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趣味の人生を楽しむサラリーマンの日記

2014年日本シリーズを見てリーダーの在り方と監督選びの悪習を考える

阪神和田監督

2014年、地元千葉ロッテはBクラスに終わり、贔屓のチームを応援するという意味での野球は今シーズンもう終わってしまった。それでもポストシーズンの試合は面白い。一時たりとも気を抜かないプレイによって試合が引き締まり、ここまで勝ち抜いてきた選手たちが真剣勝負をするのだから接戦になることが多く、必然的に見応えのある試合になる。昨今は野球のテレビ中継が少ないので、せめてこういう機会だけでもじっくり楽しみたいと思う。

今年の日本シリーズは、子供のころからファンだった阪神タイガースが久しぶりに出場することになったので時間の許す範囲で観てみた。ファンだった、という過去形が示す通り、もうかれこれ10年くらいはロッテしか試合を見ていないので顔見知りの選手は皆ベテラン。安藤や福原がまだ現役でがんばっているとは知らなかった。

久しぶりに真剣に野球を観て、改めてボール球を振るというのがいかに良くないかというシーンを何度も目にした。僕は選球眼が良い選手、例えば松井秀喜やロッテ井口のような選手が好きで、ボール球に手を出して相手を助けてしまうプレイは厳しい目で見てしまう。確かにフォアボールを選んでもヒーローになることはなく、打ったほうが自分も気持ちいい。しかし、選球眼が良い選手は自分の打撃のため(平たく言うと「打ちたい」という気持ち)よりも、チームを優勢に導くことを優先しているクレバーな選手、野球を知っている選手だと言える(「マネーボール」で良い選手と判断する基準が出塁率だったというのにも通じる)。

第5戦の最後は後味悪い終わり方が話題になったけれど、勝負はその前の球にあったと思う。この回から登板したサファテは制球が定まらず、3四球でワンアウト満塁。そしてボールツーとなって押し出しの匂いが漂い始めたあとの3球目はまたしても高めのボール。これに西岡は手を出してファウルしてしまった。バッテリーはどれだけ助かったことか。

もうひとつ、見ていて思ったのは監督の立ち回り。監督は試合に向けての戦略、短期決戦での戦略を考え、試合では臨機応変な采配をふるうのが仕事ではあるけれど、リーダーとしてどう振る舞うかというのは選手からの信頼を得るのに非常に重要なことだと思う。この点で秋山監督と和田監督は対照的だった。

和田監督は思っていることがそのまま表に出る。戦況が良い時は手を叩き、悪い時は顔色が青ざめる。しかも1プレイ、1球ごとに律儀に。人間らしいといえば人間らしいことで、人柄の良さも垣間見える正直さとも言える行動をどうこう言うつもりはない。でも監督がそれではいけない。いちいちガッツポーズをしているからメリハリもない。例えばノーアウトで先頭打者が出塁したイニングがあり、そこで深くウンウンと深く頷き、見えていない拳を握りしめているんじゃないかというシーンがあった。でもそれは第1戦の中盤でのできごとだ。監督ともあろう者が山場でもない場面のシングルヒットでそんなことをしていて選手の信頼が集まるとは到底思えない。もっとどっしり構えているべきじゃないだろうか。テレビに写っているシーンだけでこれだけ表情豊かとなれば、普段どうしているかは推して知るべしだ。

秋山監督は、その点まったく正反対。常に落ち着いた表情でベンチに座ってどっしり構えている。もちろん際どいプレイのときに表情が一瞬変わることはある(一瞬なのでテレビでは写っていないが新聞の写真では捉えていた)ものの、いちいちひとつひとつのプレイで右往左往しない。そして、シーズン優勝が決まったときのようなここぞというときに、そっと涙を流すだけだ。

和田監督は、判定への抗議も一律的で状況判断をしているようには見えない。とりあえず際どいからグランドに飛び出そう、という感じだ。大事なところか、ここで勝利への執念を見せれば選手の士気が上がるか、などの計算もなさそう。だから、それほど重要でもない判定で試合の流れをを悪くするだけのときに時間をかけて抗議をしてしまう。もっとも象徴的だったのは最後の守備妨害への抗議だ。ゲームセット、日本一確定を宣告することになる判定を審判が根拠なくするはずもなく、主審も塁審も判定は同じ、既にホークスの選手が歓喜の輪を作ろうとしている状況で審判が判定を覆すとなれば、抗議の根拠となる確信な要素がなければ意味がない。あのとき和田監督は、どんな点を指摘して守備妨害ではないと抗議していたのだろうか?

ここ数年はセ・リーグの情報に疎かったものの、和田監督の選手起用批判などはよく報じられていたので監督としての評価は芳しくなさそうというのは知っていた。それでも、人気チームで首位から離されていたという状況から批判が出るのは仕方がないのかなと思っていたんだけれど、どうもこの挙動を見ていると確かに監督に向いてるようには見えず、良い仕事をしているとも思えない。

ちなみに僕が阪神ファンだったころ、野村監督の時代は万年最下位でPL学園よりも弱いと言われていた時期があった。負け犬根性が染み付いたチームで唯一、3割を打って真摯にプレイしていた和田を僕は心から尊敬し、誇りに思っていた。だから、本当は批判的なことを言いたくない。でも、やはり選手と監督で求められるものは明らかに違うわけで、選手で貢献した人を報奨的に監督に据えるという、日本のプロ野球の古き悪しき風習はそろそろ止めたほうがいいと言わざるをえない。

メジャーリーグの監督で、名選手だった人がほとんどいないのが何故なのか、日本の球団フロントはよく考えた方がいいんじゃないだろうか。

「サービス」の意味と売り手と買い手の力関係ー市場のグローバル化に対応しようとする日本企業の足を引っ張っている独自の価値観

僕はコンピューター・メーカーでシステムのサービスの仕事をほぼ一貫してやってきた。仕事内容としては、保守サービス、運用サービスと呼ばれるもののことだ。つまり、価値のあるサービスを相手に提供することによって給料をいただいてきたことになる。

そもそもサービスとは何か。

辞書には沢山の意味が並んでいるけれど総合的に言うと、相手に奉仕すること、何かを提供することという意味だと思う。テニス、卓球などのサーブ(サービス)も、相手にボールを提供する役割だからそう呼ばれている(それが転じて最初に攻撃できるものに今ではなっているけれど)。

英語はじめ欧米では当たり前の言葉として存在するこの「サービス」という単語はそうしたものであり、有形のモノでなくてもお金を頂ける価値があるものと位置づけられている。チップという習慣はそれを象徴したものだと言える。

ところが、ここ日本では無形のものにお金を払うという価値観を持っている人が非常に少ない。つまりサービスはお金を取れないものであるという感覚がある。そもそも、特売などで「サービスであと1個おまけしとくよ」というフレーズに違和感を覚える人は少なく、ここ日本ではサービス=タダという意味で使われることが珍しくない。サービスで飯を食ってきた立場からすると、タダという意味で使われるのは面白くないけれど、日本人のサービス観を象徴した誤用になっている。

このサービス観の根底には、日本独自の品質に対する意識、売り手と買い手の力関係の意識にも連なった感覚があるように思えてならない。

たとえば保守契約で提供するするサービス内容は契約で決まっているけれど、短期間に故障が続いたりすると、マシンルームに保守員を常駐させよ、などと要求してくる顧客は日本では珍しくない。どういう保守メニューに対して保守料はこれです、と決まっていてその前提で契約を結んでいるのに、更なる奉仕(サービス)を求める。もちろん追加料金を払うつもりは一切ない。

更に、製品の品質観について話を進めたい。

日本の顧客はモノが壊れる(ハードウェア故障)のは100%製造者の過失であり、起きなくて当たり前と考えているところが多く、顧客企業は故障するとなぜ壊れたのか報告書を要求する。それを知って何の役に立つのかはわからないけれど詳細な報告書と再発防止策をわりと当たり前のように要求してくる。この報告書作成は保守契約に含まれた奉仕(サービス)ではないけれど、これのために追加料金を払うという考えはもちろんない。なぜなら壊れるのは100%メーカーが悪いという考えだから。しかし保守サービスのメニューに報告書作成がないからといってそこでメーカー側が報告書の提出を拒否しようものなら、そのメーカーはサービスが悪いと評価されるのがニッポンという国である。

つまり、ハードウェアは壊れてはならない、ソフトウェアのバグも許さない、よってそれらの問題が出たことによって起きるリカバリーの手間はメーカーが責任を負うべきだという暗黙の了解ができあがっている。だから、報告書の提出などは保守契約内容云々以前のやって当たり前のこと、そのために追加料金を払うなど想像するにも至らないという考え方、価値観が歴然と存在している。

ソフトウェアについても、そんな品質観を持った日本人ならではの特徴的な行動がある。バグがゼロのソフトウェアが存在しないことはみんなが知っている。そこで日本人はこう考えてしまう。今動いているバージョンで問題が出ていないから、新しいバグを引くかもしれないバージョンアップはしないことにする、と。

一方でメーカーは、過去のバージョンのサポートを未来永劫続けるようなことをしていたらいくらリソースがあっても足りないし、コストも膨大にかかる。だからメーカーは古いバージョンをサービス対象から外す。メーカーは開発とサポートにどのくらいのコストがかかるかを鑑みて製品の価格を決めているのだからサポート範囲に限りがあるのは当然のことだ。

しかし、日本人は今使っているバージョンに問題が出ていないからとバージョンを上げず、その古いバージョンがサポート終了になることを知ると「そんなのはメーカーの勝手だ。サポートを継続せよ」と要求してくる。

ちなみに外国のシステム管理者は、自分の管理しているシステムが新しいバージョンで稼働し続けることに注力し、常にサポートを受けられるようにしておくことが自分たちの仕事だと認識しているのでこういうことは起きない。つまり、新バージョンのバグによる問題が起き得るリスクを許容して、メーカーのサポートを受けることができる状態にしておくことが自分の仕事だと思っている。だから外国の顧客で製品サポート終了に抵抗を示してサポートを延長せよ、と主張してくるケースは特別な事情がない限りは聞いたことがない。

これらは僕が過去の経験で見聞きしてきたことのまとめである。少々紋切り型ではあるけれど概ねこういう傾向があるのは外国人と仕事をしたことがある人なら同意していただけると思う。

行き着くところ、メーカー、作り手、サービス提供者も人間である(完璧ではなくできる範囲には限りがある)、という一定の理解に基いて物事の暗黙の了解ができているのが外国(主に欧米)の文化であり、日本はそういう考えがまったくと言っていいほど存在しない、というのが最大の違いということになる。

だから海外のエンジニアなどに日本の顧客の要求(サポート期間を延長せよなど)を伝えると、そもそもなぜそんなことを言っているのか理解することすらできない。そして日本人は特殊なことを言う面倒な人達だとだけ認知され、以降のサポートを極度に嫌うようになってしまう。

こういう僕の意見に対して、それはあなたがメーカー側の人間だからだろう、と言う人がいるだろうことは想像に難くない。でも、買った側は100%の品質を求めて当然という価値観が普通のこととして社会が成り立っているのは日本だけであり、グローバル展開してビジネスをしなくてはならないご時世にこのような日本だけの価値観を振りかざしていてやっていけるのかということを考えてみてほしい。

例えば、グローバルで提供されるサービスは欧米の(あるいはそれに近い)価値観で作られいることがほとんどなので、日本の価値観からすると障害や問題への備えが甘いと判断されてしまうものが多い。もちろん他の国の人がそれでよしとして広く使っているものに対して、である。グローバルで広範囲に提供されているからこそ低価格でそのサービスを受けることができるのに、日本の価値観によって「使えない」と判定することしかできないのでそのようなグルーバル基準のサービスを日本企業は選ばない。外国のレベルが低いのだ、というのであれば同じ価格で日本人の厳しい目に適う新しいサービスを作ればいいんだけれど、それもできない。

このように「そこまでやる必要があるの?」のレベルを求めて高コスト体制を続けてしまう。

確かにこのような日本独自の品質観、価値観が、工業製品に世界最高レベルの品質をもたらしたのは間違いない。また、その品質に大きな遅れをとってはならないと他の国も日本を見習い、世界中の品質向上に影響を与えているのは紛れもない事実である。しかし、日本人の品質観は世界レベルの標準で見れば明らかにToo Muchであり、その過剰なレベルの品質を得るために膨大な時間と手間をかけていることを自覚している日本人は少ない。日常的にある製品の故障やバグのためにこんなに報告書がに飛び交い、その作成と報告会などのためにこんなに時間を浪費している国は他にないはずだ。

こういう品質至上主義、製造者全責任主義の文化を維持することは本当に日本のためなんだろうか?世界から完全に孤立しているガラパゴスな過剰品質感のままで世界を相手にビジネスができるんだろうか?

こういう考え方、品質観の違いは「サービス」の考え方の違いと深く結びついている。完全な製品を提供できるのが当たり前という考え方が前提にあるから、完全でない物事が起きた場合に要求するサービスにお金を払うことなど想像すらできない。

もうひとつ、某歌手が言った有名な言葉に「お客様は神様です」というものがここ日本にはある。お金を払って買った人が主人、買ってもらった方は奴隷と扱うのに近い感覚を持っている日本人、そしてそれに自覚的でない日本人は少なくなく、この考え方も非常に大人げない。お客様は確かにお金を払った。でもその対価を受け取ったのだから両者の関係は本来は対等と言ってもおかしな話ではない。Win-Winということばの原点はここにあるはずなんだけれど、そもそも日本の文化に対価という観点でのWin-Winという考え方は存在しない。英語には Customer is always right という言葉があるけれど、それは顧客の声に真摯に耳を傾けなさいという教訓であり、神様扱いしなさいという意味ではないはずだ。

もちろん、対価として得たはずのものが機能を果たさなかったらクレームを挙げる権利が客にはある。しかし、多くの日本人は、ただの1度でもモノの故障したり、バグに遭遇したりするとその製品への評価を著しく下げる人が多く、それはそれは手厳しい。ああ、自分はなんて運が悪かった(=故障はゼロではないと受け入れている)んだろうと思う人は少なく、そのメーカーに嫌悪感まで抱いてしまう。

考えてみれば、世の中に壊れないハードウェアは存在しないことくらい誰でも知っているはずである。にもかかわらず、日本人の顧客は100%を求める。そして日本のメーカーは客の要求に応えようと100%を目指す。日本の顧客は100%を目指すメーカーがどれだけ手間とコストをかけているかなど知ったことではない。なぜならメーカーは100%のものを作って当然なのだから。

一方、他の国の人たちはモノが一定の確率で壊れることを無意識で許容しているように思える。まあ、人間が作ったものなんだから壊れることもあるよね、と。自分だってすべてを完璧にこなすわけじゃないし、という潜在意識もあるに違いない。これはモノの品質に限らず、サービスレベルについても同様なことが言える。

つまり、日本以外の国の人たちは自分に求められたら困るようなレベルを、相手にも求めるというアンフェアな行動をしない。

フランス映画で、キッチンの修理を依頼したら「二週間後」と言われてため息をつくシーンを見たことがある。日本的なサービスと品質が基準の日本人はこの話をあり得ないエピソードとして見るし、映画でもフランス人が「まったくこれだよ!」というイライラを表すシーンでもあり、誰もがこういう目には遭いたくないと思う。しかし、フランス人は1人で毒づくことはあっても修理業者に「ふざけるな」などとすぐに修理に来るように圧力をかけるようなことはしない。フランス人は決して日本レベルは望んでいないと思う。それによって失われるものも無意識で理解しているはずだから。

言うまでもなく、故障が多かったりサービスが悪ければどこの国の人であっても顧客は不満を抱くはずだし、それを放置しているメーカーは淘汰されていくに違いない。問題は、故障やサービスに対する許容度がどの程度かにあり、今の日本人が求めている水準が本当に適切なのかということである。宅配便が翌日に時間指定で届く国など日本以外にはなく、それは素晴らしいかもしれないが、本当にそこまでやらなくてはいけないのだろうか。しわ寄せは、クール宅急便が溶けて届いたあの事件で表面化、膨大な宅配物を捌き切れない泣いている現場の人が数多くいたことは記憶に新しい。そこまでして便利さを求める日本人は本当に正しいのだろうか?

厳しい日本人の客に鍛えられて世界一高品質な工業製品を作るようになり、手厚くも迅速な対応をする日本企業は実に立派だと思う。しかし、意図したことではなかったとはいえ結果的にエンドユーザーを甘やかしたとも言える。手取り足取り、上げ膳据え膳を快適と感じることは「自分のことは自分でできる」というプライドを捨て去ることに他ならず、責任は他人に負わせて自分は何もしないという人間を育てることになってしまった。それによって手間とコストがかかっていることなどは考えようとしない。モノに対する日本人の品質やサービスの価値観が変わらない限り、甘えた考え方に起因する高コスト体質を抜けることは難しく、日本はどんどん世界から置いていかれると思う。

まあ、こんなことを言っても無理なのはわかっている。それでもあえて僕は主張したい。少々の不便には目を瞑れる寛大さを受け入れるように日本人は変わらなければグローバルなビジネスに乗り遅れるのだと。

『悪の法則』

悪の法則

(ネタバレ少しありますが重要なところは触れていないつもりです)

原題「The Counselor」。カウンセラーとは弁護士のことで、これを演じるマイケル・ファスベンダーが主役。とはいえ、その弁護士の視点で描いているというものであるという意味での主役であり、アクの強いキーパーソン何人かが絡み合って進んでいく。

そのアクの強いキーパーソンに起用しているのが主役級の大物俳優ばかりで、これだけ揃えることができたのはひとえにリドリー・スコットの引力の成せる業というところなんでしょう。

ちなみにこの映画、掲示板などでは評判があまりよろしくない。理由はいくつかある。まず気分がよくなるタイプの映画ではないこと、そして基本的にに悪人の話であること、更にそれぞれのキャラクターにあまり共感できないこと、エグいシーンがあること、などなどの要素に加えて、説明不足なところが多々あって観ている方がいろいろ想像を巡らせなくてはならないところが不評の原因らしい。何しろ主人公がなぜ金欲しさに悪事を働こうとするのかというところからして明確な説明はなく、たぶん婚約者(ペネロペ・クルス)の気持ちを引き寄せるためなんだろうなと想像はつくものの、その婚約者がわがままで金食い虫だという描写は出てこない。強いて言えば金持ち(ハビエル・バルデム)の恋人であるキャメロン・ディアスとプールサイドで優雅に会話をしているシーンで日常的にセレブ生活を好んでいるのかなと読み取れるくらいだ。というか、恐らくそのシーンで金食い虫であることを読み取れ、というのが映画全体の基本姿勢にある。

だから後で色々思い返して「あのエピソードはそういう意味だったんだよな?」という気分になるところもいくつか出てくる。逆に、この種の映画を好む層はそういう面も含めて絶賛しているようだ。やけに哲学的なセリフも多くて、そこも鼻につく人を面白いと思う人に別れるに違いない。要は観る人を選ぶタイプの映画だということ。

僕は絶賛まではしないけれど、映画としては結構面白かった。ひとつはキャラ設定がしっかりしていること。主人公は基本的には平凡な「金持ち生活を求める」人であって悪人ではない。だから追い込まれると腹をくくっていない分、恐れて絶望していく。その様を、今や「ドMキャラ」をやらせたら右に出るものがいないファスベンダーが好演。アクが強い成金を演じるハビエル・バルデムの、あと半歩でコントの領域に入りそうな外見とキャラは強烈で、この人は色男から冷酷な殺人者まで本当に幅広い役ができて凄いなと思ってしまう。キャメロン・ディアスは、年齢的にもこれまでの天真爛漫キャラだけではやっていけない転換期にいると思うけれど、この映画でヒールとしての才能を開花させたと言えるほどのハマりっぷり。ブラッド・ピットだけは従来イメージのカッコいいチンピラ風で意外性がないものの、このレベルのカッコ良さを出せる人は他にいないからこれでいい(笑)。

その他、存在感たっぷりの監獄のロージー・ペレス(初見だけど並の女優じゃないな、あの貫禄は)、少しだけ出てくる単なる汚物廃棄労働者でジョン・レグイザモという、脇役に贅沢にいい役者を使っているところもこの映画のレベルを引き上げている要因だと思う。

そこにリドリー・スコットのクリアな映像とカット、スタイリッシュな音楽が組み合わされ、かくして一級品の娯楽映画として仕上がっている。ストーリーだけならコーエン兄弟の映画でもしっくり来そうだけれど、この映画を観て近似性を感じる人などいないはずで、映画作りというものがストーリーだけで決まるわけじゃないことを改めて実感してしまう。その映画の作りそのものの相当レベルが高いと思うので、スターが沢山出ているとかわかりやすいとか共感できるとかいう理由で映画を楽しむのとはまた違う、映画を味わうことが好きな人におすすめしたい。

ただ、内容的にはもう一度観たいとは思わないかな。時間が経ったらまた観たくなるかもしれないけれど。

いつになくスポーツ観戦に忙しい日曜日

普段、休日は家で音楽を聴いたり、映画を観たりしてのんびり過ごすことが好きな僕は、テレビをほとんど見ない。基本的に同じような過ごし方を好む妻も似たようなもので、やはりテレビはほとんど見ない。ドラマは海外モノを見慣れた目には何を見ても子供っぽくて、描いているものが浅いし、バラエティ番組のくだらなさはもう目を覆うばかり。

だから、録画せずに見るテレビ番組といったらほとんどニュースかスポーツに絞られる。そのスポーツも、地元ロッテが好調でなければあまり野球も見ないし、年中やっているというわけではないので、昨日は例外的に盛りだくさんの1日だった。

最初はテニスの楽天ジャパンオープン。

楽天オープン2014

錦織は2年前にも優勝しているけれど、そのときよりも間違いなく強くなっている。ショットの精度と攻撃力、サーブ力の向上に加えて、試合の中のどこで集中力を高めれば勝てるのかというポイントを掴んでいるところ、そしてそれを実行できてしまうところが凄い。

報道されているように疲労が蓄積していて、体調は良くなさそうだった。無理もない。USオープンで2週間にわたってタフな試合をこなし、次のマレーシア・オープンもフルに戦っている(優勝)のだから。体調を気遣ってか、無駄な動きが少なかったのも印象的で、諦めるボールと食らいつくボールの取捨選択が上手かったように感じた。

優勝後のインタビューで「ひとつレベルアップできた」と言っているのは、体調が多少悪くても(ある程度手抜きをしても)プレイの質を落とさないゲーム運びができたことを指しているんじゃないかと思う。

それにしてもUSオープン決勝のときと相手が似たタイプなのにプレイがまるで違っていたように思う。ストロークは深く、コーナーに決まっていたし、スピンの掛け方も工夫して緩急もうまく付けていた。このプレイができていたらきっとUSオープンでももっと接戦になっていたように思う。もちろん、ジャパンオープンも勝たなければという気持ちで戦っていたに違いないけれど、やはりプレッシャーの大きさは全然違うということなんだろう。

少し苦言を呈したいのはWOWOWの実況と解説。もちろん視聴者が応援しているのは99%錦織だったんだとは思う。でも、ラオニッチの良いプレイに対してほとんど何もコメントしないというのはいかがなものか。僕はラオニッチも2年前よりも確実にレベルアップしている(実際、ランキングも上がっている)と思ったし、ファイナルセットで攻撃を強めていたときなどはもう一歩突き抜けていれば勝っていたと思うほど良いテニスをしていたのだから良いところは良いとコメントするべきだったのでは? レベルアップしたラオニッチに勝った錦織はもっとレベルアップしているということくらいを言うこともせず単なる応援団で終わってしまっていたのは残念だ。錦織を応援するムードで契約者を増やすのではなく、テニスの面白さを教えて契約者を確保したいのなら改めるべきだろう。

それはともかく、この優勝で世界ランキング 6位、ファイナルへの出場権をかけたポイント争いでは 5位に付けた。つまり今年は世界で5番目にポイントを稼いだということだ。体調さえもてば勝てない相手はいないレベルに到達したことはもう間違いなく、トップ3の牙城を崩す日も遠くないかもしれない。4大大会の決勝のチャンスもきっとまだあると思う。

ますます目が話せないな、こりゃ。テニスファンとしては嬉しいことこの上ない。

次は競馬のG1、スプリンターズ・ステークス。

13番人気のスノードラゴンはすべてがうまくハマった印象だった。やや力の要る馬場、外が伸びる長期開催の最終週の馬場で外枠から追い込みが決まる。レースじたいは混戦で見応えがあった。内をすくったベルカントに目が釘付けになったけれどあと一歩及ばず。でも、これでスノードラゴンがロードカナロアの後を継いでスプリント王者になったとは思えない。馬場や枠順が変われば着外になった馬にも勝つチャンスがあったように思う。まあ、馬を持った経験から言うと、勝つ力があっても勝てないのが競馬であり、勝つときというのはうまく自分の型にハマったときというのは身をもって知っているので、まったくのフロックだというつもりもない。スノードラゴンは年末の香港スプリントを目指すようだけれども、力の要る馬場は合っていそうとはいえ、追い込み脚質ではちょっと厳しいような気がする。

さてその次はF-1日本GP。

これまでにF-1の生観戦はセナとプロストがシケインで接触した89年をはじめ、シューマッハ全盛期90年代と合わせて4回あり、かなり夢中になって観ていた。しかし好きなドライバーがどんどん引退し、そのうちに仕事が激務で2時間も深夜にテレビにかじりつくのが億劫になって徐々に興味が減退していってしまった。それでも日本GPはやっぱり観ておきたい。

しかし、番組が始まると、やはりというか当たり前というかこの日は台風上陸の生憎の天気で残念なコンディション。それにしても知らないドライバーが増えた(特にグリッド後半)し、紆余曲折あったチーム名の変遷にも馴染めず、やや浦島太郎状態だった。

レースは今年の傾向そのままでメルセデス勢が圧倒的に速いので勝敗の面では面白みはなかったものの、各ドライバーは難しい路面コンディションと格闘し、抜きつ抜かれつのシーンもあって結構楽しめた。ターボエンジンの迫力のないエキゾーストはちょっと残念な感じだったけれど、相変わらずF-1はスリリング。真面目に見たら面白いんだけれど今やBSのみの放送とほとんどプロレスみたいな扱いになってしまい、ますます身近なものではなくなってきているのが残念。

最後は凱旋門賞。

凱旋門賞2014

今年未勝利で、前走まで岡部幸雄氏がずっと歩様が硬いと言っていたトレヴを立て直した陣営は賞賛に値する。好ポジションにつけてロスのない競馬をしたジャルネの騎乗も素晴らしかった。

一方で日本勢は残念な結果だった。というか勝ち負けには程遠く、レースを見ていて力が思わず入るようなシーンは見られなかった。このレースに出走させるだけでも大変であり、多くの人が努力してのことだっただろうからしょうがないんだろうとは思う。でも、一夜明けてレース後の騎手や調教師の聞いていたらイライラしてきた。

総合すると誰からも悔しがっているコメントが出ていない。「世界の壁は厚かった」「自分のレースはできたので悔いはない」と、映像を観ても晴れ晴れしく、本当に勝ちに行ったのか?と言いたくなる。登録料100万円も払って、その他にも多くの経費と労力を費やしたのだから勝つつもりがないはずがないと言いたいところだけれど、本気で勝つつもりでいたのならこんな結果で悔しくはないんだろうか?

とにかくヘソを曲げないように走らせなくてはならないゴールドシップがいつも通り最後方からになったのは、まあ仕方ないだろう。宝塚記念のときのように道中、徐々にポジションを上げることはロンシャンの2400では自滅でしかないし、最後方からキレる脚を使えるわけではないから、この馬はスタート後、15秒で事実上レースは終わっていた。これは誰もが予想できた展開で、では何か手を打とうとしたのかと陣営に訊いてみたい。ゴールドシップが好勝負できるとしたら良いポジションに付けて、バテずに長くいい脚を使えたときに限られる。出遅れる確率が高くて二の脚も遅いのに気分任せのレースしかできないこの馬をそのまま出走させるだけで陣営は格好がつくと思っていたんだろうか。

世界ランク1位のジャスタウェイも行き脚がつかなかったようでやや後方になってしまった。それでもジリジリ伸びていたのだから力はやはりある。しかし、そもそも国内でも2000mを超えるレースで良績がない馬が勝てるほど凱旋門賞は甘くないことくらい誰でも知っていることなのに陣営は手を打とうとしたのだろうか。凱旋門賞を使うなら最低でも一度は欧州で2400mのレースを使っておくべきだった。それができないのなら出走しなければいい。この大舞台で実績のない距離に挑まなくてはならないんだから福永も前半から積極的に好位を取りに行こうと思えないだろう。芝の2000m前後のレースで賞金と日本での注目度が高いレースが欧州の秋にないのは確かだ。でも、ドバイ・デューティフリーを圧勝して世界ランク1位になったからという惰性で出走を決めたのならば安易過ぎる。今年の英愛ダービーを制しているオーストラリアが中距離の方が適正があると回避、過去には2000mまでの距離で圧倒的な強さを誇ったフランケルでさえ、凱旋門賞には向かわなかったのだから、ジャスタウェイの凱旋門賞挑戦がいかに無謀だったかわかる。目指すべきは英インターナショナル・ステークスや愛チャンピオン・ステークス(賞金は日本のG2より少し高い程度だが勝てば欧州では間違いなく評価される)、またはブリーダーズカップ・マイルなどではなかったのか。今回の挑戦は、当初距離不安があったエルコンドルパサーが用意周到に凱旋門賞への課題をクリアしていったのとは対照的な場当たり的なものに思えてならない。

ハープスターもゴールドシップと並んで最後方から。繰り返すけれど、3コーナーから外をまくって勝てるほど凱旋門賞は甘くないことくらい誰でも知っているはずなのに、外を回って直線最後方からなんて消極的なレースしかできなかったんだろうか。ポジションを取りに行く競馬ができないのなら、あるいはそれにチャレンジしようとしないのなら走る前から負けは決まっていた。松田調教師は「3歳だから来たわけで来年はわからない」と本気で勝とうとしているとは思えないコメントをしている。ちなみに、早い時期から凱旋門賞へ向かう声が上がっていたけれど、最後方から大外を回すレースしかできないのなら勝機がゼロであることも誰もが知っていたわけで、それに対処せずにその悪い想像通りの負け方をするとはどういうことか。本気でこんなレースしかできないと思っていたのなら、出走する意味があったとは思えない。

申し訳ないけれど、オールジャパンを標榜した今年の調教師、騎手、関係者は日和見的だったと言わざるを得ない。日本の競馬は、「憧れの凱旋門賞に挑戦」で満足してしまうレベルだったことが露呈してしまった。近年は毎年のように日本馬が出走するようになって出す方も祭りに参加気分で緊張感も失くしてしまったようだ。

昨年、一昨年に池江泰寿調教師が大きく落胆していた(2回めはサバサバしていたけど)のとは大きな違いに見える。オルフェーヴルは「良いレースをして勝てればいいな」ではなく、勝ちに行っていた。フランスNo.1ジョッキーを確保し、そのスミヨンはレースでも気難しい馬を勝たせるためにそれなりのポジションを取って、勝つための競馬をしていた。こういうタラレバは意味がないことを承知で言うと、今年は例年に比べるとレベルが低かったし、トレヴも絶好調と言えるほどではなかったはずなので、オルフェーヴルが出走していたら勝っていたんじゃないかと思ってしまう。

残念な結果だった、と先に書いたのは着順のことではない。「勝てればいいな」という姿勢で出走している日本の競馬関係者のことを表したものだ。契約の関係で降ろされるなど紆余曲折があったとはいえ、過去に3度も優勝しているジャルネ騎手が涙する(ディープインパクトが出走した2006年のパスキエ騎手も泣いていた)ほどのレースに、経験不足、準備不足でなんの工夫もなく負けた日本勢。勝ちを狙いにいっていない凱旋門賞ならもう見たくない。

フランス地元紙でも日本馬の消極的なレースぶりを批判し、「観客席からオリビエ・ペリエが観ていた(過去4回度の優勝を誇る最多勝利騎手であり日本と馴染みが深いのに空いていたという意味)」という記事が掲載されたようだ。今回の教訓が今後活かされることを切に願うばかりである。

自動車遍歴その2-ラテン系の楽しさに満ちたアルファロメオ

2台目のロードスターも9年が経ち、その魅力を日々味わいつつも、やはり扱いが激しかったことからあちこちにガタが来始めた。そんなとき、実は密かに憧れていたアルファロメオ156の希望モデルの中古を見つけ、そろそろ違うクルマにするのも悪くないだろうと思って、合計11年乗ってきたロードスターからついに乗り換えることになった。乗り換えたのは3年落ちの99年モデル。

アルファロメオはスポーツカー好きにとって特別な響きを持つ憧れのブランドであり、普通のサラリーマンで手が届く価格帯の車種にも魅力的なものがこれまでにもあった。最初に気になったのは145だったんだけれども当時はまだロードスターを進化させることに夢中なとき。しかし、156が登場したときに「全高が低いわけでもないのにこんなにスタイリッシュなセダンがあるのか」と惚れてしまっていた。そのデザインはアルフィスタだけでなく一般の車好きにも認められて世界中で大ヒット、デザイナーだったワルター・ダ・シルバは、そこから出世して今ではVWアウディグループのデザイン責任者をしているのはクルマ好きなら知っての通り。

アルファ156

156はV6の2.5Lではなく2.0Lのツインスパークを積極的に選んだ。このエンジンはロードスターのBP型より150ccほど排気量が大きいだけの4気筒エンジンにすぎない。しかし、同じ内燃機関のエンジンとは思えないほどフィーリングが違っていた。スムーズで不快なバイブレーションが一切なく、エンジンを回していくと官能的としか表現しようがない気持ち良い吹け上がり方をする。音量は控えめながらそのサウンドがまた快音でアフターマーケットのマフラーのような類ものではなく、エンジンのメカニカルサウンドと一体となった実に心地良いもの。他人のクルマを含めていろいろなエンジンに触れてきたけれど、今でもこれ以上に官能的な4気筒エンジンには出会ったことがない。名機と呼ばれているのも当然だと思えるエモーショナルさがこのエンジンの魅力、そしてこのクルマの魅力の大部分を占めていたと思う。

足回りはほどほどの硬さで、初期のロールスピードが早かったのでビルシュタインのダンパーに交換し、街中でスポーティに楽しむ範囲ではまずまずの足になった。ステアリングの切り始めには鼻先がスッとインに入るものの、その先はアンダーステアが強く、比べてはいけないと思いつつ、ロードスターのように積極的に回り込もうとするハンドリングに程遠かったのはこのサイズのセダンにとっては仕方のないこととあきらめるしかなかった。ロードスターの重量990キロから1300キロへ増えることになった車重の影響も小さくはなく、中型(今となっては小型かも)セダンの物理特性的な限界を至るところで感じることがあった。あと実はこのクルマの最大の問題は、右ハンドル車のペダルレイアウトで、アクセルとブレーキの位置が悪くてヒール&トゥは至難の業、更にブレーキがスポンジーでフィールが安定しない(同じ踏力でも効き具合が変わる)ところも難点だった。

その156の9年目(乗り始めて6年目)の車検のためにディーラーに赴いたときに見かけたのがデビューしたばかりのアルファロメオMiTo。Mitoの存在じたいは雑誌で見て知っていたものの、写真で見る姿にそれほど魅力を感じていたわけではなく、しかし、展示車を見てはじめて「思ったより主張と個性があって悪くないな」と印象が変わってしまった。内装の質感もまずまずだし、意外と後席が広く実用性も高そう。営業マンが「試乗してみます?」と言うので乗せてもらうと、これがもう楽しくてしょうがない。「来年になったらTCTが入ってきてマニュアルはなくなっちゃいますよ」というものだから、マニュアルシフトのクルマしか乗る気がない僕はすぐに購入を決断してしまった。

それから5年の月日が流れ、営業マンの言うとおりTCTが導入された今、そこそこはヒットするかと思っていたMiToはさっぱり売れていない。日本で見かけるケースは非常に稀と言ってしまって差し支えないくらい少ない。ロードスター、156とヒットモデルに乗ってきた僕は、自分と同じクルマをしょっちゅう見かけることが当たり前だっただけに、この希少性に戸惑う。ちなみに小型車が多いパリでもそれほど見かけなかったし、ローマではそれなりに見たとはいえ、ランチア・イプシロン(旧型)やチンクエチェントに比べたら圧倒的な少なさで、一代限りでこの車種が消滅するという噂になるのも無理もない不人気ぶりである(ちなみに他の国ではアルファレッドのボディカラーはほとんど見かけなかった)。

アルファMiTo

しかし、そんな不人気車であるMiToを僕はとても気に入っている。

まずデザイン。塊感があってぱっと見の主張があるところがいい。ゴチャゴチャした背景にあっても主張するデザインは、複雑な造形の建築物ばかりの欧州都市でも埋没しない欧州車の特徴で、このクルマもその例に漏れない。形の美もありつつ、どことなく洗練されていないところもあるところがまたアルファロメオらしい。また、コンパクトカーに僕が求める「カッコいいだけでなく、どことなくユーモラスな雰囲気がある」というデザインの条件を完璧に満たしている。たとえばアウディのA1はデザインとしてよくできているのかもしれないけれど、ファニーな要素が皆無で、小さいことを活かしたデザインの魅力がない。そもそも、アウディというブランドにそんな要求はないだろうから、僕に言わせればBセグメント以下のクルマはアウディには向いていないということになる(実際A1はアウディの中では不人気車だ)。これはアウディだけでなく、生真面目なデザインが多いドイツ車全般に概ね言える傾向だと思う。

このデザインは、場面を選ばないという意味でも高得点を与えたい。ペニンシュラ・ホテルの玄関にあっても華を添えることができて、吉野家の駐車場にあっても浮かないし、サーキットを攻めているときには攻撃的にも見える、というような万能のルックスを持つクルマは、ありそうで意外と多くはない。

やはり、僕のデザインの好みだとフランス車かイタリア車しか魅力的に見えてこない。ちなみに僕は日本車のデザインはごく一部を除いて総じて評価していないくて、忌憚なく言わせてもらえれば、見るに耐えないというくらい残念なデザインが大変多いと思っている。

MiToのデザインは、決してデザイン工学上優れているとかそういうものではないと思うけれど、カッコ良さとファニーな雰囲気が同居し、ディテールではなくクルマそのものからの主張と個性があるという点で僕は大変満足している。

一方の走りの方も素晴らしい。僕はそもそも圧倒的な加速性能が欲しいという欲求がない。とはいえ、ロードスターはかなり非力だったし、156は車重に対して明らかにトルク不足であったことは否めない。MiToは現代の欧州車では標準的な仕様といえる小排気量+小型ターボの組み合わせで、アンダーパワーに慣れた身にはこれでも十分過ぎるくらいの力強さがある。極低回転を除けば1.4Lを思わせるトルクの細さは感じないし、Dynamicモードにすればなかなかの加速を見せる。低音が響く排気音だってなかなかスポーティ(ただし、この音質に関しては前車、ツインスパークの快音と比べてしまうと没個性化してしまった)。そんななかなかのパワーを持ちあわせていながらも燃費は20%以上も向上しているし、CO2の排出量も大幅に減っている。現代のエンジンとして長く乗って行くためにツインスパークのようなノスタルジックなパワーユニットにいつまでもすがるわけにはいかないわけで、今望みうるBセグメント車用のユニットとして満足のいくものだと思っている(ジュリエッタ含め、現在のアルファは事実上このユニットだけで多くのの車種をカバーしている)。

ハンドリングの方もまたいい。小型車らしくとても軽快で、初期回頭性が高く、そこから先もアンダーステアが出づらく、鼻先が気持よくインに入っていくところが気持ちいい。156であきらめ、忘れていたハンドリングの軽快さ、鋭さを試乗のときに感じたことが実は購入の一番の決め手だったから、この点については期待通りで申し分ない。

しかも右ハンドル車なのにペダルレイアウトが良く、スポーツドライビングをやってやろうという気になれる。ブレーキ・マスターシリンダーを右側に配置するなど右ハンドル化はイタリア車とは思えないほど丁寧にやっていて、その結果、フロントにブレンボを奢ったブレーキのガッチリとした踏み応えで信頼感に溢れたフィーリングを味わうことができる。ブレーキはこのクルマの大きな美点と言えると思う。

唯一の不満はシート。見た目はカッコいい(当時のモデルはアルファロメオ・ロゴの刺繍入りだった)んだけれども、身長167センチ中肉中背の僕にはガバガバといえるくらい大ぶり。このシートのせいでサーキット走行などをする気はまったく起きなくなってしまった。実は156のシートは見た目が地味ながら、適度にホールドし、長時間運転しても疲れを感じない優れものだったので、MiToのシートは本当に残念だと思う(ただし疲れにくいところは変わらず)。

初期モデルの1.4ターボスポーツは、足が突っ張り気味で硬いところも弱点と言われているけれど、サーキット仕様のロードスターに乗っていた僕にとってはそれほどでも、という感じ。あとはタイヤ(ピレリPゼロNERO)が原因の可能性を含めてロードノイズが大きいところも、プレミアムコンパクトを名乗るならウィークポイントと指摘したくなる。とはいえ、この点もロードスターと比べたら取るに足らない欠点に過ぎない。

これだけデザインと走りを楽しませてくれるクルマでありながら、リアシートを畳めばスーツケース2つを軽く飲み込むことができるし、その気になれば液晶テレビを運ぶこともできるなど、荷室の入り口形状が悪いことを除けば実用性だって悪くない。

このような嗜好を持つ僕には、MiToの後に出たメガーヌやルーテシア(クリオ)のルノー・スポール系も大いに気になるのは事実。それでもMiToを色褪せさせるほどではなく、これからも長く愛し続けることができると確信している(ルノーに乗ってみたら変わっちゃうかもしれないけど)。

免許を取得したころは、いろいろなクルマに憧れた。でも心から「欲しい」と思ったクルマはロードスターと156しかなかった。もちろんフェラーリやマセラティのようなエキゾチックカーへの憧れは持っているものの、現実的に手の届く範囲で、心から欲しいクルマと言えるほど気に入った車種は実に少ない。

ロードスターで小型車の面白さを知ってしまったものだから、小さくてスポーティで外見にも遊び心があるクルマが好きになり、しかしそのような車種は意外と少なく、最近だと前述のルノーかシトロエンのDSかチンクエチェントくらいしか思い浮かばない(国産車はこのカテゴリーはほとんど壊滅状態)。

ちなみに品質も基本的にはまったく問題なく、普通に乗れる。とはいえ、国産車のような水も漏らさないきめ細かい品質の高さは望めない。たとえば、ドアハンドルはドアの重さに比して柔いのでグニャグニャするし、ゆっくりクルマをスタートしたときにはグローブボックスあたりからチョロチョロと水が流れるような音がしたり、自動光軸調整の機能がときどきナーヴァスに動いたり、マニュアルエアコンが最弱でも風量が大きくてうるさいなど、詰めは甘い(いずれも「こういうものなんです」と営業マンに言われる)。でも僕に言わせれば、「それってそんなに気にするようなことなの?」と思う。この程度のことのネガを潰すために労力を使うくらいなら、楽しいクルマにするために労力を割いてもらった方が嬉しい。イタリア車は、そんなトヨタ的な過剰な品質を追いかけることなく、クルマを所有し、運転することが楽しくなるような足し算で評価するクルマであってほしい。

そんなわけで、僕にとってのクルマ選びは所有して嬉しく乗って楽しいと思える小型車が基準になっているため、もともと選択肢は少なく、ここにマニュアルシフトで乗れるクルマという条件を付けるので更に選択肢が狭まる。欲しい条件を満たすクルマがいつの時期にも存在しているとは限らず、そう思えるモデルに出会えたのは、ニッチなクルマ好きとして本当にラッキーだった。MiToは不人気ゆえにそんなに遠くない将来に絶版車となりそうな気配だけれども、2度めの車検を終えた時点で特に問題もなく快調だし、これからも大事に長く付き合っていきたいと思う。


自動車遍歴その1-操る面白さを教えてくれたユーノス・ロードスター

僕の世代だと、学校を卒業して社会人になり安定した収入が得られるようになったら最初の大きな買い物といったらクルマ、という流れはわりと自然のことだった。

当時も今も、首都圏に住んでいればクルマがなくても生活は成り立つし、クルマ必須の郊外であっても道具として最低限の機能を持ったクルマがあればなんでも良かったわけなんだけれども、昔は若い人がクルマを趣味(あるいはライフスタイル表現のひとつ)として選ぶことは一般的なことだった。時代的には国産車が外車に追いつけ追い越せと高性能化一途で、デザインも徐々に良くなって行き、次々に登場するニューモデルが輝いて見えていたということも若い人を惹きつける理由だったかもしれない。

またよく言われるように、インターネットなんてまだなく(厳密に言えばあったけど今とはまったく利用のされ方も普及度も違う)、携帯電話もなく、娯楽そのものが限られていたということもあって、向ける興味の範囲がごく狭い時代だったことも関心ががクルマに向かう大きな理由だったと思う。

僕は免許を20歳で取得して以来、クルマが欲しくてたまらなかった。しかし、自宅にクルマはなくて友達のクルマに無理やり乗らせてもらっていた。それも、せいぜい数ヶ月に1度くらい運転できるだけで運転を忘れないようにするのが精一杯。そんなときに友人から12万円でいいよ、と売ってもらった9年落ちの日産ガゼールが僕の最初のクルマになった。Z18型のエンジンは回りたがらず、当時の基準から見てもいろんな意味で古かった。ラジエターから液漏れがしたりエアコンがときどき効かなくなったりで、学生の僕には修理費用が重荷となって車検を迎えるとお金がなく、泣く泣くわずか1年半くらいで廃車にせざるを得なかった。それでも、僕はこのクルマで運転の基本を覚えたし、古い車ならではのお作法(キャブレターだったのでエンジン始動前にアクセルを1回踏むとか)を経験できたりして今でもとても思い出深い1台として記憶に深く刻まれている。そういえばこのクルマは左下が1速という変わったシフトパターンの持ち主でもあった(2速と3速が同じ列なのはスポーツ・ドライビングに向いているものの、クルマはスポーティではなかった)。

そして社会人2年目(91年)に、ついに手に入れた新車がユーノス・ロードスターのVスペシャル。ロードスターは発売されてから2年が経過していたものの、まだオープンカーは珍しいと言えた時代で、納車日にオープンにして帰宅途中の信号待ちで、トラックの運ちゃんに頭上から「何これ?外車?」と声をかけられたり、カラのタンクを満たすべく立ち寄ったガソリンスタンドで給油中にバイトの店員同士が「カッコイイな・・・」と囁きあっているのが聞こえてきたり、と初日にして特別なクルマを手に入れたことを実感させてくれたことを昨日のことのように覚えている。2年後のマイナーチェンジでエンジンが1.8Lになり、弱点だったトランス・ミッションのシンクロ強化などの真摯なブラッシュアップに魅力を感じてSスペシャルに乗り換えた。

ユーノス・ロードスターはなんと言っても小さく、軽いことが魅力だった。軽自動車よりもホイールベースが短いというディメンションがもたらすハンドリングは超クイックで、操作フィールにはダイレクト感があった。非力なエンジン故に街中でスピードがむやみに出ることはなく、それでも普通のクルマとは異次元の軽快なハンドリングは交差点を曲がるだけでも非日常へと誘ってくれる特別さがあった。妙な形状のドアハンドルなども非日常への演出で、スポーツカーを所有する喜びを感じて欲しいという作り手の思いが詰まったクルマだったと思う。

コストのかかるダブルウィッシュボーン形式のサスペンションや、アルミ製ボンネット(当時はGT-RとRX-7くらいしか採用していなかった)を奢り、ヨー慣性モーメントを小さくするためにブレーキキャリパーの位置にまでこだわった作りは、スポーツカー好きの琴線に触れる設計で、そういった点で、FFをベースに四駆化してミドシップのようなスタイルに仕立てていた三菱GTOよりもスポーツカー好きに訴えるとことが多かった。

その代わり、アレレと思うところも少なからずあったのも事実だ。内装の作りはチャチでグローブボックスの隙間から中が見えてしまっているところなどの質感は軽自動車よりもひどかったし、機能面でもハードな走りをするとパワステ・オイルが吹き出すなど、ところどころに見える低品質なところは当時の水準で見てもお粗末だったと言わざるを得ない。でも、多くのオーナーはそれらのお粗末さがクルマの魅力をスポイルしているとはまったく思っていなかった。減点法で評価するクルマ選びとは違うクルマの愛し方を多くの若者に教えたのがロードスター最大の功績だったのではないかと今になって思う。

また、今と違って走行系の電子デバイス皆無(ABSさえオプション)のプリミティヴな構造は、クルマの仕組みの基本構造を理解する入門車として好適だったし、素のクルマ故に物理特性、速度、縦横のGなどで自動車というものがどういう挙動をするかということを理解するのにも格好の教習車だった。

いろいろな部品を気軽に交換できる(すべての作りが小さいので何かと安い)ために、イジり倒したクルマでもあった。足回りはオーリンズダンパーの減衰力を二倍に引き上げたスペシャル版を入れて完全に走行会仕様にしていたし、マフラーとタコ足、プラグコードにレーシング・プラグ、、吸気のキノコ、ロールバーやスカッフプレートのボディ強化、ファイナルギアのローギア化、スポーツ走行向けブレーキパッド、フルバケットシートなど、エンジン以外はかなり手を入れた。何を変えたらクルマがどう変わるかもよくわかったので、どの部品がどういう役割を果たしているかもこのクルマから教わった。

僕はクルマの形すべてが気に入っていたのでドレスアップは塗替え(全塗装)という手段に出た。しかも2回もやった。1度目は英国車風に紺に白のセンターライン、2度めは当時スバルのVIVIOに用意されていたメタリックの黄緑色(下の写真)に紺のセンターラインと大胆な選択で他にない個性を打ち出してみた。ちなみに、2度めの塗替のときは色についてかなり研究して、世界流行色協会というところがファンションの流行色を決めていることをそこで初めて知ったりもした(2016年の流行色は白ですよ、みたいに2年前にここで決めてファッションブランドがそれを元に服をデザインするのだとか)。

ロードスター旧

ロードスターでサーキット走行やジムカーナに参加しているうちに、ある程度腕の方が上がっていったのも良い経験だったと思う。でも、実はドライビングスキルの向上にもっとも大きな効果があったのがマツダスピードのドライビングスクールに参加してみたことだった。スラロームなどの定番メニューを無線で指示を受けながら指導を受けるやり方で、あるカリキュラムでは路面ウェットの中、時速80キロまで加速してフルブレーキを踏んでタイヤをロックさせる、というものがあった。その正面にはパイロンが立ち、その先の左右に信号があり、ブレーキに合わせて左右どちらかが点灯、ロックしたままではハンドルを切っても方向を変えられないのでブレーキを少し抜いて舵が効くようにして正面のパイロンを回避するという少々難しいトレーニングなんだけれど、僕はジムカーナなどの経験があったので確実に回避できていた。そこでインストラクターは「できた人は90キロでやってみてください」と指示。従ってやってみると今度は一気に余裕がなくなり、そのまま正面のパイロンをなぎ倒すことを繰り返すばかりになってしまった。余裕でできていたことが、たった10キロの違いでまったくできなくなるというスピードの恐ろしさを学ぶ経験は一般道ではできないし、目を皿のようにしてタイムを出すことだけに集中しているサーキット走行やジムカーナでもなかなか実感できないもので、本当に貴重な経験だったと思う。ちなみに今のクルマは電子制御でブレーキも横滑りも制御されてしまうのでこういう体験はできない。BMWのドライビングスクールでもABSのヒューズを抜いて擬似的にブレーキのロックで舵が効かなくなることを示すカリキュラムがあったけれど、そこではインストラクターが実際にその挙動をやってみせただけだった。

どの路面状況で、どんな姿勢で、どんな速度で、どう荷重をかけているときに、どんなアクションをするとどういう挙動になるかを学んだのはすべてロードスターからだった。それはクルマを運転する僕にとっての大きな資産になっている。今でもクルマを積極的に振り回して走るのは好きだけれども、ここを超えたら危ないという一線をわきまえることができるようになったのは、そのような経験を積んできたからに他ならない。

そしてクルマの構造に関する基本、運転の面白さ、危険さ、奥深さ、難しさ、それらすべてを教えてくれたロードスター。このクルマに出会わなかったら僕はクルマ好きになっていなかったかもしれない。

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