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趣味の人生を楽しむサラリーマンの日記

サラウンド用スピーカーを替えてみた-KEF T301

拙宅は普通の3LDKのマンションでごく平均的なリビングでプロジェクターとサラウンド環境のホームシアターを楽しんでいる。リビングをシアターにするということはそれなりの代償が当然あって、常時置きっぱなしにするわけにはいかないプロジェクターとリアスピーカーは普段は然るべきところに収納、その都度設置するという面倒を余儀なくされている。プロジェクターは別室の収納キャビネットから、リアスピーカーはオーディオの脇や後ろに隠してあるところから引っ張り出し、テーブルの上にプロジェクターを置き、リアスピーカーを然るべきところに設置するんだけれども、いずれもある程度の高さが必要なため、ダンボール箱を置いてからその上に置くという手間のかかることをしなくてはならない。プロジェクターやリアスピーカーだけでなく土台となるダンボールまで別室から運び出していて、映画を見る時には毎回リビングとの間を何往復もしながらドタバタとやっている。

とはいえ、週末に観る映画だけのためならそれほど苦にならない。ところがクラシックを聴くようになってから、マルチ・チャンネルのSACDが増えてきて、それを聴きたいときが増えてきたので、こうなるとリアスピーカーをいちいち設置するのがいよいよ面倒だと思うようになってきた。

もともとリア・スピーカーとして使用しているKlipsch RB-51というブックシェルフ型スピーカーはそれほどクリアな音を聴かせるものではないということもあって、必要なときに容易にセッティングできて、あわよくば音質もグレードアップできるものがないかと探してみる。

その前に、まずはワイヤレスでサラウンド環境を実現できるようにならないかを調査。ソニーのシアターセットもの(バラ売り不可)でリアスピーカーを無線にする製品はあったものの、それ以外には良いソリューションはなさそう。リビングでマルチ・チャンネルを楽しみたい人にとって一番の障壁はリアスピーカーの設置とケーブルの取り回しであることは明らかなのだからオーディオ業界の人にはもう少しがんばってもらいたいような気がする。もうある程度の歴史がある5.1chでさえそういう配慮がないようではドルビーATMOSなんて普及しないと思うんだけれど・・・。

無線化を諦めて普通の製品選びに戻り、選んだのはKEF T301という、壁掛けできる薄さと軽さをウリにした縦長スピーカー。この製品はホームシアター用のセットものでありながら単品でも購入できる。高さもそれなりにあるので、リアスピーカーを置く場所にダンボールのような土台をいちいち置かなくても良さそうだし、軽いので使わないときに片付けるのも楽そうだ。

ところが調べてみると音質についてのレビューがまったくと言っていいほどない。どうやらオーディオ・メディアにもオーディオ・マニアにも注目されていないらしい。試聴できるところもなさそうで音質の傾向を掴む手段がないので、本当にこの製品で良いのかという懸念を払拭できない。これがスピーカー選びの難しいところ。なにしろ音色は好みと合うかが極めて重要なため、試聴せずに購入するのは「エイヤッ」の気合いと覚悟が要る。とはいえ、僕が求めている設置性の観点で他に代わりになる製品は他になさそうで、定評あるブランドKEFであることと、米アマゾンの評価が高いことを信用して購入に踏み切った。

商品が到着。なるほど、確かに薄くてスタイリッシュ。スピーカーケーブルをどう接続するのかもネットの情報からではわからなかったけれど、ターミナルもなく、下方から穴に差し込んで六角レンチで締める方式になっている。

KEF-201508

これも壁掛けを意識した設計で、故に太いスピーカーケーブルは使うことができない(このスピーカーで太いケーブルを使おうという人はいないとは思うけれど)。据え置きのための短い土台は垂直からやや上向きまで多少の角度調整ができる(これも六角ボルトでの固定)。

まずは単体で音を確認してみる。寝室にあるセカンド・オーディオのDENON RCD-CX1に、普段使っているB&W CM1と入れ替えて試聴してみた。音が出た瞬間・・・正直なところ「これは失敗したかも」と思った。もちろんある程度予想していたとはいえ低音域が想像以上に弱い。なんだか芯が詰まっていない中身スカスカの全体に薄っぺらな音が出てくる。サイズの割にはローエンドの音域までよく出ていて厚みと深みのある低音を聴かせるCM1と比べるとその差は歴然としていて、オーケストラのコントラバスやジャズのウッドベースの響きは非常に弱々しく、ある程度音量を上げないとそれらの実体感が出てこない。また解像度も低く、オーケストラの弦の美しさや、金管楽器の艶もほどほど。まあ、それほど高価な製品ではないので高音域はこんなものかもしれないし、キンキンした高音よりもこの方が自然ではある。しかし、CM1よりやや価格帯が低いとはいえ、高音域を含めオーディオ的パフォーマンスは残念と言わざるを得ない。一般的なブックシェルフ型のスピーカーとは音の傾向がまったく違うので、なにはともあれ違和感が残るところからはじまってしまい、音づくりの個性を楽しむという気持ちにもなれなかった。それでもしばらく聴いて慣れてくるとそれなりに良いところも見え、木管楽器の艶の表現などはなかなか上手く表現できていることも感じられるようになってきた。

つまり、この製品はやはりセットもの前提ということで、サブウーファーの助けを前提とした音作りがされているということ。壁掛けでスタイリッシュにセッティングすることもこの製品の狙いであり、それを実現するためのスピーカーであり、薄さが最優先されている。この薄さに「それでもある程度は出てくれるのでは?」と期待した僕が間違っていたようだ。KEFはBOSEのように「サイズから想像するよりも力感のある低音を」という考え方は一切していない。無理に低音を稼いで中高音の見通しを悪くすることは避けたかったのだと思う。このように割りきった設計の製品であるため、純粋に音楽を聴くためのステレオ・スピーカーとしてこの製品を高く評価する人はたぶんいないと思う。

と、ここまでは悪態をついてきたけれども、そもそも購入した目的は拙宅でのサラウンド用リアスピーカー。どっしりした低音を余裕で鳴らすJBLのフロントスピーカーにサブウーファーもある拙宅のシステムでは少なくともサラウンド用のスピーカーに低音は必要ない。マルチチャンネル録音のオーケストラものではホールのように全体の響きをサポートしてくれて、特に金管と木管の響きが伝わってきて欲しいところなんだけれども、その点でKEF T301は悪くない。拙宅ではサラウンド用スピーカーをやや後方においていることもあって、直接音が耳に入る要素が少なく、解像度がそれほど高くないことも特に気にならない。映画でも効果音が中心なのでまったく問題なし。Klipschよりも少しだけ上の価格帯でありながらクオリティアップを実感できるほどではなかったのは、コンセプトの違いによるものであり、まあ仕方がないかなと言ったところ。

もちろん、狙ったポイントである設置の容易さは期待通りで、重量が1.5キロしかないこと、ダンボールなどの土台を用意せずともそのまま置くだけで適切なポジションに収まるようになったため、聴きたいときに気軽にセッティングできるようになった。少々大げさに言うなら、これまでは「マルチチャンネルの音源を聴こう」という決心が必要だったものが、思いつきで聴く行為に到れる様になったという精神的な軽さが個人的には大きな収穫であり、当初から狙ったものであった。視聴時だけの設置とはいえ、見た目もスッキリするので、外観を気にする人にもこちらの方が望ましいと思うに違いない。

(Before)
KEF-201508

(After)
KEF-201508

以上、専用のシアタールームを持てる方にはどうでも良いネタではありますが、リビング・シアターを細々とやっている方には、ご参考までにということで。

「チョコレートドーナツ」(ストーリーに直接触れない程度のネタバレあり)

チョコレートドーナツ201508

育児放棄された障害者をゲイが育てるという実話に着想を得て、ゲイカップルがダウン症の子を引き取って育てるという話に仕上げた映画。従って実話ではない。ただし、モデルとなったゲイの方が向かられた世間からの視線は今とは大きく異っていた70年代が元の話なだけに映画でも時代設定を79年としてある。

この映画はストーリーを語って楽しむものではないと思う。また、薀蓄のネタになるようなものでもない。この映画にあるのは人間の行い、心そのもので、観ている人の感情に直接訴えかけてくるものだからだ。

根底にあるのは差別であることは観れば誰でもわかる。ゲイが気持ち悪いものとしてしか認知されていなかった70年代に、ダウン症で親に捨てられた子供、すなわち世間から阻害されていた子供にシンパシーを覚えてなんとかしてあげたいと思うのは差別されたものでしか共感できない感覚だったに違いない。しかし、主人公のルディ(アラン・カミング)はゲイであることを何ら恥じることなく純粋に生きていて、この子供への共感だけでなく人間としての優しさで面倒を見てあげようと思うようになる。

なにしろ、ルディとポール(ギャレット・ディラハント)の周囲にいる人がゲイに対する差別に満ち溢れている。今でこそところによっては同性婚が認められ、社会にもある程度認知されているとはいえ、この映画の時代設定の70年代はもとより80年代でも同性愛者は明らかに差別されていたくらいで、そのような差別が悪意ある行動に結びついていて観ていて気分が悪くなる。

ちなみに僕自身が、誰に対しても差別意識がないかと訊かれたら「ない」とは断言できない。子供のころ(70年代)はまだ「チョン」という言葉を周囲は使っていた世代だし、その他も含めて差別意識がゼロと言うつもりはない。でも、単に人種や性の扱いで差別をすることは人としてしてはならないことであることは理解している。なぜなら、日本人も西洋人の一部には差別されていて、それを肌で感じた経験があり、差別される側の気持ちもわかるから。

そういった差別が何を生み出すのか、また、形式的に処理すること(この映画では判事と検事)がいかに人を傷つけるか、という人が生きて行く上で誰もが面する根本的なものを訴えかけ、人はどうあるべきかとこの映画は問いかけている。

ルディの歌は、上手いとはいえプロの水準にあるかといえばそこまでではない。しかし、エンディングの歌はそういったものを超えた情感が現れている。そして、歌とはそういうものであり、聴き手はそんな人間の生み出すものに涙してしまうのだ。

映画としてはシンプルながら、人の根幹にかかわる骨太のヒューマンドラマ。そういう映画が好きな人なら観て損はない。

レッド・ツェッペリンのリマスター最終章

Presence-201508
In Through The Out Door-201508
Coda-201508


レッド・ツェッペリンのリマスター・シリーズ、前回は「Phisical Grafitti」の単発だったので、次はどうするのかと思ったら3作同時発売、ついに完了の運びとなった。

この種のリマスター・シリーズは、カタログに載っているものを一気に制作・発売するのがこれまでの常識だったところ、およそ1年かけて4回に分けてリリースしてきたのは珍しいやり方だ。これは制作側も一気にやらなくてはならない、という制約から開放されるのが理由だったのかもしれないけれど、買う立場からすると一気に買わなくても済むのでお財布にやさしいというメリットがあったように思う。また、一気に買ってしまうと好きなアルバムだけしか聴かなくなりそうなところ、時間をおいて入手すればゆっくり1枚ずつ聴けるという利点もあった。狙ったのかどうかはわからないけれど、リリースのタイミングごとに話題になるというのも上手いやり方だったかもしれない。もっとも、ツェッペリンほどのビッグネームだからこそ話題を引っ張っても、小出しにしても注目されることになったわけで、他のバンドでは小出し戦法はビジネス的には却って不都合のように思えるので、やはりビッグネーム故の余裕の商法なのかもしれない。

と、前置きはこのくらいにして今回のリマスターを聴いてみよう。

【Presence】
94年の最初のリマスターのときに一番音質向上が大きいと感じたアルバムだった。レコードや初版CDの全体のコモッた音が晴れて、2段階くらい音がクリアに。これによってボンゾのドラミングのダイナミックな響きが倍増し、これが本当の「Presence」だったのか、と思わせるような感動があった。今回はどうだろうか。一聴した瞬間に驚くような違いはない。でも音は確実に磨かれている。具体的にはベースの音が強化されている。リミックスによる音量増加ではなく、より低い音域から太いサウンドが引き出されることによって音の厚みが増している。各楽器の鮮明さも僅かに向上して音の見通しは良くなった。それでも以前のようにエッジを利かせる音の磨き方ではなく、あくまでも根っこの部分の音の磨き上げなので音が刺さるようなことはない。

コンパニオン・ディスクは5曲中4曲はリファレンス・ミックスと称した曲。Reference Mixes of Work in Progressというコメントをそのまま読むと未完成の参考版ミックスというところか。ただ、いわゆるRaugh Mixほどは未完成ではなく、完成品よりやや落ちる程度。ということで、あまりオリジナルと違いはなく、それ故にそれほどありがたがるほどのものではない("Royal Orleans"は妙な呻き声のボンゾのヴォーカルになっているけれど)。1曲だけピアノがリードするインストが入っていてこれは初出。身を任せて聴けるゆったりした曲で、いかにもペイジらしいアコギとエレキのサポートが入るものの、ツェッペリンらしいかと言われると少々微妙。もともと「Presence」は勢いで作った感じがあるので余り曲、余りテイクはないということなんでしょう。

【In Through The Out Door】
確実にワンランク以上は音がクリアになり、例えば"In The Eveninng"冒頭のティンパニっぽい音の金属的な響きがより明瞭になっていたりする。今となっては古臭いシンセの音は透明感が増してこれまでほどは古く感じさせない。"South Boud Saurez"ではイントロのピアノの明快さが段違いで音場の広がりも大きくなっている。"Hot Dog"ではバックで流れているアコギ(マンドリン?)の音がハッキリと意識に入ってくる。"Carouselamba"もシンセの鮮明度が上がり、ベースの輪郭がハッキリしている。その他の曲も基本的には同様な音質向上を果たしていて、中途半端にシンセを導入したが故にサウンドが一番古臭いと思っていたこのアルバムの鮮度が上がったように感じる。一連のリマスターで他のアルバムと比較しても音の磨き上げが一段高いレベルに上がったと言えるんじゃないだろうか。個人的にはこのリマスタリングはGood Jobだけれども違いが大きいだけに従来との比較で反感を覚える人もいるかもしれない。

コンパニオン・ディスクは全曲ラフ・ミックス。本採用バージョンとそれほど大きく変わるわけではなく、単に完成度の低いミックスが収まっているだけでほとんど価値はない。このアルバムも基本的にはアウトテイクがないようだ。

【Coda】
全曲似たような方向性になるかと思ったら曲によって仕上がりの方向性に違いを感じる。録音時期がバラバラだからなんだろうか?スネアドラムがクリアかつクリスプでよりリアリティがあるし、ヴォーカルの生っぽさも出ている。ただ、曲によっては高域が目立ってシャリシャリした感じ("Poor Tom")になっているかと思えば、ザラついた感じだったものがスッキリと綺麗に仕上がっていたり("I Can't Quit You Babby")もしていて、前マスタリングとは明らかに違う仕上がりになっているのでこれも評価が分かれるんじゃないだろうか。

コンパニオン・ディスクは2枚。基本的には前リマスターのときにボーナス・トラック扱いだった曲の他は別ミックスが多い。聴こえていなかったギターソロが聴こえてきたりということはあるものの、基本的には本テイクと大して違いがあるわけではなく完成度が低いテイクの寄せ集め。とはいえ、目新しいものもいくつかる。"If It Keeps On Raining (Rough Mix)"は"When The Levee Breakes"別バージョン。ジョンジーらしいベースラインのうねりがよく聴こえる。"Sugar Mama" "St. Tristan's Sword (Rough Mix)" は初出。荒っぽい内容で初期のツェッペリンらしさを味わえる。他には"Four Sticks" "Friends" のボンベイ・オーケストラ・バージョンが収録されている。あとは、本テイクとはインテンポに入るまでの展開をメインにヴォーカルがまるで違う "In The Light" がちょっと耳を惹く。

というわけで、今回は予想以上に音質の変化が大きく、個人的には良い方向性で向上しているのが大変好ましい。ペイジもさすがにこれでやり尽くして満足してることでしょう。最終形のスタジオ・アルバムを末永く楽しみもうと思う。

一方で各アルバムに付属したコンパニオン・ディスクは驚きが少なかった。以前にも書いた通り、そもそもコンパニオン・ディスクという呼称は、未完成品の寄せ集めであるが故に付けられたと思われるネーミングなので期待しすぎてはいけないものだった。普通のファンやこれから聴こうという若い人にはまったくもって不要なもの(つまり音楽としての価値はない)で、あくまでも長年連れ添ってくれたファンへのご褒美程度に受け止めておいた方が良いでしょう。

人騒がせなペースメーカーと携帯電話の電波問題-総務省は責任を持って事態の収束を

優先席20160811

かなり昔から、携帯電話の電波はいろいろなものに影響を与えると言われてきた。とりわけペースメーカーの動作への悪影響の懸念は人命に直結するものだっただけに重大事として扱われていて、注意喚起のアナウンスが多く、鉄道会社によっては優先席周辺をオレンジ色に塗りたくり、さながら特殊人物の隔離エリアかのようにしているところまである(それでも気にせず座ってスマホをいじる若い人もいるけど)。

ちなみに、僕の知る限り、ニューヨーク、パリ、ロンドン、ローマ、香港の地下鉄や電車でこのようなことをしているところは見たことがないし、他の国でもそんな話は聞いたことがない。

昔から疑問に思っていた。本当に携帯の電波ごときで影響があるのかと。もし本当なら、これだけ電車で多くの人が世界中で使っていて問題が起きないはずがないのにそのような報道がないのはなぜなのか。そういう状況を鑑みると「実際には影響なんてないんじゃないか」という疑念が常に頭の片隅から離れない。別に問題意識を持っているわけではなく、電車に乗って優先席が近くにあると嫌でも意識させられて「本当に影響あるの?」と思ってしまうのだ。

それでも影響がある(あり得る)という総務省の公式見解により、それを信じている人が多くいる。「0.01%でもリスクがあるのなら手を打つべきだろう」という人が、リスクつぶしのことばかりしか考えない日本にはきっといるだろう。ところが明らかな弊害が出ている。一番困るのは「世の不正を私が正すのだ」という、独り善がりな世直し人(たいていは高齢者)がこれを信じてしまい、優先席近くのエリアにいる人に対して次々に注意して回るという滑稽な光景が見られるようになってしまったことだ。

そんなことを思っていたら朝日新聞デジタルの記事に、ある意味衝撃の事実が書かれていた。

http://digital.asahi.com/articles/ASH726KN0H72UTIL048.html?_requesturl=articles%2FASH726KN0H72UTIL048.html

要約すると

・電車内で携帯電話のトラブルは頻繁
・総務省は、2013年にペースメーカーとの必要な距離を22センチから15センチに短縮
・総務省は2014年3月に14機種のペースメーカーに1センチ未満の距離から携帯と無線LANの電波を同時に当て、全機種で「影響なし」とする実験結果を公表。

ということである。つまり影響はないのにトラブルが起きている。それでも総務省は「実際に影響が発生するとは限らない」というコメントに留めている。いかにもお役所らしい慎重な言い回しで「影響のリスクがない」と言い切ることを避けながら実は影響はないとわかってきたことを示している。世の中に絶対はないから言い切っていないというだけのこと。

確かに、人命に関わる問題なだけに慎重になった方が良いのはわかる。だから当初に悪影響の可能性を広く知らせたことは間違いだとは思わない。しかし、そのときの発表の仕方がまず問題だ。「影響が出る可能性がある」と言うだけでは多くの人が「発表されるくらいだから影響が出る可能性は小さいわけではないだろう」と受け取るだろう。現実の生活の中で(←ここが重要)、どの程度の距離でどの程度の電波だとどの程度の影響がどのくらいの確率で発生する可能性があるのかを発表しなければ、無駄な恐怖心を煽るだけになってしまう。当初懸念されていた「ペースメーカーに影響が出る可能性」が「特定の人に隕石が落ちてくる可能性」程度だったのだとしたら世間に広めた総務省の責任は重い。

総務省は責任を持って「携帯電話の電波がペースメーカーの動作に影響を及ぼした事例はなく、影響を及ぼす可能性があることを示す根拠もない」と、2014年3月の実験結果と合わせて、あえて広く公表するべきだ。

先に、電車の中で注意して回っている人の話を書いた。彼ら自称「世直し人」は実は正義感が強くてやっているわけではない。少なくとも僕にはそう見える。なぜなら、総務省が携帯電話との距離のマージンを22センチにしていた時代でも、「世直し人」は明らかに22センチ以内に人がいない人に対しても次々と注意していたりするからだ。朝日新聞デジタルの記事によると、70代の男が、タブレットを使う乗客に「優先席でいじるな」と刃物を突きつけて約50人が線路上に逃げ出す騒ぎになる事件があったこと、60代の男がスマホを使う女性に「降りろ」と怒鳴り、非常ボタンを押す事件があり、この男は39回もこのようなことを繰り返していたことも紹介されている。つまり、普段の生活の不満を抱えて行き場のないストレスを抱えていて、しかし八つ当たりできないようなある意味理性を持った人が「世直し人」の体裁を借りることによって爆発、八つ当たりを正当化してしまうのである。

ここに来て関東の鉄道会社もルールの見なおしを検討しているらしいけれど、東京メトロのように「不安に思う人がいる以上変えられない」と言っているところもある。もうこうなってくるとなんのためのルールなのかわからない。

記事では以下の関係者のコメントも紹介されている。

自身がペースメーカーの利用者で携帯電話をいつも胸ポケットに入れているという日本心臓ペースメーカー友の会の副会長は「患者には『電波の影響は気にしなくていい』と訴え続けてきた」と話す。日本不整脈学会の中島博医師も「健康被害には至らない」と話す。いまのところ電波が影響した事例の報告は無いという。「電源オフの車内放送は無駄な恐怖心をあおるだけ。すぐにやめるべきだ」。

慎重に対応するというと聞こえが良いが、度が過ぎると単に無駄な恐怖心を煽るだけになり、世の中に悪い影響を与えてしまう。改めて言うけれど、総務省はリスクが極小だったものをここまで広めた以上、収束させる責任がある。今すぐ世間に「携帯電話の電波は影響ありません」と大々的に公表すべきだろう。

それでも「可能性はゼロじゃない」(←世の中に絶対はない、ということを利用して正当化する言い方する人ってずるいよね)と反対する人が必ず現れる。そういう人にはこう言ってやれば良い。「携帯電話が世界中で普及して何年経過しているんですか?人混みの中でも多く使われていますよね?事故事例を教えてくれませんか?」と。

「プリズナーズ」(本筋に触れない程度のネタバレあり)

プリズナーズ写真20150803

定期的に映画は見続けているものの、最近はあんまり「おおっ」と思うものがなく本ブログでは開店休業中のカテゴリーになっていた。久しぶりにズドンと来たのがこの「プリズナーズ」。2時間半を超えるやや長尺ものだったので、録画したままずっと寝かせていたんだけれど思わぬ掘り出し物、傑作だった。

この映画はいわゆるサスペンス・スリラーにカテゴライズされる映画なんだろうと思う。実際、子供の失踪から先が読めない展開や、暴力的な振る舞いで正気とは思えない人の行動が恐怖を感じさせるし、全体のトーンも重苦しい雰囲気を漂わせ、サスペンス・スリラーとして見てなかなかの仕上がりになっている。話の進め方も、伏線の張り方(ちょっと回りくどくて余計なものも多かったけれど)もよくてきているし、映像の作り方も編集もカメラワークも完成度が高い。

しかし、それらを題材に人間を丁寧に描いていることこそが本当の見どころだと思う。娘を誘拐されて平常心を失う父親ケラー(ヒュー・ジャックマン)がなによりも強いインパクトを与える。しかし、誘拐された子供のことを知っている言動を2度もした容疑者アレックスに対して、娘を失った恐らくは熱心な共和党支持者のような保守的な田舎の強硬な男が拷問に走るのは、多くの人が行き過ぎと思いつつも、仕方がないかもしれないと思わせる。そして、同じく誘拐された別の父親がその非人道的な行動に追随しきれないこと、それでいながら見て見ぬふり(決して止めさせようとはしない)をしてしまうことも理解できる。一方で、優秀なロキ刑事(ジェイク・ギレンホール)が、遅々としてと取り調べに応じようとしない重要参考人に痺れを切らして冷静さを失ったことで自殺させてしまう流れもわからなくはない。こういった基幹にあるプロットだけでなく、人はかくも弱く、正しくない行動をしてしまうものだということがよく描かれている。だからこそ、観ている人はやりきれなさを覚え、映画に没頭してしまう(正義感の強い若い人には理解できないかもしれないが)。

どんなジャンルのものであれ人の心を丁寧に描いている映画こそが面白いというのが僕の考えだけれども、この映画はそういう意味でかなり面白いし、よくできた優れた映画だと思う。

尚、この映画は、日本人に馴染みにくい宗教観も出てきて、それを以って「宗教色が強い」と評する人もいるようだけれど、それは言い過ぎというものでしょう。あくまでも人間関係の対立軸をわかりやすくするために登場人物のキャラクター作りに巧みに利用しているだけだ。ケラーは敬虔なクリスチャンとして描かれるが、拷問も神に赦しを乞えば許されるという、過激行動時に自己正当化するためにも利用されてしまう宗教の危うさも表現している。拳にある刻印からフリーメイソンであることを示しているロキ刑事は、理性で正しい行動を貫くことを信条としていて、ケラーの価値観と相容れないというわけである。実は、ロキ刑事がフリーメイソンであることは観た後に調べてわかったことで、それを知っていようが知っていまいが映画の見え方が変わるというほどのものではなく、あくまでも人物描写の一要素に過ぎないと思う。

ジェイク・ギレンホールが出演していて重苦しい謎解きのサスペンス、となるとどうしても「ゾディアック」を連想してしまう。個人的にはとても評価をしている「ゾディアック」ではあるけれど、この映画は総合的には同じくらいの高いレベルにあると思う。キレのある演出、映像と音楽でさすがフィンチャーと唸らせる「ゾディアック」、一方で人の深層心理をえぐる描写ではこの「プリズナーズ」が優ると思う。

そのえぐり方が鋭い故に観る者に強烈な印象を残し、終わったあとの重苦しさは半端ではなく、観終わるとグッタリしてしまう。久しぶりに重量級の良いサスペンス・スリラーで、この種のジャンルが好きな人には是非オススメしたい映画だった。

前かがみは鑑賞者の権利・・・ではない

前かがみ

先日の東京芸術劇場でのコンサートは3階の2列目の席だった。始まると前の列の女性がいわゆる「考える人」のポーズを取りはじめ、前かがみの姿勢になった。僕の視界の真ん中にその彼女の頭部が侵入、指揮者が見えなくなったので、こちらも横に姿勢をずらしてなんとか指揮者が見える姿勢を取ることにした。後ろの人の迷惑にならないように配慮しながら。そうしても彼女の頭部がオケのどこかの部分を隠してしまっていたけれど、その人にも自分の座席の範囲で自由に見る権利があるのだからしょうがないかと妥協した。明確にどういう姿勢で見なくてはならないという規則があるわけじゃないから、あからさまに注意するのも気が引ける。

ところが、頻繁に右に左に姿勢を変えたり、背もたれにもたれる姿勢に戻したり、また前かがみになったりと落ち着きが無いのでこちらもその都度姿勢を変えて視界を確保しなくてはならない。さすがに堪りかねて1曲終わったときに「あのお、前かがみにならないでいただけないでしょうか」とついにお願いしてしまった。

やや戸惑いの表情を浮かべつつ、その後、彼女は背もたれに背中を付けて鑑賞してくれたものの、なんだか前かがみになりたいのを我慢している様子が伝わってくる。また、どうやらじっとしているのが苦手らしく、左右に姿勢を変え続け終始窮屈そうにしていた。お願いしたとはいえ、そんな様子を目の当たりにしているとなんだか後味が悪い。

この経験に前後して、東京新聞の読者の投稿ページに、要約すると「ある劇を観に行ったとき、前かがみの姿勢を取ったら係員に注意された。誰にも迷惑をかけていないのだから姿勢くらい自由にさせてほしい」という意見が掲載されていた。その後、その意見に応じる形で「後ろの人が見えなくなるのだから迷惑がかかる。マナーを守ってほしい」という投稿が掲載された(しかも3人分も)。

新聞の投稿欄は、ときどきこんなことを言ったら反論が出るだろうという内容のものを載せてその通り反論が来てそれを掲載する、というようなことをするけれど、これなどはまさにその典型例だったと思う。ツイッターなどでも、数は多くないものの主に観劇のマナーとして前かがみをやめるように注意喚起を求める声が上がっている。中には帽子を被ったままの人や、おだんごを頭頂に作ってくる人がいるらしく、これらも同じくマナー違反として指摘の声が上がっている。幸い直接被害に遭ったことはないものの、確かにコンサートのときもそういう人を見かけたことはある。あと余談としては、歌舞伎で和服で来る人は帯の結び目が背中に来るのでどうしても背もたれより前に姿勢が来てしまって微妙に迷惑なんだとか。観劇のときには始まる前の注意で携帯オフと合わせて前かがみは控えるように呼びかけているとのこと。

やはり、自分の席だから自由な姿勢で良いという考えはマナー違反という認識は世間にはそれなりに広まっていて、そこに不満を抱くのは僕だけではなかったようだ。確かに1階席だと前かがみでもあまり他の人に迷惑はかからないかもしれないけれど、見下ろす形になる2階以上の席は後ろの席の視界を妨げるのだから、マナー違反と言っても差し支えないのだ。今後、同じような人がいたら遠慮なく注意させていただこうと思う。

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