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趣味の人生を楽しむサラリーマンの日記

死刑制度を維持するべきと主張する人に問いたいこと

2016年の10月7日に日弁連が死刑制度廃止の廃止を目指す宣言を採択した。

僕は死刑制度反対派である。

きっかけは映画「ダンサー・イン・ザ・ダーク」。この映画は死刑制度をテーマにしたものではない(内包はしている)し、ストーリーも作為的な作り話ではあるんだけれど、「本来は死刑になるほどでない人が、さまざまな事情によって死刑にされてしまっているケースがあるんじゃないか」と考え始めるようになり、その後で観た「デッドマン・ウォーキング」でも同じ思いを抱いた。先進国で死刑制度を採用している国はアメリカ、日本の他は少数であることもそのときに知った。

更に、矢貫隆の著書「刑場に消ゆ―点訳死刑囚 二宮邦彦の罪と罰」の元になった雑誌NAVI連載時の記事を読む機会もあり、死刑を受けている人は本当に死刑に値する悪人ばかりなんだろうかという思いがより強くなっていった。

でも、それまでは重罪を犯した犯罪者に死刑を適用するのは当たり前だと思ってきた。誰に教えられたわけでもなく極悪人は死に値する、と勝手に思い込んでいたから。

若い時の僕は自分の考える正義と合わない行動をする人への当たりが強く、対立することもあった。そして、それがおかしいとも思っていなかった。今は、「自分こそが正しい」という考え方そのものが危険だと思っていて、他の人ってそういう考え方をするんだ、とだいぶ受け入れることがきるようになってきた。今の世の中、何が正しくで何が正しくないかを簡単に振り分けることができないくらい複雑になってしまっていて(例えば、イスラム国問題、移民の受け入れ問題とか)、自分こそが正義だと考えることほど危険なものはない。言い方を変えると、世の中には誰が見ても、どう考えても根っからの悪人という人はほとんどいないんじゃないかと思う。それでも愚かなことをするのが人間であって、悪いことをした人にはとにかく重い罰を与えれば良いという短絡的な考え方に僕は賛成しかねる。刑罰は一定の抑止力はあるけれど、あくまでも一定でしかない。事実、最も重い罰である死刑制度のある国の方が安全で秩序が保たれているという研究結果・データはなく、むしろ悪い影響が出ていると分析する人もいるくらいである。

やがて、死刑でも冤罪と思われるケースが決して稀ではないことを知るようになり、僕は死刑制度反対派に転じた。

そもそも、人が人を殺すことは最悪の行為と位置づけておきながら、人が人を殺す制度を容認することは100%矛盾している。これが矛盾してないと感じる人は、自分の正義感は100%正しいと言っているようなもので、そこまで自分を過信している人がいたらむしろ信用できない人間だと僕なら思う。

死刑制度賛成者の意見は産経新聞のWebに書いてあった「これら(死刑制度反対の主張)に徹底的に欠落しているのは、死刑という究極の判断を導くもととなる、犯罪の冷酷さや深刻さ、被害者の苦しみ、社会に与えた損害と影響だ。」が代表的なものだと思う。特に賛成派が主張するのが被害者の感情、人権が重んじられるべきという考え方が根強い。

ちなみに僕は、嫌なことをされたとしてもその人を憎んだり恨んだりしない。若いときはそうではなく、例えば部下を裏切って自分の身を守る上司を見て「この野郎、いつか見てろよ」なんて思ったりした。でも今はもうそういう考え方をしない。憎んだり恨んだりという感情は何の役にも立たないことがわかったから。だから、例えかけがえのない妻や肉親を殺されたとしてもその犯人を死刑にしてほしいなどとは思わない。いざ、その立場になったとしてもそう言えるという保証はどこにもないけれど、少なくとも僕はもう10年以上人を憎んだり恨んだりしていない(コイツ最低だなと思うことはある)し、そういう感情を抱いたとしても仕返しをしたいとも思わない。嫌いな人間が酷い目に遭ったとしても「ざまあみろ」とも思わない。そんな負の感情は僕の人生には何の役にも立たないし、もちろん世の中の役にも立たない。まあ、本当に酷い人に対して「ろくな死に方しないだろう」くらいは思うけれど。

とはいえ、人はそれぞれ。仕返しすることで溜飲が下がったり、精神の安らぎを得られると考えている人がいるのはわからなくはない(半沢直樹があんなにウケたのは「やり返したい」人が多いからなんでしょう)。普段特にそういうことについて考えたことがない人ほど「やられたらやりかえす」思考に疑問を持たないものだから、漠然とそれが当たり前だと思っている人は少なくない。そういう人に以下2点について考えて欲しいと思う。

まず、死刑にしたことで本当に自分は幸せになれるだろうか、ということをもう一度考え直して欲しい。殴られたら殴り返す、という行為を何のためにするのか。それは「気が済むから」。「気が済むから」という理由で人間が行動することが正当化されたら世の中の秩序は崩壊することは少し想像力があれば誰でもわかるでしょう。単純化して言うなら、アイツに腹が立つ、と思ったら殴っても良いし、アイツはムカつくと相手に思われたら殴られても良いということになる。「気が済むから」という感情を正当化する人は、そういう世の中で良いと言っているのと同じことだ(戦争の根底にある動機も嫌なや奴はぶちのめし、やられたらやり返さないと「気が済まない」という感情に他ならない)。ネルソン・マンデラやキング牧師が、どんなに同胞が理不尽で酷い目に遭ったとしても、やり返すことでは何の解決にもならないと仲間を説き伏せて問題を解決し、その揺るがない決意が歴史を動かしたことを忘れてはならない。

もうひとつ、冤罪をゼロにすることは不可能であること、無罪の人が死刑になる可能性をゼロにすることができないことについても考えてみてほしい。DNA鑑定の精度が上がったことでアメリカでは死刑囚が無罪になったケースが100件を超えていると報じられている。誤審が多いのは陪審員制度のせいと言うなかれ。日本でも80年代に再審で死刑囚が無罪になったケースが4件あった。2014年の袴田事件再審で無罪になったこともまだ記憶に新しい。長期の身柄拘束と自白偏重の取り調べが慣習的に続いており、証拠の全面開示もない日本の裁判は欠陥だらけという指摘も多い。裁判は人間が行う。人間がやる以上、過ちは必ず起きる。無罪の人を殺すことを排除できないにもかかわらず死刑制度を維持するべきだろうか。

僕が死刑制度に反対する一番の理由は冤罪をゼロにできないからだ。英国では80%以上の人が死刑制度を支持していたが廃止された。運転手のエバンスさんが妻と娘を殺したとされたが、死刑執行後に真犯人はアパートの階下の住人だったことが判明したことで世論に関係なく国が制度を廃止する決断をした(エバンス事件)。

死刑賛成派の人がよく口にするセリフにこういうものがある。

「もし、あなたの家族が殺されても、あなたは死刑を望まないんですか? 死刑制度はなくすべきなんですか?」。

ちなみに、これは98年の大統領選テレビ討論会でブッシュ共和党代表が死刑制度反対のデュカキス民主党代表にした質問と同じ内容で、「私が制度反対なのは知っているだろう」と冷静に答えたことが人間らしい感情に乏しいのではないかと思われて評価を落としたと言われている。それほどまでに死刑を望むことは、考えるまでもなく当然の思考だと思われている。

その質問に答える前に賛成派の人にお尋ねしたい。

「もし、あなたやあなたの家族が、無実であるにもかかわらず死刑を受けたとして、それを受け入れることができますか?制度を維持するべきですか?」

この質問に答えている賛成派の人を僕は見たことがない。なぜか。自分や自分の家族が冤罪になるかもしれない、と思っていないからだ。普段からまともな行動を取っていれば、そもそも疑われることなどなく、自分には関係ないとでも思っているんだろうか。しかし、実際には一度死刑を言い渡された人が再審によって無罪になっている。再審にならずそのまま無罪で死刑になった人がいないとどうして言えるのだろう?それを自分のこととして考えない理由は、死刑制度があるべきという自分の考えに都合が悪いからだ。人間、自分にとって都合の悪いものは見ないようにする特性があり、その典型的な行動と言えるだろう。

ちなみに、自分でやったと認めた人に限って死刑を適用すれば良いのではないか、と主張される方もいらっしゃると思うが、新聞やニュースを普段から見ている人ならご存知の通り、警察に脅されて、やっていないのにやりましたと自白しているケースが多々発生しており、自白を判決の根拠にすることじたいが問題視されている。また証拠十分で犯人がはじめから認めているという限りなく100%に近い「クロ」であるケースもあるが、どうなったら証拠十分かという線引きがそもそも難しい。また、非常に稀なケースとはいえ、死刑にしてもらいたくて無差別殺人をしたというケースもあった。すべてを公正に、確実に判定することは不可能だし、仮にできたとしても世の中から凶悪犯罪がなくなるわけではない。

もちろん、誰もが納得するルールや制度はない。しかし、無実の人が殺される非人道的な制度が残ることに正当な理由が僕には思い浮かばない。

[追記]
死刑制度賛成派の人の主張に

「冤罪は死刑に限ったことではない。冤罪の可能性があるから制度を失くすべきだと言い出したら、犯罪を裁く制度じたいの存在価値が揺らぐ。無期懲役であっても冤罪であればその人の人生を奪ったことに変わりはない」

という開き直りとも取れる意見が根強いことを、この記事を書いたあとに知った。ここに死刑制度賛成派に決定的に欠落したものを見たような気がする。自分の主張を正当化するために、ここまで捻じ曲げて物事を考える人がいるのかと呆れてしまう。結局、賛成派は無自覚で人の命を軽く見ているし、他人事だと思っている。死刑制度に反対している人は、100%正しい行いをできるわけでもない人間が、他人の命を誤って奪うことに対して言っているわけで刑罰の是非、犯罪者を投獄することについて言ってるわけではない。確かに、死刑でなかったとしても無罪の人が何十年も刑務所に閉じ込められていたとしたらそれはそれで大いなる過失、取り返しのつかないことではある。でも、無罪の人であれば罪が晴れる可能性はゼロではない。無罪とわかったときに既に死刑を執行した後なのかまだ生きていたのか、賛成派の人の上記主張はそこに違いがないと言っているのと同じことだ。

メッセージ・ソングを聴かない理由


ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞した。ところが僕はディランをほとんど聴いたことがない。

67年生まれでありながら、67年当時くらいからの古いロックを高校生のときから聴いてきた僕にとって、自分の世代よりも古い音楽だからというのは聴かない理由にはならない。でも、ボブ・ディランはこれまでに一度も自分の意思で聴いたことがない。曲も、ジミ・ヘンドリックスが演奏していたという理由だけで"Like A Rolling Stone"、クイーンのロジャー・テイラーがソロ・アルバムで取り上げていたという理由で"Masters Of War"を知っていただけという体たらく。

今回の受賞で、改めてディランの功績が語られた。恋愛や日常を取り上げる単なる娯楽だった大衆音楽に、社会メッセージを持ち込んで詩的に表現した、というのがおおまかなその功績ということになっている。確かにディランがデビューした当時はベトナム戦争などの社会問題があり、能天気でいていいものかという風潮の時代だったとされている。そこにディランのメッセージが刺さったというのはわからなくはない。でも、その時代にその場所にいなかった僕には実感が持てない。正直なところ、よく言われているヒッピー・フラワー・ムーブメントとかは絵空事のように思えてあまり身近に感じることができない。ただ、自由に意見を主張する世の中だったんだなあ、と思うくらいだ。

それはともかく、僕がディランを聴かない理由は明らかで、彼の歌がメッセージ・ソング(プロテスト・ソング)だから。メッセージ・ソングにはシリアスな主張が込められていて、(特に若い人を中心に)大衆の苛立ちや怒りを代弁しているもが多い(いや、ほとんどすべてがそうかもしれない)。そういう曲を聴いて、気持ちが奮い立ったりすることを否定するつもりは毛頭ない。でも僕の場合、音楽を聴くということは簡便的ながら日常から逃避できる行為であり、音楽そのものが素晴らしいと感じていたい。だから別に社会問題なんて聴きたくないし、そんなことよりも日常や人間が普段抱く思いを取り上げた歌でいい。ただでさえ人生は辛いことが多いのに、音を聴いて現実社会の辛さを噛み締めたいとは思わない。僕にとって、クラシックやジャズを含めて音楽は娯楽に過ぎない(芸術でもない)もの。メロディ、ハーモニー、リズムで感情を揺さぶって欲しい。自覚していたわけではないけれど、僕は子供のときから音楽とはそういうものだと思って接してきた。だから、最も好きな音楽がクイーンになったのは必然だったように思う。彼らは、歌詞の片隅にメッセージを潜ませることはあってもメッセージ・ソングは歌わない。大衆的であっても歌詞は含蓄が有って稚拙だとも思わない。

もっとも、ディランが売れ始めたときには、恋愛などの日常を歌う娯楽音楽を低俗とみなして見下す風潮が強くあったそうで、そういう時代の空気にもディランのメッセージ・ソングは上手く乗ったんだろうと思う。

メッセージ・ソングと言うと歌詞ばかりが注目されることが多い。それこそが音楽好きである僕にとって大きな問題であるところ。なぜなら、メッセージ・ソングは音楽が貧弱だから。考えてみれば当然のこと。例えば、ここで盛り上がるメロディを、美しいハーモニーを、面白い転調を、気の利いたリズム・チェンジを、といった音楽的な行為、あるいは遊び心はシリアスなメッセージにそぐわない。そんな遊びを採り入れたりしたらメッセージの信憑性まで疑われかねない。だからどうしても音楽が単純で貧弱になってしまう。「Wish You Were Here」までのピンク・フロイドは私的かつ詩的な歌詞と幻想的な音楽が魅力的だったのに、全面的に社会批判を展開して一変した「Animals」からは音楽も一変してシンプルで面白みのないものに変わってしまった。実際、メッセージ・ソングが音楽的に影響を与え、評価されている例はないと思う。ちなみに、クイーンはメッセージ・ソングを歌わないと先に書いたけれど唯一"Is This The World We Created ?"という例外があり、やはりというかなんというかアコギ1本だけの曲である(娯楽に徹してメッセージ・ソングなんて歌わないからクイーンは素晴らしいという僕の意見を汚す唯一好きでない曲)。

あと先にも書いた通り、メッセージ・ソングというのはほとんどの場合、体制や権力や金持ちを批判し、力を持っていない若者や労働階級の気持ちを代弁している。しかし、一度人気が出て売れてしまうと、広くレコード売ったり、大規模なツアーをしたりするのに、力を持った大きな組織(レコード会社)に属してその枠で行動しなくてはならなくなる。そしてもちろん大金も手にする。批判していた権力の一部に属して、金持ちになった人がメッセージ・ソングを歌うことに説得力はあるんだろうか。ブルース・スプリングスティーンは「Born In The U.S.A.」が大ヒットしたあと、モデルと結婚して豪邸に住むようになると、熱心なファンの中にはメッセージが弱くなったと主張する人も現れた。長く時間が経って今ではそういう批判をする人はいないけれど、ブルース・スプリングスティーンは今や労働階級の味方をして人気を高めていったころのブルース・スプリングスティーンを演じているように僕には見えてしまう。もちろん、売れた超有名バンド、ミュージシャンは、歳を重ねると全盛期のキャラクターを演じ続けなくてはならないもので、しかし、メッセージ・ソングを売りにしている人だと存在そのもののリアリティが薄れ、ときに滑稽に見えてしまうことすらある。

いずれにしても、僕にとってメッセージ・ソングは聴きたいものではない。嫌っているわけではないんだけれど。

日本の音楽を聴かない理由

日本人は総じて音楽を愛していない国民だと思っている、ということをこれまでに何度か書いてきた。

そう思うようになったのは何も最近というわけではない。洋楽しか聴かなくなってからジワジワそういう思いが強くなり、30年以上経った今ではもう確信になってしまっている。

ポピュラー音楽について言うと、テレビやラジオで流れる曲の多くは一般的に言うJ-POPというジャンルに括られたもので、その実態は簡単に言うと洋楽風味付けの歌謡曲である。アレンジや演奏は洋楽の手法を用いながらも、実態は古来から伝わる日本の歌そのもの。だから何を聴いても演歌テイスト(醤油味)になる。そのような味になっているのは、古来から日本人が馴染んでいる音階やメロディとリズムが使われていること、歌詞が日本語だからという理由でほぼ言い尽くせる。

音楽を理解している人には当たり前のことで、音楽がそれほど好きでない人にとってまるで理解されていないことのひとつが「音楽にとってリズムは極めて重要である」ということ。リズムは音楽の世界の中で、楽器がなくても作る(手拍子、物を叩くなど)ことができる原始性、つまり思考よりも肉体から湧き出る要素が大きいという特性がある。そのリズムは民族性から生まれる。より掘り下げて言うと生活から生まれる。例えばヨーロッパには三拍子の曲が日常的にある(シャンソンはその多くが三拍子だしバレエ曲にも多い)けれど、その理由は大昔から狩りに行くときなど馬に乗って生活しており、馬の走るリズムが三拍子であるからと言われている。日本では、馬は多くの場合は農耕用として使われていたために馬の歩くリズムは生活のリズムにはならず、日本人にとって古来より生活に密着したリズムは、農作業に合う、祭りや民謡、宴会の手拍子などで聴かれるあのリズムが根付いた。リズム感は、自分が生まれ育ってきたところで体に刷り込まれたものであり、研究や教育で身に付くものではない。

そこに言葉の影響が加わる。日本語はひとつの音符にひとつの音しか乗せられないけれど、例えば英語では3つの音符で "I Love You" と乗せることができる。言葉を音に乗せるという過程だけを取っても英語や欧州の言葉と日本語は同じリズム感にはなり得ない。

体内に宿っているリズム感の根本レベルからの違いと言語の特性の違いにより、J-POPはどんな歌も演歌テイストで仕上がる。楽器が西洋楽器で、洋楽風の演奏をしたとしても、ひとたび歌が始まれば醤油味=歌謡曲になる。そして、多くの日本人は自分たちの体内にあるリズム感と同じであるため、安心して受け入れることができるし、逆になんとなく洋楽に違和感があって馴染めないという人は根底にあるリズム感の違いに馴染めていないからだと考えられる。

そんな僕は、クラシック、ジャズ、ロック、ファンク、ソウルなど、まさに「洋楽」をこよなく愛している。西洋音楽を愛好している一番大きな理由は洋楽には独特のリズムのウネリがあり、しかも多様で複雑だから。この洋楽のリズム感が体に馴染んでしまうと日本人が演っている洋楽風歌謡曲のリズムは、いかにも軽薄で単純に聴こえてくる。若いころ(80年代後半)、70年代の英国ロックに熱中していたときに流行っていた日本のロック(と呼ばれていた歌謡曲)を聴いて強く違和感を覚えたところは、リズムが単調かつ軽薄でグルーヴがないことだった。日本人として生まれ、日本で育ち、日本で教育を受けた日本人が西洋音楽を自分のモノとして体得し、表現することは不可能と言って良いくらい両者の差は大きい。古来からの日本の音楽(民謡とか雅楽とか)にはそもそもグルーヴという概念がなく、日本人にグルーヴを求めることじたいにそもそも無理がある。先に挙げた僕が聴くそれぞれのジャンルにおいて「日本の◯◯」、例えば「日本のロック」という呼び方があるけれど、そんなものはこの世に存在していない。それらは「日本人が演る◯◯のようなもの」でしかない。

醤油味(日本特有のメロディとリズム)じたいがダメということではもちろんない。醤油味の洋食(J-POP)だって美味しいものができるんじゃないのか、という意見は、まったくもってその通りだと思う。現地で食されている純粋な洋食(洋楽)だけが素晴らしいと言うつもりもまったくない。実際、食べ物の話で言うと日本で洋食と呼ばれているものは昭和の時代に欧米の料理を模したところから始まって日本でオリジナリティを加えた別物に進化していて、しっかりした洋食屋さんで食べる日本の洋食は欧米人に食べさせて自慢したいと思うくらい美味しい。それは、料理人たちが、より美味しい料理を作ろうと研究・改良してきたからでしょう。では、音楽についてはどうか。日本人は洋楽の手法を採り入れて、日本独自の音楽を本気で作ろうとしている(してきた)んだろうか。

例えば60年代の英国はアメリカからサニー・ボーイ・ウィリアムソンやマディ・ウォーターズなどを招いて本物の黒人ブルースに触れた。ロックン・ロールやブルースといった黒人音楽のレコードもアメリカから輸入され、若者が熱中した。そこから、ビートルズ(米国からの輸入品が入りやすい港町リヴァプールから世界一有名バンドが輩出されたのは単なる偶然ではない)やストーンズ、アニマルズ、キンクス、ヤードバーズなどの黒人音楽をベースにしたグループが人気となり、マージービートというムーブメントが起きた。チャス・チャンドラーがロンドンにジミ・ヘンドリックスを呼ぶと、より演奏に重きを置くブルース・ロックに進化し、クリームやレッド・ツェッペリンなどが生まれた。この時代の英国ロックでブルースのフィーリングを持たないグループは皆無と言って良いくらいの影響を与えた一方、英国白人が作ったブルースはアメリカの黒人ブルースと比べると、泥臭さを抑え、より叙情的で激しく、複雑で表現の幅が広い、独自のものとなった。この時代の英国ロックは今でも広く聴かれているし、その流れを汲むミュージシャンが今でも存在している。英国の若者は外から音楽を採り入れ、独自に発展させて自分たちのロックを作り上げたというわけである。

一方の日本はどうか。ビートルズの世界的な人気に乗じて、日本には1967年ころにグループサウンズと呼ばれるブームがあった。外国から新しい音楽を採り入れて流行させたこのブームはその後どうなったんだろうか?今、聴かれているだろうか?その音楽を受け継いでいるミュージシャンはいるだろうか?当時のメンバーは今どんな音楽活動をしているだろうか?これらの問いかけにポジティヴな回答はひとつも出てこない。ブームはブームでしかなく、そこで名前が売れた人は俳優やコメディアンになって行き、音楽をそのまま続けて成果を残した人がほとんどいないというのは何を意味しているのか、あえて言わなくてもわかるでしょう。確かに、英国の若者が黒人ブルースを採り入れるための障壁よりも、日本人が西洋のロックを採り入れる障壁の方が遥かに大きかったというハンデはあったかもしれない。でも、英国にブルースロックが定着した根底にあるのは演奏する側も聴く側も音楽への情熱と意欲と愛情があったからだと思う(本来、R&B発祥の地でもない英国からホット・チョコレートやアヴェレイジ・ホワイト・バンドが生まれたのもまた然り)。

洋楽にだって手抜きしているなあ、中身がないなあと思えるものはあるし、僕は何も醤油味だからJ-POPが劣っていると思っているわけではない。それぞれ特徴が違うからどちらが好きかというのは好みの問題で良いと思うし、歌謡曲には歌謡曲の存在意義があると思っている。たまたま僕は洋楽ならではしっかりと地に足の着いた、それでいて複雑味のあるリズムが好きだというだけのこと。ただ、総合的に見て、音楽を深く理解している、音楽が体に染み付いていると思うのは洋楽アーティストの方が圧倒的に多い。J-POPにもそういう人がいないわけではないけれど、情熱も愛情もなく、国土が狭いのに市場は大きい日本の音楽ビジネスにただ何も考えずに乗っかっているだけの人がとても多いように見える。

歌番組に偶然チャンネルを合わせたときに耳にする音楽は、もはや音楽と呼べないくらい次元が低いものが多い。歌はまず基本となる発声ができていなくて音程は本来のメロディがわからないほど外れているし、バックの演奏は特別上手くもないのにお仕事であることが見え見えで単にこなしているだけ。もちろん例外がないとは言わないけれど、「これがお金を貰って聴かせる歌・演奏なのか」という感想しか出てこないほど基礎が足りていない。例えば、転ばずになんとかへっぴり腰になってスケートができる人が、形だけ音楽に合わせて飛んだり回ったりの演技をしていたとして、それを見たいという人はいるだろうか?日本の音楽の9割以上はただのスケーティング(基礎技術)もできないのにフィギュアスケーター(歌手)と名乗っている人たちばかりにしか見えない。表現することが音楽なのに、表現するための最低限の技術が身に付いていない。洋楽は、売れ線音楽のスタイルが決まっていて、型にはめた音楽が多い(久保田利伸や松田聖子の米盤アルバムが別人のような仕上がりになっていたの米国レコード会社がその型にハメたから)という面はあるけれど、歌や演奏で「これは酷い」というものはさすがに電波に乗ったりはしないし、CDのプロモーションもされない。最近話題の若手として紹介された記事を偶然みかけたエル・キングやルーカス・グラハム(デンマークのグループなんだとか)を試しにApple Musicで聴いてみたら、好みに合っているかどうかはともかく、音楽として地に足がついているし、表現がしっかりしているし、遊び心もある。それはたぶん、音楽の作り手、送り手に、「曲も歌も演奏もお金を貰えるレベルは最低限クリアしていて当たり前」という自負が(あえて言うまでもなく)あるからだと思う。マンハッタンの地下鉄の駅のあちこちで見かけるパフォーマンスでは、日本でミュージシャンを自称してテレビに出ている人たちより遥かにレベルの高い演奏や歌が当たり前のように聴ける。もう根本的なところからレベルが違いすぎている。譜面も読めず、楽器も弾けない僕が見て(聴いて)基礎がまったくできていないと分かるほど低レベルの日本の音楽なんてとてもじゃないけれど聴く気がしない。

余談ながら、演歌が日本伝統の音楽であるかのようなイメージを持っている人もいるだろうけれど、実は演歌というジャンルが一般に定着したのは1970年代と比較的新しいもであることを知っている人は意外と少ない。戦後の日本の歌謡曲は、日本古来の民謡などを基礎にした大衆歌だった。美空ひばりや石原裕次郎などの時代になるとハイカラを指向するように、具体的に言うと西洋音楽のテイストを取り入れるようになりはじめた。歌の伴奏はストリングスに管楽器にベースにドラムにと西洋化、1970年代後半になると歌にハーモニーを採り入れはじめ(音程の異なるメロディラインを同時進行してハモらせるという手法は日本の伝統音楽には存在しない)、キャンディーズやピンクレディでさえハーモニーを聴かせるほど歌謡曲の西洋化が進んだ。たとえ表面的であったとしても音楽を豊かにしようという作り手側の志がそのようなトレンドを作っていたんだと思う。しかし一方では、ハイカラにはまったく興味がなく洋楽テイストなんて要らない、日本古来の音楽がいいという層も当然存在し、そういう聴衆向けに日本古来の音楽をデフォルメして作り上げたものが演歌である。つまり演歌は、伝統を受け継いで残ってきたものではなく、確信的に進歩から背を向けて作り上げられた音楽であり、淡谷のり子が「演歌は嫌い」と言っていたのもそういう成り立ちの音楽であったことと無縁ではない。

ちなみに現代のアイドルによる歌謡曲には、ハーモニーもコーラスもなく、どんなに大人数のグループであってもユニゾンでしか歌わない。そうなってしまったのは、良い歌を作ろう、聴かせようという志などなく、そうかといって日本のスタイルはこれだ!と確信を持っているわけでもなく、歌などどうでもよくなってしまったからではないだろうか。昔のアイドル歌謡曲は、たとえば近藤真彦の"情熱熱風せれなーで"でポピュラー音楽には馴染みの薄い16ビートを採用するなど、作り手に工夫とチャレンジがあった。今のアイドル歌謡曲は、もうなんかテキトーでいいや、どうせ歌なんて誰も真面目に聴いていないんだからという開き直りが目に余る。洋楽のマネをしなくなったということは洋楽に媚びずに日本のポップスとしてようやく独り立ちしたということじゃないか、という捉え方は確かにあるかもしれない。しかし、音楽のクオリティを上げようという熱意からそうなったというよりは、この程度でいいんじゃないかという手抜きの結果であるように見える。そんなものがそれなりに売れているのだから、聴き手はそれで満足しているんでしょう。この程度の聴き手にはこの程度の音楽でいい、と舐められていることに甘んじている、いや舐められていることにすら気づいていない日本人リスナーたち。下手でも歌手として売り出しているアイドル系事務所は、日本の音楽レベルを下げているA級戦犯で音楽ファンから言わせてもらうなら早く消滅してほしいと思っている。もし、本当に歌と音楽を大事にしているのならしっかり歌えるアイドルを送り出して、「歌って素晴らしいでしょう?」と聴き手を啓蒙して育てる志があるはずだけれど、アイドルを売り出す事務所にはもちろんそんな音楽を大切にしようなんて思想は微塵もなく、音楽は単なる金儲けの道具にすぎない。

このような状況に殆どの日本人が何の疑問も感じていないから「日本人は音楽のことなど愛していない」と僕は常々言っているわけです。演奏する人、音楽を作る人に良いものを作ろうという向上心がなく、何の工夫もない歌謡曲をただ生産し続け、聴き手はそれで満足してしまっている。どちら側にも音楽に愛がない。そんな日本の音楽なんて、聴く気がしなくなって当たり前でしょう?

【補足】日本のクラシックとジャズについて
主に演奏を評価されるクラシックとジャズについては、日本で活動している人でも酷いレベルだとは思っていない。むしろ律儀でしっかりとした演奏を聴かせる人もいる。でもやはり、それら音楽の本拠地で育った人でないとエッセンスを体得するのは難しく、日本のオーケストラもジャズ・プレイヤーも、上手さ、正確さとは別に必要とされる音楽の表現力が明らかに欠けていて、その結果線が細くてのっぺりと平板なサウンド(特にオーケストラ)になってしまっている。そして、欧米のオーケストラやミュージシャンに負けないように、日本独自の表現を、などと気概を持っている演奏者もほとんどいないように見える。ジャズ系ミュージシャンは少しでもアメリカでの演奏経験があれば日本では持ち上げてもらえるし、(特に外見が良い人は)それなりに食っていけるからそれで満足してしまっている。どちらも、聴き手がその程度のモノで満足してしまっているから、より良い音楽を目指そうという向上心を持たなくてもやっていける。いやいや、日本のオケやジャズもレベルが高いという寝言をいう人はよもやいないでしょう。もしそうなら、世界中から招聘され、世界中の音楽家が自主的に日本を目指してやってくるはずで、しかしもちろんそんな例は聞いたことがない(日本のオケが欧州ツアーをするときの旅行費は自腹。演奏して欲しいと呼ばれているのではなく演奏させてくださいと頭を下げてツアーをやっている)。ジャズやクラシックで世界レベルで活躍するには、幼少時代から現地で育って体で覚えることが最低条件、後天的に身に付けるなら現地に住み続ける以外に方法はないでしょう。両方とも日本の音楽じゃないんですから。

Joshua Redman & Brad Mehldau 2016年日本公演

Redman Mehldau201610

2016年10月14日 コットン・クラブにて、2ndセットを。

ロックやジャズの面白さとは、3~6人くらいのバンド構成でそれぞれのメンバーが自己主張し、うまくぶつかり合ったり融合したりする点にあると思っている。これより人数が多いとアンサンブル重視になって自由度が低くなるし、少ないと(即ち2名だと)絡みが1対1になって自由度が別の意味で制約を受ける。だから僕はデュオというのはあまり好きではない。更に言うと、ロックにもジャズにも強靭なビート感を求めるのでドラムがない編成はあまり興味が沸かない。ただ、昔マンハッタンのイリジウムで観たショウはピアノ、ベース、テナー・サックスという編成で、これはこれで楽しめた覚えがある。たぶんベースがあったおかげなんでしょう。でもベースもないデュオ編成は、普段なら考えることもなく左から右にスルーしてしまう。

僕のジャズ趣向は50年代~60年代にほぼ限定されていて、つまりもう終わってしまった音楽を好んで聴いている。最近のジャズは、皆演奏は上手いとは思うものの、少々頭でっかちでフィジカルな野性味がなく、スリルも熱気も感じられない。ある意味完成しきってしまっている昔のジャズを再現しているだけでは評価されないから、それを避けるようなジャズを考え、演奏だけが磨かれてしまった結果のように思う。だから僕は現役のジャズ・ミュージシャンで、新譜が出るたびに追いかけるような人はいない。ただ2人の例外を除いては。

苦手とするデュオであっても、その「2人の例外」の組み合わせ、しかもジャズ・クラブで観れるとなれば話はちょっと違ってくる。最近はクラシックのヴァイオリン・ソナタも聴くようになったからビートのないデュオも慣れてきたし、ジャズ・クラブなら構えて観なくても目の前で好きなミュージシャンが気ままに演奏している姿を観ているだけで楽しめるんじゃないか、と思って予約をした。

直近で、まさにこの2人のステージがアルバム化されたばかりなのでどんな内容なのかは予想がついている。それを間近で見れる(CDの拍手を聴いている限り欧州ツアーはホール中心だった模様)ことが今回のライヴのメリット。そして、その期待通りのライヴだった。やはり生で聴くと音の輝きが違う。メルドーのピアノをたっぷり味わえたのはもちろん、ジョシュアのサックスをここまで純粋にじっくりと集中して聴いたことはこれまでになく、その素晴らしい音色と表現力に唸ってしまった。演奏もCDに収められたものより自由奔放で、生で聴くことでより楽しめる演奏だったように思う。

美味しい食事とお酒をいただきながら、即興性十分に音を紡ぐ2人を目の前で聴くという贅沢。特にメルドーは人気の高いピアノ・トリオのときにはホールでしか見れないからとても貴重な機会でもあった。デュオの楽しみ方がわかるようになったとは言わないけれど、少なくともこの2人のデュオの楽しみ方はわかるようになったと思う。今日もイイもの見せてもらいました。音楽って本当に素晴らしい。

メータ指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 2016年日本公演

メータVPO201610

2016年10月12日
サントリーホール
指揮:ズービン・メータ
演奏:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ソプラノ:吉田珠代
メゾ・ソプラノ:藤村実穂子
テノール:福井 敬
バス:フランツ=ヨーゼフ・ゼーリッヒ
合唱:サントリーホール30周年記念合唱団
(演目)
・モーツァルト:交響曲第36番「リンツ」
・ベートーヴェン:交響曲第9番「合唱付き」

クラシックのコンサート通いをはじめて早3年半。耳もだいぶ肥えてきたことだし、聴きどころもだいぶわかってきたような気がする。

それ以前、「芸術がわかる選ばれた自分」臭を発散させる愛好家の尊大な態度が鼻についてむしろ避けていたクラシック嫌悪者だった僕でも、ベートーヴェンの第九(の第4楽章)はもちろん知っていた。父がクラシック好きだったから、誰の演奏だったかは覚えていないけれどレコードも家にあった。

第九は、リッチー・ブラックモア率いるレインボーが採り上げ、武道館では "Difficult To Cure" を新日本フィルをバックに演奏したこともあり、そこでは第4楽章の合唱に入る手前の部分が原曲通りオーケストラによって演奏されていたので馴染みはある(最近見直したらオケが下手でびっくりしたけど)。ホテルオークラの第九コンサート初回(87年)に父が仕事で関わっていたこともあって、第4楽章だけは通して何度か聴いたことがある。フィナーレに向けての高揚感に圧倒され、このとき初めて僕はベートーヴェンって凄いなと思うようになった。

クラシックを真面目に聴くようになると、当たり前かもしれないけれど改めて第九は素晴らしいと思うようになった。有名な第4楽章だけでなく、それまで聴いていなかった第1楽章、第2楽章、第3楽章のいずれも完成度が高く、後の作曲家に大きな影響を与えたと言われることも当然の作品だと今は思っている。名曲故に、そして第九のコンサートを年末に行うという妙な習慣がある故に、ここ日本では演奏機会は多く、ソリストと合唱団を必要とするにもかかわらず生演奏を聴くことはそれほど難しくない。でも、僕はこう思っていた。「生演奏で聴くのなら第九は一流中の一流のオケで聴きたい」。そんな願いが叶う機会がついにやってきた。

ウィーン・フィルは、昨年の6月に楽友協会で観たのがこれまでのところ唯一の機会。あのホール独特の響きとは異なるサントリーホールでどう聴こえるかというのも楽しみ要素として、いざ会場へ。

まずはモーツァルトの「リンツ」から。実はモーツァルトの交響曲を生演奏で聴くのは初めてのこと。しかもウィーン・フィルだから悪いはずがない。小編成の古典派交響曲(クラリネットもフルートもいない木管編成なんて初めて聴いた)であっても典雅に歌うオケが素晴らしい。まさに芳醇にして美音。これだけでも特別な体験だったと思う。楽友協会で観たときとは席も違うし会場の響きも違っていたにもかかわらず、確固としたウィーン・フィルのサウンドがそこにはあった。ベルリン・フィルの精緻なアンサンブルとは向いている方向が明らかに違っていて、ある種の緩みがあるところがアイデンティティ。それはよく言われるところではあるけれど、肌身でそれを感じることができた。

第九は第1楽章冒頭から、典雅なモーツァルトとは一変する。「リンツ」の作曲は1783年、第九は1824年とその差は41年しかないにもかかわらず、今では「古典」と名付けられて年寄り向けのジャンルである保守的な音楽が、作曲者が生きていた時代には変化・進化し続けていたことに思いが及ぶ。「リンツ」に引き続き、豊かな美音に身を委ね続ける。それだけで素晴らしい体験。そして第4楽章は更に異次元に入る。人間が作った音楽というのはこんなに凄いものなんだと思わせる曲は、個人的にはこの第九を差し置いて他には思い浮かばない。メータはあまり大げさに曲にアクセントを付けないし、大風呂敷を広げたりもしないし、オケに厳格さを求めるわけでもない。でも、この名曲中の名曲をウィーン・フィルの音色で聴くにはそれでいい。最近のウィーン・フィルはかつてのような優雅な響きが減退し、時代に取り残されたオケだと言う人もいるけれど、まだまだ伝統の音色は引き継がれていて他のオケとは一線を画す独自の音色を持っている。サントリーホールで聴いてもその音色は優雅で古臭いとも時代遅れだとも感じなかった。すべてが素晴らしかったけれど強いて言うなら(「リンツ」も含め)緩徐楽章における美しさは特に聴きどころだったと思う。

待ち焦がれた初めて聴く第九は、高かった期待値を上回る素晴らしい体験となった。もう第九は当分生で聴かなくてもいいかもしれない、と思わせてくれるコンサートで、シアワセな気分で家路についたのでした。できることなら、大好きでありながら一度も納得行く演奏に出会ったことがないブラームスをこのオケで聴いてみたいものです。

Dyson V8 Animalproでお掃除が一変

ダイソン201609

我が家は妻がホームワーカー(自営業)ということもあり、家事はほとんどおまかせ状態。それでも、できるときにはやろうという気持ちはあるにはある。料理は力になれないので、やるのはもっぱら掃除や皿洗いという肉体労働系。自分の家である以上、綺麗にしておきたいという気持ちはあるから掃除はモチベーションを持ってできる家事のひとつだと思っている。

日常の掃除の中で、一番面倒なのはやはり部屋に掃除機をかけること。猫と暮らしていると無数の抜け毛と飛び散った猫砂の汚れは避けられず、2日も放っておくとフローリングが見た目にも汚くなってくる。それでも、やはり面倒という思いは拭い去れず「やっぱり、明日でいいや」となりがち。掃除機を物入れから出して引きずり回し、部屋を移動したら電源を差し替えるために行ったり来たりしなければならないことが面倒だと思っている人は決して少なくないはず。家具や猫のケージ、トイレなどを移動させ、また戻してとやっていると家全体に掃除機をかけるのに僕の場合は40分くらいかかっている。

この面倒さを解決するものと成り得るのがコードレス掃除機で、特にマキタの製品などは軽くてコストパフォーマンスも高いことからよく売れているらしい。実は拙宅にもツカモトエイムのAIM-SC11-CGというコードレス掃除機が既にあったりする。これは猫のトイレ周辺掃除目的でその脇に置いてあったハンディ掃除機が寿命を迎えたときにその代替として購入したもの。スティック型掃除機でありながらハンディ掃除機をビルトインするハイブリットタイプで、しかしそんな出自のせいか床の掃除に使うには重くて取り回しが良くない。ゴミ収集のカップも小さいし、ちょっと散らかったフローリングのゴミを吸う程度なら十分な吸引力もカーペットの部屋をしっかりと掃除をしたいときには明らかに力不足。やはりあくまでも基本はハンディ掃除機であり、見た目とは裏腹に床掃除はおまけ機能と言うべき製品のようで、まあでもコードレス掃除機ってそもそもそういう補助的なものだよな、と思っていた。

2ヶ月半前にエアコンを買いに家電店に行ったとき「ほら、これいいでしょ」と妻がダイソンのコードレス掃除機を手にとって楽しそうに冷やかしでデモに興じはじめた。売り場をよく見ると国内メーカー含め、いつの間にかコードレス掃除機の機種がずいぶん増えていて、しかも従来のキャニスター型の代替となることを想定した高機能を謳うものも何種類かある。実際にダイソンのコードレス掃除機を手にしてみると、思ったより軽く、取り回しがラク。ヘッドの吸い付き具合を見ていると吸引力も十分ありそう。うーむ、これで普段の掃除できるのなら労力が激減しそうな感じ。大げさに言うなら生活が変わる予感すらある。

で、表題の通りダイソンを購入してしまった。

拙宅にある掃除機は、6年前に購入したシャープ製POWERCYCLONE EC-AP11-Wというキャニスター型サイクロン式のもの。僕は、嗜好品の色合いが強いクルマやオーディオといった工業製品では、作り手の個性や主張を楽しむことを優先して外国メーカーのものを選ぶ場合が多い。しかし、家電は日本のメーカーに限ると思っている。日本の狭い住宅事情を考慮して設計され、使い勝手にきめ細かい気配りが利いていているとなれば、ここ日本における道具としてどちらが優れているかは火を見るより明らかでしょう。本当にそれが重要なのかという細かいところに神経を尖らせ、買い手の立場を利用して過剰な要求をする(そして言われたら無理難題であってもそれに応えようとする)日本人気質を忌み嫌っている僕でも、道具として使う家電における信頼性は、そういう気質の日本人だからこそ成し得た高い品質と使い勝手を備えていると思っていて、使う立場からするととても安心できる。

そのシャープの掃除機を購入した6年前でもダイソンはもう広く名の知れた存在で、しかし当時販売されていたキャニスター型掃除機を試したときには周囲が騒がしい店頭デモでもモーター音がうるさく感じた上に、そもそも国内メーカーの掃除機より機能が優れているようには思えなかった。それでいて圧倒的に値段が高い。サイクロン式掃除機はダイソンが特許を持っていて、それをうまくすり抜けながらしっかり作られているのがこの製品(当時はこれ以外に信用に足りるサイクロン式掃除機は別メーカーで1機種程度しかなかったと記憶している)なんですよ、と店員の説明を受け、ダイソンの1/3くらいの価格で購入したのがこのシャープの掃除機だった(紙パック式は取り換えが面倒だし臭いが気になるので選びたくない)。実際、吸引力、ヘッドの動き、ゴミの捨てやすさをはじめ機能で不満と思ったことは一度もなく、日本のメーカーが作った家電が優秀であることを更に僕に印象づけた製品だと今でも思っている(改めて見てみたら当時の価格.comの評価も非常に高い)。

今回、ダイソン購入を検討する前にはやりネット情報をチェックした。口コミ情報、ブログが数多くあって、それらを見るとやはり信頼性は日本のメーカーと同じようにはいかない印象を受ける。故障時に部品交換となった場合も、アセンブリ交換の傾向があり料金が高めらしい。まあ、外国メーカー製品の状況としては想定範囲内ではある。アフターサービスの方法としてはオーディオメーカーのBOSEも似た傾向で、世界各国でビジネスをしているメーカーとしてこのやり方がスタンダードであることは理解できる。

それにしてもダイソンのネット情報は多い。それだけ売れていて注目度が高いことの現れなんでしょう。前述の通り、外国製品特有の品質感への指摘が少なくないのは事実なんだろうと思う。ただし、実際以上に悪い印象を恣意的に与える、あるいは故障にあたった腹いせに感情的になって書き込んでいるものも数多く見受けられる。気持ちはわからないでもない。ブランドイメージに憧れて高いお金を払った製品でトラブルが起き、故障時の対応も日本基準に至らないとなると不満をぶちまけたくなるのかもしれない。ま、匿名となれば知性と人格を疑われることを言っても構いやしないと厚顔無恥になれる日本人の特質も、そういった情報が目立つことになっている理由のような気がしますが(普段、慎ましく礼儀正しい日本人が匿名のネット上になるとモラルがない人種へ豹変することには中国人ですら驚くらしい)。

現在のシャープ製掃除機に問題があるわけでも不満があるわけでもなく、ダイソンのブランドに強く憧れていたわけでもない(同社のキャニスター型掃除機も扇風機もドライヤーも興味がない)のに、国内メーカーよりも信頼性に不安があるダイソン製品をなぜ購入してしまったのか。先に書いた通り、これまでのキャニスター型掃除機に匹敵する吸引力があるという前提で、コードレス掃除機なら部屋掃除がかなり楽になりそうというのがまずは一番の理由。そして、キャニスター型に取って代わることを目指した高性能機種は少なく、国内メーカー製品でもそれなりにイイお値段で割高感が強いダイソンとそう大きくは変わらない。信頼性は不安だけれど、V8はV6の改良版とも言えるから大きな問題はないだろうと勝手に推測。国内メーカーでは日立の自走式ヘッドも使い勝手が良さそうだったものの、拙宅のソファの下にはヘッドが潜り込めないのと、お手入れが面倒という情報などで候補から脱落。パナソニック、シャープ、東芝は(あくまでも店頭での感覚では)吸引力がそれほど強そうではなくて、ちょっと高機能なサブ機として作られているように感じるところもあり、ある程度目につく場所に置くことになる製品であるにもかかわらずいかにも家電的なデザインも嬉しくない。そういったことなどを総合的に判断してダイソンを選んだ。

拙宅は、洋室2部屋がカーペット、畳の和室が1部屋、廊下とリビングがフローリングという構成で、猫毛をできるだけ拾ってほしいことからFluffy(フラッフィ)ではなくAnimalpro(アニマルプロ)をチョイス。フローリングは艶があるタイプで固いブラシで擦るダイレクトドライブクリーナーヘッドが傷付けてしまうことを少し心配したけれど、それまでのシャープの掃除機もブラシが勢い良く回転するヘッドで床を傷めていたという認識はなく、2ヶ月使ってみて今のところ前機と違う感じはしない。カーペットでもフローリングでも集塵力は良好で、キャニスター型の掃除機に勝るとも劣らない吸引力を見せる。ちなみに、本当はフローリングとカーペットでヘッドを使い分けた方が良いのかもしれないけれど、気軽に持ちだしてサッと使えることがコードレス掃除機の美点であることを考えると床に応じていちいちヘッドを付け替えるというのは本末転倒に思えるため、Absoluteは選ばなかった。

実際に使ってみて、メイン機として扱ったとしても機能に不満はまったくない。ただし、もう少し軽いと女性でも扱いやすいんじゃないかな、とは思う。店頭で短時間操作しているときには気にならない重さも、家でそれなりの時間利用すると決して軽いとは思えない。基本的に片手で掃除可能とはいえ、思いのままどの場所にもヘッドをスイスイと移動できると言い切れるほど軽くはないから丁寧に扱うことも考慮すればもう一方の手を添えて操作した方が望ましい。とはいえ、腕力に頼って真横にズラすのではなく、前後に動かすときに手首をひねって横方向にズラしていくコツを掴めば大部分は片手で事足りるはず。あと、自立しないので掃除途中で家具などを動かしたりするときは安定したところにしっかりと立てかける(もし倒れたら本体が壊れそう)か床に寝かせる他ないというのは少しだけ不便。こういった取り回しは全体的に国内メーカーの方が優れていると思う。ひとつ細かい点を言うと、パイプの部分はどこかにぶつけたりしたときにやや傷が付きやすくAnimalproの赤だと傷が結構目立ってしまうのがやや残念なところで、カラフルで見た目がポップなデザインの代償として取り扱いに気を使う必要があるといのも「道具の家電」としては煩わしく感じるかもしれない。

少々重さを感じたり取り回しに気遣いが必要だとしても、コードレス機は掃除がとてもラクになるということは間違いない。コードの抜き差しがなくなること、連れ回すキャニスターの向きや通り道に気を使わなくてよくなったことによって、掃除に付随する無駄な動きがなくなり、労力だけでなく気持ちも軽くなる。2階建て住まいなら更にその有り難みを感じられるに違いない。ここまで掃除がラクになると楽しささえ感じてしまうから不思議だ。これまでは無駄な空回しを避けるために、小さいテーブルや椅子を一旦すべて部屋から追い出して一気に掃除して(その後戻して)いたけれど、トリガー式だと空いている手で動かせる程度の軽量なものであれば、右指を緩めてその都度ちょっと移動させるやり方でも電気の無駄遣いにならない。そういった変化によって、実際の掃除の所要時間はこれまでの約40分から30分以下に短縮された。カーペット、フローリングのどちらでも、宣伝文句に偽りなく吸引力は強力でこれまでのシャープ製キャニスター型掃除機と比べて取れるゴミの量は同等以上に見える(ゴミの固まり方が違うので直接比較しにくい)。特に粉系(砂系)のゴミがよく溜まっていて、裸足でフローリングを歩いたときのシャリシャリ感が少なくなったように感じる。コードレスタイプだとしてもゴミを吸う性能に妥協したところがないところは期待していた部分で、何よりもその点でとても満足している。尚、MAXモードは普段の掃除で使う機会はなく(ノーマルで十分吸う)、バッテリーへの負担を考えるとあくまでも緊急用という位置付けと考えて良いでしょう。

ダイソンは、ヘッドと床との密着性で吸引力を高めていると言われている。その特性から段差や隅は苦手であるとの指摘があるのは確かにその通りという印象で特にカーペット床の隅は吸い込みが弱い。フローリングでは、それほど大きくなくてもちょっと立体的なゴミ(例えば猫の爪など)だとヘッドが弾いてしまう、とネットで言われているところも確かにその通り(Fluffyは問題ないそう)。そこを重大な欠陥として叩いている人がネットにはいるけれど、多少の程度の違いこそあれ、そもそもそういうどんなニッチな場所やどんな立体的なゴミでも吸い取る掃除機(ヘッド)なんてあるんだろうか?掃除機なんて隅々まで細かいゴミを吸う万能なものではなく、大雑把に床のゴミを吸い取るためのものではないんだろうか?例えて言うならば「ダイソン0点、国内メーカー100点」ではなく「ダイソン40点、国内メーカー70点」というような差だと思う。それを大問題と捉えるかその程度かと捉えるかは使う人が判断すれば良いというだけの話。

使い勝手について補足すると、拙宅のような3LDK程度の広さの掃除(30分の掃除時間中、実際に稼働している時間は6割程度か)であればバッテリーLEDインジケーターは3段階のうちの1つ減る程度だから稼働時間は十分。それでも、バッテリー駆動である以上は大掃除などのときに完全にアテにするわけにもいかず、さすがにこれ1台ですべてを賄えるほど万能とは言い切れない。V6から大きく進歩したと言われるゴミ捨ては世評通り、とてもイージーで操作性は良好(埃が舞わないように注意が必要なのは玉に瑕だが慣れれば問題ない)。同じくV6と比べての改善点とされるモーター音は、静かと言うほどではなくようやく普通になったかなくらいの印象。お手入れは月に1度のフィルター水洗いだけでフィルターの取り外しも簡単なので苦にならなさそう。尚、V6でもノーマルモード時のモーターパワーとヘッド構造(即ち基本掃除機能)は同じなので、バッテリーの持ち、騒音、ゴミ捨ての容易さ、バッテリー残量インジケーター有無を重視しないようであれば、重量と価格がそれぞれ若干軽くなるV6という選択もアリだと思う。

コードレス掃除機の利点のひとつは汚れが目についたときにすぐに持ちだして掃除できる機動性の高さで、しかしながらそのようなチョイ使いのたびにブラケットに戻すと、ほとんどバッテリーが減っていないのにその都度充電することになる。リチウムイオン電池の寿命は充電回数に依存し、自然放電が少ないことも加味すると、チョイ使いのたびにいちいち充電するのはよろしくないことから指定時間後に給電を止める電源タイマーを取り付けることにした。拙宅の使用状況なら家全体の掃除のあとにだけ充電=タイマーをセットする運用で充電回数を減らすことができる。一般に約2年と言われているバッテリーの寿命が延びるのことを期待したいところ。

あとは長期間使ってみてこの使い勝手を維持できるかというところが未知数ではあるものの、「これまでのキャニスター型掃除機に遜色ない吸引力を持ちながら機動性が高いこと」という基本的な期待値はクリアしており、総じて満足のいく買い物だと現時点では思っている。先にも書いた通り、キャニスター型の代わりを担える高性能コードレス掃除機は国内メーカーもそれなりにお高いため、このカテゴリーに限って言えばダイソン製品の割高感は少ないんじゃないかと思う。

以下、余談。

国民生活センターが発表している吸込仕事率でダイソンが紙パック式国内メーカー機よりもかなり数値が低いことを取り上げて実は吸引力はたいしたことがないと吹聴している人がネット上に結構いらっしゃる。そもそも、この種のデータがどのように試験されていて何を示しているかを咀嚼せずに、誰かがそう言っているからそうに違いないという思考停止型の人が鬼の首を取ったかのように「すっぱい葡萄」的な行動に出たりするのは大変見苦しい。

もちろん、これまで書いてきたようにダイソン製品は万能ではなく不得意なところもある。でも、モーター単体の吸引力が紙パック式よりも低いことを指して「隠している」「詐欺」と言っている人ってオツムは大丈夫なんでしょうか?どんな製品にも長所と短所があり、メーカーは良いところだけを宣伝するものでしょう?日本を含めて世界中で当たり前にやっている宣伝のセオリーが詐欺なんですかね?そういう人には、マーク・トゥエインの「やっかいなのは、何も知らないことではない。実際は知らないのに、知っていると思い込んでいることだ」という名言を噛みしめてもらいたいものです。短所を理解した上で長所に魅力を感じてモノを買うという当たり前のことをしていれば、こういう(しかも間違った認識に基づいて)欠点だけをあげつらって得意気に吹聴するなんてことはないはずなんですが。

ダイソンに向けられる批判はBOSEへの反応ととても良く似ていて、同じカテゴリーの汎用製品の中でやや高めのプライスタグを付ける超有名ブランド製品への反応として共通したものがある。日本メーカーの掃除機だって壊れることはあるはずだけれども、例えば「壊れたからもうパナソニックなんて絶対買わない、とネットに書き込んでやろう」と行動に移す人は、ダイソンに対するそれよりも圧倒的に少ないんじゃないかなと思います。日本の家電メーカー製品には欲しいと思わせる魅力がないからそんなふうに叩いても溜飲が下がったりはしない。その差がネット情報に現れているように思えます。

ダイソンは、さもしい人間の吸引力も強力なようです(お後がよろしいようで)。

「ジェイソン・ボーン」(ネタバレあり)

ジェイソン・ボーン201610

完成度の高い脚本と、洗練されたアクションシーン、臨場感あるカメラワークなどで人気を博したボーン三部作が完結してからの復活作。

結論から言うと残念だったと言わざるを得ない。

前三部作も、ツッコミどころがなく隙がないリアリティを備えていたかというと必ずしもそうでもない。CIAの幹部はちと間抜け過ぎるところがあって「オイオイ」と思わないでもないなど、映画として普通の範疇でのご都合主義はある。でも、そういう外連味を持たせた上でのリアリティがあった。アクションシーンにしても例えばクルマがぶつかる前にシートベルトにしがみついて衝撃に備えるなどして「無敵なんじゃなくて頭脳で危険を回避しているのだ」というような、作り話の範疇の中でのリアリティをうまく含ませていた。人気シリーズになったのはそのあたりが理由だったように思う。

余談:交通事故で車外に放り出され、救急車で運ばれてガラスの破片による切り傷で24針を縫う経験を持つ僕から言わせて貰うと、クルマの衝突というのはアクション映画のように甘いものじゃありません。そのときは骨折などの重大な怪我に至っていなかったのに、衝撃のせいで10分以上体を動かすことすらできませんでした。翌日は起き上がるのも苦しいムチウチに襲われたものです。

今回、ボーンの行動理由は、ニッキーが持ち込んだ情報から見えた内容が起点になっている。父がトレッドストーン計画に絡んでいたこと、自分がその時点で計画に組み込まれていたことがわかり、真相を確かめようとする。えっ?それだけなの?というのが正直なところ。

以前の三部作は「失われた記憶を取り戻すため。自分が何者かを知るため」という強い動機があった。これは一般人が記憶を失ったとしても抱く当然の欲求である。ところが「父がトレッドストーン計画に絡んでいたこと、自分がその時点で計画に組み込まれていたこと、その真相を確かめたい」という動機は、ずいぶん細かい話だし一般人が持ち得る類の動機ではなく、だからまったく感情移入できない。

アクションは随所にボーン・シリーズらしい知的なものは感じさせる(冒頭の火炎瓶をむしり取って煙に巻くシーンはボーンらしかった)ものの、従来と比べると大きく減退。力技で押している印象が強い。だから、無茶苦茶なことをしてとてつもない衝突をしても、無敵の主人公がすぐに平然と歩きはじめるという普通のアクション映画になってしまった。

配役は、肝心のキーパーソンであるヘザー・リー(アリシア・ヴィキャンデル)は、確かな野心と頭脳明晰さとずる賢さとタフさを持ち合わせているキャラクター設定に思えるものの、ずる賢さとタフさが見えてこないから野心も軽薄に見えてしまう。確かに美人ではある。でも、この役に合っていたようには見えない。手強い相手に見えないかららラストシーンでボーンがやり返しても爽快感が得られない。

確かにアクションは凄い。ブレブレの手持ちカメラで臨場感を出すポール・グリーングラスの演出は変わりない。しかし、一度終わった、完成度の高いシリーズを蒸し返すのは非常に難しいものだな、と思わずにはいられなかった。良い脚本が書けないのなら次作は止めたほうがいいと思う。

「マイ・インターン」(ネタバレ少なめ) クルマと映画の関係

マイインターン201610

あるいは「プラダを着た悪魔」のアン・ハサウェイの10年後なのかも、というイメージを使っている設定。そしてなにもかもがうまく行き過ぎるストーリー。典型的な仕事人間なキャリア・ウーマンにデキすぎたシニア・インターンが助言するというありきたりな展開。とにかくヒネリがない。なんだこのお花畑な話は、というのが正直な感想。

観た後で調べてみると、「ホリデイ」の監督の人だった。なるほど。テイストは同じかもしれない。そういえば「ホリデイ」の映画掲示板レビューでこんなのがあった「家を交換して入っていったらそこにジュード・ロウ。姉の家に行ったらそこにやってくるのがキャメロン・ディアス。ありえね~」。つまりそういう話をシレッと作る人がこのナンシー・マイヤーズという監督らしい。

だからマジメに観てしまうとツッコミ満載。ドラマとして深いかっていうとそうでもない。でも、僕は嫌いじゃない。この人の映画に出てくる人、みんな魅力的なんだな。これも現実離れしているんだけれど、お伽噺として観ることができればとても楽しい映画になり得る。休日の午後に観て、幸せな気分になれる。

アン・ハサウェイ演じるジュールという主人公は、自分で試着してそれをWebサイトに載せて服を売るところから始めたファッションEコマース・ベンチャー企業の社長という設定。彼女が公用車として使っているのが写真のアウディQ7。映画を作る人って本当にクルマの選び方が上手いと思う。言い方を変えるとクルマのキャラクターやポジショニングをよくわかっている。

ベンチャー企業の美しくもアクティブな女社長。保守的なお金持ちをイメージさせるメルセデス、BMWは明らかに合わない。ならばアウディがいい。しかし、近年はメジャーになってきてメルセデス、BMWのイメージと重なりつつあるからSUVのQ7で、という感じ。SUVといってもフォード・エクスプローラーやジープ・チェロキーといういわゆるアメリカの古典的マッチョなイメージは論外。このアウディQ7がイメージにピッタリで、実は正直なところアウディのSUVのどこが魅力なんだろうと懐疑的だったのにこの映画で一変してしまった。なるほど、アウディが狙っていたのはこれだったのかと。

この映画、当然というかアン・ハサウェイのファッションがとても素敵で、そういう人が乗るクルマとしてまったく違和感がない、というかピッタリすぎるアウディって凄いなと思った。個人的にはイヴォークあたりでも良かったような気がするものの、あれは尖りすぎているからやっぱりQ7がピッタリ。こういう映画に使ってもらってウットリさせるようになったらレクサスのブランドも本物だと思うけれど、まだそこには至らないか。レクサスは、郊外に住む高給取りのサラリーマンのクルマとして登場するところまでが現状は精一杯で、キャディラックATSあたりが被る。

やっぱりクルマって大事ですね。それは一般の人にも言えることで、自分のライフスタイル、考え方などが総合的に現れたものがクルマ選びなんだな、と。良い悪いの問題じゃなくて、どんなクルマに乗っているかってやっぱりセンスが出る。そう強く思わせてくれた映画でもありました。

あ、あと、ハンカチはいつも綺麗なものを持ち歩くこと。これも大事な身だしなみ。

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