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Enjoy Life, Enjoy Hobby

趣味の人生を楽しむサラリーマンの日記

アルファロメオ・ミトとの別れ

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学生時代に友達から12万円で買った9年落ち日産ガゼール(覚えている人、少ないでしょうねえ)が僕の初めてのクルマだった。当時は動けばなんでも良く、ただ所有して自由に乗れるというだけで何やら大人の仲間になったような気分になれて嬉しかった。しかし、貧乏学生に維持費の負担は重く、ラジエーターに穴が空いたりエアコンのコンプレッサーが壊れたりというトラブルに耐えられなくなって次の車検で廃車にせざるを得なかった。乗ったのはわずか1年強。それでもこのクルマで僕は運転を身に付けたわけで大事な思い出のクルマである。

社会人になってから、ユーノス・ロードスターに合計11年乗った。NA6CEは2年所有と短かったものの、飽きたのではなく大幅に改良されたNA8Cで長く楽しもうと思ってのアップグレード的な乗り換え。次は3年落ちアルファロメオ156ツインスパークに6年乗った。走行距離が短く程度が良かったものの、これからあちこち手のかかりそうな時期に差し掛かっていたときに、アルファロメオ・ミトに出会った。

つまり、気に入ったクルマにそれなりに長く乗り、それぞれ9年を過ぎて維持費が嵩みそうになってきた時期にたまたま新しい出会いがあって手放すというサイクルで僕はクルマを乗り換えてきた(よって手放すときの下取り価格は250ccのバイク程度にしかならなかった)。気に入ったものを長く使いたい性格だからというのと、欲しいと思えるようなクルマがそうそう現れないという偏食ぶりが、結果的にこのようなクルマとの付き合い方になったんでしょう。

しかし、今回の買い替えは事情がちょっと違う。アルファロメオ・ミトは新車で購入してまだ6年半しか乗っていない。ノートラブルで傷んでいるところもない。大事に扱ってきて程度が良いこともあって査定価格はイタリア車だというのにまだ100万円を下らない。そして僕自身がすごく気に入っていて飽きたわけでもない。何年に一度あるかないかという、欲しいと思えるクルマとの出会いがあったからというのが手放す最大の理由で、これはつまり何の問題もない伴侶を切り捨てるということになる。これが気持ち的にちょっと凹む。

ミトの魅力は(http://buhaina.blog.fc2.com/blog-entry-124.html)で書いた。今でもここで書いた思いは変わらない。細かいことは気にしないでスポーティでカッコ良くてワクワクするクルマにしようという作り手の気持ちが伝わってくるクルマであるところが僕のもっとも気に入っているポイントだ。ところがこのクルマは全く売れず、次期モデルの予定はないという(アルファロメオのブランドじたいを上級にシフトしたいという経営的な思惑もあるようだ)。ちなみに、クルマに詳しくない人たちからも「アルファロメオ」という名前は(漠然とではあるけれど)一目置かれているブランドのようで、高級車に乗っているかのように思われることが多い。にもかかわらず、ミトは売れなかった。156と147はあんなに売れたのというのに、品質と完成度は明らかにミトの方が上だというのに、マニア向けムードたっぷりだった145よりも売れなかった。

まず、僕が気に入っているデザインがあまり評判がよろしくない。そしてこれが最大の理由なんでしょう。塊で主張するカタチであること、厳つい顔立ちで主張するデザイン・トレンドにあってあのファニーな顔つきが受け入れられなかったようだ。これはもう仕方がない。そしてBセグメントとしてはやや高価であるというのも原因ではないかと思う。インテリアの質感は、さすがに2009年のクルマともなるとラテン系でもお粗末ということはなく、まずまず。ただし、高級感があるかというとそこまででもないという点はアピールポイントとまでは言えない。

冷静に見ると、やはりミトは完成度が高いとは言い難いところがある。走りはしっかりしている。重みがあって路面状態をしっかり伝えてくるステアリング・フィールは上位のクラスに引けをとらない一方で、コツコツと律儀に路面の凸凹を拾う硬めの足回りや、室内に盛大に響くロードノイズなど、洗練されている、高品質なものに乗っているという実感がそれほどないといのは事実。これらも含めてのイタリア車、アルファロメオなわけですが。

クルマ好きにとって、クルマというのはそれじたいへの思い入れもさることながら、そのとき過ごしてきた生活との思いも重なる。妻と出会ったばかりのころ、初めてのドライブ・デートはちょうどミトがやってきたばかりのころだった。不慣れなクルマとともにとても緊張していたことはやはり昨日のことのようにハッキリと覚えている。妻と出会ってからの6年半はそのままミトと生活してきた6年半でもあり、いろいろなところに出かけたことひとつひとつが大事な思い出になっている。これまでのクルマたちの別れ以上に、ミトとの別れが辛い。でも、その思い出を大事にしていこうと思う。ありがとう、アルファロメオ・ミト!アルファロメオはこれからも僕にとって愛おしいブランドであり続けることでしょう。

ムーティ指揮 シカゴ交響楽団 2016年日本公演

ムーティCSO2016

ムーティ指揮 シカゴ交響楽団
2016年1月18日
東京文化会館
【演目】
ベートーヴェン 交響曲第5番
マーラー 交響曲 第1番 「巨人」

クラシックのコンサート通いを始めてから2年半以上が経過した。この間、ベルリン・フィル、ウィーン・フィルなどの世界的に有名なオケから、中堅どころ、あまり有名とは言えないオケまで幅広く観てきたのと、知識も豊富になってきたことで、コンサート前に漠然と「このくらいのレベルのサウンドなのでは」というイメージを持つようになってきた。もちろん、その通りになるとは限らず、思ったよりずっと良かったこともそうでもなかったこともあって、海外のオケだからと言って必ずしも素晴らしいとは限らないということもわかってきた(それがまた生演奏の面白さでもあるけれど)。もうひとつ、コンサートに慣れてきたせいか、浮足立って過剰に盛り上がった気持ちでコンサートに臨むことがなくなってきたという変化もある。初心者ならではのドキドキ、ワクワクという新鮮味を失いつつあるというのと同時に自然体で楽しめるようになってきたということなのかもしれない。

しかし、今回のコンサートちょっと違う。チケットを買うときから「是非観たい」と意気込み、「どんな音楽を聴かせてくれるんだろう」と指折り数えて待つくらい期待値を高くしていた。昨年3月に観たロサンゼルス・フィルハーモニック(LAP)のマーラー6番で初めてアメリカのオケを初体験し、ヨーロッパのオケとは異質のあっけらかんとした明るい音色と鳴りに圧倒され、一般的には更に評価が高いシカゴ交響楽団(CSO)は一体どんな音を聴かせるのか強い興味を持っていたからだ。

そのLAPのときもそうだったけれど、今回も開始前から楽団員がステージに大勢いて、思い思いに大きな音を出しての練習。これはアメリカのオケの習慣なんだろうか?その無造作に慣らしている音、全員揃ってからの音合わせからして音に力があって本番への期待が高まる。

まずは、ベートーヴェンの5番。ムーティ指揮フィラデルフィア管弦楽団のCDは早めのテンポで進むが、この日はゆったりめ。この曲は、どちらかと言えばゆったり丁寧に演奏してくれた方が好みなので嬉しい。CSOと言えば金管が有名という先入観で接したものの、そもそもベートーヴェンが金管セクションは少なめの編成であることから特別凄いという印象は受けなかった。それよりも厚めの弦の響きと、木管セクションのケレン味のない伸びやかな音に耳を奪われる。そして弱音部の音の確かさと豊かさにむしろ底力を感じる。各セクションの揃いも見事なもの。あ~、なんて上手いオケを聴いているんだろうという感慨に浸れる。海外の一流オケでこの5番を聴く機会は、ありそうで意外とないのでとても貴重なものを聴かせてもらったという思いが、さらに満足度を高める。この曲だけでオーディエンスを魅了しきったと言ってもいいかもしれない。譜面の指示よりも大きめの編成で、このような大きなスケールの演奏スタイルは狙ったものだったんでしょう。

マーラーの1番は、導入の静かなパートで弦の弱音の素晴らしさが遺憾なく発揮される。木管の出番も多いから、こちらも見せ場の連続と言って良いほど巧さを堪能できる。そして大幅に増員された金管楽器。ホーンのアンサンブルや鳴らし方は精密機械のような正確さというよりはエネルギッシュな力感溢れるもの。全体にややゆったりと歌わせるテンポで進み、よりテンポ落として演奏された第4楽章のフィナーレは、ムーティ独特の溜めも相まって圧倒的で、なるほどこれが金管のCSOと言われる所以かと納得させるに十分なパフォーマンスだった。女性グランカッサ奏者の上手さもこのフィナーレ大きく下支えしていたことも付け加えておきたい。

CSOは高度な技術でメカニカルに演奏する高性能オケという印象を勝手に持っていたんだけれども、そのような人工的なニュアンスはまったく感じない人間味溢れる演奏だった。上手いし、決めるところはビッシリ決まるものの、アラ探し的に聴けば場面によっては揃わないところもないではなかった。その点がベルリンフィルとは異なるところ。また、LAPのような明るさはないとはいえ、むしろ温もりがあってよく歌う印象で、一方で熱く演奏しようと思えばいくらでもできるこの日の2曲において、ある一線を超えない理性的なものも感じけれど、それはムーティが引き出したものだったのかもしれない。

感じを伝えたいために他のオケとの比較をしてみたけれど、実はそんなことは重要ではない。CSOにはCSOのサウンドがあって、しかも圧倒的なオケの歌いっぷりとCSO流の技術がある。いいモノ聴けたなあと放心しながら会場を出たコンサートはこれまでそう多くは経験していないけれど、この日は間違いなくそうだった。ブラヴォー!

「みんなのKEIBA」に物申す

このブログでは批判的な内容も少なからず(いや多くか?)書いてきている。ただし、批判するときはある本についてだったり、映画についてだったり、あるいは不特定多数が対象だったりで、特定の個人を名指しで批判することは基本的にしていない。阪神の和田監督の振る舞いがリーダーとして相応しくない、資質がないと思うと書いたことが1度あるだけだ。

しかし、今回は我慢ならないので名指しで批判させていただく。

フジテレビの日曜午後3時から放送している「みんなのKEIBA」が年明けからリニューアルされた。メインのキャスター交代とか、番組のコーナーの変更はよくあることで、そのときどきに面白かったりそうでなかったりするのもよくあることなので一喜一憂したりはしない。

しかし、今回はメイン司会に佐野瑞樹アナウンサーが起用されたことに物申したい。

佐野氏はこれまでも実況アナウンサーとして起用されていたこともあり、競馬中継の経験はそれなりに長い。競馬中継にこだわりのある人はアナウンサーにもこだわりを持つ人が少なくないけれど、僕は「上手いな」「下手だな」と思うことはあっても特に誰でも構わないから佐野氏の実況についても「上手くはないかな」程度の思いしかなかった。ただ、ひとつ言えることはアナウンスのときに出てくる情報の質を聴いてるかぎり、この人は競馬が好きではないな、というのはずっと思い続けてきた。アナウンサーもサラリーマン、人事によってやりたくない仕事をやらざるを得ないこともあるだろうからそれも仕方がない。

しかし、メイン司会となるとそうはいかない。これだけ長く競馬に関わっていて競馬を好きになれない人がメイン司会というのは困る。

例えば、今日の中継にあった京都第10レースの紅梅ステークス。レースは1番人気のシンハライトと2番人気のワントゥワンが並んで入線、首の上げ下げでどちらが勝ったのか映像ではわからない際どさだった。そして、スタジオにカメラが切り替わって佐野アナのコメントは「人気サイドの決着でした」。以上。それだけ。順序こそわからないものの、1着と2着が1番人気と2番人気だから安泰な決着だった、ということ以外に何もコメントが思い浮かばなかったらしい。

そもそも、1着と2着が1番人気と2番人気なら順番はどうでもいいや、というのは馬券の話であり、しかも複勝、馬連、3連複に関してのみの話。単勝馬券を買っていた人にはどちらが勝ったかは当然最重要問題、馬単、3連単を買っていた人も同様である。

もっと基本的なことを言うならば、競馬は勝ち(1着)を争うスポーツである。どちらが勝ったのかわからないスリリングな状況にはそれなりのコメントが出てくるのが当たり前のことなのに「人気サイドの決着でした」だけなのは競馬という競技を理解していないからだ。百歩譲って、大目標となるレースが決まっているわけでもない古馬の条件戦ならわかる。しかし、紅梅ステークスは桜花賞を目指す明け3歳馬にとって、本賞金を加算できるかどうか、その後のローテーションに大きく影響するレース。もちろん、同じ世代のスピード自慢の牝馬たちと走るレースで勝ち上がることにも意味がある。だからこそ、歴代の勝ち馬に、リトルオードリー、スティルインラブ、スイープトウショウ、ローブデコルテ、レッドオーヴァルといった後のG1ホースの名前がズラリと並んでいるのだ。

これらは特別入れ込んだマニアしか知らない話ではない。ある程度、競馬を続けている人なら常識であり、競馬中継のメイン司会者なら知っていて当然のことだ。今回は、ひとつのエピソードだけ採り上げているけれど、佐野アナのコメントは競馬を知っていればそうはならないだろうということが他にもよくある。競馬が好きな人なら、その軽率なコメントから競馬を好きでないことを簡単に見抜くことができてしまう。

何も佐野瑞樹アナに個人的な恨みをぶつけたいわけではない。適性のない人に担当させるフジテレビの人事がおかしい。競馬中継のメイン司会はそう簡単にできる人はいないのかもしれないけれど、だからと言って競馬を好きでもない人、好きになろうと言う熱意がない人にやらせるのは勘弁していただきたい。凋落一途のフジテレビなら、知識や実力がなくても熱心にやろうという若い人にやらせてみるなどのチャレンジも必要ではないだろうか。

McIntosh MA6900 電球交換に挑む

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はじめにお断りしておくと、僕は極度に手先が不器用。かつてある著名なフラメンコ・ダンサーに手を見せたときにたったの1秒で「硬そうだわ」と見抜かれたほどの筋金入りに手先が硬く、指を細やかに動かすことができない。そして苦手なものにたいしてはかなり面倒くさいと思ってやる気がしないという性格でもあります(ま、これは当たり前かも)。昔、ユーノス・ロードスターに乗っていた時、周りの仲間たちが足回りやブレーキパッドを自分で交換しているのを横目に、全部ショップにお任せしていたのはそういう作業に向いていないと自分でわかっていたから。

本題に入りましょう。

拙宅のMcIntosh MA6900は、およそ7年前の2009年2月に中古で購入したもの。当時の販売現役モデルはMA7000でとても新品で買えるお値段ではなかったのと、古いマッキンの方がより旧来のアナログ的なサウンドを得られるだろうという推測から旧モデルの中古を選んだというわけです。中古ゆえにいつ生産されたものか、どのくらい使われたものなのかは当然わからず、そうこうしているうちに2年位前からブルーメーターの電球が少しずつ暗くなっていきました。少しずつ、というのはどういうことかと言うと、ひとつのパワーメーターにつき3個の麦球が使われており、ひとつずつ切れていったということ。自分で交換できないものかと調べてみると、麦球を交換するには基板へのハンダ付けが必要だということが判明。こうなると手先が不器用な僕にはハードルが高いので、そのうち修理に出そうかと思いながらやり過ごしていたのでした。

しかし、ついに右側のメーターの麦球1個のみを残すのみ(それが1番上の写真)となり、電源を入れてもずいぶんと寂しいことになってしまっていたのでついにメンテの時期が来たのだと諦めの境地に至りました。自分でハンダ付けを綺麗にやる自信がないから本当は修理に出したい。しかしながら、33.8キロもあるあの巨体を箱に詰めて配送することを考えるとそれも億劫になる。しょうがない、こうなったら自分でやるしかない。やってやろうじゃないか。

というわけでトライしてみました。実はハンダ付け以外はそう難しくはありません。やり方は http://machide.blog98.fc2.com/blog-entry-120.html で紹介されているので、これを見れば手順はわかる。それにしてもこういう情報は助かります。おかげで自分でやる気になって実際になんとかできてしまいましたから。麦球はこのブログに記載されているNKKスイッチズのLB用白熱球 12V【AT-607-12V】 (http://www.marutsu.co.jp/pc/i/14427/)を購入。純正は100mA 14Vのようですが、実績があるのは何かと安心できます(線の間隔とかね)。ハンダ付けに自信がない人はミスをして壊してしまったときに備えて少し多めに買っておくのも良いかもしれません。

以下がその交換手順です。

[1] 前面のツマミをすべて引き抜く(引っ張るだけ)。

[2] フロントパネルに直付けされている上面前部のカバーを外す(ネジ上面2個と側面2個)。
※写真ではクリーニングのために上面パネルを外していますがここは外さなくても良い
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ちなみにこれは横から見た写真です。

[3] アンプをひっくり返して底面のパネルを外す(フロントパネル共締め3個含むネジ14個)。
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[4] フロントパネルとシャーシを固定している奥まった位置にあるネジ左右2個ずつを外す。
※ [3]の写真の赤四角部分(拡大表示で見えます)
(パネル上下に合わせて7個の平ネジがあるがこれを外すとパネル表面だけが外れるので注意)

[5] 底面のコネクター3個を引き抜きフロントパネルを外す。
※ [3]の写真の赤丸部分(拡大表示で見えます)

[6] メーターパネルのナットを外して、麦球の基板を外す。
(あのブルーの正体がセロファンだと知ると少々興ざめしますね)
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[7] ハンダごてを使って古い麦球を外し、新しい麦球を取り付ける。
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[8] 逆の手順ですべてを戻す。

これで終了。配線を外すところから中のクリーニングもやって音が出る状態に戻るまで、のんびりやって3時間半で終わりました。

ハンダごてを使って外す、取り付けるなんて25年ぶりくらいにやったので予想通りに苦戦、ここでかなりの時間を要しました。解体して麦球の基板を取り出すところまでは、フラットケーブルの取り外しと挿入を慎重にやることさえ気をつければそれほど難しくありません。ハンダを溶かして外し、取り付ける(新たにハンダを盛らなくてもできる)のはハンダ付けの経験がある方が望ましいと思いますが、なんなら他のもので練習してから臨むという手もあります。でも、自分でやり遂げればこの巨大重量物を箱詰めしたり発送したりしなくて済むし、2~3万すると言われている修理代が1,500円(麦球の送料込み)程度で済むとなればやる価値はあるでしょう。

お手本としたブログにはソケットタイプの麦球についても書かれていたものの、なんのことだかわからず、しかし実際にアンプを開けてみたらわかりました。ブルーメーター以外のイルミネーション用に全部で8個も別の麦球を使っていて拙宅のMA6900もそのうちの3個が切れていました。仕方ないので改めてパイロ電子のワイヤー透明麦球 12V【T-3WT12V】を注文(http://www.marutsu.co.jp/pc/i/5601/)。こちらも送料合わせて1500円程度。メーターパネルの電球を交換するためにアンプを開けるつもりならついでにこちらもすべて交換してしまった方がいいでしょう。合わせて麦球を購入すれば送料も1回分で済みますからね。

麦球のソケットはドライバーで左にカチッと回すと簡単に取り出せます。こちらはハンダ付けではなくソケットに配線を取り回せば良いだけなので難しくありません。外すとこんな感じです(右側は交換後の麦球)。
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写真の通り、交換したのは最初に付いていたものより小さいサイズの麦球で見た目がやや寂しいんですが、これが後に功を奏すことに。というのは拙宅のMA6900はソケットのひとつ、正面から見て左から2番めのものが回路素子が邪魔してい簡単には取り外せませんでした。このわずかな出っ張りのせいで手前に真っ直ぐソケットを引き出せないのです。
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上記手順 [4] でパネルのみを取り外さないように注意書きを加えていたものの、仕方なくパネルのみを外して正面から押し出してなんとかこのソケットを取り出します。当然取り付けるときもこの素子が邪魔ですが、小さい麦球になったことでさほど苦労せずに収まってくれた、というのが功を奏したと言った理由です。

こうして蘇ったMA6900、電源をONにすると以前のゴージャスな輝きが復活しました。でもちょっと暗くなったような。メーターの方はともかくイルミネーションの方が(ロゴのあたりとか)。元の麦球の仕様と違うせいかもしれません。そもそも元の仕様がわかりませんけれど。
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ぶっちゃけ音質とは何の関係もないんですが、McIntoshといえばこの華やかさはやはり欠かせません。イルミネーションが復活すると外見すべてが新しくなったように見えるから不思議。本来の華やかさを取り戻したMcIntoshで気分良く音楽を聴いていこうと思います。

「この自由な世界で」(ネタバレあり)

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骨太な社会描写で定評のあるケン・ローチ監督。しかし出世作「麦の穂をゆらす風」はなにしろ戦争映画だったので嫌な後味しか残らなかった。戦争映画は究極の人間社会描写であって骨太て重厚になって当たり前なわけであえてこの人が描くことに意義があるとは思わなかった。もちろん英国人としてアイルランドで起きていたことをしっかり描いたという意義はあったとは思うけれど。

この映画の邦題で気楽に見た人はある意味気の毒だったかもしれない。なにやら "What A Wonderful World"かと思いそうな雰囲気を漂わせる邦題を持つこの映画の原題は「It's a Free World...」。この、最後の「...」の意味が大きいので邦題にも是非「この自由な世界で・・・」としていただきたかった。

主人公アンジーがこの映画のすべてになっている。ロクに仕事もしない人ばかりの会社にセクハラでキレたために不当に解雇され、借金を背負っているアンジーは自分で外国人か仕事のない人を引き取って英国で働いてもらう労働派遣業を始める。なんとなくそれがうまく軌道に乗り始めるあたりの描写はおざなりだ。この映画は志のある人がうまくやりくりして成功するストーリーを見せたいわけではないから。

仕事を続けていくうちに、いろいろなことが起きる。子供の面倒も満足に見れてやれないし、両親からも苦言ばかり言われるというストレスも常に抱えている。そうこうしているうちに、不法労働者は雇わない、賃金はちゃんと払うという志を持って意欲的に仕事をしていたアンジーは、しかし可哀想な不法滞在移民家族を見たり、法律違反をしてもお咎め無しという事実を知ったり、賃金を支払わない業者のせいで雇用者に給料を支払えなくなったりするうちに不法労働者を雇わないというルールを崩していってしまう。

根底にあるのは、自分もお金が欲しい、自分にも生活がある、ということだ。人間、9割以上の人が正しい道徳観を持っているものだけれども、自分の立場を危うくする状況に追い込まれたときにその道徳観を維持して行動できる人はほとんどいない、というのが僕の考えで、この映画はまさにそれを描いている。ストレート過ぎるくらいに。

たとえば「ラウンダース」でマット・デイモンが高給取り弁護士グループに言った有名なセリフに「いつからそんなんなに堕落したので?」というものがある。そう、アンジーは周囲に起きて行くことに流されてどんどん堕落して行く。ラストシーンの苦々しい笑みは、自分に「いつからこんなに堕落したんだろう?」と問いかけているからこそ出てくるのだと思う。

そして、「でも、やめられない」という余韻を残して映画は終わる。日常にありそうなシーンで主人公だけの視点で描いておきながら、人間の弱さと、弱い人間が回している資本主義社会の危うさをここまでに鮮やかに描いた映画はないと思う。

[1/14加筆]

実は日本でも起きていることは根本的には違っているようには思えない。僕は昨年度まで70名の運用チームの責任者をしていた。自社の社員は自分を含めて6名で、あとはパートナー会社に委任していた。そのパートナー会社の社員は1名のみ、孫請けが1名、残りは曾孫受けが5名、残り大多数がさらにそれ以下の会社というのが体制になっていた。

その「残り大多数」は、確かに優秀とは言い難い子が多かった。そしてかなり安月給で働いていた。しょっちゅうローテーションがあり、人がどんどん入れ替わっていた。それでも15人に1人くらいの割合で、仕事への姿勢も問題解決のために考える能力も備えた優秀な子たちもいた。それこそウチの社員を含め、彼らより上の階層の会社にいるメンバーよりもずっと優秀だった。そこまで優秀じゃなかったとしてもがんばって仕事をしている子も沢山いた。それでも安月給で、ボーナスも少なくて昇給もわずかという子たちが多く、そんな話を聞くと僕はいたたまれない気持ちになったものだった。

お客様はコスト削減のため、契約更新の度に値下げを要求してきた。そのやり方はとてもえげつなかった。僕のいた会社はそれに応じて値下げしてパートナー会社にそれを押し付けた。場合によってはそれに関係なく会社の事情で購買がパートナー会社に値下げを要求することもあった。パートナー会社は恐らくさらに下の会社に値下げを要求していたはずだ。「給料が下がった。もうやっていられない」といって辞めていく人もいたからたぶん間違いない。

その仕事の運用費用を決める会社があって、外注を請け負う会社があって、その下に多重構造の「人を売る会社」が寄り集まっている。そして人の労働力を少しでも安く使おうとする。実際にオペレーションをしている彼らは結婚することすらままならず、所属会社に内緒でバイトをしている子までいた。

このように、人の労力を買ってコストダウンしようとする会社、人の労力を売って金儲けをしようとする会社が数多くあるのも儲けを再優先する資本主義社会の行き着いた先なんだろうと思う。確かに英国の移民労働者のように住む家がないほど貧困というわけはないかもしれない。でも、がんばっても給料も上がらずそのまま歳を重ねて行く彼らを見て僕はずっと胸を痛めていた。こんな経済の仕組みはどうかしていると思いながら、しかし僕は何もできなかった。

ちなみに、ここ日本では派遣社員のような非正規社員の比率の高さがよく問題視されるけれど、上記の子たちは会社に所属しているので正規社員である。正規社員でも、駒として安く使われていることを採り上げているマスコミは見たことがない。英国ほど貧富の差がないというだけで、労力を安く使う仕組みができあがってしまっている日本もなかなかどうして酷い国ではないか。

更に言うなら、そのお客様は世間でもよく名の知れた、低価格でユーザーを増やしてきた会社であり、何千万という人が利用している。安いからという理由でモノを選んでいる人は、アンジーのような人がいるからこそ、その価格で手に入れることができているのだと、この映画から思い知らされることになる。アンジーを単に「共感できない」などと批判だけすることは身勝手以外の何者でもない。ケン・ローチが伝えたかったことは不自由なく暮らしている人すべてに向けられている。

Lush Life / John Coltrane

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Lush Life / John Coltrane

[1] Like Someone In Love
[2] I Love You
[3] Trane's Slo Blues
[4] Lush Life
[5] I Hear A Rhapsody

Donald Byrd (tp [4])
John Coltrane (ts)
Red Garland (p [4] [5])
Earl May (b [1]-[3])
Paul Chambers (b [4] [5])
Art Taylor (ds [1]-[3])
Louis Hayes (ds [4])
Albert Heath (ds [5])

マーク・ジュリアナ・ジャズ・カルテットに刺激を受けてテナー・サックスを聴きたくなり、ジョシュア・レッドマンに手を伸ばす。もう深夜だったのでしっとり聴ける「Walking Shadows」を選んでみた。ブラッド・メルドーがプロデュースし、ストリング入りの曲も数曲というのが特徴のこのアルバム、2曲めの"Lush Life"が流れてきたら俄然コルトレーンが聴きたくなってきた。

初期コルトレーンは、後の神がかった凄みはまだなく聴きやすい。所属していたプレスティッジ・レーベルが、スタジオ確保時間目一杯にスタンダードを演奏させて録音し、レコードにして売るだけの乱発レコード会社だったせいで、かなりの数のアルバムをリリースしているにもかかわらず、決定盤と言われる名盤がない。強いて言えば、録音されてすぐにリリースされ恐らく発売当時に話題の1枚だった「Soultrain」くらいか(唯一のブルーノートからのアルバム「Blue Train」はもちろん名盤だけど)。

しかしこの「Lush Life」は例外的というか偶然にも素晴らしいアルバムになっている。まず、軽快に演奏されることが多い[1]をぐっとテンポを落としてコルトレーンならではの重々しい表現で始まるところからして素晴らしい。[3]まで、コルトレーンには珍しくピアノレス編成でややぶっきらぼうにさえ聴こえるんだけれども、音数が少なくソリッドに、そして重みを伴って演奏されていて今聴いても新鮮なムードがある。ところが、これがずっと続いてくれれば良いというところまでのマジックには至っておらず3曲で丁度良い塩梅。そして別セッションからの[4]で必殺のバラードが始まる。レッド・ガーランドのピアノがしっとりとソフトかつメロディアスに聴こえるのは、[3]までピアノが入っていなかったからというコントラストも大きな要因。そして後半に、このアルバム唯一の出番となるドナルド・バードのトランペットも、ここでしかが登場しないが故に冴え渡って聴こえ、最後にまたコルトレーンがソロを引き継ぐ構成もいい。最後の[5]もコルトレーンらしいソリッドさを貫きつつ哀愁が漂うメロディが泣かせる。3つのセッションの寄せ集めなだというのに、このように奇跡的に構成がうまくキマっている。

このアルバムが初心者向けガイドブックに紹介されるケースはまず見ないけれど、僕は初期コルトレーンの名盤として太鼓判を押したい。何度聴いても素晴らしいと思う。

マーク・ジュリアナ・ジャズ・カルテット 2016年日本公演

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マーク・ジュリアナ・ジャズ・カルテット:
Jason Rigby(ts)
Shai Maestro(p)
Chris Morrissey(b)
Mark Guiliana(ds)

僕は打ち込みをはじめとする機械がリズムを刻む音楽にほとんど関心がないので、エレクトリック・ミュージック系のドラマーで括られることが多いマーク・ジュリアナはもちろんまったく知らなかった。ブラッド・メルドーがエレキに関心を示したときに指名したドラマーならその腕は確かなのだろう、くらいの認識。CDでも実際に観たライヴでも、まあ確かになかなかいいドラマーだなあという程度には思っていた。

そんなマーク・ジュリアナが実はアコースティック・ジャズもやっていて来日するというので正月休みで弛んだ気持ちを引き締めるにはちょうど良いだろうと1月3日の1stセットを聴きに行ってみた。CDはもちろん、彼らの音楽を全く聴いたことのない状態でライヴに臨む。これもジャズの楽しみだけれども、今回はそれで十分楽しめるパフォーマンスだった。

始まって3曲は、いわゆる今風アコースティック・ジャズの典型的なサウンド。フォービートは使わず、良く言えば柔軟な、悪く言えば掴みどころのないリズムが続き、ジョシュア・レッドマンのグループ、James Farmのような今風のサウンドが聴こえてくる。そこからポップさを取り除いて抽象性をやや強くしているとはいえ、そして4人のプレイヤーのイマジネーションと演奏が優れていると感じ取れるとはいえ、これだけではグループ表現として個性が足りないし予想通りすぎてつまらない。

ピアノのシャイ・マエストロのフレージングは普通のジャズ・ピアニストのテイストと明らかに違っていて、妖しさと洗練がうまく融合した不思議なムードが面白い。テナーのジェイソン・リグビーはあまり主張しないタイプでそのバランス感がこのグループの持ち味になっている。イマドキのスタイルでなんでも弾きこなすクリス・モリッシーのベースは器用でいながら奇をてらったところがなくドンと構えていて好印象。リーダーのドラムのスタイルはメルドーのときほどにはグルーヴ感を出さずに小技でリズムを支える感じ。

もうひとつ面白くないなあ、と思い始めると4曲めは突然フォービート。ここでのジュリアナのビート感はジャズ・ドラマーそのもので、なるほど確実にこの人の基本にはジャズがあるなという説得力があった。その後もわかりやすいリズムの曲を混ぜ始め、通して聴くと多様なリズムと音楽性に満ちたグループだとわかるステージになっていた。テナーが抜けてピアノ・トリオ状態になったときにグループのカラーがガラッと変わる二面性も面白い。

ジュリアナはトニー・ウィリアムスがアイドルとのことだけれども僕はむしろエルヴィン・ジョーンズのほうに近似性を感じた。タムタム、フロア・タムの低いチューニングとフィル入れ方に重々しさがあって、大きなボールを転がすかのようなグルーヴ感があるから。後半でテナーとデュオになるシーンがあり、コルトレーンとエルヴィンへのオマージュと現代風解釈に聴こえた。もちろん決して物真似になっておらず自分たちのカラーで表現できているところはさすが自己を確立した実力の成せる技。もうひとつ、ジュリアナの素晴らしいところは音楽スタイルに応じて叩き方を変えていながら、彼独自のビート感には1本筋が通ってるところ。器用でどんなジャンルに対応できるとしてもブライアン・ブレイドのように叩いているアルバムによって別人になってしまうようなところがなく、リズム感にアイデンティティがあるところがいい。

聴き応えある深みとわかりやすさを兼ね備えた実力者たち、しかも今脂が乗っているミュージシャンのライヴは観ていて楽しい! やっぱりジャズはいいねえ、という喜びに浸れた新年1回めのライヴでした。ちなみの開演1時間前から店の前は長い行列ができていて場内は満席。個人的には知名度が高いミュージシャンだとは思っていないし前売りはそれなりに余っていたように見えたのに、急に認知度が高くなってきているのか、それとも正月休み開催が人を呼んだのか、さて? いずれにしても、Don't miss it ! なライヴであったことは間違いないかったので多くの人に聴かれたことは良かったんじゃないかと思う。

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