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趣味の人生を楽しむサラリーマンの日記

プリンス永眠 - 殿下こそが数少ないオーセンティックな音楽家

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僕のプリンス観は、1年半前の記事に書いた通り(http://buhaina.blog.fc2.com/blog-entry-131.html)。その記事の最後をこう締めている。「もし、亡くなったというニュースを聞いたらショックを受けるであろうミュージシャンはそんなに多くないけれど、プリンスは間違いなく大きな喪失感を味わうだろうな、とマニアでもない僕はそう思っている」。

その時期が、こんなに早く来てしまうとは・・・・

プリンスは過小評価されている代表的なミュージシャンだと思う。朝の情報番組ですら扱っていたくらいだから、もちろん今回の突然のニュースの採り上げられ方は大きい。当日朝のツイッターのトレンドでもトップ。しかし、それは音楽家としての採り上げられ方ではなく、奇抜なファッションやイメージで知られる有名人的なもので、彼の音楽の偉大さに対してのものではないように見える。

音楽をネガティブに評価するときに、「偽物」「中身がない」「深みがない」「薄っぺら」などの表現がある。実際、アーティストによっては僕もそういう言葉を心の中でつぶやくこともある(あえて口には出さないけど)。ただし、こういった評価はとても感覚的で、使っている人ですら具体的には説明できない。それでも音楽好きなら感覚的に共有できる言葉でもある(クラシック評論を除く)。

ところがプリンスに関してはその種のネガティヴな評価はまず聞かない。もちろん嫌いという人はいるだろうし、そもそもここ日本ではあのイメージに対して好感を持つ人は少なくて関心がないという人が大勢を占めている。それでも「プリンスが好き」「(好きでなくても)プリンスは凄い」と言える人はもうそれだけで「この人わかってるな」と思う。つまり、広い意味でのポピュラー・ミュージック、ブラック・ミュージックの理解度を示す基準になるアーティスト。デヴィッド・ボウイやスティーヴィー・ワンダーはじめ、生前から多くの同業者が畏敬の念をもって賞賛しているのも、プリンスが「本物の中の本物」だからだと思う。

プリンスの音楽のキモは言うまでもなくリズムだ。まず、ここで音楽の理解度を問われる。「音楽にとってリズムってものすごく重要だよね」と言って「そりゃもちろん」と即答できる人か否かで「音楽がわかっている/わかっていない」の篩にかけることができると思っていて、リズムの価値がわかっていないような人にプリンスの凄さはわからない。そのリズムはシンプルで音が軽いのに骨太のグルーヴがあるという誰にも真似できないもの。基本となるドラムだけでなく、音量と響き方まで完璧にコントロールされたパーカッションや効果音の配し方、シンプルなのにニュアンスに富むギターのカッティング、繰り返しのリフであってもウネリ感が持続するベースといったところなどが言葉で表現できる特徴か。重要なのはそれらの組み合わせ方が巧みで、どれも出すぎたことにならないバランス感覚があるということ。こういうことは音楽学校のようなアカデミックな学びから得られるものではなく、感性と肉体からしか生まれてこない。だから他人には真似できない、プリンスだけの音楽になる。99.9%のミュージシャンはこの領域までたどり着くことができないから、プリンスが尊敬を集めることは当然のことだと思う。

それ以外にも、黒人フィーリングが濃厚で繊細なバラードやリズム抜きのシンプルな曲を演らせても一級品。すべての楽器を演奏することも多く、プロデュースから録音エンジニアまでこなしながら、更に凄いのはそういった他の人が上り詰めても行けない領域のクオリティの曲を量産できてしまうこと。これだけ言って凄さをわからない人は、忌憚なく言わせてもらうならそもそも音楽がわかっていない(たとえば「Purple Rain」で記憶が止まっている)人だと思う。

皮肉なのは、そんな高品質楽曲、演奏を量産できてしまうが故にその凄さ、ありがたさが薄れてしまったことかもしれない。毎年のようにリリースされる新作に満足する熱心なファンがいる一方、「プリンスとしては大したことない。平均クオリティの大量生産」と評する人もいる。音楽ファンというのは「もっともっと」と求めるもので、飢餓感があればあるほど与えられたときに満足するという特性があって、例えば少々ジャンルは違うけれどキング・クリムゾンのようにライヴ音源を100本以上も販売されてしまうとたとえ内容が良くてもひとつひとつにありがたみがなくなって熱心に聴く気がしなくなってしまう。一方、「○○の5年ぶりのアルバム」には話題が集中して高い評価が集まりがちになる。音楽の質と関係ない「周辺事情」で低く評価する人を生んでしまったのが、プリンスの有り余る才能の悲劇だったのかもしれない。

最後に、もうひとつ過小評価されていることとしてギターに触れないわけにはいかない。小技から派手な速弾きまで完璧にこなすテクニック、リズム・ギターのウネリの作り方、エレキ・ギターが持ち得るサウンドをここぞというところで使うセンス、いずれも彼以上を思い浮かべられる人がいない。ギタリストを比較して順位付けをするなんてナンセンス極まりないけれど、格で言うなら間違いなく超一級品である。

これだけの才能を失った悲しみはあまりにも大きい。しかし、1年半前の記事に書いた通り僕はそれほど熱心なプリンスのファンではない。まだ飽きるほど聴いているわけではないから、これまでのアルバムを楽しんで更なる新たな魅力を見つけられるに違いない。それを楽しみに残されたアルバムを聴いていきたいと思う。

P.S. 膨大にあると言われている未発表曲がどのようのコントロールされてリリースされるのかが気になります。くれぐれもレコード会社の営利第一主義にならないものであってもらいたいものです。

IT業界人の日本語力

IT業界で働いてかれこれ四半世紀を過ぎようとしてる。ITなんて言葉がまだ存在しない時代に保守エンジニアとして社会人生活をスタート。今はもう名前が残っていない、当時は世界有数だった某外資系コンピューター・メーカーで、パソコンすらいじれなかった素人がコンピューターのプロフェッショナル集団の世界に飛び込んだ。

3年くらい離れていた時期があったのを除けば、以来ずっとこの業界で働き続けたことになり、コンピューター技術の基本的なことはよくわかっているつもりではいる。そうなって当たり前の仕事内容であり、職場環境でもあった。周囲にいる人の9割以上がエンジニアだったし、なにしろその人達の技術レベルが非常に高かった。

実は3年くらいこの業界を離れていたときに何処にいたのかというと翻訳業界にいた。僕の英語力はまったくたいしたことはなくて本来はその業界で働けるような英語力はない。ところがその会社はコンピューターのマニュアル翻訳が大半だった。技術的内容を知っていることが強みということで採用され、翻訳者が仕上げたものをチェックする仕事に就いた。

多くの人が翻訳という仕事は高度な英語力を必要とされるというイメージを持っている。でもマニュアル翻訳ではそんな小難しい表現や言い回しなんてものは出てこないから、技術内容がわかっているエンジニアなら中学生レベルの英語力があれば文章の理解はなんとかなってしまう。いざその仕事をやってみて痛感したのは自分の日本語力の至らなさだった。意味はわかっているのに読みやすい文章に仕上げることができない。いや、それ以前にまともな日本語の文章が書けない。

それまで12年のエンジニア生活で思っていたことのひとつは、周囲にいるエンジニアたちはなんと日本語力が低いんだろうということだった。理系出身者ばかりの環境ではその程度が当たり前だったのかもしれないけれど、周囲がそうだったので逆に自分は文章は書ける方だなと自信のようなものすら持っていたくらいだった。ところが周りが語学の専門家の中に入ったらあまりに自分が日本語を知らないことを嫌というほど思い知らされたわけである。井の中の蛙大海を知らず、とはまさにこのこと。

えっ?たかが技術文書マニュアルの日本語でしょ?そこで日本語力なんて要求されるものなの?と思う人が多いことでしょう。

でも僕は、例えば箇条書きの場合に各項目の文体が体言止めで終わっているものと「である」で終わっているものが混在しているのはプロの文章仕上げ人としては恥であるということすら知らなかった(お金を出して買う本にすらそういうものを見かけることはあるけど)。

「この方法では情報を得ることができたり状態を回復することができる」と書くのはおかしいんだけれど、当時の僕はまったくこんなこともわかっていなかった。「したり」と来たらもう一方も「したり」とするのが正しい。つまり「回復したりすることができる」としなくてはならない。

これらはほんの一例で、そこで覚えた日本語文章書きの作法は数知れないくらいある。そして今でも自分の日本語力のなさを痛感しつづけている。日本語力のなさを実感しているからこそ自分の日本語が本当に間違いないかと常にセンサーを働かせ、ちょっとした文章を書くときにも辞書をしばしば引いて、日々日本語力を向上させようというモチベーションを持ち続けることができている。

翻訳の世界を離れてIT業界に戻ってくると、周囲にいる技術者または技術者上がりの管理職などが書く日本語、言葉遣いが、ため息が出るくらいデタラメなことが、より一層目につくようになってしまった。

部下に報告書を書かせると、表現云々の前にまず日本語として文章の体を成していない。一行の文章で装飾部分を抜いて主語と述語だけにすると文章として成立しない。そんなレベルの報告書を涼しげな顔をして出してくる。そうかと思えば、想像をめぐらせても主語を特定できない、書いた本人だけで自己完結した珍文も珍しくない。酷いのは文章だけではない。50代のマネージャーがお客様に提出した正式な報告書に「ちゃんとやります」と書いてあったときにはさすがに脱力してしまった。上記の「~したり~したり」など、日本語表記の基礎を守らないとWordが緑の波線で親切に教えてくれるにもかかわらず、そのまま提出してくるなんてことはちっとも珍しくない。

文章に限ったことではなく言葉の選び方も凄い。「オレ今日は手順書の執筆があるからさあ」と言っていたのは何かの冗談か皮肉かと思って訊いてみたら「えっ?何かおかしいですか?」と真顔で返ってきたのには開いた口が塞がらなかった。まあ、確かに「執筆」とは「筆を執って書くこと。文章を書くこと。」と広辞苑には書いてあって後者だけを取れば間違いとまでは言い切れない。とはいえ、筆を執るという行為は思いを文章に託す自発的な行為であり、小説や手紙のように自分の意思を込めた文章を書くことを執筆と呼ぶことくらい少し日本語の常識がある人なら知っていて当然の話でしょう。

あまりにも日本語になっていない報告書は、(僕が最終レビュワーなので)懇切丁寧におかしいところを指摘する。その指摘されたことに対して彼らは反応しない。ただ黙って聴いているだけである。日本人なのに日本語になっていないと指摘されるのは面白くないからだろうし、指摘されたことに反論できるような知識も考えもないからただ黙って聴いている(聴かされている)。もっと単純に「そんなのどうでもいいじゃん」と思っている可能性が高いけれど。あまりにも酷い人に対しては、最後に「◯◯さんは新聞や本は読む?」と尋ねてみる。返ってくる答えは100%「いいえ」。

読むのは、情報を売るだけが目的のパソコンやゲーム関係の雑誌やネット記事程度で、これらは文章を売ることを商売とした人が書いているものではないので文章もけっこう酷い(そういえばオーディオ誌の文章も酷いものが多い)。もちろん新聞なんて読みはしない。つまり日頃からまともな日本語に接していない。

また興味深いのは言葉遣いと文章書きの違いで、しゃべると筋道を立てて文法的な破綻もなく、単語もある程度しっかりと選べるのに、文章を書くと間違った言葉を選び、中学生レベルのようなものしか書けない人もいたりする。

しゃべりが子供っぽくて文章も稚拙だと、仕事をきっちりやっていても仕事ができる人には見えないのはもちろんのことだけれど、しゃべりがしっかりしていて仕事をきっちりやる人の文章が稚拙であったときのイメージダウンは結構大きい。稚拙な文章は、抱かれているかもしれない尊敬の気持ちすら飛んでしまうかもしれないほど人の評価を落とす可能性がある。経験豊富で技術力もあるが言動や態度が少々軽いエンジニアがいて、担当顧客とひとたび揉め始めると「あんな酷い日本語(報告書)しか書けないエンジニアを担当に付けるな」とマネージャーにクレームが上がっていたのを実際に見たこともある(日本語がクレームの主因ではないが揚げ足を取られたということ)。

だから、日本語文章力は本当に大事だと思う。何もハイレベルの日本語と言っているわけではない。最低限の普通の日本語が書けるようになることを言っているだけのこと。エンジニア系(出身)の人の大多数にはその最低限がどこにあるのかという意識すらないところがとてもマズイことに思えてならない。

何も文法をイチから勉強し直すとかアカデミックに学ぶとかいう話ではない。ある文章を読んで「よくまとまっている」「表現が上手い」「言葉選びが巧み」と思ったらそこから盗むなど、日常の心がけで磨けるレベルのことを言っているつもりである。音楽を聴いても何も感じない人がいるように、そもそもどの文章を読んでも何も感じないという人もいるかもしれないけれど、Eメールを書くサラリーマンをやっていて一生文章書きから逃げられる人はそうはいないということを考えてみれば、無関心で済ませて良いのかどうか自ずと答えが出るんじゃないだろうか。

愛猫ぶらんとの生活 4歳になりました

ぶらん4歳

このブログには「猫のいる生活」というカテゴリーが存在するにもかかわらず、ほとんど記事を書いていない。ウチのぶらん(という名前)、本当に手がかからないんです。医者に行ったのは後ろ脚のかかとに小さな円形脱毛ができたときの1度だけ(自然治癒)。2ヶ月に1度くらい吐いてしまうだけで、体調の変動がまったくと言っていいくらいない。元気で遊び好きで人懐こくて優しい物腰(ごはんをもらうときを除く)。限られた一部のものを除くと爪とぎで家具を傷つけるようなこともなく、暴れまわることもない。毎日癒やされて幸せを提供してくれるだけで満足とはいえ、あまり書くネタがないというのが正直なところ。

そんなぶらんがウチに来ておよそ3年半が過ぎました。もともと夫婦2人だけでの生活に入り込んできただけに家の一員となることに時間はかからず、それが3年半も過ぎるとほとんど家族の一員となってしまう。まあ、ペットを飼ったことがある人なら誰でも経験している話です。

猫は群れを成さない生き物で狼族のような家族スタイルの生活をしていないので、確かに自由気ままに、どこかに隠れて寝ていることは多い。一方で、家を1日以上空けて帰ってきたときのスリスリ甘え攻撃は勢いを増すばかりで、「群れる習性がないので孤独や待つことにストレスを感じない」と言われる説には少々疑問を感じなくもない。人間でも誰かと群れていないと不安になる人もいれば、1人がいいという人もいるので、猫にも個性があってこの子はきっと寂しがりやなんでしょう。いずれにしても「猫はこうだ」という説は一旦は受け止めて、あとはその子の個性に合わせてあげるという当たり前のことをしてあげれば良いと思います。

そんな寂しがり屋で甘えたがりな娘だけに、お友達を加えることも2度ほど考えたことがあります。でも、いろいろ面倒になって結局はやめてしまいました。

例えばフードは自動給餌器でいつもあげている。給餌器が楽なところは、当たり前だけれど決まった時間に決めた量のフードを与えることができること。朝は人間が起きる時間にフードを食べる設定にしておくので、朝起きてトイレに入ったり顔を洗ったりしてるときにミャアミャアご飯ねだりをされ続けなくて済む。週末ゆっくり寝たいときにもいつもと同じ時間に食べさせることができるし、妻と2人で出かけてゆっくりディナーを楽しんで夜遅くなるときも気にしなくていい。

ところが2匹飼いになると、2つ給餌器が置いてあってもどちらか食いしん坊の方がすべて食べてしまうらしい。もちろん、外出時に給餌器を使うのをやめて、いつもより数時間程度あげるのが遅れたからといって問題があるわけではないんだろうけれど、ディナーを食べて帰るくらいのことで猫のことが気になるというのもちょっと重い話です(そんなことなら飼うな、という厳しい話はなしで)。

実はご飯の問題より、2匹飼いをしないことにした大きな理由がもうひとつ。

いつもお世話になっているキャット・シッターさんのところは里子の募集を兼ねた猫カフェも運営されているので、あるとき遊びに行ってみたことがあります。「ウチのぶらんの友達を探しにきました」と明るく話しかけてみると、引き取り手が来てくれたと喜んでくれるのかと思ったら表情が曇りはじめ「う~ん、ぶらんちゃんはお友達はどうかな~。ぶらんちゃん、不思議ちゃんだから・・・」。おっと、想定外の答え。ちなみに、シッターさんは、拙宅留守中の訪問時に大歓迎してくれるウチのぶらんのことをよくわかっている人であり、当然数多くの猫を見てきた人です。もちろんできることならカフェにいる行き先のない子を里子として引き取ってもらえるならありがたいわけです。そういう人から発せられる「お友達はどうかな~」は重みがある。ウチのぶらんは、要するにマイペースで友達を欲しがるタイプではない、ということらしいです。それにしても不思議ちゃんかぁ。まあ、わかるような気がしますが・・・。

冷静に考えると、1匹じゃあ寂しいだろうから友達がいた方がいいのかも、というのは人間が勝手に想像したものにすぎない。1人でお留守番は確かに寂しいかもしれないけれど、お気に入りのハンモックを独り占めできなくなったりするくらいなら普段は1人がいいとか思う性格だとしたら、きっと1匹でいた方が幸せなんだろう。そう思って2匹飼いは断念しました。

ちなみに、旅行で家を開けるときは、出発と帰宅の日を含めて5日(完全留守3日)までを上限にしています。このくらいだと帰宅時に「みゃー」と言いなが擦り寄ってきていたんだけれど、昨年ウィーン&ベルリン旅行のときはやむなく8日間(同6日)というこれまでにない長期留守になってしまいました。帰宅時にはあまり反応がなく、目に見えて毛艶が悪くなっていた(そのときの写真を見ると毛がボサボサ)。たぶん、飼い主のことを忘れてしまっていたんじゃないかと思います。1日で元に戻りましたが、いくらシッターさんが1日に一度面倒を見てくれるとはいえ、さすがに丸々7日間家を空けるとかなりよろしくないようです。

【余談】
使っている自動給餌器はこういうタイプのものです。
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いろいろな販売店で、様々な型番(オートマチック・ペットフィーダーなどの商品名が一般的)で売られており、色が違っていたり、パネル表記が日本語だったり英語だったり、説明書が違っていたりするものですが、基本的にはすべて同じモノのようです。円状の器が分割されていて1回分ずつ仕込み、回転して開口部に餌が現れるタイプで、4分割されているものと6分割されているものがあります。餌の量を確実にコントロールできるところとが最大のメリットで、最終回(4分割だと4回目、6分割だと6回目)は初期セッティング時の開口部になる(蓋が付くが簡単に開けられてしまう)ため実質使い物にならないとはいえ、最大24時間のインターバルにすればそれぞれ3回、5回の給餌ができるところが特徴でしょうか。6分割のものを2個用意してそれぞれ朝ごはんと晩ごはんの時間に設定すれば5日分の餌を設定できることになります。ただし、過去3年の使用で、開かなかったことが3回あり、頻度は高くないとはいえ信頼性はもうひとつといったところ。キャット・シッターさん曰く、やはり動作しなかったり回転が止まらなくなってしまったりという例がよくあるそうです。それから初めて買ったものは毎日使って1年くらいで壊れ、他でもそういう評判も見かけるのでその程度のものと思っておいた方が良いかもしれません。

ヴィンテージ・トラブルをナマで観た(2016年ジャパン・ツアー)

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あれは、Queen+Adam Lambertをお目当てに観に行った2014年のサマソニのときだった。そのお目当てが期待以上に素晴らしかったという喜びだけでなく、ロック系の音楽からしばらく遠ざかっていたこともあり、サマソニ2104はフェスの雰囲気そのものを楽しんだイベントだった。その勢いで、たまには最近の音楽でも聴いてみるかとWOWOWでダイジェスト放送していたものも一通り観てみた。予想通り、最近の音楽は面白くないなあと幾分醒めた目で、しかし粘り強く観続ける。個人的に理解できないのは、うつむき加減に肩を落としてステージに立ち、抑揚と変化のないメロディとリズムをダラダラと流すだけのバンドが多いこと。これがイマドキの若者の好みなんだろうか?トレンドなんだろうか?こんな弱々しくて感情を抑えた音楽(これ、ロックなの?)で若者は満たされるのだろうか?単調すぎてそもそも音楽性がプアだし、ユーモアや遊びのカケラもない。尾崎豊の歌を聴くと「そんなことしたら捕まっちゃうじゃないですか」と言う(らしい)最近の若者には有り余る若さを開放する、なんてものは必要とされていないのかもしれない。ま、オジさんの戯言ですが。

そのまま社会勉強のつもりで観続けていたときに、明らかに空気が違うヤツらが現れた。汗だくになって跳ねる黒人ヴォーカリストがソウルフルに歌い、R&B、ソウル、ファンクを飲み込んだ勢いと熱気に満ち溢れたロック。好みのストライクゾーンで、こちらも体が反応してしまう。見た目は若いわけではないし、演奏も熟れた感じで、こんなグループがあったんだと思ったのがヴィンテージ・トラブル(Vintage Trouble)だった。

ネット情報によると元々はそれぞれに売れないミュージシャンたちで、セッション・ミュージシャンなどで糊口をしのいでいたとのこと。腕は確かでも売れるとは限らないというのはよくある話で、こういう経緯でヒット狙いの音楽を作って有名になったバンドの代表例としてはTOTOが思い浮かぶ。でも、ヴィンテージ・トラブルがやっている音楽は売れることを狙っているとは思えないくらい古い!自分たちがやりたいと思っている音楽をやっていることは彼らのパフォーマンスを見ればよくわかる。音楽もこの姿勢も僕の琴線に触れる。数曲の映像を観ただけで「今、生で一番観てみたいバンド」になってしまった。

早速1stアルバム「The Bomb Shelter Session」を聴いてみる。あれっ?こんなに大人しかったっけ?意外と聴かせる曲が多い。これはこれで悪くない。いや、普通の感覚で接すれば大人しくなんかないし、音楽の質としてはなかなかいい。でも、あのサマソニの映像で見た弾けた感じがない。その後リリースされた2ndアルバムはなんとブルーノートと契約してのもので、彼らのライヴを観て惚れ込んだという社長のドン・ウォズ自らがプロデューサーを務めるというから期待していたら、1stアルバムよりも聴かせる内容、端的に言うとバラード系が多くて更にあれっ?となってしまった。繰り返しになるけれど決して悪くはない。でも、これがこのバンドの本領だとも思えない。米アマゾンのレビューには Great Live Band Makes Tame Studio Album (tame=飼いならされた、不甲斐ない、迫力のない、管理下に置かれた、などの意味)と書かれている始末である。

そして4月7日、六本木のEXシアターでついにライヴを体験することができた。

タイ・テイラーが"さくらさくら"をソウルフルに歌い上げて始まったステージは、アップテンポに飛ばし、中盤にミドルテンポの曲やバラードを、最後に2枚のアルバムのオープニング曲 ”Run Like A River” ”Blues Hand Me Down” で盛り上げるという構成。アンコールに"Run Outta You"を持ってきたのは少々意外で、ヴォーカルが中心のバンドがオーソドックスな3ピース・ブルースロック・バンドとしての地力を魅せつけるなかなの聴き物だった(スティーヴィー・レイ・ヴォーンかと思ったくらい)。タイ・テイラーのパフォーマンスは、どこか芸人風のコミカルさが漂っていて、良くも悪くも真面目さに見える他の3人とのギャップがあって面白い。アンコールを含めて、実質90分というステージは演る方も観る方も丁度良い長さ(レパートリーも少ないし)。

この日、そこにはサマソニと同じように弾けたヤツらがいた。申し訳ないけれど、前座のウルフルズとは音楽の基礎体力が違う。クラシックやジャズと違って、堅苦しい能書きやルールなど構わずに感情を自由に開放して表現するところこそがロックの良さ。ヴィンテージ・トラブルのライヴは、そんなロックの原点を思い起こさせる。時代遅れかもしれないけれど、こういうグループがあることじたいが嬉しいし、是非生き残って欲しい。あとは、この熱気をCDにパッケージ化できるようになることが課題か。いっそのことライヴ盤を出してもいいんじゃないだろうか。

もっと多くの人に聴かれるべきバンドだよ、この人たちは。そう確信した素晴らしいライヴ。これからも応援します。

川幅うどん+花見+お宮参拝ドライブ

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以前、タモリ倶楽部で確か川越を特集していたときだかに、荒川の両堤防間の幅が「2537m」という日本一の川幅にちなんだ川幅うどんというものがあることを紹介していたので、暖かくなったら行こうと思っていた。探してみると鴻巣というところらしい。これまで埼玉には縁がなくて地図を見て「ふーん、このあたりなんだ」と思うだけで町の雰囲気などのイメージがまったくわかない。じゃあ行ってみよう!

ネットで検索して点数の高い馬力屋へ。12時15分ころに到着すると店の前には4組くらいの待ち人たちがウロウロしている。20分待ち程度で店内へご案内。テーブルの上のメニューを見ると、もり、かけ、鴨汁それぞれに蕎麦とうどん、おかずに天ぷらなど数品が用意されているという実にシンプルな蕎麦屋。川幅うどんはそのメニューには書かれておらず、壁の張り紙に掲示されているので、メニューだけ見てうどんを注文すると普通のうどんになってしまいます(お店の人がちゃんと「うどんは2種類あって」と聞き直してくれますが)。川幅うどんは数に限りがあるようなのでなくなり次第終了と入り口の待ち人用名簿の脇に書いてありました。尚、この店は川幅うどんは鴨汁のみの提供で、お願いすれば「かけ」にもしてくれるようです。

さて、お味の方はというと鴨汁フリークの僕から言うと汁、鴨は割りと普通な感じ。鴨はやや臭みを残したささみのような感じで油は完全に抜けた仕上がりです。モチモチうどんに鴨汁がたくさん絡みついてきて美味しい。当然ながら、幅が太すぎるのでうまくすするのは難しく、食べる感じでしょうか。麺は見た目以上にボリュームがあってお腹が満たされます。追加注文の野菜天は可もなく不可もなく。総じて幅の広さがすべてという感じで、なぜに食べログの点数がこんなに高いのかちょっと不思議な感じはします。いや、まあ、美味しかったんですけどね。他の店では鴨汁以外も用意しているようなのでそちらも試してみたいところ。

お腹が満たされたあとは、元荒川の桜を鑑賞。こじんまりとした川、のんびりとした雰囲気で人もそれほど多くなくて散歩しながらの花見にはいいところでした。好きです、こういう感じのところ。
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最後は、閑静な住宅街に異彩を放つ台湾様式の聖天宮というところへ。まだ行ったことのない台湾の建築様式を堪能して、台湾式のお参りをしてきました。ご利益がありますように。
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