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趣味の人生を楽しむサラリーマンの日記

ピアノ・レッスン 第39回


(ピアノレッスンの記事は自分のための備忘録を主目的としています)

「チェルニー やさしい20の練習曲」Op.262-No.1、No.2をまだまだ続けて練習してきたにもかかわらず、ほんの少しうまく指が動くようになっただけという有様で、もつれては転ぶ、あまりにもひどい状況に自分でも嫌気がさしてきています。今後も、地道に練習を続けることにして、一旦レッスンでは終了。

Op.262-No.9、No.10は、努力の甲斐あって、ある程度指が回るようになったのでこちらも修了。ただし、後半の右手和音パートは、「バーン」強く、硬く打鍵していてなんとも品がない。手(腕)をしなやかに浮かせる所作で、あまり強く鍵盤を叩かないように、というアドバイス。前回と同じアドバイスです。つまり、わかっていても直せていない。譜面では音の強弱が指示されていないところでも、出すところ、抑えることで音楽的な表現になること、それをどう譜面から読み取るかのポイントを教えていただく。続けて、次の練習曲、Op.261-No.5、No.6の譜読みと強弱のポイントを教えていただく。

教えてもらったことを理解しているのに、そのように弾くことができないという、ピアノを始めたばかりの頃にはなかった壁に当たっています。今の練習曲は、指のスムーズな回転と、人間工学的には自然ではない動きを要求していて、それまでの曲(チェルニーop.777)と次元が違うようです。単に譜面通りに鍵盤を押していれば曲らしく聞こえたチェルニーop.777とは違って、運指と強弱表現がしっかりしていないと曲の体裁を成さず、練習してもがさつな演奏にしか聞こえない。

煮詰まっているため、先生は目先を変えて「リトルピシュナ 48の基礎練習曲集(60の指練習への導入) 」をやってみましょうかと提案。指の返しがあってポジション移動が大きい左手の練習をするための曲で、学ぶポイントがまったく違っています。また、先生は調性や音階の理論のことを交えて曲を解説してくれます。こうしてくれることで、単に指をどう動かすかだけでなく、どういう理由でこのような動きになっているかが理解できるため、曲も音も頭に入りやすくなるのです。ついでに「長調と短調って何が違うんですか」と訊いたらそれも解説して教えてくれるという親切な先生で、本当にありがたいです。この日は譜読みと運指のポイントを教えていただいて終了。

課題曲の方は、「月光」は修了として、ようやく「ワルツ・フォー・デビー」へ。13小節目まで譜読みとペダルの踏み方の確認をしてこの日は終了。4週間後の次回レッスンまでにここまではスムーズに弾けるようにしておきたいもの。なにせ、その先が、とても難しそうだから。

ちなみに、僕のレッスンに続けて妻のレッスンに移る進め方をしているのですが、妻はあまり練習できていないと、他の曲の話題をしはじめ、「先生弾いてみてもらえます?」といっていろいろ弾いてもらって楽しむという技を使います。これ、実は僕にとっても楽しい時間で、今回弾いてもらった曲の中に「エリーゼのために」があって、これがもうエレガントで美しく、中間部の激しさも圧倒的という表現力の凄さにただただ聴き惚れるという体験をすることができる。そして、ここでも音を出すところ、抑えるところの重要性、その難しさを痛感してしまうのです。

今回のレッスンまでの教訓
●練習曲に煮詰まったら、目先を変えて次の曲へ行くのも良し。
●音を出すところ、抑えるところを、書かれていない譜面から読み取る力を養い続けるべし。
●弾くポイントを理解した上で、先生の演奏を聴くことはCDを聴くよりも遥かに勉強になる。

ピアノ・レッスン 第38回

(ピアノレッスンの記事は自分のための備忘録を主目的としています)

「取り組み始めてから6週間経過している「チェルニー やさしい20の練習曲」Op.262-No.1、No.2。なのに、右手も左手もまだスムーズに指が回らず、つっかえたり転んだり。」と書いた前回から2週間、今もってうまく指が回らず、つっかえたり転んだりが続いています。

ちなみに右手がメロディで左手が和音、後半は左右入れ替わるこの曲、片手のメロディだけだと結構スムーズに指が回る。もう片方の手で、リズムを合わせて同時に弾くとこれが乱れてしまう。レッスンで先生といろいろやりとりしているうちに、和音側の手を移動するときに横に水平に移動させてなぞっていることで、うまくリズムが取れず、そこに意識が行ってしまっているために、メロディ側の手の動きも悪くなっていることがわかってきました。

和音側の手を、和音を引いて次の和音に移動するときに上方向に緩やかの持ち上げて、手が中に舞うように柔らかくアクションすることで音の硬さが取れ、リズム感も取りやすくなるという指導をいただいて試してみると、すぐにスムーズに急変するとまではいかないものの、ガチガチに鍵盤を押さえることだけに注力していたときと比べると曲として滑らかになるではありませんか。メロディの手の方も、がんばろうとしすぎて強くバンバン鍵盤を叩くやり方になってしまっていて、もう少し弱く、柔らかく弾いてみるようにアドバイスをいただき、その通りやってみると、曲が別物のように上品に、大げさに言うならば格調高く聴こえるような変化が得られます。

ピアニストの映像を見ていると鍵盤から手を上げるときにフワッと上方に持ち上げているシーンをよく見かけますが、まさにアレをやってみたほうが綺麗で滑らかに弾けるようになるということです。ピアニストは何も格好つけてアクションしているわけではなく、ちゃんと意味があってやっていることが身をもってわかりました。

この2週間、とにかく指を回すことを目指して練習してきて、ちっともうまくならずに、それでも同じ思考で続けていたのは間違いで、やはり先生に指導していただくことはとても為になるものだと再認識。

このような(腕を含めた)手の所作は、並行して取り組んでいる Op.262-No.9、No.10も同様に必要で、これからは指を回すことだけでなく強弱や手や腕のアクションまでを含めての練習が必要です。あるべき姿が何かがわからずに練習を繰り返しても得られるものが少ないということを実感しました。

今日も、ほぼこの練習曲だけでレッスン時間を消費してしまい、「月光」は、前回レッスンの最後に簡単に教えてもらったエンディングのペダルの踏み方を再確認。徐々にペダルを上げて行くそのやり方は問題なく、それで良いとのこと。最後の最後の打鍵で、手を離してから少ししてペダルを離すことも教えていただき、その通りにやってみると、音の収まりがとても良くなって自分でも驚きました。曲は始まりと終わりをしっかりさせることでよる上手に聴こえるということも教えていただいて、なるほどと納得。

それでも「月光」は自分なりにある程度上手く弾けるようになり、通して弾いても格好が付いてきたのでこれで一旦修了と言える感じです。

次の課題曲「ワルツ・フォー・デビー」は、練習曲に集中して棚上げしていたので、触りの部分を少し教えていただいて本日のレッスンは修了。

今回のレッスンまでの教訓
●練習曲はどんな弾き方を求められているかを理解した上で練習すること。(繰り返し)
●キレイに指を運ぶためには腕や肘の動かし方もそれなりの方法が必要になる。(繰り返し)
●教訓で得たと思っていたことでも、具体的な方法論がわかっていないと練習しても身に付かない。

続「ボヘミアン・ラプソディ」(ネタバレあり)

ボヘミアン・ラプソディ201812


クイーン・マニアの端くれとして、公開直後に観に行った映画「ボヘミアン・ラプソディ」。Facebookで繋がっている人が続々を感想をUPし、ネットでのレビューは目を疑うほどの高評価。朝の情報番組から報道ステーションまでが採り上げ、新聞にも記事が載るという、過去に見たことのないクイーン・フィーバーに戸惑うばかり。

僕がクイーンを知り、ハマり始めた82年ころからの80年代は、日本では完全に時代遅れ扱いされていて、僕がいくら周囲に力説しても「ああ、クイーン?」というのがほとんどすべての人の反応。いくらクイーンが素晴らしいと言っても賛同する人は皆無、話題はデュラン・デュラン、カルチャー・クラブ、ロック系で言えばヴァン・ヘイレン(ちょうど "Jump" がヒットしていた)、モトリー・クルー、ジャーニー、ナイト・レンジャーなどだった。更に言うと、どういうわけかレッド・ツェッペリンやディープ・パープルは古いと言われずに一目置かれているという状況でもあった。

遡ってクイーンのレコードを買うようになり、注文してあった「News Of The World」を引き取って家に帰る途中に会ったクラスメイトが言い放った「まだこんな古いの聴いてんのかよ」の言葉は今でもその場面が思い出せるほどに傷ついたものです。89年の「The Miracle」や91年の「Innuendo」がまったく話題にならなかったこともあって、クイーンなんて誰も聴きたがっていない音楽というトラウマが僕の中でできあがっていたのだと、最近になって気づきました。

だから、今こうしてクイーンの音楽が持て囃されるのは本当に嬉しい。そうか、ようやく世間もクイーンの素晴らしさを認めてくれたか、と喜ばずにはいられない。

一方で、もう一度冷静に考え直してみても映画「ボヘミアン・ラプソディ」が映画としてデキが良いとは思えない。フレディのジェンダー問題、家族との関係、メアリーとの関係などを描くにしても、悲しみや苦悩していたことの描写が浅く、映画として物足りないと言わざるを得ません。ここで言っている描写は、エピソードや説明を加えるとかそういう意味ではありません。脚本、演出、カメラワーク、照明、役者の演技、編集など総合的に作ってそうした描写が初めてできるわけで、フレディとバンドの長期に亘る活動を2時間で収めるとなると、相当優秀な監督がいないと良くできた作品にはならないでしょう。

この映画での家族のシーンはじめ、各エピソードの撮り方は、表面的でそこにいる人物の内面の心情が見えてこない。同じ時間を使っても、優れた映画はその人が何を考えどんな気持ちを抱いているかが手に取るようにわかります。それがわかるからこそ、「ああ、この人はそう考えたのか」「この人は酷い心の持ち主だかけど弱さも抱えているんだな」と理解し、見る人の立場によってその人の捉え方が変わったりするという多面性も描かれて、そこに自分の人生経験を照らし合わせることで物語に深みが出るわけです。クリント・イーストウッド作品やウディ・アレン作品はそうした心情の描写が実に上手い。先日記事にも書いた「スリー・ビルボード」なんてそうした人物、心情の描写が最上級に上手い。人間描写ができているから、(それぞれアクが強いので好みはあるでしょうが)映画ファンは高く評価しているわけです。人間をどう描くかこそが映画にとって一番重要なことだと、映画ファンは言われなくても認識しています。そういう意味で「ボヘミアン・ラプソディ」はハッキリ言って映画としてはB級。最後のライヴ・エイド、続く"Don't Stop Me Now"で涙したあと、頭を冷やして考えてみて出した結論です。

「ボヘミアン・ラプソディ」で高評価となっている最後のライヴ・エイドのシーンは、完全再現を狙っており、そこには何の演出もありません。言ってみれば、単なるモノマネ芸に過ぎない。僕も、大画面、大音量で接するライヴ・エイドには圧倒されました。涙腺が緩みました。モノマネ芸で感動するということは、クイーンの音楽が持つパワーに底力があるからに他なりません。そんなクイーンの底力を世間に知らしめてくれたことは嬉しいんだけれども、モノマネ再現が映画最大のハイライトというのは、映画として優れていると言えるんでしょうか?

また、ライヴ・エイドに向かう設定が、
[1] フレディのソロ活動のせいでバンド内部の不和があった
[2] しばらくバンド活動をしていなかった
[3] フレディがエイズであることを告白しバンドが再度結束した

という状況になっていてライヴ・エイドの感動を底上げをしたことは間違いありません。[1]は実際にどうだったかはともかく、僕が知る限りそのような発言は誰の口からも聞いたことがないし、[2]はライヴ・エイドの2ヶ月前に日本ツアーをしていたことから創作であることがわかるし、[3]はライヴ・エイドの2年後であることが定説になっている(ジム・ハットンの著書などや、その後ライヴ活動を停止したなどの状況から)。

もう一度考え直してみても、クライマックスを盛り上げるための状況設定がすべて創作というのは、いくらなんでもやりすぎなんじゃないかというのが僕の意見です。ネットの掲示板を見ても、これらを事実と信じている人が多く、ネットを見ない人なら真実だと思って疑うことすらしないでしょう。

(以下、「ジャージ・ボーイズ」のネタバレあり)
ちなみに「ジャージー・ボーイズ」では、フランキー・ヴァリが娘を麻薬過剰摂取で亡くし、前を向いて立ち直る曲として "君の瞳に恋してる" が歌われます。歌詞を聴き(字幕を読み)ながら、このときのフランキーの心情を思うと、この明るく能天気とも言える曲が、悲しみを根底に抱えた哀愁漂う曲に聴こえてきて、涙が出てきます。ネット掲示板でも、「あの曲にこんな背景があったとは!」と皆さん驚きを隠せない。ところが、実際に娘が亡くなったのはこの曲が発表されてからずっと後のこと。流した涙は一体なんだったんだろうと、僕は思いました。

(以下、「ソーシャル・ネットワーク」のネタバレあり)
何度も言いますが映画は作り話なので、実話ベースでも創作や改変、盛り、ケレン味があって当然です。「ソーシャル・ネットワーク」にはエリカという女性(有名になる前のルーニー・マーラ)が出てきます。彼女をきっかけに行動して、アイディアを膨らませ、最後のシーンで放心しながら友達申請の返信を待つその女性は架空の人物で創作なわけですが、この映画の本質、描きたい要点(人々のニーズを捉えてアイディアを具現化して行くことで最大のSNSを作り、成功して周囲に翻弄されて、自分勝手な行動で周囲を翻弄するザッカーバーグの人生を描く)には影響がないので、このくらいは文句言う人もいないでしょう。むしろ、エリカの存在でザッカーバーグの子供っぽいキャラクターを描き出して、エンディングはジョークとして笑って見れる演出の絶妙なスパイスになっていて、上手く作ったと賛辞を送りたいほどです。

でも、「ジャージ・ボーイズ」や「ボヘミアン・ラプソディ」は、一番盛り上がる場面で、感動する背景要素を捏造、改変している。もちろん、架空の話、フィクションと観ている人が理解しているのであれば問題ありません。ネット情報によるとブライアン・メイは「伝記ではなくアート」と言っているそうですが、実際に存在したグループ、人物を描いた映画だと認識している以上、基本的なストーリー、もっとも重要なエピソードが事実でないと思う人などいるわけがないから、観た人にはそれが事実として刷り込まれてしまう。映画はウソ、作り話とわかっていても超えてはいけない一線というのはあるんじゃないでしょうか。

そもそも、フレディを映画化するという話が最初にあったとき、僕は「アメリカと日本で、晩年はあんなに冷たかったのに誰が観に行くんだろう?単館上映になるだろうから、わざわざ都心まで足を運ばないと観れないんだろうな」と勝手に思っていた。こんな卑屈になったのも、前述の通り「クイーンなんて誰も聴きたがっていない」というトラウマのせいなわけですが、蓋を開けてみればバリバリのハリウッド映画。ハリウッド映画というのは事前に試写で、観客にアンケートを取って、ウケが良くなるように結末を変えるようなことをするわけです。某監督の言葉を借りると「そういうことをすると映画が低俗になってしまう」。そう、大衆が求めるものを第一優先として作ってしまったら、作り手のクリエイティビティなんてどうでも良いという話になってしまう。大衆が求めるストーリーでなくても、大衆を唸らせるものを創ることが、映画という芸術に携わる人間のプライドというものでしょう。

僕の勝手な予想だけれど、この映画はブライアン・メイが立ち入りすぎているように思う。そりゃ、自分たちのこと、家族の一員であるフレディのことを美化したいという気持ちはわからないではない。でもそれで、捏造された大団円ストーリーを正当化することをアートと呼んでいるのだとしたら、この人の頭の中は相当お花畑だと言わざるを得ない。大衆迎合した筋書きを作ることはむしろアートとは対局にある行為。この映画が完成するまでに、監督やら主役やらが変わって、時間を要したことは、アートから低俗なものへ改変しようとするブライアンが干渉しすぎたからではないだろうか。

クイーンは純度100%の娯楽バンドで、だからこそ素晴らしいと僕は思っている。キャッチーでトリッキーで派手で過剰な音楽は、音楽に詳しくない人の心までをも掴む一方で、音楽に詳しくなってからでも、個性的なアイディアに溢れ、他のミュージシャンでは到底できない音楽を作っていることに感心してしまう。つまり、大衆にウケる要素がありつつ、音楽に詳しい人をも唸らせる奥深さがある。クイーンが一番素晴らしい点はまさにここにあると思っている僕に、映画「ボヘミアン・ラプソディ」は大衆ウケ要素だけで作られたものに見えてしまう。

ま、その大衆ウケ要素だけでここまで多くの人の心を掴むというのも、そう簡単にできることじゃないのは事実です。それもクイーンの音楽が持つ偉大さ故。それを世間に改めて知らしめた映画として、ライヴがここまで人の心をつかむという、当たり前でありながら忘れがちなことを思い出させた映画として、評価することは吝かではありません。でも、感動したから、爽快な気分になったから良い映画と評価してしまう、普段あまり映画を観れていない人をターゲットにした映画では、目の肥えた映画ファンを唸らせることはできません。映画批評家の点数が低いのは、つまりそういうことなんじゃないでしょうか。

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