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趣味の人生を楽しむサラリーマンの日記

ラトル指揮 ロンドン交響楽団 2018年日本公演

ラトルLSO201809

2018年9月24日
サントリーホール
指揮:サイモン・ラトル
演奏:ロンドン交響楽団
【演目】
バーンスタイン:交響曲第2番「不安の時代」
(ピアノ:クリスチャン・ツィメルマン)
ドヴォルザーク:スラヴ舞曲集 op.72
ヤナーチェク:シンフォニエッタ

僕がクラシックのCDを初めて購入したのは2012年の11月こと。

その2年前に結婚した妻は、独身時代は国内オーケストラの定期会員だったことがある(ライトな)クラシック愛好家で、ジャズとクラシックはもう十分聴いた、他の音楽にチャレンジしてもいいかな、と思っていた僕が妻と暮らすようになってクラシックに関心を向けるのは自然の流れだったかもしれません。

ハマりはじめるととことんハマる性格なだけに毎日の通勤はほぼクラシック、オーケストラ音楽オンリーになり、家で聴く音楽もクラシックばかり。また、NHKでは有名指揮者、オーケストラの放送が定期的にあり、CD以外でも聴ける機会が多くあるところがハマり具合を加速しました。

そのNHKの放送は、超有名どころのものが多く、最近はそこに物足りなさを覚えるようになってきたんだけれども、聴き始めた当初はすべてが新鮮な体験で、中でも目にする機会が多かったのがサイモン・ラトルとベルリン・フィル。

ちなみに、最初に購入したCDというのはラトル指揮ウィーン・フィルのベートーヴェン交響曲全集で、選んだ理由は有名指揮者と有名オーケストラだから間違いないだろうと思ったから。クラシックのファンならご存知の通り、この全集はラトルが当時流行りのピリオド奏法を積極的に採り入れて伝統のウィーン・フィルに演奏させたものであるため、今となっては個性的、悪く言うと色物扱いされているもの。僕のクラシック体験は、幼少時代に父が聴いていたものがベースになっていて、つまり70~80年代の録音が中心だったせいか、このラトル&ウィーンフィルの演奏は違和感があってあまり好きになれず、ラトルという指揮者にそれほど良い印象を抱いたわけではありませんでした。

それでも、テレビで何度も見たりしているうちに慣れるというか洗脳されるというか、徐々にラトルの音楽に馴染み始めるようになっていったようです(巨人戦ばかりテレビ中継している地方で巨人ファンになる人が多いのと同じようなものか)。ビジュアル的には、楽しそうに、情熱的に指揮をする人の方が好きなので、その点でラトルへの印象が良かったということもあります(だからビジュアル的にはカラヤンはあまり好きじゃない)。

一方、クラシックにのめり込む前にオーケストラの生演奏体験は実は済ませていて、2010年に新婚旅行でロンドンに行ったとき、初めてオーケストラのコンサートに行きました。そのときに観た楽団がロンドン交響楽団(指揮はゲルギエフ)。もちろんそのときに演奏の良し悪しなどわかるはずもなく、それでも初めて聴く生のオーケストラの音には感激したものでした。

そんなわけでサイモン・ラトルもロンドン交響楽団も、短いクラシック歴の僕にとって縁のある演奏家なのです。

日本のクラシック・オタクはドイツ、ウィーンに関心が偏っていて、英国のオーケストラを話題にすることは少ない。しかし、英国のオーケストラに実力について演奏家達の評価は高く、視野の広いクラシック・ファンからの評価も高いため、今回のラトル、ロンドン交響楽団のコンサートを楽しみにしていました。この9月24日のプログラムも、あまり海外オーケストラで聴けない曲ばかりで、その点も楽しみにしてサントリーホールへ。客席は8割以上埋まっていて、プログラム内容を考えると健闘と言って良いと思います。

まずは、今年生誕100年を迎えたバーンスタインの交響曲第2番から。現代音楽の響きを備え、ジャズのテイストも採り入れたこの曲を好きかと訊かれると、正直なところそれほどでもない。それでも大編成でダイナミックな曲は生で聴くとやはりスケール感が倍増。繊細な弱音をかくも美しく響かせる(ピアノを習ってから弱音とその表現の難しさがわかるようになった)ツィメルマンのピアノ、そして雄弁なオケの響きが一級品の音楽となって、良いものを聴いた感に満たされる。オケのレベルは世界でもトップクラスで、僕がオケの実力の判断基準のひとつとしている、弱音での音の美しさも申し分ない。

次は、より気軽に聴けるドヴォルザークのスラヴ舞曲。躍動感とスラヴ臭漂う哀愁の表現はラトルの得意とするところで、この曲でオケな見事の歌いっぷりがより明確になる。楽しさと美しさを備えたこの曲は、単曲でアンコールに演奏されることはよくあるけれど、このレベルのオケで通して聴ける機会は少なく、躍動と美を交互に配した構成の良さを再認識。ロンドン交響楽団は弦に品位ある艶を備えた美しさがあり、金管木管も技量的に優れていてオケ全体がよく歌う。更にオケ全体のバランスが良いところが素晴らしい。初めて生で観たあのオーケストラがこんなに素晴らしいオーケストラだったとは。今年観たコンサートではクリーヴランド管弦楽団も素晴らしかったけれど、ロンドン交響楽団も素晴らしいオケです。

3曲目のシンフォニエッタはP席の最後列、パイプオルガンの前に9人とトランペット奏者がズラリと並ぶ。冒頭のトランペットによるファンファーレは、それなりの人数によるものだろうとは思っていたものの、9人も居て、しかもこの高い位置から放出されるファンファーレの響きと音圧は相当なもの。CD(オーディオ)ではどうやっても再現できない音響とはまさにこのこと。オーケストラが放出する生のありのままのサウンドをCDに収めることが無理であることはほぼすべての人が知っていることで、やはり生演奏は次元が違うという当たり前の感想は誰もが抱くものです。でも、この日のシンフォニエッタほどCDで聴く音とのギャップを大きく感じた曲はこれまでにない。正直なところCDで聴いてもそれほど良い曲だと思ったことがなかったんだけれども、この日の演奏で、この曲が内包していた魅力を教えてもらえたような気がします。


2018年9月25日
サントリーホール
指揮:サイモン・ラトル
演奏:ロンドン交響楽団
【演目】
ヘレン・グライム:織り成された空間(日本初演)
マーラー:交響曲第9番

というわけで、やや迷った末に当日券で翌日もサントリーホールへ。

1曲目は典型的な現代音楽で、聴いて楽しいものではないんだけれど、20分くらいとあって前菜として楽しめました。あと、この種の音楽は生でホールの響きを感じながら聴かないと曲の面白さがわからないんじゃないかと思います。このような曲を日本で採り上げる意欲的なプログラムは、他のオケにも見習ってほしいところです(有名曲ばかりを要求する主催者と観客にも)。

マーラーの9番は、2年前にバイエルン放送交響楽団で凄いものを聴いてしまったのでしばらく生で聴かなくてもいいと思っていた曲。それでも、前日の演奏を聴いてこれならきっと素晴らしい演奏になるんじゃないかと思ったのと、ラトル&ベルリン・フィルのCDが素晴らしかったこともあって、期待を以て当日券を買い求めた次第です。

この曲は表現の振幅が大きく、大げさにやりすぎると低俗に、抑えすぎると物足りない、ということになりかねないので、そのバランスをどう取るかか指揮者の腕の見せどころ。ラトルは重くなりすぎることなく、しかもスケールの大きい表現をオケから引き出す。この日もオケのパフォーマンスは前日と全く同等(2日続けて同じオケを聴くとデキに差があることも少なくない)の素晴らしさ。

ただし強いて言うならば、バイエルン放送交響楽団に比べると、(前日も感じたところではあるんだけれど)木管がやや弱い。決してダメなわけではく、十分に高い水準に達している。でも、ベルリン・フィルやコンセルトヘボウのような超一流オケと比べると少し弱い(というか木管の一級品は超一流オケでしか聴けない)。繰り返しになりますが、あくまでも欲を言えばの話、頂点の世界で比較した場合の話であって不満というわけではありません。

しかし、この日は「事故」が少々ありまして。

RB席の一番RC寄り左端がこの日の席。一列上がるごとに横に席がズレて行くレイアウト故に目の前は誰もいなくて、前列はひとつ右寄りの右斜め前が左端の席。ステージ右寄りに視線を落とすとその右前の席シートバック上あたりになります。マーラーの9番が始まるとこの席の人が前かがみの姿勢を取り出してステージ右寄りを視界を遮るように。これがオケを見るためにそうしているんだったらまだ理解できるんですが、しょっちゅう1階客席を観察するかのように見ていて、そのために前かがみになって眼の前にその人の横顔がドンっと鎮座するわけです。しかも落ち着きがなく、頭の位置が頻繁に動いたり左側の手すりにつかまったりするものだから演奏に集中できない。堪りかねて第1楽章終了時に肩を叩いて「前かがみにならないでください」と伝えると、外国の方で、面食らいながら「Don't move front side」と咄嗟に言うのが精一杯。それでも伝わり、第2楽章からは快適に見れるようになりました。ちなみにこの方、コンサート慣れしているようには見えず、その後も演奏中にプログラムを読み始めるなど終始落ち着きがありませんでした。

第4楽章はご存知の通り、最後は静かに、消え入るように進みます。ここで誰かが盛大にモノを落とす音が。まあ、これは当然意図してのものではなくアクシデントだからある意味仕方ないことと言えるかもしれません。最後の音が消え、ラトルが手を降ろして頭を垂れたまま直立の姿勢となったとき、1階後方で1人、大きな音で拍手をはじめました。観客の多くは静寂の余韻を噛み締めている最中、唐突な拍手に追随する人はおらず、その人も手を叩くのをやめて再度の静寂、ラトルが姿勢を崩したときに会場全体から拍手が沸き起こりました。

はっきり言って台無しです。フライングの拍手を一番してはいけない曲でやってくれました。3年前のミュンヘン・フィルのブルックナー4番で音がまだ残っていて指揮者が手を降ろす前にブラボーをやられたときも気分が悪かったんですが、今回は曲が曲なだけに、音が消えたから、指揮者が腕を降ろしたから、という一般的な目安だけで勝手なことをしてほしくなかった。

それにしても、フライングで拍手、ブラボーをする人の精神構造ってどうなっているんでしょうか?何のためにそんなことをするのかサッパリわかりません。他の人に先駆けて拍手やブラボーの声援を送ることで何を得られるんでしょうか?拍手は自己満足のためにするのではなく演奏者に対してするものであるという当たり前のことまで言わないとわからないんでしょうか?腹立ちが収まりません。

せっかくの良い演奏も、こうした「事故」があると本当に気分が悪い。演奏者に対しても失礼極まりない。本当になんとかならないもんですかね。

安室奈美恵引退フィーバーで思い出した2つのこと

安室201809

【1】騒いでいるのは本当のファンではない

僕はQUEENのファンである。世の中にある音楽はクイーンとそれ以外に大別できるといっても良いくらいクイーンのことをこよなく愛している。初めて聴いたときからフィーリングが合ったし、聴けば聴くほど好きになり、音楽に詳しくなってから聴いても新しい発見がある奥の深さを持っており、その勿体つけた音楽は好みが分かれるとはいえ、ポップミュージックとしてとても完成度が高いところが最大の魅力。

そんなQUEENの人気は日本から火がついたというのは有名な話で、しかし、僕がQUEENを知ったのは82年。髭面短髪になったフレディの外見的変貌と、「フラッシュ・ゴードン」の商業的失敗、中心的存在だった10代女性ファンの成長などが重なって、日本では人気が下降しはじめた時期だった。更に、ニューウェーブから派生して、よりキャッチーでフレンドリーで大衆的なグループとして、ワム!(Wham!)、カルチャー・クラブ(Culture Club)、デュラン・デュラン(Duran Duran)などが次々に台頭しはじめ、日本でも若いファンが急増しはじめていた時期でもあった。

高校に入った頃(83年)には、周囲は完全にそれら新しいグループの話題一色のムードで、QUEENは完全にオールドファッション扱いになっていた。僕がいくら力説しても、時代遅れの音楽なんて聴く気がしない、というのがほとんどすべての人の反応で、大げさにではなく本当にそのくらい極端に時代遅れ扱いされていた。86年のある日、オリジナル・アルバムを1枚ずつレコードで買い集めていた時期に、レコード店から家に戻る途中に中学の同級生に偶然遭遇、雑談していると自転車のカゴに入っているレコードに手を伸ばし、「何買ってきたの?」と袋から出てきた「世界に捧ぐ(News Of The World)」(77年発売)を見て「ヘッ、まだこんな古いの聴いてんの」と嘲り笑われたことを昨日のことのように覚えている。

80年代の日本におけるQUEEN人気はそんなものだったので、東芝EMIに移籍してからのQUEENは新譜が出たことさえ話題にならなかった。移籍第一弾の「The Works」のときはまだそこそこプロモーションされてたけれど、「The Miracle」「Innuendo」に至ってはレコード店でプロモーション用ポスターが貼られることもなく、目立つところにCDをディスプレイされることもなく、ひっそりと他のCDと同じ場所のラックに新譜が1枚だけ置かれていた。もちろん話題に上ることはなく、特に「The Miracle」は、(当時は知られていなかったけど)フレディがHIVキャリアことをメンバーが知ってから制作され、バンドとしての一体感を取り戻した完成度の高いアルバムだったにもかかわらず、評価されていなかった、否、評価の俎上に載せる人すらいなかった。

ところが、フレディ・マーキュリーが亡くなり、残された録音から制作された「Made In Heaven」が発売されると、CDショップには特設コーナーが設けられ、新聞でも採り上げられるほどの話題になった。「Made In Heaven」はフレディが世に出してほしいと願って残していた音源を元に残りのメンバーが仕上げたアルバムだっただけに、特別な意味を持つアルバムだったとはいえ、純粋なQUEENのアルバムと捉えるのには無理があり「The Miracle」に及ぶ内容とは言えなかったにもかかわらず、「The Miracle」よりも遥かに売れた。特にここ日本においては何倍も売れたんじゃないだろうか。

と、長い前置きはここまで。

以前の記事で書いた通り、僕は日本の音楽は聴かない(http://buhaina.blog.fc2.com/blog-entry-270.html)。洋楽とJ-POP(歌謡曲)の質の違い、日本人の音楽との距離感と合わせて、パフォーマンスのレベルの低さと、この程度の客(日本人)にはこの程度のものでいいだろうという作り手の志の低さを理由に挙げた。でも安室奈美恵にはそのような思いを抱いたことがない。もちろんショービズ本場のアメリカでも通じる世界一級品のレベルとまでは言わないけれど、プロとして歌も踊りもしっかりしているし、聴衆に質の高い娯楽を提供しようという志があるから。芸能界という日本特有のジメジメした狭い世界で生きるのではなく、表現者であることを第1優先で活動している姿にファンでなくても好印象を抱いていた。

引退宣言をしてから最後のツアーを収めたDVD(ブルーレイ)が記録的な売上であることがニュースで採り上げられる様を見て、前述のQUEENのことを思い出してしまった。100万を超えるその最後のDVDの購入者で、前作のDVDを持っている人はどれだけいるんだろう?タイトルすら言えない人がほとんどなのでは?小室時代を終えた後の曲を歌える人がどれだけいるんだろうか?ずっと追いかけているファンはむしろ小室時代が彼女のキャリアの中では異端と言っているというのに。人気のあった閉店前のラーメン屋に行列したり、販売中止が決まってカールが在庫切れになったのと似たような、本当は好きだったわけでもないのに「ファンである自分」と主張しはじめる身勝手な人が多くてとても嫌な気分になる。

ちなみに、今ではもっとも広く聴かれている洋楽アーティストといっても過言ではないQUEENでも、熱心なファンと思える人に実際には一度も会ったことがない。熱心なファンを目の当たりにしたと思ったのはミュージカル「We Will Rock You」の会場、新宿コマ劇場だけだ。ファンが多いと言われているアーティストでも本当のファンというのはそれほど多いわけではない。僕はビートルズはあまり好きではなくて知識もないけれど、僕よりビートルズのことを知っているな、この人はファンだなと思った人はこれまでに2人しか会ったことがない。

以前、X-JAPANのHIDEが亡くなったときに葬儀に行列するファンがテレビのニュースで報道されていたけれど、あれにも強烈な違和感を感じた。並んでいる行列にカメラを向けると3~4名のグループが目立つ。ある特定のアーティストの熱心なファンというのはそう周囲に多くいるものではない。本当のファンが行列をなしていたのなら、数名のグループなど存在しないだろう。

【2】小室哲哉の重い罪

先に書いた通り、安室奈美恵のキャリアの中で小室哲哉プロデュースの時代はむしろ異端の時期だった。にもかかわらず、ニュースなどで流れるのは小室時代の曲ばかり。まあ、でもそれは仕方がない。みんなが知っている曲はすべて小室時代の曲なのだから。

一世を風靡した小室哲哉は、才能のある音楽家だったと僕は思っている。しかし、今では懐メロとして聴く人はいても小室哲哉の音楽が好きで今でも聴きたいと思っている人はほとんどいない。ゼロとは言わないけれど、売れた枚数と今でも愛好しているという人の比率統計が取れたら、他を寄せ付けぬ記録的な低率になるんじゃないだろうか。つまり音楽家としては完全に終わっている。理由は簡単、音楽を舐めて、音楽を金儲けの道具にしたから。

まだそれほど有名でなかったときに小室哲哉が作っていた曲は歌のメロディ、骨格がしっかりしている。わかりやすく言うと、最初から最後まで歌を口ずさむことができる。渡辺美里の"My Revolution"を思い出しみれば、最初から最後まで通して鼻歌で歌える曲であることがわかるはずだ。

小室哲哉がキース・エマーソンから影響を受けたことを割と知られるところで、学生時代には論文(雑誌の投稿だったかな?)まで書いていたという。他にも様々な洋楽アーティストの音楽を吸収して、TMネットワークで才能を開花させた。キーボード(あるいはピアノ)奏者というのは譜面や音楽理論に強く、感覚だけでなく理論的もしっかりしていて、さらに才能を持っていたからこそ成功した。

しかし、「小室哲哉プロデュース」ブランドになってからの楽曲は、曲の構造が非常に貧弱である。ある程度印象に残るメロディが少しできてしまえば、編曲能力があり、打ち込みで自分だけで制作できるから、曲として形をつくることができてしまう。もちろんそれも才能があるからできることとはいえ、その「ある程度印象に残るメロディ」の部分以外は、おざなりのメロディがチョロっとあるだけでほとんど頭に残らない。わずかな素材を元に引き伸ばして曲の体裁を整えるだけなので中身が薄くなる。

「小室哲哉プロデュース」は別にプロデューサーとして優れているのではなく、短い歌メロを元に編曲で誤魔化して曲に仕上げ、伴奏も打ち込みで作るという成り立ちからそうなっただけのもので、歌メロの断片を元にしているだけだからそもそも他人に委ねることができない。打ち込みというテクノロジーができて、イージーに曲を作ることができてしまうようになったから、他の人が介在しない、他人の手間をかけない、省力化された音楽、それを「小室哲哉プロデュース」と呼んでいたにすぎない。少なくとも彼は歌をプロデュースしていたとは思えず、たとえば「~が」と歌う場合に、綺麗に発音するために「が」を「んが」のように濁らせるのが基本のところ、はっきり「があ」と汚く発音させていてそのまま放置していたりする(意図して狙った効果も感じられない)。

そんな状況でも、周囲がちやほやして次々に作曲を依頼、それがまた売れて、無名時代からは想像できない大金がバンバン入ってくる。似たような歌メロやコード進行のものが増え、歌メロは更に簡素化されていった。そもそもポップミュージックの作曲というのは12音という限られた音階を組み合わせて作るだけのシンプルなもので、技法や構成に凝って、必ずしも時間を積み上げれば良い曲ができるというものではない。一方で、誰でも作れるシンプルなものだからこそ、閃きや創造力や独自の感性が要求されるわけで、編曲はもちろん、得意とも思えない作詞までして、演奏家として活動してテレビに出演して芸能活動までして、作曲以外の仕事を大量こなさなくてはならない忙しい状況であんなにハイペースで質の高い楽曲を次々に作り続けることができる作曲家がいるはずがなく、商業主義に流された小室哲哉は消費されるだけの中身の薄い音楽しか作らなくなった。彼が不幸なのは、ダウンタウンの浜ちゃんの歌や沖縄サミットのような曲に「手抜きが酷いですね。もう一度書き直してください」と言う人が誰もいなかったことだろう。

歌詞になると手抜きは更に凄まじく "Feel Like Dance" という文法間違い(正しくはDancing)に始まり、"Can You Celebrate?" という、ネイティヴが聞いたら「あなたはドンチャン騒ぎできますか?」という意味の迷タイトル曲を日本歌謡曲史に永久に残すことになった(一時期は結婚披露宴の定番曲だったそうで)。この曲がまた、安室奈美恵引退フィーバーでヘヴィローテーションされてしまっている。

要するに、この程度の曲をチャッチャと作ればいいんでしょ、どうせ聴衆の程度が低いから手抜きしてもバレずに売れちゃうし、という姿勢で彼は音楽を金儲けの道具として利用した。小室人気絶頂期に僕はそう思っていたので僕は小室哲哉のことを心の底から軽蔑し、「先週Globeのコンサート言ったけど最高だった」という友人に対して「手抜き音楽ばかり作っている小室はすぐに消える。10年後には誰も聴いてない」と言い放っていた(嫌な奴だねえ、まったく。でも事実そうなったよ)。ちなみに小室人気絶頂の当時、トーク番組に出ていた松山千春が小室哲哉に触れ、客に向かって「お前ら可哀想だよ。10年後に風呂場で湯船に浸かって鼻歌で歌える曲がないんだから」と言っていたのは僕とまったく同じ感覚から来たものだったんだと思う。

でも実際、懐メロとしてカラオケで歌われたり、懐メロとして聴かれることはあっても、今でもあの「小室哲哉プロデュース」の音楽を求めて聴いている人がどれだけいるというんだろうか。手抜きで作られた引き伸ばし加工品音楽に長く親しまれる奥深さがあるはずがない。そうやって手抜きが板についてしまったから、音楽家としてその程度のものに小室哲哉は成り下がってしまた。今、新たに小室の音楽が聴きたいという人がどれだけいるというんだろう?安室奈美恵が小室哲哉から離れたのは、自分の方向性を持って物事を客観的に見て、ブームが長続きしないことを見越していたからのように思える。もちろんこれは勝手な想像だけど。

確かに音楽は売れて、広く知られてナンボという要素はある。でも金儲けの道具として作られた音楽が長く愛され続けることはない。セールスの記録が残り、その功績が消えることはないであろう小室哲哉。今でもカラオケの印税だけで年に数千万以上は入ってくるであろう成功を手に入れたかもしれないけれど、本当に優れた音楽は何世代にもわたって聴き続けられて行くもので、今の若い人に小室哲哉プロデュースの曲に聴かれているかどうかは調べるまでもなく皆が知っている。

才能を無駄遣いして、音楽家として恥ずかしい生き方を選び、音楽を金儲けの道具にして消耗品を大量生産し、この程度の客にはこの程度の音楽でいいだろうという悪しき文化を定着させた小室哲哉の罪は重い。

McIntosh MA6900のVUメーターをメンテナンス

McIntosh201809


2年半ほど前に、McIntosh6900のイルミネーション電球交換をしたことがあります。電球切れが相次いでどんどん見た目が寂しくなってしまったため、手先が不器用ながら自分で交換してみたのです。(http://buhaina.blog.fc2.com/blog-entry-221.html

以降順調に使っていたんですが、今年に入ってから仕事に追われてなかなか本格的に音楽を聴く時間がなかったためほとんど使っていませんでした。BGM程度に聴くときにはNuForceのアンプで聴いているので、実質半年くらいは休止状態だったかもしれません。ある日、久しぶりに聴いてみると右側のVUメーターが微動だにしない。右チャンネルから音は出ているのでメーター故障かなと思って音量を上げてみると急に思い出したように動き始める。ところがメーターが振れない程度の小音量部分が続くとまた動かなくなってしまう。クラシックを聴いていると少音量部が当然あるので結局は右側のVUメーターが動かなくなってしまう。どうやらメーターの針の動きが鈍くなってしまい、特に針の動き出しが渋くなってしまったようです。いちいち音量を上げてメーターを目覚めさせてやらなきゃいけないというのもなんか虚しい。

メーターを見て音楽を聴いているわけではなし、音質に影響があるわけじゃないんだけれど、やはり片側だけメーターが動いていないとどこか寂しい。というわけで、ちょいと油でも差してみるかと思って久しぶりにMA6900分解してみました。フロントパネルの取り外しは以前の電球交換のときにやってみたことがあるので特に戸惑うことはありません。

今回はメーター部分を取り外し、メーターのケースを分解する。細いニードルを挟み込んで前面のカバーをメーター本体側を外すのはそれほど難しくありませんでした。メーター軸の部分にCRC5-56をサッとひと吹きして針がスムーズに動くことを確認したら組み直し。ところが、このメーター軸の部分は固定されておらず、非常に簡素で曖昧な作りになっており、ケースを閉じると針がどこかに押し付けられて動かない状態になってしまう。何度かやり直して、針が動く状態で収まったかと思うと針の静止点が最低値よりも大幅に左になってしまうなど、なかなかうまくいかない。ケースをメーターの上側からでなく、針の軸がある下側からはめて、何度かトライ&エラーを繰り返してみると、ようやく正しい静止点で、針が干渉しない状態で収まりました。結局、どこがどう干渉していたのかよくわかりませんでしたが、うまく収まったのでまあ良しとしましょう。

フロントパネルを組み直して早速音を出してみると、針の動き出しが左チャンネルと同様に、少音量からスムーズになり、音量を上げて喝を入れなくても(?)ちゃんと動作するようになりました。やはりメーターが動いていると気分がイイ。メーターの動きが鈍くならないように、日常的に動かしてやるとこういう状態になりにくいかもしれません。電球交換やら注油やら、プリミティブなメンテナンスを必要とするのは面倒ですが、考えてみると最近はそういう手をかけてやる工業製品というのもなかなかないもので、却って愛着が湧くというものです(強がり?)。

藤田嗣治展 @東京都美術館

フジタ201808-1

5年前に書いた http://buhaina.blog.fc2.com/blog-entry-49.html の通り、僕はそれほど絵画には興味がない。それでも妻に付き合って観に行くのは嫌いではなく、美術館に行くとそれなりに楽しんで観てしまう。静かな美術館で落ち着いて絵を観るという行為じたいが心に安らぎをもたらしてくれているからなのかもしれません。

とまあ、そんな感じなので好きな画家が特別いるわけではなく、ピカソ、モネ、マネ、クリムト、セザンヌ、シャガール、マティスあたりの絵を見て、なんとなくいいなあと思ったりする程度。

ただし、日本人ならではの繊細な感性が滲み出ている藤田嗣治だけは躊躇なく「好き」と言える画家で、そんな藤田の最大級の展示が上野の東京都美術館で開催されているということで2週間ほど前に行ってきました。これまであまり作品が描かれた時期を意識したことがなかったんだけれど、これだけ多くの作品を並べ、概ね時代順に展示されていたこともあって作風の遷移を俯瞰できてなかなか面白い展覧会でした。

藤田という乳白色ばかりが取り上げられるけれど、僕はそこにはそれほどシンパシーを感じているわけではなく、全体が持っている大枠のイメージとしての主張と、部分的に異様に細かい描写が混在しているところなんかに面白みを感じたりします。あと、度々出てくる猫の絵に惹きつけられてしまう。猫が持つ独特の体の丸みとしなやかさ、そのまま動き出してしまいそうな佇まい、猫だけが持ち得る表情がリアルに描かれていて、ああ、猫が好きじゃないとこんな絵は描けないな、と思わせる愛が溢れていて猫好きにはたまらない。

今回は、お土産ショップで販売されていたポスター5種類を買って、白い壁がたくさん余っている引っ越し後の家に飾りました。

フジタ201808-2

たとえポスターでも無機質な部屋が一変してどこか豊かな空間になるところに絵の底力を感じます。

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