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Enjoy Life, Enjoy Hobby

趣味の人生を楽しむサラリーマンの日記

「スリー・ビルボード」(ネタバレあり)

スリー・ビルボード201811

(ネタバレあり、としていますが、ストーリーにはほとんど触れずに以下、書いています。ただし、この映画は白紙の状態で観た方が良いと思います)

原題は「Three Billboards Outside Ebbing, Missouri」。

レイプ惨殺された娘の操作が進んでいないことに業を煮やした母親が、町外れの看板に抗議の意思を掲示して闘う、という紹介をされているこの映画。そうか、怠け者である警察と闘う強い母親の話なのか、と勝手に想像していたら警察署長が人格者で周囲の信頼が厚く、決して怠けて捜査が進んでいないわけじゃない(んだろう)とわかってきてから、おや、これはちょっと思っていたのと違う話だぞ、となってくる。

いや、ストーリーとしてはその通りなんだけれども、主要登場人物や周囲の人物、彼らが生活している街の設定がしっかりしていて、その描き方が実に緻密で複雑。1つの田舎町と限られた登場人物だけで、

●人間が持つ善良さ
●人間の愚かさ
●差別主義者の人間性の酷さ
●収まりのつかない感情が招く行動の愚かさ
●復讐の連鎖の虚しさ
●愛すべき家族への愛情のかけ方の難しさ
●他人を手厳しく批判できるほど人間は完璧ではないこと
●純粋な心がもたらす善き行動と悪しき行動

といった、人間の業をえぐり出し、あぶり出し、表現してしまう。どの登場人物も感情移入できるような人はおらず(署長はできすぎていて親しみを感じない)、ああ、この人はこんなことをしてしまう残念な人なんだな、と思いながら観て行くことになる。

これが初の長編映画というマーティン・マクドナー監督、カメラワーや編集、演出、ストリーの見せ方などが良く練られていて、とてもレベルが高い。とにかく脇役を含めて登場人物に一切のムダがなく、どの人物をどう見せてストーリーの中枢を表現して行くかの構成が巧い。

また、どの役者も演技が素晴らしい。気丈に警察に抗議するミルドレッド(フランシス・マクドーマンド)は、時折弱気になったり、恐れを抱いたりするところを、ほんの少しだけ垣間見せる表現が流石だし、ただのイカレ差別主義者に見えるディクソン(サム・ロックウェル)は実は単に精神的に幼くて純粋すぎるだけの青年であるところまで表現しきれていた。ミルドレッドの元夫のガサツな人物表現と、ジェームズ(ピーター・ディンクレイジ)の雑に扱われ続けた人生から漂う諦観の演出も巧い。

なんにしても、この映画ほど人間の持つ素晴らしさと愚かさをたっぷり描いている作品はそうはない。これだけ人間の持つ複雑な要素を描写しておきながら詰め込み過ぎな印象を抱かせないところも素晴らしい。

最後のシーンは、ミルドレッドもディクソンも実は内心では「こんなことをしても虚しいだけ」と悟っていることが垣間見えていて、恐らく目的を達成させずにそのまま引き返すであろう、と思わせる。決して良い話ではないこの映画、観終わったあとにどこかスッキリするのはそんな2人の雰囲気から、この先、2人はきっと立ち直って行くだろうと思わせるからであるように思う。

映画ファンであれば是非見ておきたい作品。この監督は今後も要注目です。

ピアノ・レッスン 第37回


(ピアノレッスンの記事は自分のための備忘録を主目的としています)

今回は2週続けてのレッスン。

取り組み始めてから6週間経過している「チェルニー やさしい20の練習曲」Op.262-No.1、No.2。なのに、右手も左手もまだスムーズに指が回らず、つっかえたり転んだり。前半後半の締め部分はドレミファソレシドと上がって最後に最初のドに戻るんだけれど、後半に向かって音を徐々に強くして最後は弱く、という先生の指示通りになかなかうまく弾けない。

以前のチェルニー Op.777のときは、先生はテンポを指定せず、弾けるスピードで指が運べればOK(強弱の注意点はありましたが)、というスタンスだったのに、今回はある程度のスピードを要求している。つまり、指がしっかりと、正確に回ることが練習の主眼になっているのだとようやく気付きました。また、「ドレミファソレシドと上がって最後に最初のドに戻る」ところも、指を返してから手首を下げずに肘から右にもって行くような動かし方をすることでキレイかつスムーズに弾けるようなることも教えていただく。

ポイントに気づいたらできるようになるかといったらそう簡単ではないんだけれど、そこが目的とわかればそこに意識を集中させることができるので、頭を切り替えてまた練習しなおすとにしました。これまで6週間練習してきて、今回はこの曲だけで50分くらいずっと練習して、それでも指が回らないんだから、今の自分の力はこんなものだということです。まあ、まだピアノを始めて1年半だから当然とはいえ、4週間くらい譜面の音が取れるように漠然と練習していれば弾けるようになるというこれまで曲の考えを捨てて、何ができるようになることがポイントかを意識して練習しなくてはいけないんだと学びました。今日はこの曲だけでレッスンの時間を使い切って修了。

あとは前回「月光」最後の部分でペダルを抜くことを教えていただいた部分で、ペダルから足を離すと急に音の伸びが消えてつながりが悪くなってしまういところを相談。これは、ペダルを一気に離しているからとのことで、徐々に抜かないとそうなってしまうようです。これまでオンかオフかという踏み方しかしていなかったし、そういう踏み方しか知らなかったので自分で気づくことができませんでした。デリカシーをもってペダルを離して行く練習がまた必要です。

今回のレッスンまでの教訓
●練習曲はどんな弾き方を求められているかを理解した上で練習すること。
●キレイに指を運ぶためには腕や肘の動かし方もそれなりの方法が必要になる。
●ペダルの抜き方は、単純に一気に離すだけではなく、徐々に抜かなければいけないところもある。

ピアノ・レッスン 第36回


(ピアノレッスンの記事は自分のための備忘録を主目的としています)

まずは「チェルニー やさしい20の練習曲」Op.262-No.1、No.2。繰り返しになりますが、この曲の譜面を見たときには「まあ、練習すればわりとすぐに弾けるようなるだろう」と思っていたもの。右手はドレミファソを使うだけで左手は簡単なコード、左右入れ替えて今度は左手でドレミファソを使うだけの、譜面上ではシンプル極まりないこの曲。

速度の指定はアレグロ(快速に・陽気に)よりやや遅いアレグレットと、それなりに早く弾けることを要求される。やってみると早く弾くと、右手の場合は力が入りにくい薬指と小指がおざなりに、左手の場合は薬指が明確に転んでしまう(転ぶ=先走って早めに押してしまう)。ならば、腰を落ち着けてしっかりやろうと思って、テンポを落として1音ずつ丁寧に弾くと、レガートの指示通りに滑らかに流れない。つまり、ある程度のテンポ感を維持してレガートで指が転ばないように弾くことがゴール。これがなかなかうまくできない。

この練習曲に取り組む前のチェルニー Op.777は今思うと、指が滑らかに動くかという意味ではそれほどハードルが高くなく、まったくの初心者にとっては動かし方がやや難しい運指を随所に織り交ぜて、右手は5つの音による、左手はコードやアルペジオのパターンで指を動かすための練習曲。譜面を読み取って、楽譜の通りの鍵盤に指をしっかり乗せることができるかがポイントだったように思います。

今の曲、Op.262-No.1、No.2は譜面通りの音を出すことじたいは簡単、でもある程度速く、一定のテンポで、強弱もそれなりにつけて、指を転ばせず、スムーズにという要素がとにかく難しい。何度練習しても上手く弾けず、家で練習していると徐々に煮詰まって、むしろ時間をかけるほど指が上手く動かないときさえある。これはもう純粋に指を動かすための練習曲で、ここで躓いていることで、基礎ができていないこと、素養がないことを思い知ることになりました。でも、ここで基礎をある程度やっておかないと、これからもゆっくりテンポの曲しか演奏できないということになりそうなので、焦らず、じっくり取り組もうと心に決めました。ちなみに、以前のチェルニー Op.777は4週間以内でクリアして次の曲に進んでいましたが、今回は5週間経過してまだ終わっていません。ピアノを始めて1年半で、スタート地点に立ったということなのかもしれません。

残りの時間は「月光」の仕上げ。音をつなげたいのに切れてしまう6小節目、なぜ切れてしまうのか、自分なりにがんばって考えた結果は小指を中心に指を離すのが早い、というか早くなってしまうからなんだろうという予測をしていたら、単にペダルを離すタイミングが少し早いだけなんだと判明。ペダルを離すタイミングも右手の動きと同期していた方が楽に合わせられるんですが、ここはもう少し我慢して踏み続けている必要があり、その我慢の結果うまく音がつながるように。ようやくCDで聴いていたあの流れが自分の手から生まれるようになりました。これがあるからピアノって楽しいんですね(→だから好きになれない曲はやはりモチベーションが上がらないかも)。

あとは、出すところ引くところの再度の確認とエンディングの左手のみのメロディのどここでペダルを離したら良いかのアドバイスをしていただく。「月光」は音を取るだけならもう1ヶ月半くらい前にできるようになっていたんですが、自分で聴いていて「なんじゃこりゃ」という曲にしかなっていませんでした。先生のアドバイスを盛り込んでいった今、格好がついてきて、これなら人に聴かせてもいいかも、と思えるくらいになってきたのは自分でも感じるところです。

今回のレッスンまでの教訓
●練習曲はどう弾くことが目標なのかを見定めて練習しないとズレてしまう。
●Legato指示の練習曲は、やはりLegatoで弾かないと練習にならない。
●つながるべきところの音が切れてしまうときはペダル離れが少し早いのかも。

「ボヘミアン・ラプソディ」(ネタバレあり)

Bohemian Rhapsody201811

僕は、マニアではないけれど年間50本くらい見る結構な映画ファン。映画館に行く回数は年に4回くらいだけれど、リビングに100インチのスクリーンを降ろして、録画しておいた映画を週末に見ることを何よりの楽しみにしています。

映画というのはあくまでも娯楽であり、作り物の嘘っぱちである、というのは映画をある程度見慣れている人であれば言われなくてもわかっていることで、映画レビューの掲示板で「事実と違う」なんて目くじらを立てている人を見ると、「ああ、この人は普段映画を観ていないんだなあ」と僕は思ってしまう。そのような、おかしな批評をしている人として、以前「ラ・ラ・ランド」でジャズはああいうものじゃないと騒いでいた菊地成孔を批判する記事を書いたこともあります(http://buhaina.blog.fc2.com/blog-entry-293.html)。

一方で、このブログで時折触れている通り、僕はかなりのクイーンマニアでもある。CDはもちろんすべて持っているし、主要なブートレグもほぼ押さえ、更にこれまで出たドキュメンタリー映像作品やライヴ映像もすべて持っている(オフィシャルでない怪しいものは除く)。なんと言っても僕にとって最初で最後のチャンスだった85年の日本公演は初めて観たロック・コンサートだったし、今はメアリー・オースチンが住んでいるとされるガーデン・ロッジ(フレディの家)にも行ったことがあるし、新宿コマ劇場とロンドンのドミニオン・シアターでミュージカル「We Will Rock You」も観ている。世代的には70年代の先輩たちの経験値には敵わないけれど、日本で人気がガクッと落ちた82年以降にもっとも熱中していた相当筋金入りのマニアだと自負しています。

もうだいぶ前からフレディ・マーキュリーの自伝映画が作られるという噂が出ていて、いつになっても完成しなかったものが紆余曲折の末にようやく完成。監督のブライアン・シンガーは途中降板していてパンフレットにはインタビューが載っていないという曰く付きな作品となってしまったようで、それでもファンとしては観に行かないわかけにはいきません。

ただ、期待に胸踊らせて劇場に向かったというわけではなかった。なぜなら、僕はクイーンのことを知りすぎているから。雑誌やムックが出たらほぼすべて読んできたし、フレディの死後に出た本もほとんど読んできたので、自分の中でクイーンというバンドの歴史、ストーリーが出来上がってしまっている。だから映画を観たら、そこは違うんだけどなあとか、自分の中で出来上がっているクイーン観とのギャップが気になってきっと没頭できないだろうなと思っていたんです。映画だから製作者が何らかの方向性をもって、歴史を掻い摘んである部分をクローズアップするのは当然のことで、メッセージを明確にするために史実に手を入れることがあるのも予想できることで、知りすぎていること、思い入れが強すぎる僕がそれを受け入れるのは難しいだろうと事前に予測していたわけです。

結論から言うと、その通りの結果となってしまいました。エピソードは時系列の前後が多く、演奏される曲も「その時期にこの曲はおかしいんだけどなあ」、服装や髪型が「その時期は(あるいはその曲は)そうじゃないんだけどなあ」と思うところが少なからずあって、こんなことマニア以外にはどうでもいいもんなあと思いつつも気になってしまう。まあ、でもそこは予想通りなので途中から努めて頭を切り替えて、映画ファンとして、この映画が何を表現しようとしているのかという視点で観ていました。

実在の人物、バンドというのは当然、うまく行っている時期、落ち込む時期がそれぞれ当然あるわけです。その人、バンドの人生の紆余曲折や苦悩、喜びを描くから人は映画に感動する。では、「ボヘミアン・ラプソディ」はどうか。努めて客観的に一般人が抱いていると思われるクイーンのイメージを想像してみると、ヒット曲を多く持つ華のある超有名グループ、中でもフレディは一番パワフルでエキセントリックな人、という感じでしょうか。史上最高レベルの成功を勝ち取ったグループにも上手くいかない時期があり、スター然としたフレディは実は真に心を許せる人がほとんどいない孤独な人だった、というところがこの映画で表現していたところです。そのあたりの苦悩と、その困難を乗り越える過程をどう表現して観衆を感動させるかが作り手の腕の見せどころになるわけですが、残念ながら踏み込みが浅く、エピソードの再現と、そっくり演技といった演出にフォーカスしすぎてしまった悪影響が出てしまったように思います。フレディの人生とクイーンの歴史を描く映画としては、映画ファンの観点からはあまり高い点数は付けられない。

一方で、そっくり演技とライヴシーンの再現は、大量の映像を観てきた僕が観てもよくぞここまでやってくれたと思うくらいのレベルの高さ。特に、本人じゃないの?と思わせるくらい喋り方が似ていたブライアン、キャラの押し出しが弱くて本来はやりづらい役であろうジョンを表情、仕草、喋り方まで再現していたのはスゴイ。そしてファイナーレに持ってきたライヴ・エイドの再現は五月蝿いマニアでも圧倒されること請け合いです。主演俳優とそっくりさん歌手を組み合わせたと言われるヴォーカルの再現度はそれはもう見事なレベルで、本物の体験と誤解させてくれるほど圧巻のパフォーマンスだったと思います。

ただ、それでも僕にとってこの映画はフレディやクイーンの歴史を描いたものとしてはやはり物足りない。

クイーンの歴史をごく簡単に要約すると、

●デビューするも当時は英国での評判はさんざん
●トップ・オブ・ザ・ポップスに出演して知名度が上がる
●「キラー・クイーン」が英国でヒット
●所属していたマネジメントが悪質でお金を搾取され続け、それでも引き続き安アパート暮らし
●マネジメント会社を変えて、成功に見合った報酬を得られるようになる(ジョン・リードがここから担当)
●音楽的に更に向上、充実し、ツアーも成功
●大げさで華やかな音楽性からシンプルな方向性へ緩やかに転換
●音楽の幅を広げ、シングル、アルバムが念願の全米1位に
●「地獄へ道連れ」の大ヒットでダンスミュージックへ傾倒しはじめる(フレディとジョンが)
●ロック未開の地、南米ツアーを成功させて世界的な人気グループに
●ダンスミュージック路線を突き進めた「ホット・スペース」が商業的、音楽的に失敗
●バンドの方向性が見えなくなり初めての活動休止(83年)
●「ザ・ワークス」(84年)で従来路線の音楽にやや戻して、欧州で大ヒット。
●一方で、アメリカと日本では人気が下火に
●フレディがCBSと破格の契約金で契約を結びソロ・アルバムをリリース(85年)
●フレディだけでなくグループ内での人間関係が悪くなる(特にブライアンとロジャー)

84年頃がもっともグループの状態が悪かったときで、実際に発売された「ザ・ワークス」はあまり内容が良いとは言えず、今聴いてもヒットした2曲以外はデキがもうひとつ。映画ではフレディだけがソロ活動を初めて険悪になったかのように描かれていますが、ロジャーは81年、84年にソロ・アルバムをリリース、ブライアン・メイは83年にソロ・アルバムをリリースしているので、ソロ活動じたいが人間関係を険悪にしたわけでない。ただ、ロジャーとブライアンのソロ・アルバムが商業的成功を目指したものというよりは課外活動的な熱心なファン以外からは注目されていないものだったのに対して、フレディはレコード会社も含めて本気度が高かったのは事実で、フレディがグループ解散、脱退を意図していなかったのだとしても周囲や他のメンバーが、ソロでやって行くつもりなのかと疑うのも無理はない状況でもあった。

ちなみにこのソロ・アルバム「ミスター・バッド・ガイ」は、多額の契約金を払ったCBSのトラウマになっていると言われるくらいまったく売れなかった。当時フレディが志向していたダンスミュージックの要素を取り込み、曲の質は悪くなかったものの、やはりクイーンと較べるといろいろなところが欠けている。リズムの面白さが足りないし、アレンジが凡庸で薄いサウンド。一方、肝心の歌は熱唱ばかりの一本調子で通して聴くと疲れてしまう。フレディだけで音楽を作ると、このくらいしかできないんだとよくわかります。これはフレディに限った話ではなく、ロジャーのソロは曲に起伏が少なくて地味で単調、ブライアンのソロは古典的ハードロックで時に派手で大げさすぎるサウンド、ジョンはソロ・アルバムは出していないけれど、ほのぼのポップスとソウルっぽいポップスの曲が書けるというだけでアレンジやサウンド作りが他の3人よりも上手いということは考えにくい(ソロ活動の1曲は凡庸な打ち込み曲)。かようにクイーンは実は1人だけではあまり良いものが作れないのです。クイーンは演奏も、この4人(ピアノ、ギター、ベース、ドラム)が組み合わさるからこそ独特のタイム感とサウンドが出るという相性の良さがあり、曲作りにおいても誰かが作った曲を他の人がどんどん意見して磨いて行くことで、あのクオリティの曲に仕上がる、ということをプロデューサーが証言しています。4人はそれぞれに才能を持っていながら、その才能をどう打ち出せば良い結果が得られるかは各個人ではわかっておらず、一緒に作業することで自然に才能の良いところが出てくる。この4人が集まるからこそあのサウンドが生まれるという、史上稀に見る奇跡のグループがクイーン、ということは熱心なファンなら良くわかっていることだと思います。

長い間、家族のように毎日4人で過ごし、才能があって向上心と自己主張が強い4人(普段はモノをあまり言わないが言うべきときはハッキリと言うとはジョンの言葉)が10年活動してきたら、うまくいかなくなる時期も当然あるわけです。当時、実際に解散も考えたと彼らも言っています。

そんなときにライヴ・エイドの出演が決まったものの、実はあまり乗り気でなかったことも本人達が語っています。リハーサルもそれほどしたわけでもなく、(映画では何年も4人で演奏していなかったことになっていたけど)2ヶ月前に終えたワールドー・ツアーの出がらし状態で出演。英国でもクイーンは過去のバンドと捉える向きがあり、自分たちを見に集まったわけではないオーディエンスを魅了できるか不安があったとロジャーが後に語っています。しかし、いざ曲が始まると大合唱、わずか20分の時間に短縮版の曲を詰め込んだ濃厚なステージを展開。翌日の新聞が掲載した出演者の採点表で10点満点の評価を得るくらいウケにウケ、クイーンにはまだこれだけのパワーがあるのだと彼ら自身が驚き、再認識することになった(翌週、4年前に発売されたGreatest HitsがTop20に再度チャートインしたほど)。解散がチラついていた時期にクイーンの持つ底力を彼ら自身が身に沁みて感じたのがライヴ・エイドだったんです。映画では、フレディが他のメンバーに謝罪し、ライヴ・エイド前にエイズであることを告白することでグループとして結束したことになっていますが、これは事実とまったく異なっています。

こうしてやる気を取り戻して万事スムーズに行くようになったかというと話はそう簡単ではなく、次のアルバム「カインド・オブ・マジック」(86年)はまだまとまりに欠けた仕上がり。映画の中ではライヴ・エイド前にクレジット(作曲者表記)を個人からQUEENに統一することを取り決めていますが、「カインド・オブ・マジック」ではまだ個人の名義でクレジットされており、フレディとジョンの曲はマックが、ブライアンとロジャーの曲はデヴィッド・リチャーズがプロデュースを担当するなど、分裂状態が続いていることを窺い知ることができます。気持ちはまとまっても、音楽で目指したい方向はバラバラなままだったということでしょう。このアルバムは映画「ハイランダー」用に書かれた曲が中心で、描くテーマががあったおかげでなんとかグループとしての体をなしている状態だった、というのが僕の見解です。

87年にフレディがエイズであることを3人に告白し、フレディの命が、グループとして残された時間が長くないことを知ることになります。ここで彼らは、残された時間をクイーンとして、クイーンらしい音楽を残すことを決意して、結束するのです。もちろんそんな裏事情を知らない僕は89年にリリースされた「ザ・ミラクル」を最初に聴いたときに、「おおっ、グループとして一体感がある。初期のクイーンの焼き直しでなく、それでいてクイーンらしさに満ちている」と驚いたものです。当時、日本(とアメリカ)では完全に人気が下火で過去のバンド扱いになっていたため、アルバムリリースじたいがまったくと言って良いほど話題にならなかった(東芝EMIはほとんど宣伝していなかった)んですが、こんなに素晴らしい内容なのにどうして?と悔しい思いをしたものです。後半の曲がやや弱いというウィークポイントはあるものの、「ザ・ミラクル」は傑作だと僕は思っています。今でも「ザ・ミラクル」を評価している人は少ないので、あまりり聴いていない人には改めてしっかりと聴き直してほしい。本人たちも一体感を取り戻したという確信があったからこそ、あのジャケットになったわけですから(仲違いしていたらあんなジャケットの案は出てこないでしょう?)。

「ホット・スペース」以降(=グループ内の関係が悪くなって以降)、最低でも2年以上のインターバルを設けないとアルバムを制作できなくなっていたクイーンが、わずか1年半のインターバルでリリースしたのが「イニュエンドゥ」で、再度グループが上昇カーブを描いている証拠だと当時の僕は思っていました。内容は、クイーンらしさに満ち溢れた素晴らしいもの。このときにはもうフレディに残された時間がわずかであり、最後であることを覚悟して制作されたこと、それ故の短いインターバルでのリリースであり、それ故の力作であることは、今となってはわかっていることですが、悲壮的な焦燥感よりも前向きなパワーが漲っているところに、4人がクイーンとして音楽を創る意欲と充実感が伝わってくるのです。

と、長々と実際の話(もちろん関係者から聞いたわけではなく本やインタビューで知った内容ですが)を書いてきましたが、映画では関係が悪くなったグループがフレディのエイズをきっかけに結束するという大まかな流れこそ事実に沿っているものの、映画の尺に合わせるためにエイズ発覚後を省略し、フィナーレを盛り上げるために時系列を変えることで、ライヴ・エイドはエイズ発覚でグループが結束したステージ、という事実と異なるストーリーとなってしまった。繰り返しになりますが、映画は必ずしも史実通りである必要はありません。しかし、フィナーレへ向かって盛り上がる核となる内容が事実と異なっているために、「ああ、そういう話にしちゃったんだ」と冷めてしまったのは事実です。この種の映画で冒頭で良く出てくる This is based on true story という字幕がなかったのは、映画の構成上、事実とは異なるストーリーになったことと無関係ではないと僕は思っています。

うまく行かない時期があったものの、残された時間がわずかであることを知り、4人のメンバーがすべての情熱をクイーンの音楽を創るために注いできた。最後の2枚のアルバム(と「メイド・イン・ヘブン」)で、フレディが残された時間をクイーンのために捧げ、3人がそれに応えたという、彼らの音楽家としての生き様を映画で描いてもらいたかった。もちろん、その内容で最後に盛り上げるのは難しいだろうし、湿っぽい内容になってしまうであろうことはわかっているんだけれど、4人がクイーンのために人生を捧げたことを上手く表現してほしかった。

でも、そうでないから「ボヘミアン・ラプソディ」はダメな映画と言うつもりはありません。長い目で見て大筋は合っているわけですから。人間ドラマの掘り下げが浅いことと、ストーリーの端折り方、再構築の仕方に問題がある一方で、この映画の特徴は、数多くの曲とライヴ演奏シーンが次々に流れるところにある。しかもクライマックスは、映画の演出ではなくライヴ・エイドの忠実な再現。実在のミュージシャンを描く映画は数多くあれど、これほど多くの曲を流し、ライヴ演奏シーンを長く見せる映画は他になく、音楽そのものが持っている力こそがクイーンの魅力、フレディの魅力であるということを伝えたかったのかもしれない。特に熱心なファンというわけでもない人が、クイーンが残した音楽の素晴らしさに心を打たれ、クイーンを好きになってくれるのだとしたら、「ボヘミアン・ラプソディ」は大いに意義のある映画だと言えるんじゃないでしょうか。

ティーレマン指揮 シュターツカペレ・ドレスデン 2018年公演

ティーレマンSKD 201810

2018年10月31日
サントリーホール
指揮:クリスティアン・ティーレマン
演奏:シュターツカペレ・ドレスデン
【演目】
シューマン:交響曲第1番 「春」 op.38
シューマン:交響曲第2番 op.61

クラシックを聴き始めたとき(6年前)、NHKで放送されるクラシックのテレビ番組は、オーケストラの生演奏を聴くことができるものとして、また、人気のある指揮者の指揮姿を見ることができるものとして、ありがたく視聴していた。当時は、アバド、ヤンソンス、ラトル、シャイーなどの演奏会をよく採り上げていて、とにかく知識を増やしたい僕にとってとても有効な情報源になっていた。

そして、その中に良く登場した指揮者の1人がクリスティアン・ティーレマン。いかにもドイツ人という大柄でお堅い風貌。お世辞にも華麗とは言えない棒さばき、妙なところでタメるクセがあまり好きになれず、「かっこ悪い指揮者」として記憶に留められていくことになる。

それから数年が経ち、今ではそんなティーレマンの指揮姿も芸分も「こういういかにもドイツな人がいてもいいじゃないか」と楽しめるようになり、機会があれば実際の演奏に触れたいと思っていたのです。また、ティーレマンが芸術監督を務めるシュターツカペレ・ドレスデンも、名門オーケストラとして定評があり、是非聴いてみたいと思っていたものの、他の指揮者とオケを優先してなかなか聴く機会を持つことができませんでした。

その機会がようやくやってきた。演目はシューマンの交響曲。

シューマンの交響曲は、ベートーヴェンやマーラー、ブルックナーほどメジャーではないにしても良く知られていて、しかしその割には演奏機会が少ないように思う。海外オケが日本で演奏する際に採り上げていたのは、記憶にある限りラトルBPOの1番くらいしかなく、こちらも機会があれば是非聴いてみたいと思っていたところに、このティーレマンSKDによるチクルスがあり、曲、指揮者、オケ揃い踏みでようやく聴くチャンスに恵まれました。

シューマンはオーケストレーションが上手くないという定評があり、僕はそれがどういう意味なのかわかっていなかったんだけれど、実際に聴いてみて、そう言われている理由がわかったような気がします。オーケストラ演奏の面白いところは、全パートが同じ(または同じ方向性の)音、メロディを奏でる部分があったり、各パートで異なるフレーズを奏でてそれが重なることで音楽として成立する部分があったりして、更にそれらが巧みに組み合わさって複雑な構成を見せるところにある。でも、シューマンの交響曲は、弦はどのパートも基本同じ方向性の音を出してそれを積み重ねるやり方で、木管もそれに重ねていることが多い。また、木管にソロパートがほとんどなく、木管だけのパートでも複数の音を重ねていることがほとんど。結果的に、オーケストレーションが単調で、サウンドが少しぼんやりしていて、起伏があまり豊かでないものになっている。実際に聴くとそういう特徴を肌で感じとることができます。

シュターツカペレ・ドレスデンのサウンドは、やや渋めの音色で、コンセルトヘボウのような暖色系の音とは全く違っている。渋めといってもそれは音色の話で、弦はよく歌っていて弱音の表現力も高い。金管、木管も派手さはないものの、実に安定していて安心して身を任せられる技術があり、オケ全体のレベルは非常に高いと思いました。

ベルリン・ドイツ放送交響楽団、バンベルク交響楽団の音色と似た傾向のいかにもドイツ的なサウンドで聴くシューマンは、まさにドイツ音楽そのもの。ティーレマンは時にぐっとテンポを落としたり、タメたりと得意な芸風を存分に披露。単調になりがちなシューマンの交響曲は、このくらい大胆にやってくれた方がいい。

このオケのパフォーマンスを聴いていると、ブルックナーやブラームスを是非聴いてみたいと思わせるものがあります。でも、シューマンもこの指揮者、オケにとてもよく合っている。シューマンは力量のないオケだったり、優等生的な指揮だと退屈しそうな感じもするので、ティーレマンとシュターツカペレ・ドレスデンで聴く機会を持てたのは本当に良かったと思います。

去年の秋以降に見たオーケストラ(コンセルトヘボウ、ボストン交響楽団、マリインスキー歌劇場管弦楽団、クリーヴランド管弦楽団、ロンドン交響楽団)は、もちろんそれぞれに音色が違うものの、いずれも弦が膨よかで温もりのあるサウンドだったこともあり、久しぶりに聴いたドイツの渋みのあるサウンドが今日は新鮮に響きました。

本当はヤンソンスBRSOのマーラー7番がこの後控えていたんですが、病気でキャンセルになってしまい、演目が変わってしまった(「巨人」あんまり好きじゃないんだよなあ)ので払い戻したため、今年はこれでクラシックのコンサートは見納めになりました。今年はあまり手を広げず、本当に観たいと思ったものに絞ったんですが、どれも素晴らしいコンサートばかりでかなり良い年になったと思います。素晴らしい演奏を聴かせてくれたアーティストたちに感謝!

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