様(XEにもこのエンジンの設定がある)。

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初めて乗るXFは、低速で動かし始めた時点でボディの大きさを挙動から少し感じる。それでもある程度スピードが出れば気にならなくなり、走行中にステアリングを切ったときの挙動が自然でボディの大きさを感じさせないところは好印象。肝心のエンジンは、ディーゼルほどではないものの、エコブーストと比べると低速トルクが厚くなった印象。あと大きく違うのがスムーズ(振動が滑らかになった)さと、エコブーストで気になっていた高周波のメカノイズがほとんどなくなり、低く唸るスポーティなサウンドを奏でるところ。冷静に見てみると軽く踏んでいたつもりがタコメーターでは3000rpm程度回っていて、そこまで回せなエコブーストでもそこそこトルクが出てくるので、地力という意味ではエコブーストもインジニウムも大きく違うわけではないことに気づく。アクセル踏み始めのレスポンスを上げて、野太いエキゾーストを発することで力感を演出するセッティングと、スームズな新エンジンを得たことでスポーティ・セダンとしてトータルの仕上がり、完成度が上がったということなんでしょう。この仕上がりによってクルマ全体の挙動がシャープになったように感じられて、やはりエンジンというのは単にパワーの有無だけではない重要な要素だと再認識しました。クルマの成熟度は確実に上がっているので、そこはかなり羨ましかったところです。

XEは今年中にマイナーチェンジされて、フェイスリフトされるとのことですが、個人的には、メルセデスなどが既に始めているマイルド・ハイブリッドの導入計画(おそらく来年以降)が気になります。2.0Lガソリンエンジンの低速トルクの弱さを補強して、燃費も良くなるであろうことが予想できるため、どんな仕上がりになるのか楽しみです。

「ギフテッド gifted」(ネタバレあり)

gifted201901


そもそも、育児の永遠のテーマとして、子供のやりたいことに任せて様々な経験をさせるのが良いのか、まだ判断力がない子供に適切なレールを敷いてあげることが良いのか、というものがある。これは一概にどちらが正しいという回答がなく、今でも親を悩ませる普遍の教育テーマ。それを前提にこの映画のストーリーはできている。

神から才能を与えられた小学1年生のメアリー(マッケナ・グレイス)、そしてメアリーだけでなく、恵まれた才能を持つ一家の話、というのがざっくりした舞台設定。

天賦の才能がある女の子に、礼儀や思いやりを持った普通の子として育ってもらいたいと考える叔父フランク(クリス・エヴァンス)に対して、稀有な才能は世のために役立てるべきと考えるその母親イヴリン(リンゼイ・ダンカン)が対立、観ている方は鼻持ちならない高慢なイヴリンに嫌悪感を抱いてフランクに肩入れするようになって行く。イヴリンの社会的立場の優位性から、フランクとメアリーは別居の妥協案を飲まざるを得ず、悲嘆に暮れるものの、イヴリンの画策とわかり、フランクは最終兵器を持ち出してメアリーとの生活を取り返す。

冒頭で難問数式を解いたメアリーに驚いた担任教師が、フランクに「この子は特別な才能がある」と言ったときに、こともなげに「ああ、あれは○○の法則。俺も8歳(だったかな)の時に解いた」と返すところから、フランクも常人を遥かに超える才能の持ち主であり、しかし、それ故に英才教育を受けることに対する抵抗感があることを匂わせている。後に、母親が自分のあるべき論を振りかざして、子供のことを考えていない人物であることがわかってきて、フランクの抵抗感の原因がここにあることがわかってくる。また、その母親はも数学のエリートで、しかし何らかの理由でその道をあきらめたことも匂わせ、その無念さを娘や孫に託そうとしていることもわかってくる。

子供らしく無邪気に、でも社会性を身に着けてほしいという思いを貫いくフランクと、自分のあるべき論で孫のレールを施こうという対立はわかりやすく、観ている人が自然とフランクに肩入れするように映画は進んで行く。ギフテッド学校に通わせるという点のみ妥協して、メアリーとの生活を取り戻したフランクのハッピーエンド映画と捉えると、ありきたりなストーリーで、平和で美しすぎる、もっと悪く言うとお花畑的である、ということでこの映画の感想は終わってしまうかもしれない。

でも、大人という人間の身勝手さをところどころに匂わせているとがこの映画の良いところ。メアリーを普通に育てることを大義名分にしていながら、実は可愛くて情が芽生えて一緒にいたいという思いが強いことを担任教師に漏らし、親権の裁判を争う根源が教育方針という大義名分のためでだけなく自分のエゴでもあることをフランクは正直に認めている。自分のエゴのためという意味でフランクとイヴリンの行動原理は同じである。

イヴリンは、実はダイアンが解いていた「ミレニアム懸賞問題」を自分の死後に公表する遺言を残していたことで、自分がまったく信用されていなかったことにショックを受け、その研究の原稿で解けた喜びの痕跡を残していたことに涙する。それは人生を押し付けたことが否定された悲しみと、偉大な成果を残して喜びを感じていた娘の成功は自分が導いたからこそだという、冒頭に書いた教育の2面性の難しさを表したもので、その複雑な感情を表現している。この映画は、リンゼイ・ダンカンの凛とした演技なしには成り立たない。

また、これは僕の考え過ぎかもしれないけど、フランクが「土曜の朝は家に入ってはいけないと約束したよね。俺にも自分の時間が必要なんだ」とメアリーが約束を破ったことを叱責し、その後の仲直りのやりとりのシーンも大人の身勝手さ、狡猾さを表したものであるように思える。

そこでは、「人間は時に心にもないことを口にしてしまうものだ。メアリーも俺のことを、死んじゃえ、と言っただろう。あれは本心じゃなかっただろう」と諭してメアリーは納得する。でも「俺にだって自分の時間が必要なんだ」というのは心にもないことではなく本心が漏れてしまったものであって、この例えは詭弁に過ぎない。こうやって子供を言いくるめてしまうのも大人の身勝手さを表現しているように僕には見える。

一見、わかりやすいハッピーエンドのストーリーというオブラートに包んで、大人の愚かさ、ずるさ、人間の弱さを散りばめたこの映画は、だから綺麗事だけの薄っぺらな映画ではないと僕は思うわけです。

メアリー役のマッケナ・グレイスの演技ももちろん素晴らしい。複雑な状況で見せるシリアスな表情と子供らしい無邪気で愛らしい表情の使い分けとコントラストは子供とは思えない。他の家族の出産シーンに立ち会って、喜びの輪の中に入るシーンは、微妙な距離感でやや遠慮しながら一緒に喜ぶという複雑な感情を表現するところで、それを完璧に演じていることにただただ驚いてしまう。リンゼイ・ダンカンと合わせてこの映画を支える演技をしているのは間違いなく、この少女。

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