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Enjoy Life, Enjoy Hobby

趣味の人生を楽しむサラリーマンの日記

「ブルージャスミン」(ネタバレあり)

ブルージャスミン

ウディ・アレンという監督は、いかにも女らしく、可愛らしい男好きのする女優を使うのがとても上手いと常々思っていた。だから硬派で演技派のケイト・ブランシェットを主役に据えるというのはちょっと意外な気がしていた。

ところがアレンの手にかかるとブランシェットがまた一段と輝いてしまう。

輝いている、というのは魅力的という意味ではない。主役のジャスミンはお金持ちの妻で、よんどころない事情でセレブ生活から脱落、しかたなく血のつながりのない庶民生活を送る妹のところに転がり込む。セレブ時代の生活の心地よさが忘れられず、いろいろと失礼なことを言うし、普通の庶民の感覚では当たり前のことが受け入れられない。言動はもはや正常とはいえず、はっきり言って病気(薬に頼ってるしね)。要はイタイ女というわけである。これをブランシェットが演じると、それはまあ見事にそういう嫌な女が完璧にできあがる。

嫌な女なのに、どこか可哀想で同情を誘うところがるのがこの映画の上手いところ。また、庶民の中でも下の階層にいる妹の人生が哀れに見えず、庶民なりの幸せをちゃんと描いているところがいい。ウディ・アレンも大金持ちとまでは言えないまでもそれなりにいい生活をしているはずなのに、ちゃんと庶民の生活を描けているところはさすがだと思う。

セレブ生活の方ももちろんしっかり描けているからジャスミンの痛さがよく伝わってくる。そこに最高の演技力で応えているブランシェットの演技派、彼女のベストなんじゃないだろうか。そして、やはりアレンの映画は人間そのものをよく描いているから面白い。話の中身は決して楽しいものではないんだけれども、力の抜けた笑いがついつい漏れてしまう可笑しさがアレンの真骨頂。もう高齢だけれども、まだまだ面白い映画を撮り続けてほしいものだ。

「ハンナ・アーレント」

ハンナ・アーレント


これは久しぶりにズッシリ来た。人間の根源に踏み込む豪速球みたいな骨太の映画。

群れをなすことを習性とする生き物は、上下関係の序列が明確で、下の者は上の命令に従うという秩序が生まれる。猿や犬なんてまさにそういう生き物だし、人間もその例に漏れないどころか代表格であると言える(その点、猫は違うんだよね)。

サラリーマン社会に20年以上いて、「上司の言いなり。その結果どんな悪いことが起きようが誰が泣こうが知ったこっちゃない」という人をたくさん見てきた。若い頃はこういう人と結構ぶつかって、大学を出てから11年務めた最初の会社を辞めたのは、言いなり上司が大嘘をついて部下を騙したことに腹をたてたからという経歴を持つ僕は、他にもそういう人に多く遭遇するうちに、うまく距離を取ってなんとかやり過ごすようになってきた。「たくさん見てきた」と書いたけれどむしろそういう言いなりの人の方が世の中には遥かに多いことも今ではわかっている。

そうでもしないと出世はおろか自分の立場を守れないからおそらくそうしているんだと思うけれど、他人に、組織に、あるいは世の中に自分が何か貢献しなくては生きている意味ないじゃん、と思っている僕のような少数派の人間は、あまりにも言いなり君が多いとさすがにうんざりしてくるのも事実で、ときどき心が折れそうになる。

言いなり君を理解できないのは僕が何かを成し遂げようと思考を働かせるのに対して、彼らは思考が停止しているからだ、ということはもう悟っていたつもりで、この映画で唱えている話の根幹を成しているのはまさにそういうことであることは共感を覚える。でも、その言いなり君をハンナ・アーレントは「悪の凡庸」と表現していて、「悪人ではない」とするところは「う~む、なるほど」と唸らされながらもどこかスッキリとはしない。そうか、言いなり君は根っからの悪人なのではなく、凡庸な悪人なんだと考えるといろいろと説明がつくのは確かだけれど。

この映画で遡上に上げられるハイヒマンというナチスの軍人は死刑の判決を受けるわけだけれども、「この人は根っからの悪人ではない」としたハンナ・アーレントは、一方で「死刑は当然」とも言っている。これは根っからの悪人でなくとも、極悪人と同様に死刑に値すると言っていることになる。つまり、根っからの悪人と凡庸の悪で行動した人が結局同じレベルの罰を受けることを認めているというのにあえて違う人種だと言っているわけである。そんな区別をすることに何の意味があるというんだろう?行動した結果を評価されるのが人というものではないんだろうか?僕にはハンナ・アーレントの理屈がもうひとつスッキリと飲み込めない。

強いていうならば、本質的に悪人でない人も悪い行動をする、それは思考が停止しているから、という論法はむしろ思考停止している人こそが悪を蔓延させる源であると言っているようにも思える。

ちなみに、この映画は岩波ホールの単館上映で平日から連日満席だったのだという。映画レビュー掲示板での点数も非常に高い。映画で言っていることは「思考停止した人は悪に落ちる。それが悪の凡庸」「人は思考することを放棄してはいけない」ということに尽きるんだけれど、それに共感している人がこんなに多いことに驚く。なぜなら僕が知る限り会社員の9割以上は、上に言われたことの言いなりになる思考停止型の人間だから。特に管理職に就いている人ほどその傾向が強い。この映画に感銘を受けている人が組織に属したときに「いや、その命令は間違っています」と言えるかというと甚だ疑問だと言わざるを得ない。この映画に限らず、ドラマなどで悪い行動をする人を批判できる人は沢山いるけれど、いざ自分がその立場に置かれたときに思考して、「それおかしいです」と言える人間は非常に少ない、というのが僕の経験から得た結論である。

この映画に感銘を受けると言うのなら、周囲の圧力に屈せず正しい言動を行える人であってほしいと僕は思う。悲しいことにそれは大変な苦労を伴うことではあるんだけれど、周囲が間違っていても正しい行いを貫きつつ、自分の地位を上げていくことをサラリーマン人生の目標としている僕のような人間が潜在的にもっと存在しているのなら、ぜひそういう人が増えることを願いたいものだ。

ソヒエフ指揮 トゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団 2015年日本公演

トゥールーズ2015

トゥガン・ソヒエフ指揮 トゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団 2015年日本公演
2015年2月11日
サントリーホール
【演目】
ドビュッシー 牧神の午後への前奏曲
サン=サーンス ヴァイオリン協奏曲第3番(ソリスト:ルノー・カプソン)
(アンコール)グルック メロディ
ムソルグスキー ( ラヴェル編曲 ) 組曲 『 展覧会の絵 』
(アンコール)ビゼー カルメン第3幕の間奏曲 カルメン第1幕の前奏曲


若手注目株指揮者にフランス南部ローカルオケと言ったら失礼かもしれない。でも、世間一般にそれほど知名度が高いわけではないので言い過ぎということはないでしょう。

ドビュッシーは生演奏は初体験。抽象的で色彩感のある音楽というイメージ通り。フルートの柔らかい響き、オケの芳醇なサウンドが美しい。

サン=サーンスのヴァイオリン協奏曲第3番はあまり演奏機会がないので貴重な体験だった。伸びやかに歌うフレーズが多くて、カプソンの演奏も実直で明瞭。スッキリとわかりやすいサン=サーンスらしさがよく出た演奏だったと思う。この曲は生で聴いたことで見直した。

メインの「展覧会の絵」は実はクラシックに興味がなかった5年前、新婚旅行で行ったロンドンでゲルギエフ指揮LSOで生演奏に触れている。そのときは生の音の素晴らしさに満足して終わってしまい、演奏の質も何も覚えていない。今回はある程度クラシックに触れてからの演奏でとても楽しめた。編成が大きく、ラヴェルの編曲が多彩なこともよくわかった。大音量で盛り上がる曲なだけでに理屈抜きで楽しめる。

これはリヨン国立管弦楽団のときにも思ったことだけれども、有名オケとくらべて格安で見れるにもかかわらず実力はしっかりしていると思う。前述のフルートなんて実に上手かったし、金管の安定感も大したもの。弦は多少艶やかさには欠けるとはいえ、物足りないというほどでもない。安心して聴けるし、オケ全体から発する自発性もいい。こういうコンサートは良い気分で会場を出ることができる。

一方で、翌日まで尾を引くような物凄い感動を覚えるというところまでは行かないのも事実で、そこが超一流オケとの違いなのか。その僅かなな差が大きいとも言えるし小さいとも言える。それでもこの値段なら十分すぎるほどリーズナブル。土曜の15時開演だと、鬱陶しいクラオタっぽい人が少ないのもいい(マナーは若干悪くなるけれど)。大きな感動がなくとも気軽に観れる良い演奏に接することができるコンサートの方が僕は好きかもしれない。

ルツェルン音楽祭を堪能する

ルツェルン20052013

この土日は出張疲れが抜けず、外は寒いこともあって引きこもり。

タイミング良くプレミアムシアターの録画が入っていた。ルツェルン音楽祭の2005年と2013年。あるいは何度目かの再放送なのかもしれないけれど、クラシック歴の浅い小生にとって初見の内容でどっぷり浸からせていただいた。

2005年はブレンデルをソリストに迎えたベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番とブルックナーの交響曲第7番、2013年はブラームスの悲劇的序曲、シェーンベルクのグレの歌、ベートーヴェンの交響曲第3番というプログラム。

実はクラシックを真剣に聴き始めた2013年ころ、さまざまなコンサートに足を運んでいて、アバドとルツェルン祝祭管弦楽団のコンサートもチケットを買おうかと思案していた。アバドはまあ名前と元ベルリンフィルの音楽監督だったことくらいは知っていたけれどどういう音楽をする人だったのかはまったく知らなかったし、ルツェルン祝祭管弦楽団がどんなオケなのかもまったく知らず、「ウィーンフィルやベルリンフィル(偶然同時期に来日)みたいに有名じゃないのにずいぶんチケット代高いなあ」と思って見送ることに。コンセルトヘボウやバーミンガム市交響楽団に行くことが決まっていたので「ちょっと聴き急ぎすぎだな」とブレーキをかけていた(というかお金を演奏会だけに使いすぎという自制心か)。

このオケを観ないという決断をしたことは今思うとおそらく後悔するはずだったけれど、結果的にアバドの体調不良で来日できず、アバドはその数カ月後亡くなってしまったため後悔せずに済んでしまった。その後アバドの音楽に触れるようになって、アバドのファンになってしまったから「後悔せずに済んでしまった」というわけである。

テレビ放送をマメにチェックしているとルツェルン音楽祭の放送はNHKでよく採り上げてくれているので何度か観ている。また、アバドのボックスCDも聴きこんでいくうちに僕はすっかりアバドの音楽が好きになっていた。アバドの音楽は、イタリア人故か重々しくない。では軽薄かというとそんなことはなく、躍動感と瑞々しさがあってそれでいながら音楽には厚みもある。たとえばバーンスタインやマゼールのようなわざとらしい芸風や極端な曲の解釈がないと、とかく無個性だとか物足りないという思いを抱きそうになるけれど、アバドはそういったものがなくてもしっかりと個性がある。曲は見通しが良くて明快でオケのコントロールも抜群。レパートリーも幅広く、何の演奏を聴いても物足りなさを感じない。ウィーンフィルとベルリンフィルではまるで違うベートーヴェンを聴かせているように、どの曲を、どのオケにどう料理させるかの引き出しも多い。

この録画を観て、そんな思いをますます強くしてしまった。そしてオケがまた素晴らしい。ベルリンフィルが上手いところを誇張しているかのような鳴らせ方をしている(と僕が感じている)のに対して、美しく、メリハリがあって、底力もある。オケの能力を表すのに自発性という抽象的な言葉があるけれど、このオケを聴いていると「なるほどこれがそうなのかも」と説得されてしまう。ここにオーボエ奏者としてほぼ毎年のように参加している吉井瑞穂がいること、またシェーンベルクのグレの歌でソリストとしてメゾソプラノの藤村美穂子が登場しているのは日本人としてなんだか誇らしいではないか。

アバドとルツェルン祝祭管弦楽団の演奏はマーラーのブルーレイも購入し、順次見ているところだけれども、それも含めて観客のマナーの素晴らしさにも心を打たれる。指揮者がタクトを下すまで物音を立てず、静かに拍手が沸き起こる。その拍手は徐々に大きく、大喝采に転じていく。楽章間の咳払いも控えめだ。ヨーロッパでのコンサートは概ねこの傾向があるけれど、ルツェルンでは特にその観客の大人な態度が際立っているように思う。残響があるうちから拍手が起きる傾向があるアメリカ、オーストラリア、日本とは大きく違うところに、クラシック発祥の地であるヨーロッパの伝統と、音楽への深い理解の差を感じてしまう。

ルツェルン音楽祭は、アバド亡き後も続き、今年(2015年)はネルソンス(ボストン交響楽団も招聘)などを迎えて充実のプログラムを発表している。きっとオケのすばらしさはそのままに素晴らしい音楽祭として続いていくに違いない。ウィーンよりも、ベルリンよりも、僕は夏のルツェルンに行ってみたい。

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