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趣味の人生を楽しむサラリーマンの日記

ウォークマンをクルマで聴くために-ようやくウォークマンが便利に思えてきた

購入時に酷評(詳しくはhttp://buhaina.blog.fc2.com/blog-entry-133.html )したソニーのウォークマン(Walkman A10シリーズ)。それでもiPod classic亡き今、マニアック機種を除くと気軽に使える唯一の大容量DAPなので仕方なく使い続けている(ハイレゾはどうでもいい)。だいぶ慣れてきたので購入時ほどは不満に思わなくなってきた。

DAPに期待する用途のひとつとしてはカーオーディオでの利用がある。この点でも、僕のクルマに付いているカーオーディオ(カーナビ)、パイオニアAVIC-HRZ088のようにiPod接続キットが用意されているのは当たり前なのに対して、ウォークマンに対応する機種というのは、まったくと言って良いくらいない(隅々まで調べたわけじゃないけど)ので汎用的な方法でオーディオと接続するしかない。

今のところ、手元の古いiPod classic(容量が足りないのでドライブに向いていないクラシック音楽をiTunesの同期から除外してある)が現役なので利用できていて問題ないものの、既に7年以上使っているのでいつ成仏されるかわからない。そうなったらクルマで好きな音楽が聴けなくなってしまうのだ。ああ、音楽のないドライブなんて想像しただけで恐ろしいではないか。

では、汎用的な方法でオーディオに接続できるようにしてみよう。パイオニアAVIC-HRZ088はAUX端子がなく、しかしAUX端子には対応している(メニューに選択肢がある)。何を意味しているのかと言うと、AUX端子アダプター(CD-RB20)を増設すれば利用できるようになるということ。アダプターと言っても特に電気的な処理があるわけでなくカーナビのカプラー差込口から信号を取り出して配線をRCA端子に形を変えているだけのもの。この、開発コストも材料コストもほとんど必要としないアダプターが驚くべきことに3,600円もする。直接カーナビからRCA端子を出すことが技術的に難しいとは到底思えず、たかだかRCA端子を使うだけのためにアダプターをこの値段で売るというメーカーの態度は反省してもらいたいところだ。そんなインチキ商法をサードベンダーが見逃すはずがなく、およそ1/3の価格で社外品アダプター売られていて(Amazonで買えます)、RCA端子ではなくDAP接続には更に都合が良いステレオ・ミニプラグ直出しのものがあったので、こちらを購入して取り付けた(ちなみにパイオニアAVIC-HRZ088にはBluetoothアダプターもオプションで用意されているが外部機器からの接続には利用できない)。

次にウォークマン側。イヤホンジャックから直接出しても良いけれど、ウォークマンのボリュームを最大にしてもパイオニアAVIC-HRZ088もかなりボリュームを上げないと十分な音量が取れず、これだとそのままうっかり通常のイヤフォン使いに戻したときに耳を痛めてしまう可能性があるので望ましくない。ネットで探すと一応ウォークマン用にシガーライターソケットからの充電をしながらライン出力ができるアダプターがあったので購入。しかし、これは以前乗っていたアルファロメオ156のときもそうだったけれどMiToではソケットが浅く(欧州車は全体的にそうらしい)、うまく接触してれない。分解・加工しているうちに今度は充電しなくなってしまった。これは仮の加工状態で無理やり差し込んだりしたのでソケット内をショートさせてしまったのが原因で、その影響でETCへの電源まで供給されなくなってしまい、ディーラーでヒューズ交換をしてもらうことになってしまった。ここで一旦は利用を断念。

しかし、最近はBluetoothでステレオ・ミニプラグ出力ができる小型の汎用アダプターがいろいろあるのでこちらで挑戦。これらの電源はたいてい受けがUSBポートなのでシガーソケットからUSB出力できるアダプターがあれば電源は確保できるし、そのアダプターはいろいろ種類が出ているのでその中から2つ口(1つは一応ウォークマンへの充電用)でソケットのストロークが浅いAukey CC-S1という製品を選んだ。Bluetoothアダプターは電源の受けがMicro USBでステレオ・ミニプラグの口を持つELECOM LBT-AVWAR500を導入。

ウォークマン車載

(横に並んでいるのはiPhone6。このように大変コンパクト。)

これで快適に使えるようになり、iPod classicが壊れたときのことを心配しなくて良くなったのは何よりだ。音質はノイズまみれの車中で聴くにはまったく問題ない(僕はカーオーディオへの音質要求度は低い)。ウォークマン側の音量は固定になる(よってイコライザーは効かないが)のでウォークマンのボリュームをMAXにしなくて済むのも嬉しい。ただし、エンジンを切るとBluetoothアダプターの電源が当然切れるので、一旦接続が切れてしまい、再度エンジンを始動する場合にはウォークマンから接続しなくてはならない(短時間ならリジュームしてくれるが)のはちょっと面倒。でもまあ、これはBluetoothを使う以上仕方ないからあきらめよう。

かくしてクルマでの利用という課題はクリアになった。ここで実はウォークマンA10シリーズの強みであるバッテリーの持ちの長さが生きてくる。フル充電しておけば日帰り旅行くらいなら車中での充電が不要なので完全にワイヤレスでの使用ができてしまう。なんなら後席の人に渡して曲を選んでもらうことも可能だ。これまでもA10シリーズのバッテリーの十分すぎる持ちには満足していて、フル充電しておけば1日くらい音楽を流しつづけてもバッテリーの残量を気にしなくて良いというのは素晴らしい性能のひとつだと思う。

カーオーディオに限らず、Bluetoothが使えるというのは本当に便利。ワイヤレス・スピーカーに接続すれば多少離れていてもリモコン兼用で使える(iPod classic+Bluetoothアダプタだと音量調整できなかった)し、ジョギングのときにもBluetoothイヤフォンならばケーブルが邪魔にならない。そしてA10シリーズはコンパクトで軽いのでズボンのポケットに入れてもまったく邪魔にならない。Bluetooh接続は、別にウォークマンA10シリーズに限ったことではなく今やどんなスマホでも実装しているけれど、軽量コンパクトでバッテリーの持ちが良いというA10シリーズの基本特性が加わることによってDAPとしての機動力を大幅に高めていると思う。最近はポタアン(ポータブル・アンプ)などという名称ながら、ポータビリティを損なう機材を継ぎ足してほんの少しの音質向上を求める奇特な人達がいるけれど、本来音楽を聴く場所でないところでもそこそこの音質で音楽を楽しめる環境をもたらすものがDAPであり、コンパクトで気軽に持ち運びできることが当然の要件。そんな携帯音楽プレイヤーは僕にとっては本当になくてはならないもので、A10シリーズはやはり良い製品だとようやく思えるようになってきた。

だから、操作性と機能の一部がショボイのが本当に悔やまれる。ディスク番号の対応、ジャンルから全アルバムを選択可能にすること、どの状態のときでも曲の一時停止をワンアクションでできるようにすること、この3点だけは本当になんとかしてくださいよ、ソニーさん!

Yesterday I Had The Blues / Jose James

ホセのビリー

最近、クラシックばかりなのでたまにはジャズでも、と買ってみたのがこのアルバム。WOWOWで現代ブルーノート・レーベルのドキュメントを採り上げていてこのアルバム制作が主な題材になっていたので、いつか聴いてやろうと思っていた。

ホセ・ジェイムズのCDは初めての購入だけれども、2011年1月にブルーノート東京で「マッコイ・タイナー・トリオ・ウィズ・スペシャル・ゲスト・エリック・アレキサンダー&ホセ・ジェイムズ、“ミュージック・オブ・ジョン・コルトレーン・アンド・ジョニー・ハートマン”」(長い!)という企画があってそれを観たことがる。このときは、「こんな企画なので思う存分コルトレーンやらせてもらいます」的なエリック・アレキサンダーに期待してライヴに行った(実際、高齢のマッコイはもうヨレヨレだった)んだけれども、そこでジョニー・ハートマンの代役を務めていたのがこのホセ・ジェイムズだった。ハートマンほど懐の大きな低音ヴォイスではなく、音程の崩し方のアプローチも違うけれど、良い意味で若さの滲み出た低い声(ってイメージしにくいかな)を聴かせて立派に代役をこなしていた。

彼のCDは、そんな王道ジャズ・ヴォーカルというよりもヒップホップやR&B的なサウンドで主に歌っているらしいことはなんとなくネットの情報でわかっていて、僕はヒップホップはたいへん苦手としているのでCD購入を見送っていたのだった。

この「Yesterday I Had The Blues」は、ビリー・ホリデイの愛唱歌を歌うというコンセプトで作られたアルバムで、最後にはアカペラ(バックのハミングのみオーバーダブされている)で"Storange Fruits(奇妙な果実)"が収められている。僕はビリー・ホリデイを聴いていると貧困から這い上がってきた彼女の人生や黒人差別と闘ってきたことなど、苦悩を背負った生き方がその歌からのしかかってきてちょっと気が滅入ってしまう(エディット・ピアフもね)。だから彼女の歌をホセで聴いてみたいという思いはなくて、純粋にホセのオーソドックスなジャズ・ヴォーカルが聴いてみたくてこのCDを手に取った。

このアルバムは現ブルーノートの社長、ドン・ウォズが自らプロデューサーを勤めており、ジャケットも往年のブルーノートのテイストで、純粋なジャズ・アルバムとして気合が入ったものであろうことがなんとなく想像できる。ホセの声の魅力を最大限に活かすべく、1曲を除いてすべてスロー・バラードとコンセプトは徹底している。そしてその主役のヴォーカルは、セクシーで甘く、しかしどこかに骨太さがあり、独特のヴィヴラートと音程の崩し方で個性を主張する。バックはピアノがジェイソン・モラン、ベースがジョン・パティトゥッチ、ドラムがエリック・ハーランドという一流プレイヤーばかりで、伴奏という領域をガッチリ抑えておきながらところどころに遊びがあるところに余裕のようなものすら感じられる。最近のジャズ・ミュージシャンはあまりブルース色の強い演奏をする機会はないと思うけれど、ベタなブルースを演奏しても濃厚なフィーリングで、その安定度と余裕と遊び心には舌を巻く他ない。中でも唯一のアップテンポ曲である [5] What A Little Moonlight Can Do におけるピアノ・トリオ演奏部はとてもレベルが高く、ピアノ・トリオをあまり好まないこの僕がこの3人だけでアルバムを作って欲しいと思ったほどで、特に、初めて聴くピアニストのジェイソン・モランはイマジネイティヴな演奏には驚いた。

しっとり聴かせるホセのキャラ故に夜に聴くのにはまさに最高(夏フェスとか絶対に合わない)。また録音は極上で、歌も楽器もリアリティ十分なところも素晴らしい。歌の節回しとネットリさが個性的なので合わない人もいるかもしれないけれど、男性ジャズ・ヴォーカルをじっくり聴きたい人にはお勧めできる。夜のムード音楽としてもいいかも(最後の曲を除いてね)。

レッドブル・エアレース観戦-スポーツイベントとして定着するための提言など

エアレース2015

〈写真はマティアス・ドルダラーのフライト〉

定期購読している自動車雑誌で紹介されていたのでその存在は少し前から知っていたレッドブル・エアレースを観てきた。若いころはF-1も何度か観ていたりするのでこの種のイベントは興味があって機会があったらエアレースも是非行ってみたいなと思っていた。とはいえ、強烈に興味を持っていたかというとそこまでではなく、単に家の近所でやっていたからという便利さが大きく後押ししたというのが正直なところ。

以下、雑感をツラツラと、今後地元のイベントとして定着してもらいたいという思いからの提言を交えてお伝えしようと思う(エアレースに特に興味を強く持っていたわけではないので、以降、結構冷めた目で)。

この幕張海浜公園の幕張の浜は見通しの良いほぼ直線の砂浜があるものの、そこは遊泳やサーフィンなどは禁止されていることもあって平日だと公園全体に人気がほとんどなく、土日でさえも人が少ない場所で、僕にとっては静かに散歩できるお気に入りの場所のひとつになっている。入場するとそこが溢れんばかりの人に満たされていてまずは面食らいつつ、イベントで人が賑わっていて嬉しくなる。静かな場所と言うと聴こえが良いけれど、要は普段は何の役にも立っていない公園が人で賑わっているのだから(先日JFAナショナルフットボールセンターの候補地に選定されたけれど)。事前に謳っていた2日間でのべ10万人という試算はいささか大げさと思っていたけれど、あながち水増ししているとは思えないほどの賑わいで、知名度が高いとは言えないこのスポーツにこれだけの観客が来ていたのはちょっとした驚きだった。

モータースポーツは気軽に行ける場所で開催できないのに対して、首都圏の人が気軽に来れるイベントとしてこの日本大会は企画されている。それが功を奏して、客層は幅広く、老若男女さまざまで小さいお子さん連れの方も目についた。この見た目は華やかそうでいながら実態を知る人が少ないイベントで、これだけ幅広く多くのお客さんを集めたのは、都会で見る派手なイベントとしての期待がもたらしたものだと言えるでしょう。スポーツのビッグイベントは日本では秋の開催が多いので競合が少ない春先のこの時期にやるのもいいと思う。

この幕張の浜は公園と砂浜の間に狭いながらも森の区画があって、エアレースの低い高度の部分が隠れるので市街で行われるイベントとしてなるほど都合が良い。人が沢山いて場外から見えるところだとチケットを買わずに観れてしまうから。この幕張の浜もスタート/ゴール地点の検見川方面は上記の森がもう切れているので外からバッチリ見えてしまうけれど、一番の見所はしっかり隠れるので主催者にとってこんなに都合が良い開催地はなかったに違いない。

入場してみるとグッズ売り場と同じ位、食べ物の屋台エリアが賑わっている。なかなか充実していて行列ができているとはいえ概ね10分以内に買えるくらいなので予想入場人員に相応しい店揃えで、食べ物の種類もたくさんあった。食べ物がショボいとイベントの魅力も半減してしまうものだから、ここはVery Good!。しかしながら飲み物はちょっといただけない。レッドブルがメインスポンサーなので仕方がないのかもしれないけれどミネラルウォーターが500円はさすがに高い。レッドブルの250ml缶も500円で相対的に安く感じてしまうけれど、飲食物持ち込み禁止で熱射病を気にしなくてはならない気候条件で最安値の飲料が500円はいかがなものかと思う。レッドブルはもともと高いのでまだ飲んでいない人も少なからずいたはずで、広く知ってもらうために300円程度(これでも通常より高い)で提供することはできなかったんだろうか。仮にこの価格でやるのなら、せめて待ち時間が5分以内で済むくらいの売り場を用意してほしい。水を手に入れるだけで30分近く要したのに場内の放送でしつこく熱中症への注意を促していること(本当は正しいことだけど)にイラッとする人もいたんじゃないだろうか。

エアレース2015-2

チケットは日曜日だけのAエリア(13,000円)を選んでいた。これよりひとつ良い席だと2日通し券が前提になり一桁変わって120,000円になる(その代わり背もたれ付きのイスが用意されるらしい)ので普通の人はAエリア以下の席を選ぶと思う。そのVIPプライスのスーペリア・エリアが1番良い席なのは当然ながら、このAエリアはその隣の一番広い領域が確保されていて全体が見渡せる好位置にあって観戦に不満を抱く人は少ないに違いない。

では、このエアレースを生で見て面白いと思えるか、という本題に入ろう。

拙宅は幕張の浜まで徒歩10分で行けるところで、金曜日から「Boooooon!」とよく聞こえていて、「へえ、プロペラ機って大きな音がするんだなあ」と思っていたんだけれども、現地で目の前で見たら(NAエンジン時代のF-1を想像していたわけではないんだけれど)意外と音が小さかったのがちょっと不思議な感じがした。観戦ポイントからパイロンまでは割と近くて臨場感があって良い。というか安全管理の観点からはこれ以上近くで見ることは叶わないだろう。でも、それだけ近くで見ていながら本当は出ているはずのスピードが思ったよりも感じられないのもちょっと意外だった(夜に放送していたテレビの方がスピード感があった)。F-1を初めて観たときの音とスピードの「うわー」というインパクトにはちょっと及ばない。それでも、カミソリのように切れ味鋭くヒラヒラと向きを変えて目の前を機体が飛んでいくのは「おおー」という感慨はあった。

この競技、クルマで言えばジムカーナそのもので、それではモータースポーツにおいてジムカーナを観戦するという娯楽が成立してるかというとまったくそんなことはない。理由は簡単で、一般的に競争といったら同じトラックを競争して先にチェッカーを受けた方が勝ちという見た目にもわかりやすいレースという形態だからだ。ジムカーナはスラロームや複雑なターンをいくつも重ねて一番は短い時間で走れた人が勝ちという時間競争競技で観ていて勝ち負けがすぐにはわからない。タイムで競うというのは競技者(僕も昔やっていた)からすると面白いものだけれど、観ている人はそうとも言えない。クルマの僅かな挙動の違いからクルマ(ドライバー)の状況を推測出来る人だと走りの状態を見ただけでタイムもおよそ推測できるのでそれなりに観ていて面白いけれど、そうでない人はたぶんそれほどスリルを感じないと思う。

エアレースもその点は同じで、しかも機体の挙動で操縦の状況を推測(飛行機の操縦をイメージ)できる人はほとんどいないはずだ。だとしたらそれを補う必要があって、場内では大型ディスプレイの設置と実況でラップタイムがわかるようにしてある。どの席にいてもそれらが視界に入ってよく実況が聴こえるなら問題ない。ところが、人が集中しているはず(チケット代もそれなりに高い)のAエリアのスラローム最後より少し右側エリアだと、後ろの方でなければディスプレイは見えず、場内実況を伝えるスピーカーの狭間になるので実況も聞こえにくくて、耳をそばだてていなければレースの状況(誰が飛んでいるのか、ラップタイムはどうなのか、ペナルティはあったのか、戦況はどうなのかなど)がわからない。状況をわかるようにしてくれないとただ目の前を飛行機が飛んでいるだけの航空ショーになってしまう。カバーするエリアが桁違いに広いF-1(サーキット)でも、よほど悪い席でもない限りディスプレイが必ず目に届く位置にあるし、場内アナウンスも聞き取れるようになっていて予選の時でも状況把握には苦労しないのだから、ここは同じレベルを求めたい。また表彰式は競技の性質上、競技コースではなく浦安にある待機場(?)で行われるので臨場感が薄いのは仕方のないところで、それなら音楽で盛り上げるなどの演出も欲しかった(流していたのだとしたら聞こえなかった)。

運営で疑問符がつくところは、事前に「イスとレジャーシート、飲食物持ち込み禁止」とアナウンスされていたにもかかわらず、荷物チェックもなく実際には持ち込んでいる人が結構いたことだ。公園から浜辺の動線が細いのでいちいち荷物チェックできない(子供の水まで取り上げたというツイートもあったが)のは理解できるけれど、それなら最初から持ち込み可にしてほしい。そうでないと正直者がバカを見ることになってしまう。特にイスを立てて座られてしまうとその他大勢の砂浜に直に座っている人からすると前が見えなくなってしまって迷惑この上なく、ここは係員が注意して撤去するよう促して欲しいところだ(運営スタッフは絶対的に少なかったのであの状況ではそれは無理だったのはわかるが)。ついてに言えば写真撮影に夢中になって中腰で写真を撮り続けている人(さらにしょっちゅう立ち上がって砂を払って周囲に撒き散らす人)も迷惑この上なかった。ここは観戦マナーの向上に期待したいところ。

来年以降も開催した場合のために、観戦の注意点も書いておこうと思う。決勝の日曜日、千葉市美浜区の気温24度(現地は30度近かったのでは?)で湿度が56%とこの時期としては平均的だった。それでもピーカンの晴天だったので日焼け対策と水分補給の対策は万全を期した方が良いと思う。イスのあるスーペリア・エリアを除く大半のエリアは砂浜での観戦になるけれど、海水浴に行ったときと同様に砂にまみれるので大切なバッグなどは持ち込まない方が良い。この日の風速7メートルというのは、QVCマリンフィールドに野球をよく観に来ている人なら御存知の通り、この地においては標準的な風で、風速10メートルを超すことも珍しくなく、そうなると砂の飛散で座ったままでは食事をするのも大変になるかもしれない。また湿度が高いとねっとりとした潮風に当たることにもなるのでそれなりの服装と覚悟も必要になる。

まあ、初めての開催でいろいろと課題が出てくるのは仕方のないところで、個人的には大混乱がなかっただけでも主催者はがんばったと思うけれど、今後より快適に観戦できるよう大会運用が洗練されることを願いたい。来年(開催があるか知らないけれど)行くか?と訊かれたら現時点では保留だろうか。16時に終わって17時には家でコーヒーを飲んでいたように立地に恵まれているので、気楽に観れてこれだけ華のあるイベントなら運営がより洗練されれば喜んで常連になりたいと思う。

P.S.
初日終了後はネットや翌日の一般紙(東京新聞)朝刊では、日本での初開催が写真付きで大きく報じられていたものの、決勝翌日は一般紙にもスポーツ新聞(サンスポでは小さくイベント紹介のみ)にも結果が載っていなかったし、ネットでも目につかなかった。まだまだ世間では航空ショー的お祭り扱いなので、スポーツイベントとしてのパブリッシュも今後の課題でしょう。

アンスネス (指揮&ピアノ) マーラー・チェンバー・オーケストラ 2015年日本公演

アンスネス2015


アンスネス(指揮とピアノ)マーラー・チェンバー・オーケストラ 2015年日本公演
2015年5月15日
東京オペラシティ コンサートホール
【演目】
ベートーヴェン ピアノ協奏曲第2番
ベートーヴェン ピアノ協奏曲第3番
ベートーヴェン ピアノ協奏曲第4番
(アンコール)
ベートーヴェン バガテル op. 119-8(ジャパン・アーツの発表より)

今回はやや珍しい協奏曲だけというプログラムのコンサートへ。弾き振りを観るのは初めてのこと。ちなみにアンスネスというピアニストはCDも持っていないし一度も聴いたことがないので、演奏者目当てではなくてあくまでも曲目当て。

クラシック、主に管弦楽を聴き始めてから、やはり中心で聴いているのは交響曲で協奏曲はどうしても次点扱いか箸休め的な位置づけになってしまっている。コンサートも、協奏曲をメインと思って行ったのはツィメルマン&ヤンソンスBRSO(ブラームス1番)くらいだっただろうか。

それでもブラームス(2曲とも)、シューマン、チャイコフスキーの1番、ラフマニノフの2番と3番あたりは結構好きでちょくちょく聴いている。これに加えて好きなのがベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲。ベートーヴェンは交響曲においては、モーツァルトやハイドンの様式を大きく超えた革命者だったけれど、ピアノ協奏曲はまだ古典派の様式を強く引きずっていて、後の作曲家たちのピアノ協奏曲ほどの高度な技巧を求めていない。つまり言いようによっては古臭いスタイルだったと言える。でも、古臭いからこそ技巧に走らない実直なピアノを中心に、ピアノとオーケストラが寄り添うように文字通り協奏しているような味わいが魅力だと思う(もちろんモーツァルトも)。スタイルは古くてもそこは流石ベートーヴェンで、5曲とも構成が大変しっかりしているので聴き応えがあるところが魅力。特に古典派からの脱却しはじめたとされる3番、4番、5番はどれも甲乙つけ難く、素晴らしい。

このアンスネスの全曲演奏会、もう1日は1番と5番というプログラムになっていてどちらにしようか迷った結果、第5番(皇帝)は圧倒的に有名で演奏機会(聴ける機会)が多い、と思ってこの日のプログラムにしてみた。

席は一度体験してみたかった2階正面の席。一番ステージから離れている席ながら会場がそもそもそれほど大きいわけでなく、オケ全体を見渡せるし、音の響きも良かった。

最初はまず全ピアノ協奏曲の中でも一番編成が小さい第2番から。アンスネスが振り、曲が始まると小編成のオーケストラながらリッチな音が出てくる。小生のボキャブラリーが貧弱なのでオケの音色の美しさに対してよく芳醇という言葉を使ってしまうけれど、弦も木管もその芳醇としか言い様がないほど柔らかく豊かな音を発していて聴き惚れてしまう。もちろん、威圧感やけたたましい音がするわけではないけれど、それは曲がそもそも要求していないから当たり前で、それでも一瞬のフォルテなどで瞬発力も鋭いものがあるだろうことが垣間見える。

最近は始まって5分くらいでその日のコンサートの満足度をだいぶ予想できるようになってきていて、この日は「今日は良いコンサートになりそうだ」と確信めいたものまで感じさせてくれる立ち上がり。

ピアノは透き通るような透明感を持っていて、この古典的協奏曲の軽やかさを引き出している。でも決して軽々しさがないのはオケ同様によく響かせて柔らかく丁寧に演奏していたからではないかと思う。

続く第3番では、トランペット、クラリネット、ティンパニなどが増員され、古典的な2番より新しい感覚が加わる。それでもオケの編成は小さく、しかしながら芳醇さは失われないどころかますます増すばかり。多少の重厚さが加わりつつも古典的な素朴さを失わずにこの曲の素性の良さを引き出している印象。素朴で静かに始まるところにベートーヴェンのさすがのセンスを伺わせる第4番は、第1楽章後半と第2楽章はソロ・パートが多く、その音空間がまた美しくも心地よい。フィナーレのいかにもベートーヴェンらしい高揚感も力強く、この曲の良さを堪能させてくれるものだった。曲も会場も違うので比較するのはフェアでないと思うけれど、この2年で観てきたゲヴァントハウス管弦楽団やバイエルン放送交響楽団、ドイツ・カンマーフィルなどよりもずっと巧い印象。

ここ数ヶ月でブルックナーの第8番やマーラーの第6番の大迫力演奏を聴いて感動し、圧倒されてきた。また、これまでに感動してきたコンサートを思い返すと、大編成の曲が多かったことに思い当たる。加えて、直近のラ・フォル・ジュルネで聴いたシューマンのピアノ協奏曲で物足りない思いをしてきたことから、ひょっとして僕は大編成、大音量の曲に単純に満足しているんじゃないかという思いを抱き始めていたところだった。しかし、この日の演奏を聴いてそうではなかったと安心した。小編成でもオケの実力が確かなら過不足がないどころか、心の底から良いと思えるということが。アバドの薫陶を受けたオケが奏でるのは豊かな音楽そのものという静かな感動すら覚え、このメンバーが活躍するルツェルン祝祭管弦楽団への思いがますます強くなってしまった。(あと直近のブルックナーとマーラーが素晴らしかったのは大編成だからという理由だけではなくオケのパフォーマンスが良かったからという確信も持つことができた)

ベートーヴェンのピアノ協奏曲はブラームスやチャイコフスキーのように厚みのあるオーケストレーションがなされているわけではない。ある意味素朴さが必要な曲であり、自力が確かな小編成のオケが支えることでアンスネスのクリアで豊かなピアノがより映えるというバランスの良さが素晴らしく、ピアニストの弾き振りと小編成オケという形態で聴くことが最善のひとつではないかと思ったほど完成度が高かった。もともと好きだったベートーヴェンのピアノ協奏曲の魅力をより深く理解できた素晴らしい体験で、これまで行ったコンサートとはまた違う味わいで気持ちが満たされたことがとても嬉しかった。

P.S.
チケット代がべらぼうに高かったわけでもなく、クラオタ系が好みそうにないプログラムと演奏者だったこともあり、有名オケとは客層は少々違っていました。女性が多く、年齢層もやや若い感じなのはアンスネスの人気のよるものなのか?それはともかく困ったのはお年寄りであまりクラシックに馴染みのなさそうな方も結構いらっしゃり、演奏中にずっとナイロンのズボンを指でさすっていたり、錠剤を袋から取り出して飲み始めたり、挙句の果てには私語をしはじめた人がいたのはとっても残念でした。演奏に集中するのにここまで苦労したのは初めてです。今度こういう人に遭遇したらすぐに注意しちゃいそう。

いすみ鉄道に乗ってきた

いすみ2015-1

最初にお断りしておくと、僕は特に鉄道マニアというわけでありません。クルマの運転が好きなので遠出する時は必然的にクルマで出動していて、首都圏の交通手段と新幹線以外で電車(列車)に乗ることがほとんどない生活を送っている。

それでも子供の頃はよくローカル線(名鉄の尾西線)に乗っていたし、愛知県の豊橋から出発する飯田線という、当時(70年代終盤)はまだドアを開けるのが手動だったローカル線にも乗ったことがあるし、どこだったか覚えていないけれどディーゼル車両にも乗ったこともあったりする。

千葉県の山奥にあるいすみ鉄道は今や鉄道マニアに知らない人がいないくらい有名な路線になっている。毎年1億円以上の赤字を出していたこの路線は、そもそも沿線に遥かに多くの人が住んでいないと採算が取れないという環境で、赤字になるのは当然であると考えられいた。その後、一般公募に応募した現社長が奇抜な、しかししっかりとした考えに基づいたアイディアの数々で収益を改善してきたことはテレビや新聞で広く報じられている通り。

例えば「マネーボール」のように、僕はこういう、制約があるから現状を打破できないとあきらめたくなってしまう状況を常識破りの手法で打ち破るという話に弱くて、ついつい心情的に応援したくなってしまう。

気になりつつもなかなか行こうという気にまではなれないある日、妻が「この日は南東方面に行くと運勢が良い」といい、調べてみるとちょうどいすみ鉄道がそこにあるので、ついに行くことにしてみた。

いすみ鉄道のWebサイトを見ると、駐車場を案内している駅が大多喜駅と国吉駅のみで、駅がより栄えていそうな大多喜駅をまずは目指す。ところが出発が遅れてしまい、カーナビが示す到着時間が、乗ろうと思っていた9時55分発の列車(ディーゼルだから電車ではないのです)にわずかに間に合いそうにないので急遽、国吉駅に行き先を変更。ここでギリギリ乗ることができた。国吉駅で5分の待ち時間があったから間に合ったという事情はあるものの、言い換えるとクルマも列車もあまりスピードが変わらないということでもある。(余談ながら国吉駅の駐車場は駅のすぐ近くで無料、お土産ショップもあるのでクルマで来る人には良いところだった。ただし、11時ころの到着で平日の昼間でも空いているところは少なかったので休日だと止められないなんてこともあるかもしれない。)

いすみ鉄道に乗りに行くと言っても、ちょっと乗れればいいや程度のつもりだったのでまずは上り終着駅の大原駅までの330円の切符を買って乗車する。駅のホームに佇むのは1編成しかないキハ52系と28系の列車。この風景だけで昭和の世界を味わえてしまう。乗ろうとしていた車両編成までは事前に調べていなかったのでこれはラッキーだった。エンジン音が高まってから速度が遅れてついてくる様を体験していると子供の頃に乗ったディーゼル車両の感覚が蘇る。新緑の季節に台風一過の好天にも恵まれ、都会生活者にとってはまたとない別世界体験となった。拙宅(幕張)から1時間と少しでこんなに癒やされる田舎の味わいを体験できるのはなんだかとっても嬉しい。ゆっくりのんびりと緑に囲まれた単線路を進む体験は風情があることこの上なし。なんという癒やし空間なんだろう!

いすみ2015-3

大原駅に到着して、本当は国吉駅に戻って終わりにしようと思っていたのに、あまりの心地よさにそれではもったいないと思い直し、1日券を購入して反対側の終着駅である上総中野駅まで乗ることにしてしまった(上総中野駅と大原駅の片道は720円なので1往復するつもりなら1日券がお得)。

この日はキハ28系車両は伊勢海老料理を提供する車両として稼働していて平日だというのにツアーと思しき人達で結構な賑わい。その他、一般車両(?)のキハ58系の方は地元の人よりもカメラを持った鉄道ファンの方が多く乗車しているし、沿線にもカメラを構えた人を何人も見かけるなど、なるほど観光鉄道として機能していることがよくわかる光景だった。

というわけで、身近なところで非日常を味わえるところとしていすみ鉄道はとてもオススメのスポットだと声を大にして推薦したい。特に、都会育ちの子どもたち(小学校低学年以下あたり)には是非乗せてあげたいと思ってしまった。

遊園地の中を周遊する列車系の乗り物は子どもたちに人気がある。どこに行く、回るかも概ねわかっているのになぜ人気があるかというと、そこで走っている列車がプリミティヴだからだと僕は思う。洗練された乗り心地と機能性(加速スピードなど)を求めた都会の電車は乗り物としての実体感が薄く、たとえば山手線に乗って興奮する都会っ子はあまりいないんじゃないかと思う。でも遊園地の乗り物は線路が目の前にあって、エンジンの振動があっていかにも原始的な乗り物であることが子供にも実感できる。その乗り物としてのプリミティヴさが子供心に「乗り物に乗っている」と実感させて胸が踊るんじゃないだろうか。

いすみ鉄道は遊園地と同じように乗り物を感じる要素がたくさんある。ディーゼルの振動と音、そして窓からときどき入り込む排気ガス。よく見える運転席と正面に見える線路と景色。これだけでもう乗り物に乗っている感が濃厚だ。今や都会の電車では少ししか開けられない窓が、顔を外に出せるほど広々と開けることができる(本当に外に出したらいけませんけど)こともとても大きな要素で、今日のように気候も天気も良い時に風を浴びながら車窓を眺めるのはは大人も子供も関係なく気持ちいいんじゃないかと思う。

いすみ2015-2

こんなものを目にするのも懐かしいもの。

僕はそんな乗り物らしい乗り物が運行されているこの癒しの列車にすっかり魅せられてしまった。ウリにしているムーミンの見せ物は、少々古ぼけているのがちょっと残念ではあったけれど、この路線の魅力はそれだけじゃない。大多喜駅では従業員のお見送りもあったりして観光列車としてのホスピタリティも高い。大多喜駅周辺や大多喜城の見物もしてみたくなったし、菜の花のシーズンになったらまた行ってみようと思う。

ちなみに、帰りに寄った上総一ノ宮にある蕎麦屋「新橋辻そば」は、結構蕎麦屋巡りをしてる僕が「ここは美味い」と思えるお店でした。普通の家を利用しているだけで蕎麦屋の佇まいはありませんが、寄れる方にはこの店はとってもオススメです。

レコード復興って本当なの?

レコード復興

AmazonやHMVなどの情報にマメに目を通している人なら既にお気づきの方もいらっしゃるに違いない。最近、CDだけでなくLPも新譜として発売されるケースが増えている。それも、珍しくない頻度にまでなってきている。そうか、レコード愛好家のために気遣うようになったのかなと合点していたら、新聞などによるとここに来て一部の人にレコードが流行りはじめているという。HMVは渋谷にレコード専門店までオープンさせているらしい。

CDが音楽メディアの標準となってもうかなりの年月が過ぎたものの、アナログ・レコードの固定ファンがずっといることはもちろん知っていた。彼らは独自の視点(というか好み)を持つオーディオ・マニアの一部か、DJ(かDJを遊びで趣味にしている人)か、というような特殊な好みを持つ極少数のマイノリティというのが僕の認識だった。

僕も年齢的にはレコードの世代なのでレコードには親しみがあるし、学生の頃にには200枚以上所有していた。そんな我家にCDプレイヤーがやってきたのは高校3年生だった85年くらいのこと。ただし、当時はレコードよりCDの方が新譜発売が遅かったりソフトの値段も1枚3500円以上していた時代だったので、社会人になる90年くらいまではレコードの方をよく買っていた。でも、レコードを買っていた理由は安かったからだけではない。

CDは確かに音が良かった。でも当時の僕には音が良すぎた。高音は時にキンキンと耳障りなところもあって、今でもそういう特質を「デジタル臭い」などと表現する人がいるくらいである。学生時代の僕も温もりのある音質を好んでレコードをよく聴いていた。大きなサイズのジャケットも存在感があってモノとして所有する満足感もあった。アルバムで聴く、アルバムをトータルで評価する僕のような人にとってA面とB面が連続で再生されてしまうことは作品の意味が根底から崩れる破壊でもあった(A面B面を意識して制作されたアルバムのCDの場合、その間は15秒くらい空けるべきだと今でも思っている)。

その後、僕の中でもCDが主流になってきたのにはいくつかの理由がある。まずソフトの値段がレコードと同じどころか安くなったこと、そして再生装置がどんどん安くなってカー・オーディオやポータブル・オーディオでもCDを聴けるようになったことという環境変化の要因が大きい(レコードで所有している音源を家の外で聴くためにはカセットテープに録音しなくてはならない。テープへの録音はデッキに合うテープを探して、録音の時には入力レベルを調整、出だしのタイミングを合わせるなどの結構な手間がかかる作業だった)。そして年月を経て、CDの音質にも慣れてきた。かつてのロック名盤が次々にリマスタリングされると、CD初期にこなれていなかった音質が情報量豊かなままアナログ的にカドが取れ、いよいよレコードとの音質の差が更に顕著になってきたためにレコードの音が古臭く感じるようになってきた。

レコードは取り扱いも大変だ。ジャケットからそっと取り出し、広い盤面に手が触れぬようにターンテーブルに置く。クリーナーに静電気防止効果を含むクリーニング・スプレーを吹き付け、ホコリをそっと拭き取る。小さなブラシで注意深く針の埃を拭き払ってレコードの外側の溝にアームを運び針をそっと置く。塩化ビニール円盤を常に最良の状態に保つためにこの儀式はいかなるときにも省略することはできない。

こうして僕はレコードを聴かなくなっていった。持っていたレコードは一部を除いてすべて売却。レコード・プレイヤーも家からなくなり、今では聴くことすらできなくなった。一方でSACDやDVD-Audioはスペックだけが勇ましく、マスタリングしなおしていないものについてはCDとの差異を感じないので、マルチチャンネル以外には価値を認めておらず、ハイレゾが話題(といっても一般人には何それ?だけど)になっている今でもCDこそが安価でしかも素晴らしい音質を味わうことができる最良のメディアであると僕は思っている。

最近のレコード復興はマニアや特殊な事情のある人ではなく、かつて僕が魅力と感じてきたような要素が若い人にもウケているらしい。取り扱いが面倒な点は、物珍しさからそれすらも目新しく感じられるようだ。知り合いが、若い人にレコードを聴かせたら「こんなもので音が鳴るんですねえ」と面白がられたという。

音の柔らかさ、滑らかさは確かに今でもレコードの魅力だと思う。しかし、昨今のリマスターCDや、しっかりとマスタリングされたハイレゾ音源は音の処理が滑らかに仕上がって、かつてのような「デジタル臭い」要素はもう殆どなくなっている。ダイナミックレンジもSN比も圧倒的に優れているCDなのだから、細かい音の表現は断然優れている。それでも尚、レコードの音が魅力かと言うとそれほどのものとも思えない。

レコードには欠点が実はたくさんある。まず、収録時間を長くすると溝の幅を広く取れなくなるのでゲインが低くなり、S/Nが下がり、ダイナミックレンジが狭くなる。良好な音質で収録できる片面の収録上限は20分程度で、それを超えるとどんどん音が悪くなる。また回転速度が速いと高音質に、遅いと音質が落ちるという基本的な構造に由来する特性もある。レコードというものは常に同じ速度で回るから、外周より内周の方が盤面が動く速度が遅くなるわけで、LPサイズともなるとその差は大きく、聴き始めと聴き終わりでは明らかに後者の方が音質が落ちてくる。これらの物理的な制約から、例えば30分を超える楽章もあるマーラーの交響曲などはレコードでは通して良い状態で聴くことがそもそもできず、音質に拘る人がレコード特有のこの特性を許容している理由が理解できない。しかもレコードは、言ってみれば聴くたびに針で溝を削っているのと同じことで聴けば聴くほど音が悪くなる。かつて「レコードを擦り切れるほど聴いた」という言葉があったのは、それだけ好きで聴いたというある種愛着を示す言葉だったとはいえ、実態は聴けば聴くほど音質が劣化するレコードというメディアの構造的欠陥を示したものでもあった。中古盤ともなると購入はまさにギャンブルで、音質をどの程度維持しているか、目に見えない傷によるノイズはあるのかなどは家に持ち帰って聴いてみないとわからないという有り様だった。

こう言ってはなんだけれど、これだけの欠点を抱えるレコードがこれから盛り返してくるとは思えないし、ある程度盛り上がったとしても一部マニア向けの域を出ることはないだろう。実はレコード・プレイヤーというのは厄介なもので、振動に弱く、ヤワな台の上では共振を招いて針が跳ねて踊りだしてしまうこともある。また、アームですら音が変わり、カートリッジや針で根本的なところから音が変わるという特質も持っている(オーディオマニアはターンテーブルやモーターでも変わると言う)。そこが面白いところでもあるけれど、今やそれら部品にかつてのような選択肢があるわけではなく、そのような良い音を出すために知識やお作法、そしてこだわれると相応に高価な部品を要求する。そのようなものが、興味本位で聴き始めた人に本当に末永く楽しまれるかというと甚だ疑問だと言わざるを得ない。

ここまでレコードにネガティヴなことを言っておいてなんだけれども、それでもレコードは結構イイ音がする。聴いたことがない人は、こんなビニール盤の溝からこんな音がするということに驚くに違いない。それにレコードの元になっている音源はアナログで、どうがんばってもデジタ化すると情報の欠落があるというのは理論上その通りであり、まろやかで耳にやさしい音質は確かに心地良いところもある。そういう部分に魅力を感じて、愛でることじたいは個人の自由なのでそれはそれでいい。

でも、レコードの音質がイイという意見はこれまで書いてきた構造的な欠点を考えれば全く見当違いだと思う。また、スペックで言えばダイナミックレンジはCDより大幅に劣るしそれは耳でも実感できる。レコードの再生周波数は、アナログ故に仕様上の上限が定義できないものの、実際には60Hz~10KHz程度と言われている。つまり、人間の可聴領域よりずっと狭い範囲しかカバーしていない。一方でCDはご存知の通り、20Hz~20KHz(実際には22KHzまで収録されているものもあるらしい)で人の可聴領域を超える範囲までカバーしているのだから聴こえてくる音の情報量が圧倒的に多い。余談ながら、ハイレゾに至っては192KHzのサンプリング周波数だと、誰に聴かせるための音域なのかわからない88KHzまでをも理論上ではカバーする(ちなみに現在47歳の僕は14KHzまでしか聴こえない)。

良い音を求める人はこの世に少なからずいるというのに、どうしてレコードがいいという人とハイレゾいいという人がいるんだろう? それぞれ特性の一部分を取り出して「優れている」「良い」と都合の良いところだけを主張している。デジタルの構造的欠陥(あくまでも理論の話でそれが本当に人間の聴覚でわかるような音質の低下を招いているとは思えないが)を指して嫌悪する人がいる一方で、クラシック愛好家にはデジタル録音されたものが音質が優れているとたいそうありがたがる人が沢山いるのはどういうことなんだろう。音質へのこだわり、オーディオへのこだわりはかくも自分勝手な危うい(どれが正義というものがない)ものであることもまた、レコード復興から改めて考えてしまうのだった。

「アナと雪の女王」-この程度の客にはこの程度のモノを、ではないディズニー映画

アナと雪の女王

社会現象にまでなった話題作をようやく観た。

いやはや、よくデキていますね。予想していたとはいえ、見事なものです。ストーリーはシンプルでメッセージも明確。それでいてある程度の曲折があって「ああ、なるほど」と収束させる安定感。破格のCGクオリティに、ハリウッド得意中の得意の見事な音楽とすべてが揃っている。ドラマと笑いのバランスも絶妙だ。

さて、ここからいつもの毒づきを始めよう。

まず、映画関係の掲示板にあるレビューに的外れが多くて呆れる。いかに普段映画を観ていなかったりミュージカルを観ていない人がレビューを書いているのかよくわかる。「子供向け(子供だまし)」という「この京風ラーメン屋には濃厚さがない」的な批判は一体何なんだろう。「ストーリーがありきたり(単純)」という批判も同様。ではそういう批判をする人にお尋ねしたい。例えば「ウェスト・サイド物語」のストーリーって単純で子供っぽくないんですかね?「サウンド・オブ・ミュージック」はそんなに難しいストーリーですか?これはオペラにさえ言えることなんだけれど、ミュージカルなんていうものは舞台設定に大人の理解が必要なだけでストーリーは実は単純なものがほとんどだということをご存知ないんだろうか?本来は重厚な人間ドラマである「レ・ミゼラブル」でさえも映画で抽出しているストーリー部分はシンプルではないか。舞台設定をお城や女王さまにしたら「子供向け(子供だまし)」になっちゃうわけですか?いやはや、程度が低い人が多いですね。子供にわかりやすく作ったことを自然に受け入れることはできないんでしょうか。

個人的なことを言わせていただくと「アナと雪の女王」は音楽こそが何よりも素晴らしい。もちろん美しいCGがあっての映画であることは百も承知だけれども、音楽にこそハリウッドの底力が発揮されている。ヒット性の高い曲のことだけを言っているわけではない。効果音の大部分も本物のオーケストラが奏でている昔の「トムとジェリー」と同じ手法はハリウッドでしかできない。一見、最新のCG映画のように見えて、実は伝統をしっかりと踏襲している。

さて、ここから毒づきのパート2。

僕も甥っ子と姪っ子が小さい時に映画には何度か連れて行ってあげたので、よく言われている「ディズニーやピクサーは大人でも楽しめる」=「日本のアニメは大人には見るに耐えない」というのは実感してきた。

なぜ、そうなってしまうのか。

まず第1に、欧米人は子供であっても立派な1人の人間として尊重しているからだと思う。日本人の大人は子供は子供、大人より劣っていて格が下だと無意識で思っている人が多く、子供向け映画の作り手はそういう上から目線で仕事をしている。

第2に、日本人の映画の作り手は「この程度の客にはこの程度のモノを与えておけば良い」という姿勢で作っていること。クリエイターとしてのプライドがなく、子供がなんとなく喜べる形になっていればいいやという手抜きが凄まじい。ディズニー映画の製作者は「大人になって観てくれたらまた違った楽しみが見えるようになるよ」という思いが詰まっているけれど、日本の子供向け映画にはそんな志のカケラも見られない。これは映画にかぎらず、ヒーロー物などのテレビ番組にも言える。昔のヒーロー物は、子供にわかるはずがない物語の背景が設定されていたりしたもので、例えば「レインボーマン」なんて印パ戦争から話が始まったりしている。

「この程度の客にはこの程度のモノを与えておけば良い」は、音楽についても実は同様なことが言える。僕は日本人は音楽が好きじゃない国民だと思っている。音楽の楽しみ方を知らないと言い換えてもいいかもしれない。だから、上っ面だけの音楽があればほとんどの人は満たされる。そして作り手は、上っ面だけの音楽でも与えれておけばいいや、と思っている。今やCDの年間チャートのトップ10がAKB系かジャニーズ(というか嵐)系で占められているけれど、その楽曲たるや学芸会レベルに堕ちている。昔はアイドルの曲でもハーモニーを工夫したり、16ビートで作ってみたり、ミュージカル風のメロディを挟んでみたりと工夫していて作り手の「音楽性が豊かなものを」というプライドが込められていたけれど、現代では「キャッチーならどんなものでもいいでしょ」(それでいて実はたいして耳に残らない)という作り手の露骨な怠慢が現れていて「売れているから文句ないだろう?」がまかり通っている。

文化的先進国ではこんなことはない。「アナと雪の女王」の中でも「頭は治るけど心はそうはいかない」「人の性格は変わらない」なんて大人が「うむむ」と思うようなセリフ(正確には違ったかも)がサラリと挿入されていたりするのは精神的な成熟度の現れだと思う。将来を担う子どもたちに良質のエンターテイメントを提供し、娯楽の豊かさや人生のメッセージをさり気なく教えることこそが大人がするべきことだと思うけれどいかがでしょう?作り手のみなさん。

「The Yes Album」「Relayer」-スティーヴン・ウィルソンの仕事

Yes Album SW
Relayer SW

キング・クリムゾンのアルバムのリミックスを全面的に手がけていたスティーヴン・ウィルソンは、2012年にイエスの「Close To The Edge」のリミックスも手がけた(EL&PやXTCも手がけているらしい)。この人、本当はミュージシャンではあるんだけれど、音を仕上げるエンジニアとしての技術力もあるようだ。加えて、手がけるアルバムへの思い入れがあるところが、他のエンジニアとの大きな違いとなり、キング・クリムゾンの一連のリミックスの仕上がりの素晴らしさの原動力になっている。技術者というものはとかく技術を中心に考えがちなところ、この人は音楽がまずあって、音源が持っている表現をとことん引き出すために自分の技術を総動員しているイメージがある。

恐らくはそんな仕事ぶりを買われて、イエスのアルバムを手がけるようになったんだろうことは想像に難くない。でも、これがイエスのメンバーからのオファーなのかレコード会社からのオファーなのかの情報は探してみた限り見当たらず、この仕上がりがメンバー公認のものなのかどうかは気になるところではある。

なぜなら、2chステレオのCDにおいてもキング・クリムゾンのアルバム以上に仕上がり具合がオリジナルと異なっているから。「Close To The Edge」が既にそういう仕上がりだったし、「The Yes Album」「Relayer」も同様にオリジナルとの違いが大きい。楽器のバランスはもちろんのこと、各楽器の響き方、エコーのかかり方、音場感がまるで違っている。オリジナルを聴き倒して脳にこびりついてる人にとっては「違う、こんなんじゃない」という反応も少なくないらしい。でも、僕はこのミックスがとても気に入っている。

まず、それまでのリマスター盤とくらべて音圧をかなり下げていることが好印象。表面的に音が良く聴こえる手段を取らずピーク時の歪みを極力なくしたいという意図が感じられ、この点だけを取っても真摯な姿勢が感じられる。また、楽器のバランスや音の響きを変えているところも、違う路線を狙おうというよりは、そういった施しによって、これまで埋もれていた音を引き出すことを狙っているように思える。実際、ギターやキーボードの音像はよりリアルで弦をはじく雰囲気まで感じられたり、キーボードの音の立ち上がりの微妙なニュアンスが表現できていたりする。キーボードの音もクリアになって、「The Yes Album」ではこれまでほとんど耳に届いていなかったトニー・ケイのピアノのバッキングがしっかりと聴こえてくるようになっている。よく従来のリマスター盤を聴き直してみると確かに含まれていた音で、でも埋もれてしまって耳に届きにくかった音が自然に聴こえてくるようになった、と言えば雰囲気は掴めるだろうか。

確かにこれは従来盤とは違う。でも意味もなく変えることを目的とした感じではなく、音の見通しを良くするための施しであり、収められた音をより聴き取れるようにして音楽全体の質感を引き上げるものだと僕は受け止めている。一方で、オリジナル・ミックスは製作時にプロデューサーやエンジニアが最善と思ったものであり、それは尊重されるべきだという意見は多分その通りだと思う。こちらは、細かい音を気にせずに目立つ音が一番わかりやすい形で表現されている言え、たとえばノイズにまみれたクルマの中で聴くのならオリジナル・ミックスの方が音楽が伝わりやすいように思う。

2chステレオ音源に注目して書いてきたけれど、このシリーズの目玉は当然5.1chのサラウンド・ミックスで、ウィルソンのこれまでの実績通り、そして期待通りのバランスの良い仕上がりになっている。全体にキーボードやコーラスの音はリア・チャンネルへ多目に音を配して、立体的な空間を再現することに成功しており、サラウンドらしい音場を楽しめるので、多くの人が満足できるに違いない。サラウンドによる音表現ということになると「Relayer」の方が音数が多いこともあって「おおっ」という新鮮味をより感じられる。

尚、ボーナス・トラックは従来のリマスター盤からさらに拡大、スティーヴン・ウィルソンの仕上がりが好みに合わなかったとしてもマニアには無視できない商品になっている。

イエスと言えばまだ「あのアルバム」が残っているのに、あえて一歩マイナーなこの2作を先に投入したということは、今後さらに「ウィルソン化」が拡大していくということなんでしょう。クリムゾンのボックスを追いかけることにやや疲れ気味のプログレ・ファンも半年に1枚リリースのペースならついて行けるから、まあ、喜んでおこうではありませんか。

「あなたを抱きしめる日まで」(ネタバレ)

あなたを抱きしめる日まで

「その日、フィロミナは、50年間かくし続けてきた秘密を娘のジェーンに打ち明けた。それは1952年、アイルランド。10代で未婚のまま妊娠したフィロミナは家を追い出され、修道院に入れられる。そこでは同じ境遇の少女たちが、保護と引き換えにタダ働きさせられていた。フィロミナは男の子を出産、アンソニーと名付けるが、面会は1日1時間しか許されない。そして修道院は、3歳になったアンソニーを金銭と引き換えに養子に出してしまう。以来わが子のことを一瞬たりとも忘れたことのない母のために、ジェーンは元ジャーナリストのマーティンに話を持ちかける。愛する息子にひと目会いたいフィロミナと、その記事に再起をかけたマーティン、全く別の世界に住む二人の旅が始まる──。」

というのが公式サイトのストーリー紹介。

内容は、まあ言ってしまえば宗教(カトリック)の教えのうさんくさい部分を中心にしつつ、尊い教えである赦しもテーマにしたもので、特に斬新という感じのしない宗教永遠の矛盾を描いたものだと思う。だからストーリーだけを要約して書き出しても面白いわけではない。

しかし結論を先に言うと、この映画は素晴らしい。

重く描こうと思えばいくらでもできる話で、ドキュメント仕立ての正義感を前面に押し出した仕上げにもできる話でもある。もちろんそういう要素もあるにはあるんだけれど、そうなり過ぎないようにうまく演出がなされている。映像も明るすぎず、暗すぎず、そして美しいけれど洗練されすぎずとバランスを取っている。

主人公のフィロミナ(彼女の名前が原題)のキャラクターが作りが上手い。アイルランドの典型的な田舎のおばさんで信仰が深く少々下世話で世間知らずの女性で、息子への強い思いを抱きつつも鬼気迫るという感じまでは行っていないという難しいレベルのところをジュディ・デンチが流石の好演。まあ、デンチが持つ気品や知性をすべて隠しきれていたかというとそうでもなく、ちょっとミスキャストかなと思うところもあったけれど、意志の強さを示す必要のある役でもあったのでやはり彼女でないと成立していなかったことでしょう。

マーティン役のスティーヴ・クーガンも知的でありながら、シニカルで、最初は田舎おばさんをバカにしていたりという決してよくできた人の役でないところをうまく演じていた。宗教を信じていない人の考えを代弁するポジションであり、怒りを爆発させるところではもっと派手にできたところを、それほど強調せず、それでいてしっかりと怒りが伝わる表現という難しいバランスのところをうまくこなしている。

この2人のやりとりがシリアスであったり、コミカルであったりというのが結構ポイントで、この映画のバランス感覚の良さを表している。

修道院の人身売買からレーガン政権のゲイ、エイズ差別問題も垣間見せるなど、難しい社会問題を扱いながら、何かひとつの考え方に偏るわけではなく、それでいて完全な傍観者にもなっていないところも絶妙なバランス感覚。

とにかく、すべてのバランスがうまくとれていてしかも自然にそれらがまとまっている。こうした巧い作りによって、観客は起きたことをいろいろな視点で考えることになり、さまざまな感情を抱くことになる。これはできそうでなかなかできないもので監督のセンスが光っている。

派手な演出や演技でなくても複雑なメッセージをしっかりと伝えることができるという映画のお手本。最初に、ストーリーだけを要約して書き出しても面白くない、と書いたけれど特別面白みがないストリーだったとしても人間の行いや感情の機微を描けること、それによって深みを持たせることができるのが映画の素晴らしいところで、それができている映画こそが一級品。この映画は間違いなく一級品。いいもの観せてもらいました。

ラ・フォル・ジュルネ 2015

LFJ2015

5/4(月)
【1】
演奏:アルデオ弦楽四重奏団
演目:シューベルト 弦楽四重奏曲第14番「死と乙女」
会場:ホールB5

【2】
演奏:アンドラーシュ・ケラー(cond、vl)
セルゲ・ツィンマーマン(vl)
コンチェルト・ブダペスト
演目:バッハ 2つのヴァイオリンのための協奏曲 ニ短調
バッハ ヴァイオリン協奏曲第1番
バッハ 2つのヴァイオリンのための協奏曲 ハ短調
会場:ホールB7

【3】
指揮:アジス・ショハキモフ
演奏:エカテリーナ・デルジャヴィナ(p)
デュッセルドフ交響楽団
演目:シューベルト 「ロザムンデ」序曲
シューマン ピアノ協奏曲
会場:ホールC

今年も行ってきましたラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン。これで4回めの参戦です。

1回めは、クラシックって何?の状態で妻に誘われての参加。テーマはロシアでした。生演奏の音が素晴らしいことだけで感激しておりました。2回めは、CDを買い漁って毎日クラシックしか聴いていない生活が半年ほど経過、マゼール指揮ミュンヘンフィルのブル3に圧倒された直後で少しずつクラシックの面白さがわかってきたころの参加。テーマはフランスとスペイン。ホールAの音響はさすがに厳しかったのと初の日本のオケ(読響)の体験などで経験値をさらに積みつつ、フランスオケの素晴らしさを味わっていました。昨年の3回めは、日々クラシック漬けがさらに1年積み上がり、海外オケをいくつか経験してからのことだったので、普段聴いていないものを生で聴こうとベートーヴェン、ショパン、シューベルトの室内楽を楽しみました。この年のテーマは「過去の総集編」みたいな感じで逆に言うと何もなし。

さて、さすがに4回め、そしてクラシックを真面目に聴き始めて2年半が経過してコンサートもだいぶ観てきたことでそれなりに耳が肥えたという自覚はあり、今年はどうしたものかと選んだのが上記のプログラムだったというわけです。

【1】
室内楽系はまだあまり触れていないワタクシではありますが、実はこの曲、父が大好きだったらしく、子供のころに何度も聴かされてきたのでほとんど頭に入っていて、それでは生で聴いてみようと選んだプログラム。アルデオ弦楽四重奏曲は女性のカルテットで、冒頭から緊張感あふれるこの曲をソフトに始めて「おやおや?」と思ったものの、然るべきとろこでは力強く、フィナーレは足を踏み鳴らしたりしてなかなかの熱演でした。記憶に埋め込まれていた曲の素晴らしさをようやく理解できた感じで大満足。B5会場は始めてだったけれど、こじんまりとしていて好印象。

【2】
バッハはまだ真面目に聴いたことがなく、演奏会もそれほど多くないのでこんなときでもなければ生で聴かないかなあと思っての選択。このB7会場は広い(800名以上収容)ので、人気プログラムが多いものの、昨年観て思ったのは広いわりにはステージが低くて演奏者が見えにくいのと、音楽用の会場でないので音がものすごくデッドであったことで印象は最悪、できれば選びたくなかった会場。今年は大型モニターを左右に設置して見やすさに配慮されていて、音の響きもずいぶん良くなったように感じた。音の響きが良く感じたのは、去年の四重奏団だったのに対して今年はチェンバロ含め16名の楽団にソリストという編成だったせいもあるかもしれないけれど、何か改善したんだろうか。肝心の演奏は、特に悪いとも良いとも思わず・・・、まあ、バロックはまだよくわかりませんね。でも、初の生のバロックは心地よく聴けたので満足。昼食をお腹いっぱい食べ過ぎたこともあり、心地よすぎてちょっと眠くなりましたが・・・。

【3】
実はこれが一番期待していたプログラム。有名曲のわりには意外と演奏機会が多くはない、ロマンチックなシューマンのピアノ協奏曲を生で聴いてみたかった。これまでのラ・フォル・ジュルネでは、有名でなくても海外オケの演奏はほとんど好印象だったので一定レベル以上のものは聴けるだろうという期待もあった。ところが、1曲めの「ロザムンデ」からオケの響きが弱く、音の艶やかさもない。配布されている資料によるとデュッセルドフ・トーンハレのレジデント・オケで、世界で2番めに古い市民オケとのこと。市民オケということはアマチュアなんだろうか?音を外すとか揃っていないとかではないものの、とにかく音が小さくて主張が感じられなかった。ここ2ヶ月でブルックナーやマーラーの大編成オケの圧倒的迫力を浴びたあとでの小編成曲だったこともあるかもしれないけれど、それにしても音色が乏しかった。それはピアノも同様で、こちらもこれと言って主張も感じられず。これが芸風と言われればそうなのかもしれないけれど、これまで観たどの海外オケ系の演奏よりも音楽的な豊かさが感じられず、シューマンの優しさあふれるロマンチックさがなかったのはちょっと残念。まあ、1日じゅう有楽町界隈をブラブラしていて疲れていたせいもあるかもしれないけれど。

というわけですべてが満足とはいきませんでしたが、それでもこのイベントが楽しいものだということは変わりないですね。もっとチケット代が高いコンサートをたくさん観てきて耳が肥えてきたのは事実なので、生演奏なら何でも満足できるという時期は過ぎてしまったものの、気軽に観れる(クラオタじゃなくてカジュアルに音楽を楽しんでいる観客が多い)こと、お祭り気分を味わえることは普通のコンサートにはない魅力。去年は室内楽系に多くチャレンジして「まだ自分にはちょっと早いかも」と思ったけれど、今年のシューベルトの「死と乙女」を聴いて「結構いいかも」と思えるようになったのは収穫でした。

妻は【3】のプログラムを聴いて「最近レベルの高いコンサートをたくさん観てきたからラ・フォル・ジュルネはもういいかも」と落胆していましたが、新しい楽しみに触れることができる機会としてラ・フォル・ジュルネはまだ価値があるので、来年もプログラムをうまく選んで行こうと思います。

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