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趣味の人生を楽しむサラリーマンの日記

アンチという名の役に立たない人たち

アンチ小澤

クラシックを聴いてきて、日本人なら無視できないのが指揮者、小澤征爾でしょう。

ネットで小澤の情報を見ていると、熱心なファンがいるのと同時にアンチが多くて驚く。そもそもアンチというのは大変な人気がある人に群がるように現れる。カラヤンも然り。彼らの言い分を要約すると、人気だけで中身は大したことがないということらしい。

そもそもクラシックの評価というのは大変に危うい。どんな演奏、指揮者が優れているかというのは主観で決まるというとカッコイイけれど、評論家を含めて単に好き嫌いだけでモノを言っている場合が殆どである。ある意味、この事実がわかってから僕はクラシックが身近になった。クラシックの聴き手で偉そうにしている人たちは芸術を理解できている「わかる人」なのではなく、「わかったフリをした人たち」ないんだとわかったから。何しろ「これはダメだ」と言うだけでなぜダメなのかをまったく説明できないし、稀に理由を添えてあるものでも、そりゃアンタの好みでしょうというものしか見たことがない。

これが例えば野球だと「要所で四球が多いし、ストライクとボールがはっきりしすぎだからダメなんだ」と言えるし、競馬だと「位置取りが後ろすぎるし仕掛けも遅いから届くはずがない」と言えたりするのでまだある程度の客観性がある。

音楽でロックやジャズだと楽器の演奏の技量は、耳が肥えた聴き手ならある程度の共通認識があり、一定水準を超えれば「良い演奏」と評価される。もちろんそこにも好みの要素が含まれるにしても。言い換えれば、一定水準を超えていないものが少なからず存在していて、瞬間的にでも超えることができる人を賞賛する聴き手の姿勢ができあがっている。余談ながら、ロックやジャズの世界で言う水準とは演奏の正確さを指すとは限らない。その人にしかできない表現や音が出て来ればそれは演奏水準といった言葉を超えた音楽として人の心を捉えることができる。

話をクラシックに戻すと、プロのオーケストラによるCDで聴くに耐えないような水準の低い演奏というのはないと思う。そもそも売上枚数が少ないクラシックにおいて、「買ってもらえる価値がある演奏家(オケ)」というお墨付きがない限り録音セッションの機会は設けられない。もちろん一定水準の先の演奏力や表現力は千差万別、しかしながら素人が聴いて演奏のどこがダメでこうあるべきところが技術不足でできないと指摘できるようなレベルの低いものはないと言って差し支えないと思う。

これがライヴになると、演奏の乱れ、傷に遭遇することは珍しくない。オーケストラという大人数での演奏ともなればミスをする人が現れるのも当然のこと。ミスがあったからダメなコンサートだったという見方はそれはその通りかもしれないし、ダメと言うつもりはない。でも個人的には、演奏全体を通して良い音楽が表現できていればそれは良いコンサートだったと思う。最近観たパーヴォ・ヤルヴィとドイツ・カンマーフィルのコンサートはまさにそういう「良い演奏」だったと僕は思っている。僕が良くないと思ったコンサートは、オケ全体が醸し出すサウンドの主張を持っているように感じられなかったもので、そう感じた根拠はどこかにあるんだろうけれど主観の域を出ない。そして、99%のクラシック・リスナーは観点こそ違えど、この程度の感覚でコンサートを聴いている。だから僕は良くないと感じたコンサートでも「あれはダメだった」などと公の場で声高に叫んだりしない。

というわけで、長々とクラシックの評価がいかに危ういか書いてみた。この危うさを知ればアンチ小澤の危うさもよくわかる。

先日、BS朝日で今年9月2日のサイトウ・キネン・フェスティバルの演奏がオンエアされた。それに対するツイッターのコメントにこんなものがあった。「やっぱり芸術家は衰えたら後進に譲って引退しないとな...でもエゴの塊だから絶対に死ぬまで引退しないんだよな...もともと好きなタイプの指揮者じゃないっていうのもある」。確かに病気で体調を崩した後の小澤は見た目に衰えが目立つようになった。体も若いころのようには動いているわけではない。見た目の衰えは観察力が著しく欠如している人にでもわかる。で、肝心の音楽がどう衰えたかは触れていない。これでは単なる中傷にすぎない。そもそも、肉体的な衰えがあることくらい見る前からわかっていたことなのに、この人は何のために好きでもない指揮者の演奏会をわざわざBS朝日というマイナーチャンネルに合わせてまでして観たんだろう?

そう、ここにアンチの特性がよく現れている。アンチは、嫌いな対象を、自分が嫌いのままでいるために、あるいはより嫌いになるために一生懸命自分から積極的に情報収集をしている。まあ、これが未成年のときの話なら「まだ子供だからしょうがないよね」と言えるかもしれない。そんなことのために時間と労力を費やしている自分を「これはみっともないな」と、最低限の常識的感覚を持っている大人なら気づくのが当たり前。でも「自分は芸術がわかる選ばれた人間」という、高尚なクラオタさんたちはには自分が子供っぽいという自覚がまったくない。

クラシックの評価が極めて脆弱な根拠である以上、評価は経歴で語るしかないでしょう。若い時からいくつかのオーケストラの指揮をスポットで任され、それが評価され、次のチャンスが訪れ、そこでまた高い評価を受ける。この好循環があったからこそウィーン・フィルやベルリン・フィルの定期演奏会に何度も招聘されたわけで中身の無い指揮者であれば呼んだオーケストラのレベルが低いことになる。確かにウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任したことやニュー・イヤー・コンサートを振ったことは政治的な理由があったのは事実のようだけれども、僕に言わせれば実力がなければ政治が動くまでのレベルにも届くことすらできない。そもそも、欧米音楽の世界でこれだけ長い間、一線級の活躍をした日本人はすべての音楽ジャンルにおいて他にいない。

特に保守的なヨーロッパの聴き手を相手にしてきたことは凄いことだと思う。僕は広い意味で洋楽は日本人にはできないと思っている。音楽は生活や歴史に根付いたものであり、ハーモニーや複雑なリズムが存在しない音楽が自分たちの音楽である日本人が西洋の音楽を体の芯まで染み込ませることなどできるはずがない。日本人でも演奏家として世界的評価を受けている人たちは若い時(あるいは幼少時代)から日本で生活していない人ばかりであることがそれを証明している。小澤征爾は日本で育った音楽家でありながら世界に通用したというだけで偉業と賞賛してなんら差し支えないと思う。

演奏にアクや癖がないことが、凄みがないように感じさせるのは確かだ。でもそれを言ったらハイティンクやヤンソンスだって同じようなものではないか(でも世間一般の知名度がないのでアンチらしき人はいない)。小澤の演奏は、凄みはないかもしれないけれど音の見通しが良くわかりやすいところが魅力だと僕は思う。確かにカラヤン、バーンスタイン、クライバー級の超がつく一流指揮者だとは僕も思わない。でも、まだ海外旅行が特別な時代だった日本で育った日本人であるにもかかわらず全盛期は次点クラスまでには上り詰めたのは間違いないし、偉業だと思う。

このように「日本人だから」という理由で音楽家を評価することは本来はフェアではない。でも日本人がクラシックの世界で評価されるためには、欧米人以上の何かがなければならないことに疑いの余地はなく、同じ日本人として外国文化を突破しての活躍を誇りに思う感情を切り離すことは難しい。

アンチ小澤の人たちって、自分の会社でどのくらい努力してどのくらい仕事の成果を出しているんだろうかと尋ねてみたくなる。ちなみに外資系企業で外人と仕事をしたことがある人なら、あらゆる文化、価値観の違いを目の当たりにしていて、彼らの社会で認められることの難しさは身に染みてわかっているはずだ。よもやアンチ小澤の人が日本企業で日本人だけを相手にしていて部長にもなっていないなんてことはないだろうし、優れたチームから「ぜひウチで仕事をしてほしい」と言われたことも二度や三度どころではないだろう。実社会でたいした成果も出せていないのに成功している人を貶めるなんてことは普通の人はしないだろうから。

対象が小澤でなくてもいいけれど、アンチの人に訊いてみたい。公の場で声高に中傷するその行為は一体誰の役に立っているんですかね?好きじゃない人が成功しているところを妬んでいるところを言いふらしたら自分の格が上がるとでも思っているですかね?好きじゃないのなら大人しく自分の音楽の世界から排除すればいいだけじゃないんですか?わざわざ自分の中に置いたまま中傷をしていて自分が虚しいと思わないんですかね?よく言われるように好きの反対は無関心じゃないですか。

というわけで僕はアンチという人種の精神がまるで理解できない。そんなことして何が楽しいんだろう。単に心が貧しい人にしか見えませんけど。心の貧しさを周りに知らしめる言動を繰り返すことを恥ずかしいと思わない感性が信じられない。

「華麗なるギャツビー」 2013年版

ギャツビー2013

「華麗なるギャツビー」を観て

何ヶ月か前にバズ・ラーマン監督、レオナルド・ディカプリオ主演の「華麗なるギャツビー」を観た。

恥ずかしながら僕はほとんど読書という習慣がなく、学生時代にSF(時代相応に眉村卓や筒井康隆、星新一など)やミステリー小説(ドイル、クリスティー、クイーンなど)を読んだ程度。その動機はどちらかというと文学的な興味といよりは非現実への逃避に近いものがあった。だからノンフィクションはもちろん、フィクションでも現実的なものはほとんど読んだことがない。

大人になってからも話題となった本や新書の自己啓発本や趣味の本を読む程度で、強いて小説で読んだものと言うならスティーヴン・キングとジョン・グリシャム、東野圭吾くらいしか思い浮かばない。それも、それぞれ片手分の指を折れば足りてしまう程度の数でしかない。

そんなわけで文学に疎い僕は、この映画が有名な小説であるということすら知らない状態での鑑賞となった。まあ、名前くらいは知っていましたが。

まず1920年代のニューヨークというのがイメージが沸かない。僕は音楽中心で歴史を認識していて、アメリカが産んだ音楽であるジャズの観点から言うとまだ産声を上げたばかりの時代で、ジャズが本格化してくる1940年代以降が僕が知識として知っている近代のアメリカ、つまり20年代となると歴史のできごと、というのが勝手な感覚になっている。

そんなイメージの沸かない僕に対して打ち出される映像は、作り物であることを惜しみなく、というかむしろ誇らしげに押し出してしまうバズ・ラーマンならでは美意識全開のもので、「まあ、時代なんて第一次世界大戦終了後のころかな、くらいでいいや」という気分にさせられてしまう。要はリアリティなんてまったくない、まるでお伽話のようなカラフルな映像で展開されていく。

これは「ムーラン・ルージュ」と同様で、この派手派手でちょっと安っぽい映像の世界観があんまり好きじゃなくて、前半のパーティのシーンなんて見ているのがちょっと辛いと思ったくらいだった。でも、ドンパチ満開な花火を背景に「ラプソディー・イン・ブルー」が賑やかに流れるディカプリオの登場シーンは思わず笑いながら拍手したくなるほどで、ファンなら必見間違いなし。

途中から話の筋が見えてくると、単なる派手な映画のままではいられない展開になっていくのに応じて映像も派手さが減退していく。そりゃそうだ、前半のあの乱痴気映像がずっと続くことが必然の映画なんて成立するはずないんだから。

原作を読んでいた人にとってこラーマンの世界観が合わない人もきっと沢山いたに違いないと思う。一方で、ギャツビーという人間像をデフォルメして、尚且つ人間的にちゃんと描けているとも思う。終わってみればラーマンの派手でチープな映像が、1920年代の表現としてハマっていたことにも気づく。

ちなみに、74年版の「華麗なるギャツビー」も観てみたんだけれど、まずあらゆるものが古くて没入できない。とくに演出が酷く、キスで口をつけたまま2人でくるくる回ってダンス(何かの修行か?)していたり、暑い夏のできごとを表現するために男性俳優陣の顔面に霧吹きで汗ばんでいる様子を表現しているのは流石に引いてしまう。僕は古い映画が大変苦手で、50年代の名画を含めて古さが気になって客観的になってしまうところがあって、74年版ギャッツビーもその例に漏れなかった。あと、大変意味のあるセリフ「オールド・スポート」がなかったり、デイジーとの再会シーンが淡々としていたりといった物足りなさ、演出の味気なさがこの時代の映画だなという感じをより強くさせる。強いて言えば、デイジーの軽薄さは74年版の方が出ていたところが良かった程度か。

原作に忠実でエッセンスをうまく取り出したという意味でもバズ・ラーマン版の方がずっとお勧め。原作に興味がなくても娯楽映画として楽しめる。

「インターステラー」

インターステラー


久しぶりに映画館へ。

クリストファー・ノーラン制作、監督の「インターステラー」。2時間半を超える映画はあまり好きではないんだけれども、世評の良さとハズレのないノーランということで映画館鑑賞と相成った。(妻が行きたいと言い続けていたのに応えたというのが本当のところですが)

ちなみに僕は、小学生の頃は「宇宙戦艦ヤマト」を熱心に見ていたし、中学時代は眉村卓や筒井康隆や小松左京などの本も結構読んだりもしていて、まあまあのSF好きだったように今になってみると思う。今になってみると、と断ったのはある時点から現実離れした架空の世界に肩入れできなくなったという自身の内面の変化があったからのようだ(つまりあんまり自覚的じゃない)。

完全に作られた世界での娯楽として楽しむ分には割り切れるので抵抗がない。でも現実からの延長としてのSFだと「ふ〜ん、そういうものなの?」と思ってしまう。例えば「バック・トゥ・ザ・フューチャーPart2」は、1985年から30年後(つまりもう来月ですな)の世界でのできごとが描かれる。もちろん半分コメディの娯楽映画なので細かいツッコミをするつもりはないけれど、そこで描かれているそんなに遠くない未来の世界は僕にとってまるで現実感がなく、30年後のイメージなんて考えたことがなくても「こうなっているかも」とすら思えない。宇宙モノについても同様で「ふ〜ん、本当にそうなっているもんなのかな?」と思ってしまう。

これは完全に僕自身の問題ではある。でも、未来とか宇宙とか想像するしかない世界を描いて作品にするということは、誰かがその世界がどんなものかを決めなくてはならない。その決められた世界を見て「本当にこんなふうになるもんなのかなあ?」と感じてしまう僕の感性がたぶん楽しみを妨げてしまう。先にも書いた通り、普段から未来や宇宙を空想したりなんてしていなくてもなんとなく勝手に自分の頭の中に、とっても曖昧なイメージがあるらしく、それとのズレが大きいと「なんだかなあ」と思って「あなた(製作者)の思う世界を押し付けられてもねえ」となってしまう。

どこまでが娯楽として割りきれて、どこからが割り切れないのかは自分でもよくわかっていなくて、本当にこれはもう自分だけの問題だとしか言いようがない。ちなみに、「ゼロ・グラビティ」にまったくそういったモヤモヤを感じなかったのは、娯楽アトラクションに徹していたからというのと、描いていた世界がまだ「あり得るかも」という範囲だけだったからなんだと思う。

「インターステラー」でもそんな「イメージの溝」は結構あったので、やはり心の底から楽しめるというところまでは行かなかった。例えば、宇宙ステーションは本当にあんな作りになるのか、とか宇宙船はあんな形になるのか、とかワームホールやブラックホールという概念は本当に存在していて人類が想像しているようなものなんだろうか、などなど。

最初に映画を見終わったときに「なんか宇宙の世界に新鮮味がなかったなあ。今までのSF映画や小説で描いていた架空の世界の範囲で作っているなあ」と釈然としない思いが残った。でもどうやら、ノーラン監督はSFでリアイティを追求するというアプローチ(すごい矛盾だけど)を採ったんだなとわかるとそれも納得できるようになってくる。真面目で遊びがないSF映画で、その土台の上で人間ドラマをどう描くかに主軸が置かれている。

映画の作りとしてはクールで淡い映像はさすがノーランという仕上がりで、パイプオルガンを中心に据えたサウンドを提供したハンス・ジマーもいつも通り良い仕事をしている。超真面目に作られたSF映画としてここまで完成度が高い映画はそうはないから評判が良いのも頷ける。

あと、これは映画の内容と直接関係ないんだけれど、映画館で観るとやはり全然違うなあということを改めて思い出してしまった。拙宅では100インチスクリーンと5.1chサラウンド環境があるのでちょっと気になる映画があっても「そのうちWOWOWでやるからいいかな」と思ってしまいがち。「インターステラー」の劇場上映は恐らく末期ということもあってシネコンの小さい部屋だったにもかかわらず後に残る余韻が大きかったのは単に映画の良さのせいだけではないような気がする。

やっぱり映画館に行かないとね。

フローリングのワックスがけ

フローリングワックス

今住んでいるのマンションは築15年を迎えている。3LDKで狭い和室が1つ、洋室が2つというごく一般的な間取り。リビングと廊下はフローリングで和室はカーペット敷きになっている。

そもそも西洋の家屋では木材の床は一般的な素材のひとつで、コンクリートなどとは異なる温かみが好まれて一般の家に普及しているものだと思われる。日本においては畳という優れた床材(?)があるものの、生活様式が西洋化していくに従い、床に直接座る習慣およびそれを前提とした新築住戸は非常に少なくなった。ちなみに僕の世代の子供時代だと団地でもダイニング以外はすべて畳というのが一般的で、そこにカーペットを敷くことで西洋化の過渡期をやり過ごすのが一般的だった。

その西洋化が進む住居は、畳をやめて最初からカーペットを敷いた洋室が作られるようになり、その交換できないカーペットは手入れの課題があったことからフローリングが広まってきた。従って旧来の西洋のフローリングが床の構造物として木材を採用しているのとは異なり、表面の板だけが木材になっているのが日本のフローリングである(欧米でもホームセンターに薄い木の床材が売られているので日本と大きく違うわけではないないようだ)。

余談ながらマンションにある和室も、コンクリートの床にゴザよりはマシな畳材を乗せているだけのものでおよそ畳とは言いがたいものが敷かれている。本来、和室は他の部屋より一段高くなっていたのは厚みのある畳が敷かれていたからで、バリアフリーと称して薄っぺらいゴザでコストダウンしているのがマンションの和室。踏んでみれば本物の畳との違いは誰でもわかるほど固い(拙宅の和室もまさにそう)。そんな和室に価値がないと感じてきた人が多いからか、最近の新築マンションではそもそも畳の部屋じたいをほとんど見かけなくなってきた。

話がだいぶそれてしまった。表面だけのフローリング床であったとしても、もともと厚みのある木材床を知らない日本人にとってはあまり問題ではなく、上記の通り手入れと清潔さの観点から普及したのは当然のことかもしれない。ここ15年以内のマンションでは床暖房という日本ならではの素晴らしい装備を兼備しているのがところが多く、余談ながらフローリングとその床暖房の機能を両立させて普及させたのは三井不動産の功績が大きいと言われている。ちなみに最近のマンションは全室フローリングで、はじめからツヤがなければ輝きも落ちないということなのか素材はツヤ消しでメンテナンスフリーを謳っており、傷もつきにくそうになっている。その代わり木材らしい見た目と温もり感はなくてどこか人工的であり、ここにもコストダウンの影響が感じられる。

また話がそれるけれど、最近のマンションはディスポーザーなどのさほどコストがかからなくてカタログで謳いやすいものには力を入れるけれど、建材や部屋の構造などの基本的な部分はコストダウンがかなり優先されていると感じるし営業マンも認めていた。

さて、拙宅のフローリングは一昔前では普通だった木材感豊かでツヤのあるフローリングを採用している(ようやく本題に入る)。つまり手入れをしないと表面はどんどんツヤがなくなり荒んでいく。そこで市販のワックスをいくつか試してみたけれど、最終的に行き着いたのがディノスで販売されている「抗菌プロビュー」という製品(http://www.dinos.co.jp/p/1245600175/)。

このワックスは塗りすぎてもいけないし、薄すぎるとツヤが出ないので少々コツがいる。完全にムラなく塗るのはなかなか難しいけれど、モップにしっかりとワックスを染み込ませて床をこする際に、ツヤが維持できるところまで力を入れて引き伸ばすのが僕のやり方。

ディノスのレビューでは「乾くのに時間がかかる」と書かれている方がいらっしゃるけれど、僕の経験ではだいたい15分もすれば乾くのでたぶん塗りすぎているんだと思う。僕の場合、14畳のリビングと2畳分の床を2度塗りしておよそ500mlくらいを使っていて、これより大幅に多く消費しているようならたぶん塗りすぎ。僕の塗り方でも床のツヤは1年くらいならまずまずキープしていて、拙宅近所の住戸を数多く見ている不動産屋に塗り替え寸前のタイミングで見てもらったときにはひと目で「ツヤ出しタイプのワックスかけてますね」とわかったくらいだから、やるとやらないのでは大違いなんだと思う。このワックスの仕上がりはディノスのレビューの通りピカピカ、ツヤを優先するなら多くの人が満足できると思う。

ワックス仕上がり

ソファなどリビングの家具をほとんどを退けて年に一度の大掃除は普段手入れしていないところの掃除にもなって気分が良い。フローリングのワックスがけは、やると翌日は体のあらゆるところに変調を来す(汗)けれど、終わると満足感たっぷり、気分よく新しい年を迎えることができる。

パーヴォ・ヤルヴィ指揮 ドイツ・カンマ-フィル・ブレーメン 2014年日本公演

パーヴォ2014


パーヴォ・ヤルヴィ指揮 ドイツ・カンマ-・フィル管弦楽団 2014年日本公演
2014年12月11日
東京オペラシティ コンサートホール
【演目】
ブラームス ハイドンの主題による変奏曲
ブラームス ヴァイオリン協奏曲(ソリスト:クリスチャン・テツラフ)
(アンコール)J.S.バッハ 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ 第3番より"ラルゴ"
ブラームス 交響曲第2番
(アンコール)ブラームス ハンガリー舞曲 第3番、第5番


ベートーヴェンの交響曲全集が評論家筋でやたら評判が高いパーヴォ・ヤルヴィとドイツ・カンマーフィル・ブレーメンの2014年日本公演はブラームス・シンフォニック・クロノロジー。

ブラームス好きとしては全公演興味があったのは確かだったけれど、大好きな「ハイドンの主題による変奏曲」を一度生で聞いてみたいと思っていたのこともあって2日目を選んでみた。

カンマーフィルはCDを含めて未聴で、いろいろ情報を集めて整理してみると小編成でかなりシャキシャキしたスタイルであるでことがなんとなく予想できる。常設オーケストラではなく、個人で活躍している人の寄せ集めということで日本で言えば水戸室内管弦楽団のようなものらしい。

どちらかと言えばブラームスは重厚でゆったりした演奏が好みではある。とはいえ、僕は「◯◯はこうでなければならない」という決め付けはしないのでどんなスタイルで演奏されたとしてもそこに確固とした表現があるのなら楽しめるから、行くことじたいに迷いはなかった。

そのお目当ての「ハイドンの主題による変奏曲」は思ったより普通な演奏。席が後方から3列目と遠かったため、小編成オーケストラの音が届いてくれるか懸念があったものの、オケの鳴りじたいはまずまず。細くデュナーミクを動かし、メリハリのある演奏であることが既に見えてきている。

次のヴァイオリン協奏曲は、テツラフの荒々しい演奏が鮮烈。これまた席が遠いことから音が届くか心配していたんだけれど、繊細な音も含めて伸びやかに耳に飛び込んできてまったく不足がない。緩徐楽章でも艶のある音で退屈させない。第3楽章では力んで前のめりな入り方をしつつ、一貫して荒々しくも激しい演奏を貫いた。オケもソロに合わせてかなり鳴りっぷりが急変。フル・オーケストラの厚みある音とはまたひと味ちがうけれど物足りなさは感じない。正直なところ、この曲でこんなに楽しめるとは思わなかった。この日のベスト。

交響曲第2番は、ヴァイオリン協奏曲の勢いそのままに演奏される。俊敏でダイナミックで豪放。オケは意外とカッチリと揃った感じはなく、木管も金管も外さないけれど惚れ惚れするような芳醇な音色というわけでもなく、正直なところ凄く上手いとまでは思わなかった。でもガツガツと勢いが凄まじく、自発性があって機敏で瞬発力のあるところは少人数オケだからこそなんでしょう。

過去2年にわたりコンサート通いで聴いてきたオーケストラと比べると、何かこう目指しているものが違う。正確さよりも自分たちのスタイルの表現に重きを置いているのは明らかで、厳しいクラシック・ファンには雑で薄っぺらい演奏だったと感じた人もいたに違いない。でも僕の専門(?)であるロックやジャズが技術よりも表現を楽しむものであるだけに、こういうスタイルは馴染みがあって良い。格調高いゲージュツという観点ではあまり高い点数を付けられないし、感動したとまでは言えなかったけれど、印象に残るという意味では過去のコンサートの中でも指折りの部類に入る。

そういえば、フライング気味のブラボーもなかったし、観客の質もスノビッシュな印象を受けなかったのも、パーヴォとカンマーフィルの組み合わせだったからなのかもしれない。僕は好きですよ、こういう音楽。応援したい。

今年はこれで最後のコンサート。やっぱり小澤征爾とサイトウ・キネン・オーケストラが一番凄かったかな。チケット代が嵩むけれど来年はウィーン・フィルも観たいものだ(エッシェンバッハはあんまり好きじゃないんだけど)。

「Hanburg '72 / Keith Jarrett」

Hamburg72

ジャズ系のミュージシャンで、一際知名度が高く、熱心なファンが多いことで知られる1人としてキース・ジャレットの名前を挙げることに異論を挟む人は少ないことでしょう。

83年以降続けているスタンダーズ・トリオによる活動で泥臭さがまったくない耳に心地良い音楽をやるようなったことで幅広い人気を得たことは間違いない。キースのピアノはもともとメロディが美しく、タッチも洗練されていて、クラシックピアノともまた違うフォーキーな味わいがある。ゲイリー・ピーコックとジャック・ディジョネットという腕利きを従え、ジャズのスタンダードを採り上げて独自に料理するという手法は、確かに個性的だったし新鮮味があった。何しろ、この3人は60年代~70年代にフリー・ジャズに傾倒してトンガッた音楽をやっていた強者たちだったというところも、普通のピアノ・トリオで済むはずがない下地になっていたし、スタンダーズと言いながらも選ばれる曲にはあまり馴染みのないものも目立っていたことなども含め、意欲が感じられるトリオだった。

ところが、リリースされるアルバムはただただスタンダード曲を演奏するだけのライヴ盤ばかりになり、採り上げる曲も有名曲が多くなって演奏もマンネリ化してきた。高齢になるに従い、創作意欲が衰えるのは仕方がないところで、そこをどうこう言うつもりはない。一方で、このライヴ盤しか出さなくなったスタンダーズ・トリオは人気が高く、CDの売上も高水準で安定、ジャズを普段聴かない人が「キースって最高」と言うようになってきた。キース本人もそういうカリスマティックな持ち上げられ方が嫌ではなさそうということは、2004年に東京文化会館で見たコンサートで、小さな物音や咳払いに「シー」と口に指をあてて観客を窘めるという自己陶酔的な振る舞いなどから感じるところではあった。ここには「名声を確立した人を崇めている自分が好きな人」と「崇められている自分が好きな人」とのバランスで成り立っている微妙な空間があって僕は気持ち悪ささえ感じて、クラシックのコンサート以上にめんどくさいこんなライヴには二度と行きたくないと思ってしまったわけである。

スタンダーズ・トリオは、もちろんそれなりの人たちが演奏しているのだから悪くはない。でも、ジャズにスリルを求めている人にとっては別世界の感が強く、やや強引にイメージ付けるのなら「キースが好きな自分が好き」というキース・マニアのためのグループになってしまった。

「キースが好き」は、このように本当にジャズが好きななのか否かがわかりずらい人たちではあるけれど、本当にキースが好きなのかどうかは若い頃のCDを聴いてどう感じるかで判断できると思う。特に70年のころのキースの音楽は挑戦的で創造意欲が迸るもので、スリルと興奮を呼ぶものが多い。

そんな創造意欲に溢れていた時代のキースの音源が、近年蔵出しされるようになってきているのはなかなか興味深い。アヴァンギャルドな音楽をやっていて落ち着きに向かったミュージシャンは、若いころの自分を青臭いと見て恥ずかしがる傾向が強いけれど、キースは恐らく若い頃の自分も誇れるものだと思っているであろうことがこれら蔵出しから伺い知ることができる。

2012年にリリースされた79年ヨーロピアン・カルテットによる「Sleeper」に続き、72年のトリオ編成による音源「Hamburg '72」がこの度リリースされた。NDR-Workshopという会場はどんなところだかわからないけれど、ホールの響きでそこそこ広い場所での演奏となっているようた(ブックレット内の写真が録音場所と同じであるのならホールで間違いない)。

チャーリー・ヘイデンとポール・モチアンとのトリオということは即ち、アメリカン・カルテットからデューイ・レッドマンを抜いた編成ということになる。そして展開される音楽にも同じニオイが漂う。なにしろキースが忙しい。ピアノだけでなく、フルート、ソプラノ・サックス、パーカッションを担ってベースとドラムを相手にひたすらフリーキーな自己表現に没頭しているパフォーマンスはクリエイティヴなパワーが全開している。ヘイデンとモチアンは同時期のオーネット・コールマンのリズム・セクションでもあり、そことも共通性が感じられる。心地良いピアノを好むスタンダーズ系キース・ファンは「ピアノはどうしたんだ?」と疑問を抱くのではないかというくらい、フルートとソプラノ・サックスでの演奏が多い。

一方で、サックスやフルートの演奏がここまでフィーチャーされると、その演奏に主役級の技術と表現力があるわけではないということもわかってしまう。アメリカン・カルテットでのデューイ・レッドマンがいかに存在感を示していたか、グループの完成度を高めるのにどれだけ貢献していたのかまでわかってしまうのは皮肉と言えば皮肉。リリース直後にもかかわらずAmazonでは絶賛レビューが並んでいるけれど、単なるマニアのポエムになっているのもまたキースらしい。この内容で音楽として素晴らしいと断言できるのはどこまでも応援団的なマニアに限られることでしょう。

それでも、自由にジャズを表現する若きキースのありのままの姿を聴けるし、現代のジャズにはないものを聴けるのも確か。永く名盤として語り継がれることはないにしてもキースの若き日々のスナップショットとして価値はあると思う。

ノートパソコンの買い替えとSSD交換

3年半ぶりにノートパソコンを買い換えた。最近のパソコンは仕様を見てもパフォーマンスがどの程度なのかサッパリ想像がつかなくて困る。まあでももう以前のようにハイスペックなものはもういいやと割り切り5万円台の安いモデルを買ってSSDで高速化を図るという戦略にしてみた。

SSDはCrucialのMX100という512GBモデルを使ってみる。512GBが22,000円とはずいぶん安くなったものですねえ。

購入したのはHP Pavilion 15-n200で、サクッと交換して初期化し直そうかと思ったら底面のパネルを見てもHDDをどうやって換えるのかぜんぜんわからない。価格.com にあった書き込みをちょっと補足して書き残してみる。

①電源及びバッテリーを外す。
②底面にあるキーボードマークのねじを1本外す。
③ねじ穴から棒を突っ込み、キーボードをトップカバーから引きはがす。
(少々固い)
④FFCをZIFコネクタの受け側レバーを上げて抜く。
⑤キーボード下の金属パネルのねじを全て外す。
⑥金属パネル右側の2か所のFFCをZIFコネクタのレバーを上げて抜く。
⑦底面にある光学ドライブマークのねじを1本外す。
⑧キーボード下金属パネルの穴から光学ドライブを押して光学ドライブを抜く。
⑨光学ドライブ口を下から見るととある銀の丸いねじ
(小型プラスドライバー必要)を3本外す。
⑩ボトム側のねじを全て外す。
⑪メモリアクセス用のサービスドアをねじ2本で外す。
⑫メモリアクセス用のサービスドア下のねじを全て外す。
⑬トップカバーをボトムから引きはがす。(ここも少々固い)
⑭HDD用のFFCをZIFコネクタの受け側レバーを上げてケーブルを抜く。
⑮USBコネクタの基板のねじを外し、基板を外す。
⑯HDDを斜めに引き上げてコネクタから抜く。
⑰HDDホルダからHDDを外し、SSDを取り付ける。

終わったら反対の手順を踏むだけ。

分解していくとこんな感じになる。

HP note PC

左側が上面パネルを裏返した状態でもちろんキーボードはその前に外してある。HDDは右下にあるのでこれを交換したというわけ。

それにしてもこれはひと仕事で、これまでこういうことをやったことがない人にはちょっと厳しいと思う。この写真を見て尻込みするような方は自分での交換はおすすめしません。HPがこんなにメンテナンス性が悪いとは思わなかったなあ。

初期化後は、期待を裏切らない立ち上がりの早さが嬉しい。電源ONのあと5秒でパスワードを入力できる。これならもうスリープは要らないかもしれない。6割くらい容量をすでに使っている状態でのウィルスソフト(Avast)のフルスキャンも30分以下と早い(古いPCだと2時間くらいかかっていた)。

冷静に考えると全体のコストの3分の1弱がSSDというのが良いのか悪いのかわからないけれど、これでまたあと3年は安心して使えることでしょう。

箱入れないぶらん

そしてこちらは、何かが納品されると空き箱に入る儀式にここでも挑戦、今回は箱が薄すぎて頭を突っ込んでもがいたものの入れずに落胆しているぶらんなのであった。

【「ジャズ女子」ときめく たしなむ男子ステキ】ってなんだかなあ

東京新聞ジャズ記事

先日の東京新聞朝刊にこんな記事が載っていた。

「ジャズ女子」ときめく たしなむ男子ステキ

 カフェ、バーはもちろん、今や焼き肉店やラーメン店からもジャズが聞こえてくる。昔も今も「おしゃれ」「洗練」といったイメージが漂う音楽だが、最近の調査では、女性の多くが「ジャズに詳しい男性はステキ」と憧れ、ジャズに精通した女性も急増しているとか。「大人のたしなみ」として親しむと、「ジャズ女子」の心をつかめるかも…。 (藤浪繁雄)

 「心地よいジャズを大事な人と楽しむ。二人の距離感が縮まる」と話すのは、FMヨコハマで「女子ジャズRadio」(火曜深夜一時三十分)を担当するジャズ歌手Ryu Miho。セクシーな歌声で男性を魅了しているが、意外にも「女性リスナーが多い」。静寂が包む時間帯、OLや主婦がリラックスタイムとして耳を傾けている。

 紹介した曲について「料理の時に適している」などと反応が寄せられることもある。「その時々の雰囲気、ライフスタイルに合わせて聴く女性が増えているのでは」と話す。

 ライブ会場にカップルで現れるリスナーも増えたという。「皆さん目がキラキラしている。それぞれの感覚で楽しんでもらっているようです」

 ジャズは十九世紀末から二十世紀初め、米南部の黒人たちが自由な感覚で表現した音楽が源流。1917年にレコード第一号が録音された後、ブルーノートなどの名門レーベルが続々誕生した。

 ユニバーサルは今秋、主に50~60年代の名盤を「ジャズの100枚。」と銘打ち一枚千円+税で発売。約三十五万枚を売り上げた。中高年の男性に加え、「三十~四十代の女性の支持も高い」と担当者は驚く。売り上げトップ5を見ると、女性の支持を反映してか、ムードある作品が連ねる。

 同社の調査によると、二十代から三十代の女性はジャズから連想するキーワードとして「おしゃれ」「洗練」などと回答、ジャズ好きな男性に対し、93%が好印象を持つ。「すてきな異性とすてきなバーで」「恋人と部屋でゆっくりお酒などを飲みながら」聴くのが望みという。

 紫煙が立ち込めるジャズ喫茶、オーディオ通が険しい表情で聴くというかつてのイメージは変わってきた。同社は「ジャズ女子」を意識し、男性への波及効果も狙って今月三日、「100枚。」第二弾も出した。

 著作「Something Jazzy」などで、ジャズの気軽な楽しみ方を提案している音楽ライターの島田奈央子さんは「食事がおいしく感じられたり、落ち着いて会話ができたり…。生活に密着する場面から聴くこともできます」と話す。

 八〇年代後半、「島田奈美」の名でアイドルとして活動した島田さんは二十代前半の時、ジャズを本格的に聴き始めた。歴史や名盤、奏者に詳しい人も多く「突っ込まれる気がして、『ジャズ好き』と言えなかった」と明かす。しかし、「聴いてて楽しくなったり、キュンという気持ちになったりできる音楽」。そんな感覚を大切に聴くうちに、名盤や名奏者への知識も増えると考える。

 「ジャズに詳しいと知的で、例えばワインや他分野にも詳しそうな感じがする。男性の車に乗った時、ジャズがかかっている方がステキ」とほほ笑んだ。


こんな記事が出るのはひとえに有線放送のおかげだと言えるでしょう。飲食店ともなれば、居酒屋や焼肉屋にとどまらず、蕎麦屋ですら流れているジャズ。しかし、恐らく店主が好きで流しているわけではない。数ある有線放送のチャンネルの中で、店内で流して違和感のないジャンルで、パッと見てイメージが湧く安心ジャンルであるからというのが選ばれている理由に思えてしまう。

あるレコード会社の調査によると「次に聴いてみたい音楽ジャンルは?」という質問の回答で上位2つは、ジャズとクラシックなんだという。これだけを見るとジャズとクラシックはとても強い関心を持たれているジャンルだと思えるけれど、これらはポピュラー音楽の枚数よりも一桁もしくは二桁少ない程度しかCDは売れていない。

とはいえ、誰でも耳にしたことがあるジャンルの音楽として、この2つはとても馴染みがあるのは確かだ。というか、(R&B、ヒップホップ、テクノなども含めた)ポピュラー・ミュージックの他に、この2つ以外のジャンルを挙げることが出来る人がどれだけいるだろうか。前述のアンケートは熱心な音楽好きだけに訊いているわけではなさそうで、一般の人も対象にしているだろうから他にフラメンコやワールド・ミュージックを聴いてみたという人はほとんどいないだろう。一般の人は自分が聴いている以外のジャンルとして思い浮かぶのがジャズとクラシックとうだけの話で、この調査の回答は至極当たり前の結果であると思う。

上記新聞記事には、ジャズを知らない人がジャズをどう見ているかが集約されている。実は僕もジャズを聴き始める前は同じように思っていた。ハードロックやプログレを聴いている身からすると退屈そうな音楽にしか見えなかったんである。そんな僕でも、さすがに30代になると「もう聴くべきロックは聴いちゃったかな」感があって、「じゃあ、ジャズも聴いてみようかな」となっていった。

僕は「聴くぞ」と決めたら、理解できなくても繰り返して何度も聴いてみるタイプである。もちろん「この音楽には何か深みがありそうだ」と感じるものがあったら、という前提ではあるけれど、理解できるように努力していく。これは子供のころはピーマンやネギなどが嫌いだったのに、食の経験値が上がってくるとその美味しさがわかるようになっていくのと良く似ている。つまり音楽の魅力を理解していくにあたり、最初は美味しくないと思ったものでも繰り返して聴いていくうちにその良さがわかるようになっていくものである、ということ。音楽が好きな人なら、自分にとって心地よいものだけでなく、こうやって耳を育てる経験はしているんじゃないかと思う。(余談ながら、音楽が好きじゃない人はこういう鍛錬をしようとしないので、いつまでもカレーライスとハンバーグのような音楽だけを聴いてそこで満足して終わってしまう)

そんな感じで本やネットでジャズをお勉強し、毎日のようにジャズを聴いていくと、どうやらジャズは知的で洗練された音楽だけというだけではない、ということがわかってきた。もともと、奴隷のネイティヴ・アフリカンが日々の辛い生活の苦しい気分を紛らせるために始まり、辛い感情を表現するようになっていったものが音楽として発展して成熟していったものであるわけで、虐げられた悲しみやストレスといった複雑な感情が含まれたその音楽がおしゃれと洗練だけで終わるはずがないことは、冷静になって考えれば当たり前のことである。

ジャズは、時には屈折しながらも激しく熱い音を聴き手にぶつける音楽である。マイルス・デイヴィス、ジョン・コルトレーンという2大巨人の音楽は、特に60年代以降はシリアスで聴いていて気が抜けないし、緊張感が音楽を支配していてとてもじゃないけれどBGMやムード音楽としては聴けない。そこまで独自の音楽性を貫いていなくても、例えばアート・ブレイキーやジミー・スミス、ウェイン・ショーター、ジャッキー・マクリーンなどのブルーノートに属していたミュージシャンなどは、クールな曲や洗練こそあれ音楽そのものは熱くてグルーヴィでスリルに溢れている。

これは別に僕が力説しなくても、ジャズの良さをわかっている人なら常識だと思っているはず。まあ、ムード音楽として聴いてもらっても構わないし、そういう聴き方もダメとまでは言わないけれど、表面的なところだけを捉えて「ジャズっていいね」なんて人がいたらむしろ恥ずかしいし、ジャズの熱さを楽しんで聴いている人がオシャレを気取っていると思われるのもまた迷惑な話ではある。

ちなみに僕はジャズの面白さがわかるようになったと胸を張って言えるようになったのは、毎日通勤で聴き続けて6年くらい経ってから。そのくらい理解するには時間がかかるし、言い換えると深みがあるということでもある。「おしゃれ」「洗練」でジャズの認識が止まる人はその深みに辿りつけないし、実際ほとんどの人がその入口で引き返していずれ聴かなくなってしまう。なんとなく興味をそそるけれど、実は厄介なもの。だからこそ、絶え間なくジャズ入門の本が出版されるわけである。

まあ、ジャズの真の魅力がわかれば「知的」も「洗練」もどっかに吹っ飛んでしまうと思う。ジャズのイメージをその人に尋ねれば本当にジャズが好きで聴いているのか表面だけかじって聴いているのか区別できるから、ある意味わかりやすくていいのかもしれない。

ロバート・フリップへのお布施道- STARLESS Box / King Crimson

STARLESS

「STARLESS / King Crimson」

第三期クリムゾンのアーカイヴ・ボックス最終章。CD 27枚、DVD-Audio 2枚、Bru-ray Audio 2枚という構成は過去最高のボリューム。しかしながらこの箱シリーズ、音源の最終的な仕様(ハイレゾやマルチチャンネルの採用、既存音源への手の入れ方)が微妙に違っているところが一貫性がないというか、サービス精神が旺盛というのか、なんとも微妙なところではある。このボックスのセールスポイントと思われる点は以下の通り。

[A] ブルーレイは音質良好ライヴ音源のべ7公演をハイレゾ化、うち、3公演はコンセルトヘボウの音源違い(旧ミックス、新ミックス、ラジオ放送)で、74年4月29日のピッツバーグは3曲のみの収録。
[B] ブルーレイ収録音源が一部4.0chされている。
[B] 完全未公開ライヴ音源が5公演。
[C] 既発公演分もすべてリマスター化などが施され音質向上。


ポイントとして挙げると少ない。しかし、これまでのボックスと比べると大きく良心的になっているところがある。ひとつは基本的にライヴ音源はサウンドボード録音のみにしていることで、オーディエンス録音のものはボーナス・ディスクと名付け、別扱い(ブックレットに記載されず別の厚紙に収納)にしている。もうひとつは、これまでの箱では既存音源の音質には手が入っていない、または手を入れてあってもまったく変化が感じられない程度だったものが、このボックスでは程度の差こそあれ音質の向上を実感できるリマスタリングが施されていること。これはオーディエンス録音の音の悪いものはブラッシュアップしても効果がなかったものが、サウンドボード音源だと効果が表れた、と言い換えてもいいかもしれない。

ブルーレイ収録ハイレゾは以下の通り。

【Bru-ray Disc 1】
・Apollo, Glasgow, Scotland(24/192)
・Volkshaus, Zurich, Switzerland(24/192)
・Concertgebouw, Amsterdam, Netherlands
(24/96、2014ミックス)
・Concertgebouw, Amsterdam, Netherlands
(24/96、放送音源ミックス)
・The Night Watch 1997 Stereo Mix
(24/96、ただしアップサンプリングとクレジットされている)

【Bru-ray Disc 2】
・Elzer Hof, Mainz, Germany(24/96)
・Concertgebouw, Amsterdam, Netherlands
(96/24、2014ミックス)
・Stanley Theatre, Pittsburgh, USA 74/4/29(24/96)

Bru-ray Disc 1は収録時間の都合なのか73年10月23日のグラスゴーは、"Fracture" "Lament" "Exiles" がカットされ、またどういうわけか曲順が変更されている。11月15日チューリッヒは "The Night Watch" をカット。また、この日の音源は"The Mincer"が欠けていることで有名だけれど、今回のCDとブルーレイではスタジオ音源差し替え版を採用している(DVD-Audioは40周年記念盤と同じくブートレグ・ソース)。

Bru-ray Disc 2は、4.0マルチチャンネルも収録していることがトピック。ただし、コンセルトヘボウは7曲のみ、4月29日ピッツバーグの音源は4曲のみというやや中途半端な収録。尚、サラウンドについては音源によって仕上がり具合が違う。Mainz は Several Tapes からのミックスとクレジットされており、恣意的なリアへの楽器の音の振り分けは行っておらず、残響やメロトロンの音をリアに音をこぼしている作りで自然といえば自然、コンサートホール的な響きを楽しめるな仕上がり。言い換えると、ソリッドで塊感のある音像が好みなら2chステレオの方が良い。コンセルトヘボウ音源はオリジナル・マルチトラックからの4.0ch化で、ホールの響きよりも楽器の響きを上手くリアに振っていて演奏の臨場感、実体感が高く素晴らしい仕上がり。全曲でないのが非常に残念だ。ピッツバーグはソースは明らかにされておらず Mainz と似た傾向に仕上がっている。

尚、映像集はフランスのテレビのものは「Red」、セントラルパークのものは「Larks' Tongues In Aspic」のそれぞれ40周年盤に収録済みなのでマニアの諸氏は既にお持ちのことでしょう。

ボーナス・ディスクであるCD Disc 26 の [4] 73年11月15日アトランタの音源は40周年記念の DVD-Audio収録と同じもの。[5]-[7] は、このボックスの Disc 4 で施された [1]-[3] の [2] のスタジオ・バージョンに差し替えた部分を、コレクターズ・クラブ Vol.41 と同じくブートレグ・ソースの状態で収録したもの。[8]-[10] は、74年3月30日 Mainz の音源(クレジットの日付は10月6日と誤記)で Bootleg Only Source とクレジットされている、これまで未公開だったコンサート終盤音源2曲(3曲あるが "Easy Money" は重複)を収録している。

本編の「Starless And Bible Black」は40周年記念盤を持っている人なら完全にダブりなので不要。あとは前述の通り、既存のコレクターズ・クラブのライヴ音源の音質が良くなっているものが多いので、そこに魅力を感じるのなら価値はある(劇的!というほどのものではなく、この程度で喜んで良いかどうかはともかく)。初登場音源も、サウンドボードで音質は良好、この箱でしか聴けないとなるとコレクターなら押さえたくなると思う。ちなみに、グラスゴーの "The Night Watch"のギターソロ は初出の「The Great Deceiver」ではチューリッヒの音源に差し替えてあったものが、コレクターズ・クラブではオリジナルを採用、そして今回はまたチューリッヒのものに差し替え直している。グラスゴー音源のソロは確かに時間を持て余した感じでうまくアドリブが決まらなかった感があり、完成版として出すこのボックスは納得できる形にしたいという思いが見え隠れする。こういう細かいフリップのこだわりが微妙なバリエーションを生んでマニア泣かせなことになっているとも言える。

改めて聴くと、なにしろこの時期のライヴはどれを聴いてもレベルは高いし、ロックならではの自由度と粗さも兼ね備えているという、クリムゾン全盛期のパワーと勢いが感じられて素晴らしい。お布施に辟易としつつも、マニアなら楽しめる内容であることは間違いないので納得できれば買ってもいいんじゃないか・・・な?

余談をひとつ。ある日、注文しておいたイエスのCD(スティーヴン・ウィルソンのミックス)が届いた。喜んで開封していると、キング・クリムゾンにあまり良い印象を持っていない妻が「何それ、キンクリ?(と半ば茶化してそう呼ぶ)」と尋ねつつ、すぐに「ああ、でも大きい箱じゃないから違うか」と即座に打ち消すのだった。どうやらキング・クリムゾンのCDと言ったらデカイ箱で届くものだと思っているらしい。ははは・・・。

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