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趣味の人生を楽しむサラリーマンの日記

ラファウ・ブレハッチ ピアノ・リサイタル 2018

ブレハッチ2018

2018年3月29日
東京オペラシティ コンサートホール

モーツァルト:ロンド イ短調 K. 511
モーツァルト:ピアノ・ソナタ 第8番 イ短調 K. 300d
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ 第28番 イ長調 Op. 101
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シューマン:ピアノ・ソナタ 第2番 ト短調 Op. 22
ショパン:4つのマズルカ
 第14番 ト短調 Op. 24-1
 第15番 ハ長調 Op. 24-2
 第16番 変イ長調 Op. 24-3
 第17番 変ロ短調 Op. 24-4
ショパン:ポロネーズ 第6番 変イ長調 「英雄」 Op. 53
(アンコール)
ブラームス:6つの小品 Op.118 第2番 間奏曲イ長調
ショパン:前奏曲 第7番 イ長調 Op.28-7

これまで通ってきたクラシックのコンサートはオーケストラばかり。一応、ラ・フォル・ジュルネで室内楽系をいくつか聴いたことがあるくらいで、ピアノ・ソロとなると、会場が通常の音楽ホールではないそのラ・フォル・ジュルネで、エル=バシャのベートーヴェン、ピアノ・ソナタを聴いたことがある程度です。

実は僕は大層なピアノ不感症で、ピアノを聴いて魂を揺さぶられるような気持ちになったことがほとんどない。もちろん、ピアノという楽器が広いジャンルで用いられ、演奏の基礎的な扱いを受けている重要な楽器であることはわかっています。でも、ピアノで感動どころか感心したこともほとんどない。「この人なら目の前で聴いてみたい」と思うピアニストは、ごく一部だけです。

そんな僕が初めてのピアノ・リサイタルへ。理由は2つある。1つは自分でピアノを演奏するようになって、ピアノという楽器の面白さが少しわかるようになってきたこと。また、妻向けのピアノレッスンで先生がお手本で弾くショパンやモーツアルトなどを聴くと結構グッと来るものがあり、生で聴くピアノの魅力、面白さがわかるようになってきたということもあります。もう1つは、ブレハッチというピアニストに特別な何かを感じていること。

ブレハッチのCDを初めて聴いたとき、「この人は他のピアニストと違う」と率直かつ直感的に思いました。理由は自分でも説明できません。自分で感じていることを挙げるのなら、力強く明瞭で、品格があって繊細さもあり、タッチの正確さがありながら機械的な感じがなく、むしろ温もりすら感じさせる、といったところでしょうか。テクニックが素晴らしいのはもちろんのこと、(大変曖昧な表現ですが)すべての音が音楽的に紡ぎ出されるマジックのよう。

さて、コンサート当日は遅刻してモーツァルトは会場外のスピーカーで聴くことに。それでももうピアノの軽快な美しさが垣間見える。ピアノソナタ第8番が終わったところで入場。まず、会場の7割が女性であることに驚く(休憩時間の男子トイレの空いていたこと!)。隣の席の女性はハンカチを口にあてて、背もたれから大きく離れて前のめり、まさに固唾をのんで聴き入る雰囲気でした。

ベートーヴェンは手持ち音源音源のバックハウス、グルダ、バレンボイムと比較してもあまり奇をてらうことのないまっとうな演奏。それでも弱音部の繊細なタッチと美しさ、正確な表現にうっとりしてしまう。

シューマンのピアノソナタ第2番は手持ちの音源がアシュケナージのもので、比較すると冒頭で少し溜め方が違って、おっ、となる。それでも基本的な表現はベートーヴェンのときと大きくは違わない。この曲ならでは情熱的なテイストも過剰にならないバランスでやはり品位のある表現。

ショパンのマズルカは手持ち音源がルービンシュタインとの比較で、さすがに古いルービンシュタインの演奏と比べるとかなり洗練された表現で、ここはブレハッチの個性が存分に出ている感じでした。英雄ポロネーズは本人のCDと比べてやや緩い感じで演奏され、生演奏ならではの適度に力が抜けた演奏が楽しめたと思います。

アンコールでは、個人的にあまり馴染みのないブラームスに続いて、ショパン前奏曲第7番(パンシロンのあの曲)を過剰な表現を抑えたやはり親しみのある演奏でまとめていました。

全体を通して、ブレハッチに抱いていたイメージどおりの演奏で、タッチの繊細さと粒立ちの良い美音、時に音を濁らせてただ綺麗なだけで終わらせない表現の幅を堪能できたと思います。前日の睡眠時間が3時間だったにもかかわらず、眠くならなかったことを考えるとかなり惹きつけられていたことが自分でもわかります。それにしてもピアノという楽器はタッチの技術でこんなに幅広い表現ができるんだなと感心の連続という感じ。

実際に見たブレハッチは思ったより小柄で、既に32歳であるにもかかわらず、所作が少年のように礼儀正しく純粋な音楽青年という印象だったのも僕にとってはちょっと意外でした。これまでにあまり真剣に聴いてこなかったピアノの面白さ、理解がさらに深まった有意義なコンサートに満足です。

ピアノ・レッスン 第24回

(ピアノレッスンの記事は自分のための備忘録を主目的としていますが、ご同好の方の参考になればと思って書いています)

この2週間も仕事が忙しかったせいであまり満足に練習できず、レッスン前2日は鍵盤に触れる時間すらない状態。21日の祝日に2時間ほど練習できたのがせめてもの救いという状況でレッスンに臨む。

チェルニー op.777 第19番は残りの16小節へ。この曲、右手に16分音符で流れるように5音続けるフレーズがよく出てくる上に、そこをスムーズに弾けるかが曲のキーポイントになっている。しかし、薬指と小指をスムーズに動かす必要があり、初心者の僕には大変難しい。加えて左手の動かし方も難しい。左手に気を取られていると右手がスムーズに動かないし、右手に注意を払っていると左手が疎かになってしまう。しかも、僕にとって左手、右手の一番難しい動きが20小節目に重なるという難物。

もうひとつ、僕の変な癖として、左手で人差し指を使わないときに、その遊んでいる人差し指を大きく浮かせる手の形になってしまうところがあり、そのせいで人差し指を使うときに指の戻りが大きく遅れてしまうことが露呈。これまでは人差し指を浮かせていても十分に追いつく余裕のある運指しかなかったので問題にならなかったんですが、この曲は普通に指を鍵盤から少し浮かせることができていればそのまま下ろすだけでうまく弾けるのに、大きく浮かせてしまうがゆえに、よっこらしょと戻して下ろすことになり、遅れてしまう。いよいよこの変な癖を直さなければならないときがやってきてしまいました。先生から、直すための鍵盤の繰り返し練習の仕方を教えていただき、家で練習することに。確かのこの練習を繰り返せば、直せるような気がします。

また、譜面通りに音を取ることに精一杯(スムーズにできないので力が入りすぎ)で、左手親指が強すぎる(親指は力を入れやすいのでどうしても強く弾いてしまうのは従来の曲でも感じていたところ)という指摘を受ける。ピアノは弱く弾くことがとても難しいということは、ここまで習ってきて感じていたところではあるものの、うまく弾けない曲だとそこに神経が行き届かなくなって、ますます弱く弾くことが疎かになってしまう。親指は側面の腹を使って押すわけですが、その押し当てる面積を小さくする感覚で弾くと良いとアドバイスを受ける。それでも力を抜くことがなかなか難しく、次回までに持ち越しに。これまでチェルニーは2回のレッスンで各曲をクリアしてきたんですが、この曲はそうはいきませんでした。練習不足の影響も少なくからずあったように思います。

月光は、23~27小節目までが前回からの課題部分。もたつきながらもなんとか進んで、28小節目から先に進む。ここから右手の動きが変わり、左手は同じ音で続く、つまり右手だけの展開部分になって行く。譜面だけ見てると頭がクラクラしてくるんですが、各小節で使う音階が決まっていて上昇して行くことを教えていただくことで、なんとなく道筋が見えてちょっと安堵。これ、初心者にとっては先生のアドバイスがないと系統立てて覚えることができないところで、やはり先生の指導は本当にありがたい。とはいえ、新しい展開に慣れるはちょっと大変そう。

それにしても参ります。明日(日付が変わったので今日)も日曜日だというのに仕事で練習に時間を充てらないとは・・・

今回のレッスンの教訓
●弱音の出し方は指の接地面積を少なくすることで調整する。
●悪い指の癖を自覚していたら早めに直す努力をしないと後々苦労することに。
●悪い癖の修正方法は1人で悩まずに先生に相談を。

ピアノ・レッスン 第23回

(ピアノレッスンの記事は自分のための備忘録を主目的としていますが、ご同好の方の参考になればと思って書いています)

前回レッスンからの2週間も激務につき、以前と比べるとかなり練習できていない状態でレッスンへ。練習量がどのくらい違ってきているかと言うと、仕事が平穏だったときには1日平均で50分くらい、この2週間(とその前の2週間)は1日平均で20分くらいといったところ。まあ、もっと激務でそんな時間すら取れていない仕事状態の方もいらっしゃるかとは思いますが、このくらい時間の余裕がなくなってくるとピアノを習うのはなかなか厳しいものがあります。

チェルニー op.777 第19番は、これまでの op.777 の中では最長の24小節の曲で、まず取り組んでいるのは最初の8小節まで。右手がヘ長調の音階(薬指が黒鍵)という指の動きにまだ馴染めず、左手の微妙な指離れのタイミングが取りづらいという、前回レッスンの譜読みで感じていたところから、それなりに動くようにはなったものの、曲として最低限の形を保たせて弾けるのは1回に1回くらいという精度。練習不足がそのまま出てしまった格好です。また、先生から、伸ばすところ、スタッカートのところ、スフォルツァンドの指示で数箇所間違っているとの指摘が入り、譜読みを疎かにしていたことを露呈。いつもレッスンのときにはもちろん汗をかくものですが、額から汗が伝って落ちてきたのは今回が始めて。まさに冷や汗という感じでした。今回は、その修正と残り16小節の譜読みで終了。

「月光」は、一応はじめから24小節目まで通してみる、前回からの新規分は15小節目からで、家にあるCDを参考に、とても弱く弾いてみたところ、出すところ(クレシェンド)、引くところ((デクレシェンド)の指摘が入り、見てみると確かに譜面にはそのように指示が書かれている。先生に手本を弾いてもらって聴くと、自分の単なるモゾモゾした弱音の流れとは広がりや生命感が違うという印象。お手本を聴かせていただいたことで、とりあえず目指すところはわかりました。29小節目まで譜読みをしてこの日は終了。

さて、今回思ったのは先程書いた家のCD、即ち超一流と呼ばれる人たちの演奏がどんなものかということ。家にあるCDの「月光」はグルダ、バレンボイム、バックハウスの3人。今回先生の指摘を受けた部分は、色付けの仕方こそ多少違うものの、3人共にクレシェンド/デクレシェンドは、一応そうなっているかな程度の微妙な強弱の付け方になっている。一方で先生のお手本は、僕にわかりやすいようにやや大袈裟に強弱を付けているとはいえ、音の出し入れが明確で確かにこちらのほうが譜面に忠実な表現だなと感じられるのです。

先生はコンサートを単独で開催して観客を集めるようなプロ演奏家ではないにしても、桐朋ご出身でピアノだけで生計を立てている(有名テレビドラマのBGMで弾いていたりもする)方で、一般人に教えているピアノの先生としてはかなり上位の方だと僕は思っている(教え方も柔軟で上手い)んですが、世界の超一流とはやはり違っているわけです。

テニスで例えるとテニスクラブにいるとても上手いコーチのようなもので、一般のアマチュアよりは遥かに上手いとはいえ、フェデラーやジョコビッチとは次元が違う、という感じでしょうか。

だからCDを聴いて曲を研究することは参考になるとはいえ、弾き方や表現をそのまま初心者中の初心者の僕が取り入れても、フェデラーのスイングの形式だけ真似するのと同じことで、超一流の結果(テニスなら繰り出されるショット、ピアノなら曲表現)を得ることは絶対にムリなんだということがとてもよくわかりました。言い換えると、世界を股にかけて活躍している超一流ピアニストの次元の高さというところでしょうか。

やはり、まずは譜面に忠実に演奏するという当たり前のことをやらないとやはりダメですね。これまでも先生のお手本をビデオに収めて参考にはしていたんですが、今後はもっと細かいところまで観察して自分に取り入れることを心がけるようにしたいと思うようになりました。ま、ある程度ピアノを習った人なら当然わかっているところなんだと思いますが、そこに気づけたことはまずは(ささやかながら)進歩ではあると思います。

今回のレッスンの教訓
●練習時間が少なくなると、短くなった時間以上に身につかない(最低でも1日40分練習しないと向上しない)。
●初心者が譜面の指示を疎かにしても良い結果は得られない。
●超一流ピアニストの演奏は、初心者にはほとんど参考にならない(あくまでも鑑賞するもの)

過小評価されているベース・プレイヤー ジョン・ディーコン

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筋金入りクイーン・マニアである僕は、クイーンの魅力についてならいくらでも語り続けることができる。今回は、ベース・プレイヤーとしてのジョン・ディーコンについて書いてみたい。

その前に、ベースという楽器についての話から。

そもそもベースというのは誰もが認める地味な楽器。中学生の時に聴いていたアリス(ってあのアリスです)の後楽園ライヴ盤では、曲の中でバックメンバーが一人ずつ紹介されるパートがあって、ギターやキーボード、ホーンセクションの紹介ではカッコイイ見せ場(聴かせどころ)となっているのに対し、ベースがコールされると、伸びやかさや華やかさとは対極にある低い音がウネウネ鳴っているだけの盛り上がらない世界になり、この地味な楽器は一体なんなんだろう、と思ったものだった。そもそも、この当時は通常バンドと呼ばれる演奏形態にベースという楽器があることじたいわかっていなかった。

ベースが地味な楽器であることは、演奏でソロ・パートが与えられることも珍しくないジャズの世界でも同じこと。メロディを奏でる楽器でない(単体で曲にならない)という性質上、直接的に耳に残るフレーズはほとんどなく、低い音なので音程も他の楽器に埋もれて聞き取りづらい。ギターやキーボードのフレーズは主旋律を担うことも多いから鼻歌で歌ったり口ずさんだりすることはあるけれど、ベース・ラインを口ずさむなんてことはまずない。メロディ楽器でないという意味ではドラムもそうだけれど、特にロック系のドラムは派手だし、モノを打ちつけるアタック感のある音は嫌でも耳に飛び込んでくる。

勢い、ベースは一番の脇役と扱われ、特にアマチュアがバンド組もうぜ、となったときに一番下手で主張がない奴が担当を押し付けられることが多い(らしい)。

ちょっと話が横道に逸れます・・・。

僕はあんまり「音楽をわかっていない」という物言いはしないようにしている。なぜなら「カラヤンはブルックナーがわかっていない」「ケルン・コンサートの素晴らしさがわからない人はキース・ジャレットのことをわかっていない」というような、自身の考えに固執した教条主義的思想を正当化する言葉として使われることがよくあるから。そもそも、自分は音楽に精通しているという奢りがなければこんな物言いは出てこないわけで、そういう人は過去の自分の音楽観に囚われて新しい音楽の面白さを知る機会を自ら狭めているようなものであるとまで思っている。それでも長年いろいろな音楽を聴いていれば、良い音楽、深みのある音楽(繰り返し聴いてもいろいろな良さを発見できる)を選別するようになる。これは奢った態度ではなく、より音楽の面白さがわかるようになって、いろいろな角度から聴いて、また掘り下げて聴いてみて素晴らしいと思えるようになったこと、もっと簡単に言うとその音楽が持っている魅力をより深く楽しめるようになったことであるように思う。だから僕は「音楽をわかっている」という言葉を、その音楽の楽しみ方をわかっている、という意味と自分の中で捉えている。

ベースに話を戻すと、ロック、ソウル/ファンク、ジャズ/フュージョンなど広い意味でのポピュラー音楽全般において、ベースというのは極めて重要な楽器である、という話をしたときに「もちろん、そうだよね」と瞬時に回答できるか否かで、音楽がわかっているか、そうでないかの一線がある程度引けると僕は思っている。なぜならベースは、表面を彩ることはなくても、音楽を下支えして、音空間を凝縮したり広げたりすることができる楽器である、ということを理解してるかどうかがわかるから。

そこで本題に入る(相変わらず前置きが長いですねえ)。

そもそも、クイーンがデビューした当時の英国といえば、アメリカから入ってきたブルーズをベースに、歪んだヘヴィなギターを大々的にフィーチャーしたロックがトレンディな音楽だった。だからデビュー当時のクイーンがハードロックを志向していたのは当然のことで、後にソロ・アルバムでダンス・ミュージックやオペラを取り入れたフレディ・マーキュリーでさえ、当時はフェイバリット・ミュージシャンにジミ・ヘンドリックスを挙げていたほどだった。本稿主役のジョン・ディーコンも、後にソウル・ミュージック好きであることをカミングアウトすることは広く知られている話とはいえ、初期のクイーンにおいてはハードロック・グループの中でのベースの役割に徹していて、しかしそれでいてメロディックなプレイをしていた。

しかし、ポップ性が高まり始めた「シア・ハート・アタック」から徐々に本性を表してくる。ポピュラー・ミュージックの中でもソウル/ファンク/R&Bは、もっともベースの重要性が高い。というか、それらのジャンルの音楽はベースが作るグルーヴを基本に音楽ができているといっても過言ではない。ソウルを愛好していたジョンが、ただコード進行をなぞって低音の厚みを加えるだけの役割に留まるはずがなく、躍動感と推進力を生み、音楽の重心を上下に移動させながら、アクセントを付けて曲を支え、間接的には曲に表情を付けることまでやってのけている。

ちなみに、ロックの世界にはクリス・スクワイアやジョン・ウェットンのようにゴリゴリと押しまくるタイプもいるし、ジャズ系ではジャコ・パストリアスやリチャード・ボナのようにスーパー・テクニックで圧倒するタイプもいる。ある意味ベースの範疇を超えた表現にまで至った人たちと言えるんだろうけれど、個人的にはベース本来の役割を外れてしまっている規格外のプレイヤーという位置づけになってしまっている。もちろん素晴らしいことは100%認めていますが。

僕が好きなベース・プレイヤーは、ロック系だとアンディ・フレイザー(フリー)、ジョン・ポール・ジョーンズ(レッド・ツェッペリン)、ニール・マーレイ(ホワイトスネイクなど)あたり。誰が弾いているかクレジットされていないことが多いソウル/ファンク/R&B系には素晴らしいベース・プレイヤーが山ほどいるし、スライやタワー・オブ・パワー(ロッコはまさにワンアンドオンリー)のベースなんて本当にカッコイイ。

それら名プレイヤーと遜色ない、いや、幅広く音楽をカバーするという意味ではそれ以上に素晴らしいのがジョン・ディーコンである。

御存知の通り、クイーンの音楽性は実に多彩。これだけいろいろな音楽性を有しているロックバンドは空前にして絶後である。ついでに言うと、それにもかかわらず、「一体何がやりたいの?」にならず、「聴けばすぐにクイーンとわかる(クリフ・リチャード)」ところも他のロックバンドの多くが到達できていないクイーンならではの偉大さである。

フレディの独自の声と型にハマらない歌いまわし、ブライアンの色彩豊かなギター、ロジャーのアイディア豊富なドラムがそうした多彩な音楽性の源になっているのは間違いないけれど、ジョンのベース抜きには実現できない。

そのセンスがわかりやすいのは、高音域を上手く用いたメロディックなベースラインを自然に織り交ぜるところである。初期のライヴを聴くと、重ね録りのギターとコーラスに埋もれがちなスタジオ盤とは異なり、クッキリとベースラインが聴き取れる。"Liar"ではスポットライトを浴びるシーンもあるし、この時点で既に安定したベースを弾いていることがよくわかる。スタジオ盤でも3枚目あたりから柔軟性に富んだフレーズやベースラインが目立ちはじめる。"Misfire" や "Bring Back That Leroy Brown" のような軽快さは楽器を演っている人ならそのフィーリングを出すにはそれなりの腕とセンスが必要であることがわかるはず。"Sweet Lady" のイントロの空間の埋め方、"Long Away" のギターソロの後、ブライアンの歌の入りに合わせて弾いているフレーズの進め方を聴いてほしい。"The Millionaire Walts" のイントロなんて歌っているかのようではないか。単純なリズムの "All Dead, All Dead" では安定と落ち着きを与えながら実は曲をしっかりと主導している。"Don't Stop Me Now"の疾走感と高揚感は、歌メロだけではなくベースラインがあるからこそ(だからこの曲にはギターが必要ない)。もちろんここに挙げた曲以外も、見事なフレーズの宝庫。そして特筆すべきは、これだけ魅力的なベースラインを繰り出しておきながら出しゃばっている感がまったくないことである。スター・ベーシストは主張が強すぎて、実はバンドのカラー、音楽性を限定していしまう傾向があるけれど、ジョンのベースは真逆で、クイーンの音楽を拡げているのである。

これらは別に難しいこと、複雑なことをやっているわけではない。フレーズのコピーだけなら誰でもできるに違いない。でも、あの柔らかさと軽快さを実現できる人はきっとジョンしかいない。QUEEN+Paul Rodgers、QUEEN+Adam Lambertを聴いて、リズムに柔軟性がなく単調に聴こえてしまうのはジョンが不在であることが大きな理由であると思う。

ロック・グループは星の数ほどあれど、これほど素晴らしいベース・プレイヤーはそうはいない。

僕が洋楽にハマったのはクイーンとの出会いがあったから。当然のことながら、はじめに恋に落ちたアーティストが深みのある音楽性を持っているとは限らない。音楽の経験値が上がってくると、キャッチーなだけの音楽、耳に心地良いだけの音楽(それはそれでこの世に必要ではありますが)だけだと物足りなくなってくる。僕も洋楽にハマり始めたころにレコードを買って聴いていたアーティストや、若い頃に繰り返し聴いていたアルバムが、今聴くと魅力に乏しく、薄っぺらに聴こえてしまうものがあるし、音楽歴の長い人なら同様な経験をしている人は少なくないんじゃないかと思う。ジャズやクラシックを聴くようになった今でもクイーンの音楽は色褪せず、気分が高揚する。そんな素晴らしいクイーンの音楽にジョンは作曲者として貢献したのはもちろん、ベース・プレイヤーとしての貢献も計り知れないことをファンは忘れてはいけないと思う。

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