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Enjoy Life, Enjoy Hobby

趣味の人生を楽しむサラリーマンの日記

「サンドラの週末」(ネタバレあり)

Sandra201606

何の予備知識もなく鑑賞。観終わって「ある子供」「少年と自転車」と同じ監督と知る。それらと違わず、何の説明もなく終始淡々と進んで行く。

鬱の人をリストラするかどうかを同僚の投票で決める、というシチュエーションが実際にフランスではあり得るのかどうかは知らないけれど、まずはそういう設置。しかもリストラに投票した人には1000ユーロのボーナスが支払われることになっている。

しかし、どう見てもサンドラが精神的にまだ健康なようには見えない。なんとか一杯一杯でがんばっている。旦那の稼ぎが良いようには見えず、仕事を続ける必要があり、必死になっているかのように描写されている。一方で、少し古いモデルとはいえクルマはあるしそこそこのアパートを借りて生活していて、貧しい部類ではあるものの貧困のどん底にいるわけではないことも描かれている。だから、ちょっと精神的に不安定だけれども職にすがっている人にも見える。

しかし、夫に励まされながら同僚をひとりひとり説得して行く。リストラに投票していた人も、直接話すと何人かが意見を聞いてくれて考えを変えてくれようとする。

結局、多数決投票で過半数を取れなかったサンドラはリストラされることになるものの、最後に社長に呼び出されてこれ以上ないと思われる「ボーナスは出すし、君は残ってもらっていい」という回答を引き出す。臨時雇用者の契約期間が終了したら復職して良いという。それでも、サンドラは「他の人が臨時雇用者を切るなら断る」と言う。社長は契約切れは解雇ではないと説明しても聞き入れない。

この最後の最後のシーンでサンドラが求めていたのが雇用でもお金でもなく、人としての尊厳であることが明らかになる。サンドラを解雇しなければ他の誰かを解雇する、と脅していた主任に屈することへの反発もあっただろうことも予想できる。しかし、サンドラはひとりひとり会った同僚たちの多くがサンドラを必ずしも軽く扱っているわけではないことを知り、多くの人が考えを変えようとしてくれたことに対して、人としての尊厳を取り戻すことができた。だから、それまで肩を落として歩いていたサンドラのラストシーンの後ろ姿には「きっと彼女は大丈夫」と思わせるオーラが漂っている。

終盤のコインラインドリーで黒人青年のアルフォンスがサンドラに投票する、と言ってくれたことで過半数の望みが出たときに見せる、終始ノーメイクで落ち込んだ顔つきだったサンドラの表情に生気が宿る。このシーンに女優マリオン・コティヤールの凄さを見た気がする。

そして、淡々と描くだけでありながら観た後に毎回いろいろ考えさせるダルデンヌ兄弟、たいしたものです。

Squeezebox Touchを使い続けるために

SQB201606
以前にも書いたSqueezebox Touch、拙宅ではリビングと寝室に置き、QNAP製NASをサーバーとして2010年から使い続けている。CDが2000枚以上になってしまっている僕のような人間にとって、いちいちCDを探して引っ張り出す面倒(特に箱物)から開放され、オーディオ機器のあるところに居れば好きな曲をすぐに引き出して聴けてしまうという理想的な環境を実現してくれていてとても有り難い。代わりになる製品が見当たらないから、2012年末くらいにディスコンになってしまったときに予備で更に1台買い足したくらい、お気に入り製品として愛好している。ちなみに知る人ぞ知るこの優秀な製品、3万円以下で買えたものがAmazonでは本日現在85,000万円で売られている。

そんなディスコン製品であるため、アプリのサポート状況など、ときどきWebで情報をチェックするようにしていた。先日発見したのがQNAPの現行最新ファームウェアV4.2で、Squeezebox Touchのサーバーソフト、Logitec Media Server(LMS)のサポートを終了したという情報。サポート終了=動作しないというわけではないことは、もちろんわかっている。とはいえ、いつ動作しなくなったとしても何も文句は言えないことになってしまった。いずれこういうときが来るとわかってはいたものの、LMSに将来がないとわかるとにわかに危機感が高まってくる。Squeezebox TouchはRaspberry Pie(RaspTouchという製品も出るようだ)で代替できるらしいのでハードウェアはまだ代替手段がある。しかし、独自の、そして機能拡張やカスタマイズができる優れたサーバーソフトが使えなくなるのはとても困る。

QNAPファームウェアとLMSパッケージの古いバージョンは、ネット上では既に見つけ出すことがやや難しくなりつつあり、いずれ入手困難になるのかもしれない。かなり古いバージョンから手元に保存してあるので、現在使用しているQNAP TS-112(TS-112P)を入手できるうちは問題ないものの、入手できなくなったら今使っているものが壊れた時点でSqueezebox Touchを使用できなくなってしまう可能性が出てきてしまった。QNAPの別モデルやReadyNASの利用という選択肢は残されているものの、同じようにLMSをサポートしなくなって行くのは時間の問題で、どのモデルでいつまで動作するかなどの情報をキャッチアップし続けるのはかなり面倒で現実的ではない。

別にSqueezeboxとNAS(+LMS)にこだわることないだろう、ということはもちろん考えた。ネットワーク・プレイヤーは既に多くのモデルがあるし、それらは汎用性の高いDLNAサーバーで再生できるのだから音楽が聴けなくなるわけじゃない。しかし、ネット情報を調べてみると無線LANで安定して使えて、アプリの使い勝手が良い、と言われているネットワーク・プレイヤー(あるいはその機能があるCDプレイヤー)製品がほとんどないことに唖然とする。もう3年以上前にディスコンになった安物製品に追いついていないとはどういうことなんだろうとは思うものの、オーディオ・メーカーにはネットワークやアプリケーションを作るエンジニアが恐らく殆どいないと思われ、そうでなくても移り変わりが激しくてサポートが面倒なこの種の製品(PCみたいなもの)のために投資する(リソースを増やす)ほど大きな市場ではないということなんでしょう。音質がさして違うわけでもない、事実上サポート要らずの50万円のCDプレイヤーをありがたがって買ってくれる購買層が未だに主流となればメーカーが怠けたくなるのも理解できなくはない。しかし、LinuxやDLNAなど、さして難しくもない標準技術を利用しているものだというのに、それを快適に使える便利な製品を作ろうとしないメーカーの志の低さには悲しくなってしまう。愛好家に音楽を楽しんでもらうことを使命だと思っていたら、おざなりなネットワーク・プレイヤーだけ出して放置するなんてことはあり得ないと思うんだけど・・・。

それはともかく、結局はTS-112P(TS-112からCPUがMarvell 1.2GHz→1.6GHz、メモリーが256MB→512MBになっているマイナーチェンジ版)を追加購入することにした。TS-110から始まるこのシリーズはもっとも安価なQNAP製NASで、スペックは高くないけれどホーム・ネットワーク程度の用途なら必要最低限のことはこなすという位置づけのモデル。ただし、大量のファイルコピーなどで重くなっているときには、ライブラリが35,000曲を超えていることもあってかSqueezeboxまたはレンダラーアプリiPengからの最初のアクセスで曲を表示するまでに数分待たされるときがあり、そういうときにはパフォーマンス不足を感じるときもある。あと、頻度は低いものの内部温度が上がるとファンが回り始めそれなりに音がするところがオーディオ用途としてはやや気になるポイント。とはいえ、QNAP他モデルのファームウェアの古いものは手元にないし、今後はネットで見つけられるかもわからない。LMSが確実に動作する、手間いらずで確実な安全策としてはこれまでと同じモデルを無難に選ぶしかなかった。

HDDは少し余裕を見て3TBのHGST製品を選んだ。以前、某ストレージ・ベンダーで働いていたので各メーカーのHDDの品質はある程度わかっているつもりで、SeagateやWestern Digitalは正直なところ信用していない。5年使って壊れるというのならまだしも、2年以内の故障率が高いから安心してて使えないと思っている。実際、我が家でも別のNASでSeagateを使ってみたら1年と少しで壊れたという経験もしている。日立の品質は素晴らしく、会社が変わってHGSTになっても評判が落ちていないようなので、HDDを買うときには少々値段が高くてもHGSTを選んでいる。ちょっと話がそれるけれど、オーディオ向けNASと称して(データを扱うだけのものにオーディオ用とはナンセンス)ファンレスを売りにしている製品があるけれど、どれを見ても大して放熱対策が取られているように見えない。ファンがなく、多少熱くても問題なく動作するのは当然のことで、すぐに壊れたりはしない。でも熱の懸念は長期使用観点の話(たとえば6年持つはずのものが3年で壊れるなど)なので、長い目で見たら冷却ファンは付いていた方が良いというのが僕の意見で、ファンレスというキーワードはオーディオ用と名付ければ高価格でも売れることを含めオーディオ・マニアから搾取するための方便に使われているように見える。尚、HDDというのは理想的な環境であってもその他のコンピューター構成部品と比べると壊れやすいもので、明日成仏してもおかしくないと僕は思っているから、バックアップは3つ取って慎重に慎重を重ねた運用をしている(なにせリッピング済みCDの8割はもう売ってしまって手元にない)。

新しくやって来たTS-112Pは、どうやらファームウェアV4.1.4で納品されたらしいものの、初期インストールでV4.2に自動的にアップデートされてしまった。やはり古いファームウェアが手元にないとV4.1世代で稼働させることはできないのかもしれない。それはともかく、現状は予備機扱いなのでとりあえずV4.2のまま使ってみることにした。LMSはV7.6.1をインストール(V7.7台は以前使ってみたところライブラリへの初期アクセスが異常に遅かったのでそれ以降使っていない)し、特に問題なく動作している。まあ先にも書いた通り、サポートしないというのは動作しないというわけではなく、しばらく様子見して大丈夫そうだったのでV4.2のままで利用することにした。ライブラリのスキャンや、大量ファイルコピー時のライブラリ・アクセスのスピードはTS-112からだいぶ向上している印象で、なんといっても曲のアクセスがかなり早くなって快適至極。TS-112では重いファイルコピーやライブラリのスキャン中だと曲のアクセス・スピードがかなり落ち、タイムアウトすることもよくあったけれど、TS-112Pはそういう厳しい状況でもやや遅くなる程度でがんばってくれている。性能差はさして大きくないのかもしれないけれど、体感上の利便性は大幅に向上と言って良いくらい快適になった。

こうして予備機TS-112Pのセットアップが終わったと思ったら、元々の本番機(?)TS-112の挙動がおかしくなってきた。何もアクセスしていないし、ライブラリ・スキャンなどのNASの内部でのタスクも実行していないし、NASのリソース稼働状況を見ても特に何かが動いているわけでもないのにHDDアクセスLEDが点滅し続けている。本来は一定時間NASにアクセスしなければHDDがスリープになる設定にしてあるのにそうならない。肝心の音楽ライブラリへのアクセスも極端に遅くなってしまっている。実は以前からときどきその兆候はあったけれど、それがほぼ常時そうなってしまったので、こうなると便利に音楽を聴くはずのものがCDから取り出すよりも時間がかかる不便なものになってしまう。原因はよくわからない。予備機と同じくファームウェアをV4.2に上げてみても状況が変わらない。調査のしようもなく、あとできることは初期化くらい。しかし、データを戻すのに丸2日はかかるし、初期化しても改善される保証はない。TS-112の性能では35,000曲のライブラリはもはや荷が重いのかも、という可能性も考えて本番機もTS-112Pにアップグレードすることにした。元の本番機(?)のHDDをそのまま流用して電源を入れると同じ設定で立ち上がってきて、どうやら初期設定をやり直すこともデータをリストアする必要もなく原状回復できてしまった。ただし、納入時のファームウェアがV4.1.1でHDD内のバージョンと不一致という警告が出ていたため、V4.2にアップデート。これですべての問題がクリアになり、当初計画していた予備機の確保を含めて望んでいた環境が整った。

ちなみに、ファームウェアをV4.2にしたことでQphotoというアプリを利用してiPadから写真を見れるようになったのが地味に嬉しい。あと、ファームウェアもQNAPも関係ないけれど最近のNASでポイントが高いのがMacのTimeMachine保存先として使えるところ。Mac側でスケジュール設定(要フリーソフト)しておけば、自動でバックアップをどんどんやってくれるので本当に楽でストレスフリー。

思わぬ出費になったところはあったものの、ネットワーク・オーディオで安定した音楽ライフを維持するためにはこのくらいの投資は仕方ないかもしれない。NASアップグレードで曲へのアクセスがかなり早くなったことを喜びつつ、これからも僕の音楽ライフを永く支えて続けるという重責に耐えてがんばり続けてもらうつもりです。

Blues and Ballads / Brad Mehldau

Blues and Ballads201606

「Blues and Ballads / Brad Mehldau」

ジャズに入れ込み始めたころ、よく聴いていたのはモダン・ジャズ黄金時代である50年代~60年代の古い録音のものだった。世間ではジャズと言えばピアノ・トリオでしっとりとオシャレに聴くというイメージ(参考:http://buhaina.blog.fc2.com/blog-entry-85.htmlhttp://buhaina.blog.fc2.com/blog-entry-136.html)が強いけれど、この時代のジャズを聴いていると、熱くて濃厚で刺激の強い音楽であることがよくわかるし、そこに惹かれて僕はジャズが好きになっていった。

そんな経緯もあり、僕は刺激的とは言い難いピアノ・トリオはあまり聴かないし、ピアノ・トリオを中心に活動しているピアニストも特に好きな人はいない。定番であるビル・エヴァンスはアルバムによってはたまに聴く程度、キース・ジャレットなんてスタンダーズ・トリオだとBGM程度の位置付けにしかなっていない。全盛期のハービー・ハンコックやチック・コリアも、ピアノ・トリオとなるとどこか物足りない(攻撃的ピアノ・トリオであるチックの「Now He Sing, Now He Sobs」は例外的名作)。特にスタンダード曲をメロウに演奏しているだけのピアノ・トリオは安易で退屈極まりなくて聴いていられない。

そんな僕が唯一聴き続けているのがブラッド・メルドーである。初めて聴いたのは「The Art Of Trio Vol.4」ヴィレッジ・ヴァンガードでのライヴ録音。トリオとしての演奏力の高さを土台に繰り広げられる翳りを持った独特のメロディ・センスとひねくれた音の崩し方は、一度聴いただけで僕の琴線に触れた。スタンダードや広く知られている有名曲を良く採り上げはするものの、安易なムードに流されたものでなく、あくまでも自分流の表現を消化させるための素材として利用しているにすぎない。メルドーのピアノに身を委ねているとまるで催眠術にかかっているかのように彼の音世界に入り込んでしまう。そんな気持ちにさせてくれるピアニストは他にいない。

とはいえ、ソロ・アーティストとしてデビューしてから今年で20年以上経過、アルバムも相当な数になってきている。年月を経て表現にやや変化があるとはいえ根本的なところはまったく変わっていないから新作がリリースされるたびにお付き合いしなくてもいいんじゃないか、という疑問がうっすらと浮かびつつも新作「Blues and Ballads」を結局は購入してしまった。しかし、これがなかなか良い。

理由は明白で、ブルースとバラードというテーマを掲げることで縛りができたから。全体的に、聴きやすく、落ち着いた曲が多くなっていてわかりやすい。収録時間も56分とメルドーのアルバムとしては異例に短く、ここまで聴きやすいメルドーのアルバムは「Art Of Trio Vol.3」以来じゃないだろうかと思う。しかし、そこはやはりメルドー、メロディの崩し方や、曲の展開のさせ方など、安易なムード・ジャズに陥っていないところがさすがで、ファンならニンマリできる演奏ばかりが収録されている。2011年に観たサントリーホールでのコンサートが多分に自慰的なものでガッカリしたことを思うと、個性が強いアーティストにはこのくらいの縛りを設けた方がまとまりが良く、しかも素晴らしいものができるという気がしてしまう。また、スピーディでビジーなドラミングを得意とするジェフ・バラードをこの作風で起用するのは一見無駄遣いに思えるけれど、ここぞというところでジェフならではセンスが垣間見えるところも、メロディックなフレーズを聴かせるラリー・グラナディアのベースもいい。

キースとはベクトルが異なるナルシスティックな面やヒネり過ぎたピアノに眉をひそめる人にも安心して聴ける、それていながらメルドーの良さもたっぷり味わえるアルバムとして久しぶりにヘヴィー・ローテーション中のジャズ・アルバムになった。独自性を強めて「Higway Ryder」で行くところまで行ってしまったメルドーも丸くなったのかもしれない。

アーノンクール逝去に思う古楽の意義

アーノンクールVMWー4番5番L

ニコラウス・アーノンクールが亡くなってしばらく経過、持ち上げムードが落ち着いてきたところで古楽に対する僕の思いを書いてみます。

3年半前に僕がクラシックを聴き始めたころ、カラヤン、バーンスタイン、マゼール、クライバー、ベームといった20世紀の巨匠たちの演奏をよく聴いたものでした。有名指揮者だったこと、古くからあって録音の数が多く、CDの値段が安いものが多かったことなどが聴き始めるきっかけだったわけですが、オーケストラ音楽というのは、かくもスケールが大きく、ダイナミックで美しいんだということを教えてくれたものでした。

一方で、程なくして古楽、ピリオド奏法というスタイルの演奏があることも知ることになりました。クラシック愛好家にはあえて言うまでもありませんが、簡単に言うと、作曲された時代の楽器を使って当時の演奏スタイルで演奏する、というもの。大雑把に言うと、曲が生まれた時代のスタイルの演奏が、作曲家がイメージしていた本来のサウンドであるというのが古楽系音楽家の主張で、なるほど、そういう考えもあるのかと思うのと同時にもやっとした違和感を抱いたのもまた事実です。

録音で残っているものだけで考えても、例えば70年前のフルトヴェングラーの演奏を今聴いてみると演奏の精度が低いことが僕でもわかります。そこから何十年もかけてオーケストラはより精緻で美しいサウンドを目指して演奏技術と表現力を磨くことに励み、現代の高い水準にまで引き上げてきた。楽器も長い時間をかけて良いサウンドを目指して改良され、発展してきているわけです。

音楽は発展、進化するもので、100年以上前の古典音楽を脈々と引き継いできたクラシックの場合、演奏そのものについてもそうであるのが当たり前だと思っていた僕は、古楽の存在を知ったときに即座にこう思った。「それは逃げなんじゃないの?」と。

中野雄氏の言葉を引用すると

「昔の楽器(を正確に複製したとメーカーが称する現代製の楽器)を使って、(作曲者が存命の頃、イメージしたと現代人が勝手に想像を巡らした奏法=音と響き、歌いまわしを<時代様式と名付け>、新しがって音楽をやっている人達」

が古楽ということになる。皮肉った書き方ではあるけれど、実にまったくその通りだと思ってしまう。60年代~80年代には巨匠スタイルの演奏が主流になり、それらが演り尽くされ、極められてしまった。しかもこの時代には多くの録音が良好な音質で残され、誰でも聴くことができるようになった。同じ方向性で演奏すればモノマネと評価され、ただ譜面通りに淡々と演奏しているだけでは無個性であると言われてしまう。だから古楽スタイルは、目先を変えた新しいスタイルとして流行った。つまり、先人のものをより発展させたり超えたりするものではなく、それらしい理由を付けてそれまでとはまったく別の方向に向かうことを正当化した演奏スタイルと言うことができるわけで、だから僕は「逃げ」と感じたというわけです。

古楽には「作曲された時代の」という大義名分があり、ひとつの考え方として間違っているとは僕も思いません。音楽に限らず、多様な思想、スタイルがあることは健全なことで、それぞれに魅力があり、それぞれを愛好する人がいることも健全なことです。たとえば、自動車の世界では理詰めのドイツ車は工業製品として世界的に広く「良いクルマ」として認知されています。でもドイツ車だけがクルマではない。品質や快適性よりも感情に訴えるフランス車やイタリア車、おおらかさが持ち味のアメ車のようにドイツ車とは全く異なる思想で作られていて、それを好む人も多くいます。しかし、イタリア車やアメ車の作り手はドイツ車の方向性を「そうじゃないんじゃないの?」と思って違う方向性のクルマを指向して作っているわけではなく、彼らの思想で、作りたいと思ったクルマを作っているにすぎない。乱暴に言うなら、仮にドイツ車が存在していなかったとしてもイタリアやアメリカのクルマの方向性が今と違っているということはなく、それは他者の存在に依存しないアイデンティティがあると言うことができます。

古楽の存在意義が決定的に弱いのは、長い年月を積み上げて進化、発展してきた既存の演奏スタイルと表現を「いや、そうじゃないんじゃないの?」と否定するところから生まれたものであるということ(そう宣言されているわけではないけれど、事実上そうであることを否定できないでしょう?)。それまでの演奏スタイルが存在することを前提にした別の方向性であることは、存在意義がないとまでは言わないけれど自立していないということです。

古楽の代表的な指揮者の一人であるアーノンクールの演奏については、ヨーロッパ室内管弦楽団とのベートーヴェン全集、ベルリン・フィルとのブラームス全集の他にウィーン・フィルやコンセルトヘボウとのブルックナー、同じくコンセルトヘボウとのモーツァルトを聴いてきました。「他の多くの指揮者がそうするところをそうしない」という面はあるものの、これもひとつの表現だと思えるものがあります。そこで、自ら立ち上げたという古楽オーケストラ、ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスでの最新のベートーヴェン交響曲第4番と5番も聴いてみました。なるほど、普通のオーケストラとは響きがまったく違う。弦はドライで艶がなく、金管には広がるような芳醇さというよりは鋭い響きで鳴り、まさに古楽とはこうあるべしという主張のあるサウンド。そして、曲のアクセントの付け方、テンポ設定も極めて個性的で演奏者の主張が伝わってくる。でも、例えば5番の第4楽章最後の音の区切り方など、人間の生理を逆撫でするかのように音楽が進んで行くところも目につく。

指揮者が良く使う言葉に「作曲者の意思を尊重して譜面に忠実に」というものがあります。しかし、料理をレシピで完全に残すことができない(誰が作っても同じ味になるレシピを書くことができない)のと同様に、譜面で音楽をすべて表現し切ることが不可能であることくらい譜面が読めない人でも想像がつくことでしょう。譜面は最低限のことしか残せないのだから、あとは演奏者が最終的に音楽を決めることになるわけで人によって出てくる音楽が違っていのは当然のこと。

金聖響氏(と玉木正之氏)の著書「ロマン派の交響曲」の中のチャイコフスキーの項目で、演奏機会が多い故に演奏者に刷り込まれてしまって譜面に書いていない表情付けをするオケのメンバーがいることにときどきイラついてしまうと書かれています。しかし一方では音楽には、譜面で指示されていなくてもこういうふうに演奏すると(演奏者も聴き手も)気持ちイイ、という快感原則というものがあってそれも否定出来ないとも言っています。そもそも、作曲者がどういう意図で作曲したかどうかなんて現代の作曲家でもない限り誰にもわからないもので、譜面という曖昧なものだけでどのように演奏されることが正しいと断言できる人はいません。指揮者はどの方向性が正しいと見做すかを決めているだけで、ストラヴィンスキーが自作自演したときでさえその時によって演奏が違っていたと言われているように、作曲家の意図がひとつであるかのような決め付けもできない。ひとつ言えることは作曲者だって気持ちよく聴いてもらえるものとして曲を書いているであろうということ(前衛的な音楽は除く)で、快感原則に身を委ねた演奏はあながち身勝手な演奏というわけでもないように思えます。

アーノンクールの演奏は恐らく、譜面に忠実なんでしょう。より正確に言うと、譜面で明確に決められている範囲内のことはしっかり守って音楽を作っているんだろうと思います。だから、恣意的に聴こえるところも恐らく好き勝手にやっているわけではなく譜面上はそのように演奏しても良いように書いてある(あくまでも想像)。ただし、そうして生まれた先のベートーヴェンの4番と5番は、聴いていてまったく気持ち良くなれない。個性的で面白いという評価はまだ分かるとして、これを聴いて本当に気持ち良いと感じている人がそんなに多いんでしょうか?気持ち良くなれない音楽をベートーヴェンは目指していたんでしょうか?ベートーヴェンが、自分が生きていた時代では想像すらできなかった演奏技術・表現の極みとも言える現代のベルリン・フィルの演奏とコンツェントゥス・ムジクスを仮に聴き比べたとして、アーノンクールの演奏を支持するとはとてもじゃないけど思えません。

皆が当たり前と思っていることは本当に当たり前なのか、と問いかける姿勢は、物事の意義を根本的に考え直すためにとても重要なことだと僕は常日頃から考えているので、これまでの演奏スタイルの発展の方向性は本当にこれで良いんだろうか、というアーノンクールの考え方には大いに共感できます。しかし、それが単に「他と違うこと」が目的になってしまうと、それだけが存在意義になってしまう。少なくともコンツェントゥス・ムジクスとのベートーヴェンは「他と違うこと」以外の魅力が僕には見つからない。こういう演奏もあるんだ、という面白みでこれからもたまに聴ことはあるだろうとは思います。でも、(これはアーノンクール以外の古楽演奏家にも言えるけれど)皆が当たり前と思っている基準が存在する前提でしか存在価値が見いだせないものが本当に素晴らしいものだと言えるんでしょうか。

ちなみに今、声高に古楽の重要性を主張したらむしろ時代遅れの印象すら与えるほどで、実は僕がクラシックを聴き始めた3年半前のときですらもう古楽は話題にはなっていませんでした。勢いがあったときでさえウィーン・フィルのコンサート・マスター、ライナー・キュッヒルに「ピリオド奏法についてどう思いますか」とある評論家が尋ねたら日本語で「ファッションです」と答えたそうです。そのとおり、古楽もピリオド奏法もブームは既に去ってしまった。豪華絢爛な響きを目指して進んでいたオーケストラの演奏スタイルに一石を投じる意義はあったでしょうし、ピリオド奏法のスタイルはモダン・オーケストラにも取り入れられて新鮮な響きをもたらしたという功績はあっただろうとは思いますが、カラヤンやバーンスタインなどの時代より更に精緻で美しい響きに磨きがかかった現代オーケストラの魅力を揺るがせるものにならなかった、言い換えると主流にならかったのは、やはり古楽に音楽として魅力がなかったからだと思えてなりません。

古楽は、ロックの世界で言えばパンクみたいなものでしょう。ロックはシンプルだった60年代から徐々に音楽性と演奏力を高め、ただの騒音から繰り返し聴くに耐える豊かな音楽に進化して聴き手に喜ばれたものの、本来の原点であるエネルギーや衝動が薄れてしまった。そこにパンクが出現し、大流行、しかし音楽そのものが新しく魅力的だったわけではなく廃れてしまった。とはいえ、パンクがもたらしたものが完全に消滅したわけではなく、潜在的に、あるいは間接的に残っている。古楽がもたらしたものも、そいう点で同じであるように見えます。主流となる音楽トレンドの発展・進化への反動が現れ、その影響を吸収しながら主流に落ち着いて行くというのは音楽が進化する流れとして定番と言えるものなのかもしれません。古楽はクラシックの演奏スタイルとして、生まれるべくして生まれ、影響を残しながら衰退の道を歩んでいるところなのでしょう。

ネゼ=セガン指揮 フィラデルフィア管弦楽団 2016年日本公演

ネゼ=セガンーフィラデルフィア管弦楽団201606

2016年6月6日
サントリーホール
(演目)
・J.シュトラウスⅡ:ウィーンの森の物語
・プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲第1番
(ヴァイオリン:五嶋龍)
・ブラームス:交響曲第2番
【アンコール】
・バッハ:羊は安らかに草を食み(ストコフスキー編曲)

クラシックのコンサート通いも3年が経過し、結構な数の有名オーケストラを聴くことができた。特に意識したわけではないものの、やはりと言うべきか結果的には本場ドイツ、オーストリアのオケを中心に選んでいて、実際、本場のオケは個人技もオケとしての総合力もレベルが高い印象で、コンサート後の満足度がとても高い(チケット代も高いけど)。同様にレベルの高さを感じているのがアメリカのオケで、まだロサンゼルス・フィルハーモニックとシカゴ交響楽団の2つしか観ていないものの、ドイツオケとは趣の違う圧巻の迫力ある演奏を聴かせてくれた。そして、アメリカ5大オーケストラのひとつと言われるフィラデルフィア管弦楽団にも期待を持ってチケットを入手した。

はじめにお断りしておくと、ここ3週間ほど仕事が忙しくて疲労残りの状態だったため、気持ち的には盛り上がっていなかったかもしれないし、それ故に虫の居所が悪かったかもしれない。結果から言うとそれほど満足度が高くなかったから。

アメリカのオケとしてはやや意表を突く選曲、ヨハン・シュトラウスⅡから。う~ん、可もなく不可もなし。弦の歌い方、木管金管の響きも悪くはないけれど良くもない。耳が肥えてきているせいか、「やっぱり生演奏ってすごいなあ」というまでの感動に至らない。これはこの日全体の印象だったとも言える。

プロコフィエフのソリストは五嶋龍。クラオタの間では客寄せパンダと扱われていてあまり評判が良くない。ハーバード卒で空手三段でイケメンとなれば貶めたくなる(貶めることで自分の地位が上がると勘違いしている)クラオタの意見を真に受ける気など更々ないゆえにニュートラルに接してみる。しかし、これまた悪くないけれどこれと言って良いとも感じない。そもそもこの曲は歌い上げるタイプと言うよりはややトリッキーなフレーズで技巧を小気味良く聴かせることができるかがポイントと僕は捉えていて、その点で物足りない。CDで持っているチョン・キョンファの演奏は伸びやかで良く歌いつつその小気味よさが感じられる(しかも繊細さもある)のだから、力量の差があることは残念ながら認めないわけにはいかないでしょう。

メインのブラームスの2番は若い指揮者らしく、キビキビと溌剌とした演奏で、ゆったりと歌わせるところはそれなりに歌わせるスタイル。しかし、オケから出てくる音は中庸で「やっぱりCDじゃこの音は味わえない。生演奏はこれだからやめられない」と思わせるほどの音の説得力がない。弦の音に艶と適度なしなやかさがなくてむしろ少し乾いたサウンドだったところが個人的には残念なところで、また僕が一番生演奏に求めているオケ全体の鳴り、歌い方が足りない。演奏に大きな傷がなくとも、圧倒されるような主張を感じることができなかった。

比較すればいいってもんじゃありませんが、2週間前に観たトーンキュンストラーと比較すると金管木管の個人技ではやや優っているものの、弦の歌い方は劣っていてオケ全体の主張という意味でもトーンキュンストラーの方が上だったように思える。

ネットでは好意的な意見が多かったように見えるけれど、そうかと言って興奮して感動を伝える声もほとんどなく、そんなところもこのオケのパフォーマンスを示しているように思える。疲労残しで虫の居所が悪かったのかも、と思っていた昨年12月のミュンヘン・フィルは演奏に没頭できなかったとはいえ、オケの力量はさすがと思わせるものがあったけれど、この日はそれもなかった。

僕はブラームスの交響曲が大好きで、
第1番:ドレスデン・フィル、ベルリン・ドイツ交響楽団
第2番:NHK交響楽団(ブロムシュテット)、ドイツ・カンマーフィル、フィラデルフィア管弦楽団
第3番:NHK交響楽団(ブロムシュテット)
第4番:バーミンガム市交響楽団

と聴いてきて、しかし「これは素晴らしい!」と思える演奏に出会ったことがない。聴いてきたオケが超一流とまでは言えないせいなんだろうか。昨年のザルツブルク音楽祭でムーティが振ったウィーン・フィルの2番は素晴らしいと思えるのに生演奏で感動できないなんて。そういえばベルリン・フィル(とツィメルマン)で聴いたピアノ協奏曲第1番は素晴らしいと思えたなあ、やっぱりブラームスは上手いオケで聴かないと良さが伝わりづらいのかなあ、などと逡巡していしまうコンサートになってしまったのでした。あらあら。

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