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趣味の人生を楽しむサラリーマンの日記

一眼レフががやってきた-キヤノンEOS 6D

ぶらん201512-2

この世には、クルマや時計に強い関心を示す男性が一定数いて僕もそのうちの一人である。その類型趣味のひとつとしてカメラ(写真)というものがある。ところが僕はカメラにはほとんど興味がない。いや正確に言うと、コンパクト・デジカメ(コンデジ)をコンシューマーが手にするようになった初期のころからは、PC系の雑誌によく採り上げられてきたこともあって情報も積極的に読んでいた。でもそれは、新しい家電としての面白さがあったからというのが理由で、写真を撮る機械としての興味ではなかった。それでも、そのときに読んでいた記事から幾ばくかの基礎知識を得たのは確かで、写真を見るポイントやカメラを評価するポイントについて一般人として最低限のことは一応理解していると思う。

コンデジがスマホのカメラに駆逐されてしまった一方、もっとキレイに写真が撮りたいという層にデジタル一眼レフカメラが普及するようになりはじめたのは何年くらい前からだろうか。今では「ママさん向け」をカタログに謳う機種がかなり出揃っているらしい。ハイアマチュア向けではなく、よりハードルを下げて、サイズもできるだけ小さくというのがその方向性と思われ、F値、シャッタースピード、ISOという言葉を知らなくてもフルオートでコンデジよりもずっとキレイな写真が撮れるカメラがメーカーの稼ぎどころとなっている。

そのようなハードルを下げたAPS-Cの一眼レフあるいはマイクロフォーサーズ規格の一眼カメラに僕はまったく興味がない。なぜなら僕は、「キリンを描いて」という要望に従って描いてみたら「皮膚病の馬?」と言われたことがあるほど美術的なセンスがないことをよく自覚しているから、画作りの心と才能こそが要求される写真という趣味でそのセンスのなさを再確認したくないのである。

ところが、妻が仕事でどうしてもちゃんとしたポートレイト写真を撮る必要があり、カメラを習うことになった。そして、その写真の先生から勧められたCanon EOS 6Dが家にやってきた。やや古いモデルではあるものの、運転免許取り立てのドライバーがいきなりポルシェ・ケイマンを買うような無謀とも言えるフルサイズ一眼レフ。24ミリから105ミリのレンズ付き。人物撮影が妻の主目的であることから50ミリの単焦点レンズも購入(これも先生の推奨)。このカメラ、動いているのものに弱いく、フルサイズにしては小さいという以外にあまり良い話は聞かない(もちろん、それで十分という考えもある)。

コンデジと同じようにフルオートでササッと撮影しただけで簡単に背景ボケの、いかにもカメラにこだわっているという感じのポートレイト写真が撮影できてしまう。なるほど、ママさんたちが子供の記録をキレイに残しておきたいという気持ちに応えられるものだと納得してしまった。

あとは設定を詰めて、より美しく撮るテクニックを身に付けていく必要はありそう。今のところ画作りのノウハウがまったくない。また撮影時に光や被写体の位置や画角などでどう取れば良いのかというテクニックを身に付ける必要はあるだろう、とは思うものの、なんかこれで適当にパシャパシャやっているだけで満足してしまっている自分がいる。

研究したら新しい世界が広がっていると思うか、やっぱり画作りという美術系の嗜みに挫折するか、さてどちらになることやら。

「Fragile / Yes」スティーヴン・ウィルソン・ミックス

Fragile201511

スティーヴン・ウィルソンがリミックスを手がけたYesのアルバムは、「Close To The Edge」「The Yes Album」「Relayer」と来たあと、予想通り、そして真打ちとして(?)「Fragile」がリリースされた。

このスティーヴン・ウィルソン・リミックス・シリーズは、オリジナル・ミックスを必ずしも正義としない大胆なリミックスが特徴。しかしながら、そのアルバムが持つ魅力を軽視してムチャクチャしているというわけではなく、その音楽が持っている魅力をより引き出そうという意図が感じられる。それは今回も変わらない。

まずは5.1chを聴いてみる。「Fragile」はかつてDVD-Audioで5.1ch化されていたこと(廃盤)がありそれとの比較になるけれど、これはもう完全に別物。旧DVD-Audio版は、サラウンドを活かしていろいろな音をクッキリ描き出すことに注力した明快なサウンド。しかし、全体に刺々しい音で定位が曖昧、妙に低音が強調されているところがある反面、芯が抜けた軽いサウンドに感じられる部分もある。一方で新リミックスは、これまでの慣例通り音のエッジは丸く、しかしそれは曖昧な音ではなく自然かつ明瞭で深みのある音に仕上がっていて聴きやすい。旧ミックスではあまり有効に使われていなかったリア・チャンネルの音の振り方も、やり過ぎない程度に効果的かつ巧みに仕上げてあり、音の定位もしっかりした上でサラウンド感を出すことにも成功している。音の感触としては旧ミックスの方が2chステレオとは異質のサラウンド音響空間に仕上げたあったとはいえ、自然かつ効果的なサラウンドという意味では新ミックスの方が圧倒的に上のように感じた。楽器ひとつひとつの音のディテール表現も新ミックスの方が断然優れている。

2chリミックスも同様の傾向で、従来通りエッジを立てずに滑らかで明瞭なサウンドに仕上げてある。聴かせようとしているところが違っているように感じる部分も確かにあり、オリジナル主義の人からは酷評を受けているものの、僕はこのウィルソン・ミックスの仕上げは大変好ましく思っている。やはり、各楽器の音がよりクリアに聴こえて、埋もれていたサウンドまでがしっかり聴き取れる仕上がりは賞賛したい。しかも何かを強調する足し算の論法ではなく、出すぎた音を抑えて全体をクリアに聴かせるという引き算の論法は、単に目新しさを狙うだけの視点ではできない選択だと思う。音楽に対する誠実さと愛情がなければこのような仕上がりにならないだろう。安易に変えてしまうことを目的としていないことは、曲によってはオリジナル・ミックスとあまり変えていないものがあることからも窺える。それにしてもミックスによってこうも音の聴こえ方が違うものかと改めて思わされる仕上がりの違いである。

ボーナス・トラックはあまリ興味ないものの、新発掘のものばかりで未発表曲"All Fighters Past"(完成度は当然高くないが"Siberian Khatru"のリフが既に登場している)はじめ、ファンなら楽しめるものが揃っていると思う。Blu-rayコンテツには既に廃盤の2002年 5.1chミックス、2015年インストゥルメンタル・ミックス、ビニール・トランスファーもあってサービス精神旺盛なパッケージになっている。今回もファンなら買いでしょうね。

P.S.
ブルーレイのメニュー、選択したところの色が変わらないのは拙宅の環境だけなんでしょうかね?ちょっと扱いづらいです。

便利かつ普通にイマドキの音楽を楽しむ機器Squeezebox Touchから思うこと

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今回は僕の大のお気に入りオーディオ機器、Squeezebox Touchについて書いてみる。なぜこの製品がそんなに素晴らしいのか。それを語るためには長い長い前置きが必要になる(といいつつ、またまたオーディオ・マニアを貶める内容を言いたいだけ)。

僕はオーディオにそれなりに投資してきた。理由は、好きな音楽を良い音で聴きたいから。

何を当たり前のことを、と思われた方は健全だと思う。オーディオは音楽を聴くための工業製品で良い音を求めれるのならそれなりの投資をする。それを当たり前と思うことが健全? 一体アナタは何が言いたい? と言われそう。

世の中にはオーディオ・マニアと呼ばれる人がいる。以前は、オーディオ・マニアというのは音楽をより良い音で聴くことを目指して機材選びに精を出す人たちだと思っていた。 ところが、ネットで情報が飛び交うようになって、それらを読んでいると実は違う人種だったんだと徐々に思うようになってきた。スタート地点での動機は、「良い音楽を良い機材で」だったかもしれない。しかし、広告を収入源とする(従って持ち上げる記事しか載らない)オーディオ雑誌、オーディオ評論家による想像力豊かな記事に影響された頭脳で構築された独自の理論による独自のオーディオ哲学で凝り固まってしまった人が、ネット上にはウヨウヨいる。そしてそんな彼らは例外なく自分の理論と聴覚に自信満々である。

9日前に書いた記事と同じ事をあえて繰り返すと、人間は不確かで、周囲に影響されやすく、思い込みをしてしまうアテにならない生き物である。クルマの免許を持っている人なら教習所で教わったことがあるでしょう?高速道路ではスピードメーターを見て速度をマメに確認しなさいと。景色、道路幅、交通量、といったあらゆる情報で速度の感じ方は大きく変わってしまうからそう教えるわけなんだけれども、そもそも同じ環境が用意されていたとしても、同じ速度で走り続けることはとても難しい。音を聴くときだって同じこと。昼、夜(更に部屋の明るさ)、部屋の状態(散らかっているか整理されているか)、直前に聴いていた曲、果てはそのときの気分などによって、同じオーディオ装置から流れる同じ曲が違って聴こえてくるのは当然なことなわけです。

昔のようにレコードが中心で、真空管アンプが主流だった時代は音が変わる要素が沢山あった。でも今はもう技術が様変わりして、容易に高出力が得られるトランジスタのアンプになり、安定した高音質が簡単に得られるCDプレイヤーやパソコン、ネットワーク・プレイヤーがスタンダートになった。イマドキの僕のオーディオ観については http://buhaina.blog.fc2.com/blog-entry-115.html に書いてあるので興味がある方は参照していただきたいけれど、簡単に言うと、現代のオーディオにおいてアンプとプレイヤーはどれを使っても大して違いはないということ。特にプレイヤーはほとんど何を選んでも違わない。

もちろん、理論的に差異が出るネタはオーディオ雑誌に数多く書かれている。でも、たとえばジッターとやらは時間軸がズレると音がにじむなどと解説されているけれど、なぜズレると音がにじむことになるのか、悪い場合には何ミリ秒ズレるのか、何ミリ秒ズレるとどの程度にじむのか、その結果ピアノの音がどう違って聴こえることになるのか、というところまで踏み込んで書いている人、論じている人がいないのはどういうわけなのか。ジッター対策は重要と主張するマニアを自認している人、答えられますか?答えらるわけないですよ。だってその程度のことで人間の耳にわかるような違いなんてないんですから。まあ、オーディオ・マニアというのはその程度のわかったような理論を鵜呑みにしてありがたがっている人たちなわけです。

オーディオ・マニアは「変わって欲しい」「良くなって欲しい」と願っている人たちであり、「理論は正しい」と思っている人たちでもある。ここで僕が良く採り上げている人間特性を思い出し欲しい。人間という生き物は、起きてほしくないこと、自分に都合が悪いことから目を背けて「なかったことにする」特性がある。そして「周囲がそう言っているからそうに違いない」と流されてしまう特性もある。そして人間は先入観によって簡単に感じ方が変わってしまう生き物である。

ここで過去記事を再度引用すると、ボルドー大学のワイン醸造研究所では受講生に暗闇で試飲させるカリキュラムがあって、そこではなんと赤ワインと白ワインを間違える人が続出するという。ワインの勉強をするために入学してきた学生たちが赤と白の区別さえつかなくなるというのは驚く話だけれども、確かに似た味わいのものはあるような気がする。このカリキュラムは先入観から来る人間の感覚がいかに曖昧かを経験させ、白、赤、ロゼの味わいを一義的に決めつけることの危険性を思い知らせるのがその狙いとのこと。

デジタル・オーディオにももちろん音質差が生まれる理論的な要素はある。しかし、僕は人間という生き物が持つ曖昧さで吸収されてしまう程度の小さな差しかないと思っている。人間がどの程度アテにならないかを理解している人ならば、デジタル・オーディオの微差にこだわることの無意味さは言われなくてもわかっているはず。デジタルでもいくらでも変わるし、その違いもわかるなどと言っている人は何を根拠に自分がそんなに正確無比な感覚と聴覚を持った特別な人間だと言っているのかと尋ねてみたいものだ。

もちろん、そういう危うさを含めてオーディオ機器にあれこれ思いを巡らせ、ああでもない、こうでもないということを楽しむ人を否定するつもりはない。ただ、そのように「うさんくさいけどそれが楽しい」という自覚的な人は少なく、自分が正しい、自分には人間特性という危うさなど一切ないと言い切る人が多く、そういうタイプの人がネットの掲示板でいろいろ書きたがる人間であるのもまた事実。なぜかって?そんなくだらない話を周囲にしても誰も相手にしてくれないし、でも自信過剰で自分がおかしいかもしれないなんて少しも思っていない故に言いたくてウズウズしてしまうから。主体的かつ自然体でオーディオを楽しんでいる人はそもそもネットに自分の意見を書き込もうだなんて思わない。よって、ネットには危ういオーディオ論が溢れかえることになっていて、それをまた「みんなが言っているから」と信じてしまう人を育てて行く。そうやってネット上で展開されるデジタル系機器関連の評価は、さして聴覚に違いがあるとは思えない人間同士にもかかわらず、「良くなる」「変わらない」と評価がバラバラになる。本当に違いがあるのならこんなことが起きるはずがない。違うのは信じているかいないかという実に危うい要素だけにすぎない。

ちなみに、信じているものを否定されても自分が間違っているのではなく、わかっていない周囲がおかしいという思考は「自分に都合の悪いものはなかったことにする」という人間特性がもたらすもっとも基本的な行動そのもの。つまり、オーディオ・マニアというのは、自分には人間の持つ曖昧さなどないと主張していながら、実は人間の弱さに満ち溢れた人たちのことなんです。その弱さが無駄にお金を使わせたり、意味のないことに時間をかけさせている。でも、純粋に良い音で音楽を聴けるようにしたいと思っていて人間の不完全さや曖昧さを理解している人にとって、妄想に取り憑かれたオーディオ論を吹聴されるのは迷惑なんです。だから僕は、「自分という人間は間違えるはずがないし思い込みも絶対にない」と言い切ってしまっている、そしてそれが如何におかしいことかに気づいてもいないオーディオ・マニアが大嫌い。

そんなマニアが嫌うもの。それは見栄えが良くなくて筐体がガッチリしていない軽薄で低価格な製品。僕が愛用しているSqueezebox Touchはまさにそういうもの。そもそも日本で正式に販売されていたものではなく、既に生産も終了してしまった製品(故に新品在庫・中古共にプレミア価格)なので今ではお勧めしづらい製品になってしまったけれど、NASに溜めた音楽を高音質で聴くネットワーク・プレイヤーとして何の不足もない。別にDACを用意しなくてもアナログ出力だけで十分に良い音質で聴けるし、もうだいぶ前からある製品なのに無線LANにも対応している。しかも、収納スペースの確保に困る拙宅のリビング事情でテレビの脇に置ける接地面積の小ささもありがたい。個人輸入した当時はドルも安かったので配送料込みで30,000円もしなかった。

この製品を購入した2010年当時には、まだ日本のメーカーはネットワーク・プレイヤーという製品すら商品化できておらず、その後、遅れて続々と出てきた製品は高い値付けがされていたにもかかわらずなんとギャップレス再生できないという信じがたい仕様だったし、操作性も良くなかった。こういう、便利で良い製品をなぜオーディオ・メーカーが作れないのか。後発なのになぜ低い完成度のものしか作れず、それを世に出してしまうのか。

それは、旧態然としてたーディオ村の住民から搾取するビジネス・スタイルを続けていて業績好調でもないのにそれに安住しているからですよ。そういう悪い意味での過去の慣習に引きづられたオーディオの接し方に陥らない僕のようなタイプの人間は日本のメーカーがあたふたしている間にもう新しくて便利で良いものを満喫していたわけです。そんな素晴らしい製品がオーディオ・メーカー以外から出てきたことにメーカーもお堅いマニアも何の危機感も持っていない。だからより低い完成度の製品が遅れて出てきても話題にもならない。

周回遅れとなったオーディオ・メーカーがなんとかついていっているうちに、今度は高音質NAS、高音質LANケーブルなどで儲けようとする、それまで門外漢だったメーカーが参入しはじめてきた。遅れてきた古臭い脳のマニアは買っちゃうんでしょうね。まあ、お金が有り余っていて他にやることがない人は経済活性に貢献してあげてください、としか言えない。

もうオーディオの基本技術に目の覚めるような革新はないわけです。ないものをあるかのように見せかけるオーディオ業界に踊らされて時間をお金を費やすくらいなら、音楽を聴きましょう!

新しい機材やアクセサリーよりも新しい音楽との出会いを求める方が100倍健全ですよね?僕は世の中にたくさんある音楽を一生のうちに聴ききれない、楽しみきれないという危機感すら持っている。安くて良い音質のSqueezebox Touchがオーディオに淫する時間とお金を排除してくれているおかげで、僕はまた日々素晴らしい音楽を聴くこと、探すことに没頭できる。僕のオーディオ史上、もっとも素晴らしい装置であり、今もって代わりが見つからない唯一無二の製品。今後も僕の音楽ライフを支えてくれるこのSqueezebox Touchを世に出してくれた人たち、メーカーには感謝の気持ちでいっぱいです。

「シェフ 三ツ星フードトラック始めました」(ネタバレあり)

シェフ 201512

これはちょっとした見っけもの映画でしたね。

アイアンマン・シリーズにさして思い入れがない僕としては、この監督が何者かであることはあんまり重要じゃない。その人が主役をやっていることも。すべてが上手く行きすぎていてたうまらないとか深みがないとか言う人もいるけれど、そこがポイントじゃあないでしょう。

この映画がいいのは、明るいこと、テンポが良いこと、音楽(特にラテン系の)が良いこと。それに料理が全部美味しそうなところがとても良い。美味しい料理が人を幸せにするという基本中の基本がベースにある。そして周りにいる人がみんないい人であるところもいい。こう書くと一種のファンタジーじゃないかという指摘もありそうだけれど、その通り。僕はこの映画はファンタジーだと思う。それもとびっきりの。

加えて良いのが、世の中によくありそうできごとがしっかり織り交ぜられているとことでしょう。シェフと評論家のいざこざも元を正せばスレ違いなんだけれどこじれるとこうなるという典型。好きなのは息子が焦げたサンドを「ダダなんだから」といって客に出そうとするところを父親が窘めるシーン。自分の行動には意味があり、責任を持つべきだと考える僕にはとても共感できるし、タダなら何をしても良いのかと10歳の子供にうまく理解させる説明もいい。

無責任に批判ばかりしている人への反撃は、この監督を含めたモノづくりをしている人の気持ちを代弁したシーン。僕も批判的なことは沢山書いている。でも、僕が批判しているのは明らかに努力が足りない人だったり、意図的に手抜きをしている人たち。一生懸命やっているなと思えば、そんな批判的な気持ちは湧いてこない。とはいえ、批判する立場の人の責任みたいなものはちょっと考えさせられるのも確か。

総じて、広い目で見れば物事には二面性がある、という話の連続でもある。批判することは悪意ではなく愛の裏返しということもあること、新しいチャレンジが必ずしも歓迎されるわけではない(ストーンズのコンサートで"Satisfaction"を演らなくて納得するか?の件は説得力が)こと、子供を遊びに連れて行けば喜ばれそうだけれどそうじゃないときもあること、作りこんだ料理の素晴らしさに負けないシンプルな美味しさがファーストフードのサンドイッチにはあること、SNSは怖いけれど味方になる場合があること、など、視点が変わった場合には結論が違う場合があることも描いているような気がする。池井戸潤の「白か黒か」「善か悪か」という単純な話よりもよほど面白いし、それこそが人生だと思う。

あと、曲者役ばかりで見てきたジョン・レグイザモが気のいいさわやかなオジサンをやっていてちゃんとハマっていたところも個人的には◯。そしてSNSを効果的に面白おかしく使っていたのも◯。

まあ、深刻に考えさせられるような映画とは言えないけれど、豪華なゲストも含めて楽しく観れる映画としてとてもお勧めできる。もちろん揚げ足をとってああだこうだ言うことができる映画でもあるけれど、それは無粋というものでしょう。

ブログ開設3周年

myself201512

早いものでこのブログを開設して3年が過ぎました。

僕は、小学生の時代からごく平凡で普通な人間だと思ってきました。運動(体育)と美術(図工)はやや苦手ではあるものの、通知票はオール3に近く、クラスでも目立たない存在でした。中学2年生のとき、「◯◯(僕のこと)ってもっと頭がいいかと思った」と言われたことがあります。頭が良さそうに見えるのに、試験の結果を見ると中の上くらいだったことをその友達が知ったからです(笑)。そんなわけで平凡で特技のない人間であることが僕のコンプレックスになっていました。

しかし、社会人を25年もやっていると自分がかなり普通でないことが徐々にわかってきて、今では特殊な人間だとすら思うようになってきました。

まず、僕は周囲に流されません。みんなが言っているからそうに違いない、という考え方をせず、自分で調べて考えて結論を出します。物事の真理を見抜くためには当然のことだと思っていたんです。そしてみんなが言っていることが違うと思えば、公然と「違う」と言ってしまいます。何かの集会で話がまとまりかけたとき、しかし明らかに意味不明な決着に向かっているときに「それはおかしいでしょう」と空気を読まずに正論を展開してしまうのです。僕にとって正しいことは良いことなんです。何も自分が常に正しい行動をしていると言っているわけではありません。何が正しいかを理解した上で、日々の生活の行動でできること、できないことを取捨選択しているだけで、基本的には正しいことをした方が良いよね、と思っているだけです(ドイツ人的思考かな?)。

今年の3月まで70名のあるシステム運用チームのデリバリー責任者をやっていました。よく問題となるのがオペレーション・ミスです。だからヒューマン・エラーのメカニズムをかなり勉強しました。書物や教材によると、人間はミスを犯す生き物であることがまず説明されています。まあ、そうでしょう、ミスをしたことのない人間などいるわけないのですから。もう一歩踏み込むと、人間特性というキーワードでいろいろと例を挙げて説明されます。たとえば、前述のように集団で議論しているときに「みんなが言っているから、そうだ」と思い込むこと(あるいは違うと思っても何も言わずに従うこと)は集団浅慮と呼ばれるもので人間の特質のひとつだと紹介されます。また、3.11のとき津波警報が発信されたのに逃げなかった人がいたのは、人間というのは受け入れたくない事実、自分にとっての不都合から目を背けるという特性があり、根拠もなく「津波なんていう起きてほしくないことが自分の身に振りかかるはずがない」と思ってしまうからと説明されます。人間というのはいかに不完全で、怠け者で、意思が弱くて物事を正しく見極めることができないかということを学び、それを踏まえた上で業務の仕組みを作りましょう、というのが簡単に言ってしまうと究極のヒューマンエラー防止策になるんです。

そうやって人間特性を学んでいくと、僕のような「みんなが言っていても、違う」と言ってしまう人はかなり珍しい存在だと改めてわかります。しかし、集団で生活し、しかも上下関係のある組織でそれをやると結構ストレスが溜まります。サラリーマンをある程度長くやっていれば、管理職、しかも部長以上のシニア・クラスのポジションにいる人が必ずしも優れた判断力を持っているわけではないこと、難題を乗り越える頭脳を持っているわけではないこと、理念を持って仕事をしているわけではないことが往々にしてあることはご存知でしょう。当然そういう人はパフォーマンスが出るわけないんですが、その中身のないシニア・マネージャーが上から言われたことそのままに現場のためにも顧客のためにもならないことを言い始めたとしても課長クラスのマネージャーがあれこれ意見する、なんてことはこの経済が停滞していて転職が決して楽ではない現代社会ではまずありません。みんな正しいことをするよりも自分の身を守ることの方を優先するからです。僕は若いとき周囲に恵まれていたのか、そういう自己保身のためならなんでも言うという人が少なかったんだけれど、転職し、自分が課長クラスになってみると、自己保身の塊のような人がどんどん周りに増え、「どんなことして顧客や会社に役立つか」という行動よりも「どうやったら上司の機嫌を取れるか」の人の方が圧倒的に多いということがわかってきました。もちろん今でも僕は前者が行動指針なのですが、そういう人はやはり珍しいようです。周りにそういう人があまりにも多いので僕もあまり自分の主張を推すことをしなくなりました(不正や人の道から外れるような指示があったりしたらその限りではありませんが)。仕事のパフォーマンスより媚びることが優先される会社、組織に正しいことを言っても何も変わらないから、自分で吸収できるならがんばるしかない、と思うようになったわけです。

ソクラテスが正論ばかりを振りかざし、最後は死刑になってしまったのは有名な話ですが、これも「いろいろと至らない人間」が痛いところを突かれた結果、嫌われていったからです。このように正論は嫌われます。それは人間の持つ弱さが原因なのです。

人生経験を積んだおかげで、僕は他人に期待しなくなりました。馬鹿にしているわけではありません。人間というのはそれほどまでに弱い生き物だと思えるようになったということです。そんなこと人としてできて当たり前だろう、会社のその組織の担当者としてやって当たり前だろうということができなかったとしても腹を立てなくなりました。僕は常にお客様の最前線に立つ仕事をしてきたので、当然そういう人たちがいると自分が苦労する。でも、それがサラリーマンなんだと思えるようになってきたわけです。

何やら大げさな話になってきましたが、つまり僕自身は不特定多数の人が持っている感覚を共有していない人間なわけです。物事の見方は、いわゆる大多数の人たちと違っていることが多い。そして、それは普段周囲にいる人にはいちいち言わない。馬鹿げていると思う一般世論だって論破できてしまうけれど、そんなことしても嬉しくないし、言われた方も嫌な思いをするだけ。

ちなみに、親戚や古くからの友達など、付き合いの長い人たちと集まったときによく出てくる「そういえばあの時、あんなことあったよね」的な思い出話が多すぎるのも好きじゃありません。社会で今起きていること、自分自身に最近あったことなど、話せることなんていくらでもあるじゃないですか。昔話しかできない人って、今の生活が充実してないってことを吹聴していようなもので、それに気づいてないなんて気の毒にすら見えてくる。ま、こんなところもたぶん普通の人と違うところなんだろうと思います。もちろん、そういう場にいてもそんなことは言わずに調子を合わせていますが。

そう、このブログはそのように周囲の人と感じ方が違う故に行き場のなくなった自分自身の気持ちを吐き出すという目的で始めたのです(冷汗)。もちろん、読んでくれた人にとって役に立つ情報になってくれるだろうという内容を書くことが基本ではあります。ああ、こういうふうに考える人もいるのね、と見てくれる人がいればそれでいい。もちろん、反論したくなる人も多々いらっしゃるでしょうが、文章で議論をすると揉めるし、気に入らないことを書くと感情だけを押し付けてくる人がきっと現れると思って、このブログはコメント欄を設けていません。あくまでも僕の独り言、ボヤキの場なのです。

にもかかわらず、1年で9000件ほどもカウンターが上がっていることに僕自身とっても驚いています。ま、見た人がポジティブに感じたかどうかは知りませんが、そんなことを気にせず、これからも書き続けていこうかなと思っています。もし、楽しんでくれている人がいたら(あまりいないと思うけどなあ)ありがとう!

以上、3周年記念の言葉でした。

「アバウト・タイム~愛おしい時間について~」(ネタバレ)

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タイム・スリップというSFは随分昔からある話で、なぜここまで古典となっているのか。答えは簡単。人間誰しも「あのとき、ああしていれば」と思うことがあるからだ。

この映画は、そんな「あのとき、ああしていれば」を主人公が実現してくれるシンプルなプロットがベースになっている。しかしそこはリチャード・カーティス、設定がSFだけで描こうとしているのはまったく別のところにあることは観てみればよくわかる。

個性的なキャラが立った多くの登場人物だけで英国映画らしさが味わえる面白さもあるとはいえ、描いているのは「普段、なんとなく過ごしている毎日は幸せな人生の一部であり、平凡な人生を慈しもうではないか」ということ。終盤でコンビニの店員に「平凡な人生を慈しむ」ビフォーとアフターが描かれているけれど、まさにこういうことなんだと。だから平凡な人生を大切にできる人こそが幸せな人生を送れるのだと語りかけてくれる。

また、当初は主人公のタイム・スリップ能力に「うらやましいなあ」と思うものの、やり直せたら幸せな人生になるかというとそうでもない、というところも織り交ぜ「あのとき、ああしていれば」という後悔を抱いている人に「いや、人生それでいいんだよ」と語りかけているあたりがこの監督の優しさなんだと思う。

ちなみに僕は後悔をしたことがない。「あのとき、ああしていれば」と思うことはあるけれど、「あのときの自分には、あのようにしか行動できなかった」から後悔ではない。後悔というのは、そうできたはずなのにしなかったことを言うのだと思う。もちろん、結果的に見れば間違った行動だったかもしれない。でも、そのとき最善と思って決めたことで失敗したから学ぶことができる。だから僕はタイム・スリップの能力が欲しいと思ったことがない。真剣に考えて決断して失敗するからこそ人生を学ぶことができるんじゃないだろうか。そして、失敗から学んで自分が少しでも賢くなっていることを実感できるからこそ、僕は歳を重ねるほど自分の人生が楽しくなってきている。

そんな、自己満足人生を送っている僕に、日常の素晴らしさを認識させてくれたこの映画、なかなかのものだと思いますよ。

「A Night At The Odeon / Queen」

A Night At The Odeon-201512

近年は見かけなくなったものの、この通称クリスマス・コンサートはこれまでにもBSやCS、FMで何度も放送され熱心なファンにはお馴染みのもの。73年、74年のレインボウ・シアターでの映像・音源がオフィシャル化された今、このコンサートがオフィシャル化されたのは当然の流れかもしれない。

デラックス・エディションのボックスには、なんと"Bohemian Rhapsody"と本作バージョンの"Now I'm Here"が収録されたアナログ・レコード(ウチには再生環境ないけど)も含まれており、豪華ブックレットも含めてマニアなら思わず頬が緩むパッケージになっている。ただし、リーダーと呼ばれたり、自分だけがグループのイメージとして受け取られることを嫌っていたフレディだけを登場させているジャケット(死後に商品化したものの多くはそう)はいただけない。

映像はもちろん、これまで放送されたもの、あるいはブートレグで流通していたものと比べると断然クリアになっている。ただし、元々の映像がそれほど綺麗ではなく、ブルーレイのスペックは正直なところトゥー・マッチで、むしろDTS-MAで収録されたハイ・クオリティな音質こそがそのメリットになっている。その音質は、ギターの低音域やドラムのフロア・タムの音域に厚みを持たせたチューニングで現代的なサウンドとして蘇っている。反面、以前はハッキリ聴こえていたドライヴ感あふれるジョンのベースが埋もれてしまっている。もちろん、全体の音質としては大幅にクオリティが上がっているのでその点ではとても満足できる(CD音源も同様)。

この日のライヴがオフィシャル化されていない理由は、大きなミスが2つあったからだと僕は思っていた。ひとつはメドレーで演奏されている"The March Of The Black Queen"の歌の入りを思い切り間違えているところ、"Liar"のエンディングでこれまたフレディが外しているところ。これがもう見事なまでに巧く(映像でも!)編集して修正されている。何度も繰り返し聴いてきた身には逆に違和感ありすぎだけれども、作品として残すのだからまあこのような処置は当然でしょう。

総じて、記録として見ると失われた部分もあるものの、長くファンをやっていたファンにとって、そして新しいファンにこれからも聴き継がれていくものとしても嬉しいアーカイヴ発掘だと思う。。この日はフレディの声の調子はそれほど良くなく高音域はだいぶフェイクして歌っているところが多いし、前述の通りミスもあったりでパフォーマンスじたいは最高というわけではないけれど、「Live At The Rainbow」に続いて「Don't be Sh~y」なんてまだ客を煽らなきゃいけない時期の映像がこうしてオフィシャル化されただけでもありがたい。

次は質の低い画質と音質でブートレグでしか観れない、そして公式ドキュメント映像などでは綺麗な映像で観ることができる76年ハイド・パークと77年アールズコートに期待したいところです。

「007/スペクター」(大枠のネタバレあり)

007スペクター201512

僕が子供の頃、007はもうすでに娯楽大作という位置づけで当時のジェームズ・ボンドはロジャー・ムーアだった。だから僕にとってボンドはムーアという印象が根強く残っている。ムーア時代の007はどんどん娯楽大作化、どんどん荒唐無稽化していったことは周知の通り。その後、ティモシー・ダルトンで地味路線になってシリーズは尻すぼみになり、ピアース・ブロスナンで人気が復活したことも周知の通り。

こんなことを言っておきながら、実は30歳(87年)くらいになるまで007はまともに一度も見たことがなかった。飛行機の中で「007/トゥモロー・ネバー・ダイ」を観て、ピアース・ブロスナンを知り、かつてのロジャー・ムーア時代のナンパなイメージを保ちつつ、より柔らか印象でファンになってしまった。その後、「ゴールデン・アイ」を遡って観て、「ワールド・イズ・ノット・イナフ」「ダイ・アナザー・デイ」と追いかけた。ピアース・ブロスナンその人のファンになったのはもちろん、ブロスナンのボンドが好きだった。

とはいえ、時が過ぎれば時代も変わるというわけで登場したダニエル・クレイグのボンドは、これまでの慣習を打ち破る、クールでシリアスな路線。これがまたシビれるカッコよさでこちらに慣れてしまうとブロスナン時代のボンド像が一気に古く見えてしまうほど。今度は一気にクレイグのボンドのファンになってしまった(俳優ピアース・ブロスナンは今でももちろん好き)。

余談ながら、僕は007シリーズは全部観ている。でも、ブロスナンより前の007はどれも古臭くて面白くもなんともない。なので僕は生粋の007フリークというわけではない。

現ボンドのダニエル・クレイグは本作「スペクター」で終わりと言われている。確かに白髪が増えて歳を取った。「カジノ・ロワイヤル」から9年も経っているのだからそれも当たり前のことで、こうしてみるとボンド俳優は4作までで終えるというのは調度良い長さのように思える。ダニエル・クレイグのボンド・シリーズはこれまでリアル&シリアス路線で、何かを背負った影のあるヒーローというイメージで来ていたけれど、今作はそのイメージを損なわないまま、以前のようなジョークと荒唐無稽さをやや取り戻した感じになっている。

最初の狙撃シーンまで、祭りの音楽を鳴らし続けて1カメラで長回ししたオープニング・シーケンスから見応えたっぷりで、2時間半という長丁場にもかかわらず一気に見せてしまう作りは本当に良くできていてアクション映画のひとつの模範解答ではないかと思う。ローマの映像(特にモニカ・ベルッチの家のインテリアのゴージャスさと暗い中でのアート的な映像)などゴージャスな雰囲気作りも抜かりない。

個人的に好きなレア・セドゥが大フィーチャーされていて、彼女の魅力がとても良くでていたのが嬉しい。いわゆるハリウッド女優的な美しさとは違うムードが007シリーズを彩っていたのは彼女を知らなかった層にもアピールしたんじゃないだろうか。

またダニエル・クレイグのシリーズを総括するような過去のエピソードを盛り込み、終わり方もクレイグ=ボンドの終わりに相応しいものだった。

とにかくダニエル・クレイグのボンド・シリーズ4作はたっぷり楽しませてもらった。シリーズをもう一度リセットしなくてはならないスタッフ(特にプロデューサーのマイケル・G・ウィルソンとバーバラ・ブロッコリ)は大変だろうけれど、このシリーズをうまく締めくくってくれたスタッフおよび素晴らしき俳優たちには感謝と賞賛を送りたい気分。本当にありがとう!

ゲルギエフ指揮 ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団 2015年日本公演

ゲルギエフMPO201512

ゲルギエフ指揮 ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団
2015年12月2日
サントリーホール
【演目】
プロコフィエフ:『ロメオとジュリエット』組曲より
◯「モンタギュー家とキャピュレット家」(第2組曲第1曲)
◯「少女ジュリエット」(第2組曲第2曲)
◯「修道士ローレンス」(第2組曲第3曲)
◯「仮面」(第1組曲第5曲)
◯「ジュリエットの墓の前のロメオ」(第2組曲第7曲)
R.シュトラウス:交響詩「ドン・ファン」
ブルックナー:交響曲 第4番 「ロマンティック」

クラシックのコンサート通いをはじめて2年半、同じオーケストラを観るサイクルに入ってきている。先月観たベルリン・ドイツ交響楽団は同じ指揮者と同じオケで2回めだったとはいえ、半年前に偶然ベルリンにいたときに予定が合って観たものでわずか半年というインターバルだったのに音色の違いに結構驚くという経験にもなった。

そして今回は、2年半前にマゼール指揮で観たミュンヘン・フィル。思えばクラシックを真面目に聴き始めて最初に観たコンサートで、圧倒されてよりハマることになったという思い出深いコンサートでもあった(マゼールを観る機会に間に合ったという意味でも)。

まずはプロコフィエフのロメオとジュリエットから。一音めから引き締まり、豊かな音色を予感させる衝撃的な始まり。最初に出てくる音でいきなり圧倒するというのはコンサートの構成としてはなかなか効果的。重厚さと艶のある明るい音色が見事にブレンドされ、金管、木管の高いレベルでの安定感が素晴らしく、2年半前に圧倒されたときの印象そのもの。もちろん指揮者が変わって曲の表現の仕方が違うことは明白であるけれども、オケが主張している音にはいささかのブレも感じない。ベルリン・フィルの鉄壁のアンサンブルとはまた違うこのオケならではの主張のあるまとまり、個性があって本当に素晴らしかった。

ドンファンの入りは勢い余ってややバラつきがあったものの、それも人間味と思わせるのはオケの地力が確かだから。すぐに持ち直し、快活なテンポで颯爽とした若々しいドンファン。しかし、軽々しくはなく重厚さもあるところがこのオケの良いところ。音楽監督に就任したばかりのゲルギエフのスタイルにのっとった上で、オケの主張をしっかり聴かせるところに思わず唸ってしまう。

メインのブルックナーは、ネットに飛び交う事前情報では「ゲルギエフのブルックナーなんて聴きたくない」というネガティヴな反応が少なくなかった。僕はこういう先入観で物事を判断すること嫌いなので、ニュートラルな気持ちで、前半の素晴らしいパフォーマンスから期待して臨んでみた。

冒頭の深淵なホルンの響きが予想通り素晴らしい。ブルックナーは、曲がそうなのだから当然ゆったりとした深みのある表現が求められるところで、オケは難なくそれをこなしてしまう。同時にスピードを上げるところでは迫力と推進力も必要であるのがブルックナー、ゲルギエフは全体に早めのテンポでオケの厚みのある推進力を引き出す。この人、容姿を筆頭にイメージが強烈で、先入観に支配されてしまっている人に悪い印象を与えていて随分損をしているような気もするけれど、僕はまったくネガティヴな印象はなく、ただただ見事な音楽に圧倒されっぱなしだった。

その上で・・・薄々感じていたんだけれども、どうやら僕はこの4番があまり好きではないようで、途中(特に第2楽章と第3楽章)は間延びした印象を持ったのも事実。演奏がここまで素晴らしいのにこんな感じ方をしたのは曲があまり好きでないからであるように思えてならないわけです。例えば8番もそれほど好きだったわけではなかったのに、2月に観たヤノフスキ指揮ベルリン放送交響楽団で「こんなにも素晴らしい曲だったのか」と気付かされたのと比べると、今回同じように実演で初めてわかった曲の魅力というものがなかったのはもうその曲がそれほど好きではなかったということだと思わざるをえない。

あと、これは完全に個人的な事情なんだけれども、ここ数週間はややこしいトラブル対処で激務が続いていた(コンサートに行けたことじたいがラッキーだったほど)こともあって、悩み事が多く、この大曲を集中して聴くだけの精神状態になかったということもあったかもしれない。やはり精神的なストレスが多いときだと楽しみきれないんだなということも実感した。

もうひとつ残念だったのは、余韻を楽しみたいブルックナーの4番のエンディングで残響がまだハッキリとあってもちろん指揮者がタクトを上げたまま状態のところで「ブラボー」と大声を放った不届き者がいたこと。フライング気味のブラボーがあっても、ちょっと早いかと思いつつも他の観客の拍手が続くものだけれども、この日はあまりにも早すぎて空気が凍りつき、しばらくしてみんなで拍手が起きるというこれまでに見たことがないほどの後味の悪い終わり方になってしまった。同じ(と思われる)人がドンファンのときも完全フライングをやっていて嫌な予感がしていたのに、その悪い予感を上回るぶち壊しのブラボーには呆れてモノが言えない。

そんなこんなあったとはいえ、強調しておきたいことは演奏についてはまったく不満はなく、ブルックナーが好きなわけでもない妻がとても満足していたほど素晴らしいコンサートであったことは間違いない。ミュンヘン・フィルはこれだけの実力(もう音楽監督のポジションを引き受ける気がなかったマゼールがそのサウンドを聴いて翻意したほどの実力)であることを考えるとチケット代がとてもリーズナブルであることも特筆できる。空席が2割ほどあったのが本当にもったいない。いわゆるブランド力のあるオーケストラではないかもしれないけれど、もっと広く聴かれて欲しいと思う。

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