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趣味の人生を楽しむサラリーマンの日記

「小澤征爾 覇者の法則」

小澤征爾覇者の法則

以前の記事に書いた通り、クラシックに何の関心もなかったときから小澤征爾には一目置いていた。例えばボストン交響楽団の音楽監督を29年も務めたとか、ベルリン・フィルやウィーン・フィルの定期公演に日常的に呼ばれていことなどまったく知らなかったし、それらがどういう意味を持つかすら知らないときからの話である。

そう思うようになっていたのは、あるときのNHKの番組で中国のアマチュアの即席学生オーケストラを熱心に指導している姿に心を打たれたから。

その後、クラシックの知識もある程度身に付いてくると、小澤征爾の辿った足跡、そのサクセスストーリーに唖然としてしまうほどで、そんなに凄い実績を残してきた人なんだとようやくわかるようになってきた。

話は急に変わるけれど、ここ数年、15シーズン続いたアメリカのテレビドラマ「ER」を最初から見なおしている。シーズン前半(90年代後半)のある回で、カウンティ総合病院にクラシックの演奏家(たぶんソリスト?)が運ばれてきて「シカゴ交響楽団で演奏がある(あった、だったかも?)。次はボストン交響楽団で演奏する予定なんだ。」ということを言うと、ケリー・ウィーバーが「私はシカゴ交響楽団の定期会員なのよ。ボストンの指揮はオザワね」と返すシーンが出てくる。

このドラマ、普段はあまり音楽ネタはないんだけれど、「あの患者、誰かに似ていない?」「ジェリー・ガルシア?(グレイトフル・デッドのあの人のこと)」みたいなやりとりがさりげなく入っていたりして、その道に詳しい人をニヤリとさせることがある。オザワの名前も、そんな小ネタとして出てきたというわけだ。

それを観たのはクラシックを聴き始めたころで小澤征爾は未聴、というか手が回っていなかった。でも、人気絶頂だったころのERの小ネタに出てくるオザワの知名度をまざまざと見せつけられると、やっぱり日本人としてちゃんと聴いておかなくてはいけないかなと思うようになった。

その後、箱モノのひとつ(Art Of Seiji Ozawa)を購入、サイトウ・キネン・オーケストラのブラームスなども聴いたりしてみた。感想はと言うと、悪くはないんだけれどそれほど印象的でもない、というところ。もちろん僕のクラシック耳はまだ修行中であるので断定的に言うつもりはないものの、例えば、カラヤン、バーンスタイン、チェリビダッケ、マゼールのような巨匠のような強烈な個性を持った芸風みたいなものを感じないし、ラトルのようなその後の世代の新しさも感じない。

彼らのような歴史に残る巨匠と比べるのはさすがに気の毒とは思うものの、それほど鮮烈さを感じなかったのは偽らざる本音。ただ、小澤征爾の音楽は流れに無理がなくて大見得を切るようなわざとらしさがないという見方もあって、音楽として嫌味がなくナチュラルであるというのはひとつの美点ではないか、というのが今の時点での僕の評価になっている。ボストン交響楽団とのマーラーは、バーンスタインやテンシュテットのような爆演系とも、マゼールのような伸縮自在な癖のある演奏とも、カラヤンのような美の極致を狙ったもとも違うけれど、もともと起伏の激しいマーラーの音楽が小澤の自然な芸風とうまく交じり合ってお気に入り全集のひとつになっている。

そんな小澤征爾は、日本のクラシック愛好家に格好の標的となっているようで、カラヤンと同じくらいアンチが生息している。2人共、クラシックなどまったく聴かない人ですら名前を知っているほどの人気を誇るので、叩きたいという人が多いらしい。一方で、常にコンサートのチケット入手が困難な小澤のどこがそんなに素晴らしいかを解説してくれている人も見たことがない。

(ようやく本題)
この「覇者の法則 小澤征爾」という本の著者、中野雄氏は、僕の印象ではクラシック評論家にありがちな「手厳しく批判すれば自分の権威が上がる」という古臭い勘違い系タイプではなく、演奏者への敬意を払いながら正直な評論をされる方である。そして小澤征爾に対しても、人気故に必要以上に叩いたり持ち上げたりせず、しかし好意的なスタンスを取っている。だから本書の中身も基本的にはそういう姿勢でオザワという人物を描いていると思う。

そのようことを踏まえた上で読んでも、この本は面白いと思う。小澤家の話から始まり、斎藤秀雄氏が日本にもたらしたもの、小澤征爾がどうやって世界のオザワになっていったのかがとてもわかりやすく書いてある。もちろん多くの運に恵まれたところも認めつつ、運をつかむことができたのもオザワの資質あってのことだと理解できる。あと、ウィーン国立歌劇場の監督になった経緯やサイトウ・キネン・フェスティバルの行末など、小澤征爾にとってはネガティヴな要素にもしっかり触れていることもこの著者ならではのバランス感覚が出ていて好印象。僕が漠然と「小澤はどうやって世界のオザワになっていったんだろう」と疑問に思っていたことがほとんどすべて書いてあったといっても過言ではない。

一方で、中野氏は多くの関係者のコメントを自ら聴き、あるいは伝え聞き、それらをポイントポイントで紹介するのも文章芸風のひとつで、この手法はナマの声としての説得力と一部だけの紹介では読者をミスリードする危険性を孕んでいると僕は思っていて、本書でもその強みと危うさが同居している。

確かに小澤征爾は歴史上指折りと言えるほど超のつく一流の指揮者ではないかもしれないし、僕自身も今のところそこまでだとは思わない。でも伝統的な西洋文化の世界で、もっとも遠い世界にいる日本人がここまで活躍した例は思い当たらない。ジャズの世界で巨人と言える日本人は皆無だし、ロックでもそんな人、いやそれに近い人ですらいない。他の分野に目を向けて、たとえば画家の藤田嗣治だってその独自性で高い評価を受けたとはいえ、誰でも知っているピカソやモネには遠く及ばず、シャガールやクリムトと同列とまでもいかないだろう。伝統的(故に保守的)なクラシックの世界での活躍は、もっとも難しいもので、日本人で小澤に近づけそうな人ですら今後は現れないだろうとまで言われるほどの成功を収めたという事実は動かしがたいと思う。そして、この本を読むと運と本人の資質がその成功をもたらしたことがよくわかる。

そんな小澤征爾と、やはり国際レベルでクラシックというアウェイ文化の世界で活躍する(できる)演奏家集団であるサイトウ・キネン・オーケストラを観るために、いよいよ来週は松本に行く。日本人として誇れるものが聴けるのかどうか今から楽しみだ。

私的オーディオ観-より音楽を深く味わうために

JBL PJ 1000

音楽がとことん好きな人の中には、オーディオに強い関心を向ける人がいる。良い音楽を良い音で聴くことは音楽ファンにとって何よりも贅沢かつ至福の時間であり、好きなときに自分の家でそれを実現することができるものがオーディオという工業製品である。

僕のオーディオとの付き合いは幼少のころからと古い。父はクラシックやジャズを中心に聴く根っからの音楽好きで、団地住まいの薄給ながらそれなりにこだわってオーディオ機器を揃えていた。だから物心ついたときにはオーディオが生活の中にあった。70年代の中盤に、アンプ、チューナー、レコードプレイヤー、オープンリールデッキ、カセットデッキがセパレートのオーディオ・システムが家にあったのは近所では我が家だけで、プライバシーなんて言葉が一般的になっていない時代で隣室の音漏れが当たり前だった昔の団地においては多少の音漏れくらいで苦情などくるはずもなく、わりと自由にオーディオを鳴らしていた。そんなオーディオで、ヒーロー物主題歌のカセットなぞを子供のころから聴きながら育ってきたというわけである。

70年代後半~80年代前半は日本の家電系メーカーの多くがオーディオ機器を開発・製造していた時代で製品は百花繚乱、一種のブームだった。父のシステムも少しずつグレードアップして行き、スピーカーをどのくらいグレードアップするとどのくらい音が良くなるのかを見てきたのも子供の分際では贅沢な経験だったように思う。

ただ、僕自身はオーディオにはあまり関心がなく、音楽の方に断然強い関心を持っていた。バイト料をやりくりしたお金をつぎ込むのはもっぱらレコードで、それは前述の通り家にオーディオがあったからという理由はもちろんあったけれど、なかったとしてもたぶん最低限のものしか買わなかったと思う。若いころはお金もなく、でも音楽への飢餓感が相当すごかったから。

実はオーディオに関心を持ち始めたのは38歳くらいからでかなり年齢を重ねてからのこと。映画を観るために揃えてあった廉価な汎用 5.1ch ホームシアター・システムがWOWOWのサラウンド音声(AAC)を再生できずにAVアンプを交換することになったところから始まっている。最低限の音が鳴るだけだったそれまでのAVアンプをアップグレードすることになった結果、音が劇的に良くなって驚いてしまったのだ。そこからスピーカーをアップグレードすると更に音が良くなり、オーディオ・アンプも導入するとまた音が良くなり、更にスピーカーを大幅にアップグレードするという魔のスパイラルに突入。

音質が気になるようになったのは、それまでロックしか聴いていなかったところにジャズを聴くようになったからというのが実は大きな原因でもある。コンプレッサーをかけて様々に加工した音で、生音というものがそもそも存在しないロックやポップスは、良いオーディオで聴いたからといってあまり感動が上乗せされるわけではないんだけれど、生楽器のジャズを良いオーディオで聴くと世界が変わるといってもいいくらいに音楽が違って聴こえてくる(あと実は60年代後半から70年代前半のロックは音を加工していないのでジャズ同様に良いオーディオの恩恵に与ることができる)。

というわけで、そうなってから5年くらいはオーディオ病に取り憑かれ、足繁くショップに出向き、見境なく投資していった。行くところまで行って今は落ち着いているものの、投資額は国産コンパクトカーの価格を超えるほどまでに至ってしまったほどだった。

オーディオに熱中してきて思ったのは、情報収集をするにあたりオーディオ・マニアとオーディオ評論家の言っていることがかなりアテにならないということだった。そういう一般に言われていることと異なるオーディオ観を、これからオーディオに関心を持とうとする人に知ってもらえたら、と思って以下書き進めて行きたい。

ちなみに僕は他人の意見を鵜呑みにするということは絶対にない。長いものに巻かれることもない。他人の意見を聴かないということではなく、参考になる意見を聴いたとしても自分でその内容を検証して納得できるものを吸収していくというタイプの人間である。常に自分の耳と感覚を客観視し、プラシーボで感じ方が変わるという経験もまずなく、どんなに高級品で多くの人が絶賛していても、変わらないもの、良くないものは、変わらない、良くないと結論を下す。

一般のオーディオ入門書では、まずはスピーカー、そしてアンプ、最後にCDプレイヤーというようなことが書かれていると思う。基本的には同意だけれども、その種の入門書ではそれぞれの重みづけ(価格バランス)が、2:1:1 くらいと書かれていることが多い。

僕の意見はこうだ。部屋やセッティングという環境要因を除外する前提で、音質を決める観点で3つのコンポーネントの重要性は、9:1:0 であるということ。CDプレイヤーは昨今はやりのネットワーク・プレイヤーやDAコンバーターに置き換えて頂いても構わないけれど、それでもゼロだ。

先に「ゼロ」の話から始めよう。僕はまだ一般家庭に普及してなかった85年くらいからCDプレイヤーを使っていて、これまでに定価ベースで下は15,000万円から上は60万円のプレイヤーまで聴いてきた。が、どれを使っても音質に変化はない。いや、厳密に言えばあるけれど、良い悪いというよりは違いでしかなく、また違いも微細なもの。気分によって感じ方が変わる人間という曖昧な生き物にとってその差はないに等しいというのが僕の経験則だ。これはネットワーク・プレイヤーやDAコンバーターでも同じことが言える。デジタル音源をアナログ化する技術は特別高度なものではなく(DA変換にどんな高音質化のテクノロジーがあってどう進化しているかを解説した記事は見たことがない)、とっくの昔に成熟しきっているから、差など生じない。現在、拙宅のCDプレイヤー(ユニバーサル・プレイヤー)はパイオニアのDV-600Aという、販売価格にして15,000円だった汎用製品を使っているけれど、このモデルがゴールドムンドのEdios 20という140万円のプレイヤーと筐体と電源以外は中身がまったく同じであることはオーディオ愛好家には有名な話であり、誰もゴールドムンドの音は汎用品レベルだったと指摘できず、絶賛する評論家までいたことも知られている。これはCDプレイヤーなんてどれでも音質は変わらないことを象徴的に示す例であり、たとえ国産メーカーのように物量を投入しても高級部品を使っても人間の耳にとって意味のある効果をもたらさないことを示していると思う。なので、価格とか高級感とか高いものを使っているという満足感で音を聴きたい人はともかく、純粋に音質を求めてCDプレイヤーやネットワーク・プレイヤーに投資をすることはほとんど意味がなく、その分、スピーカーに投資した方が遥かに良い、というのが僕の意見である。

その昔、レコード・プレイヤーの時代はオーディオは音の入口(再生装置)と出口(スピーカー)にお金をかけよと言われた。レコード・プレイヤーはカートリッジなどで結構音が変わったり、振動対策をしないと音質に影響が出たりするなどの変動要素がたくさんあったし、高額製品の音は確かに良いと多くの人が実感できるものだった。気合を入れて投資し、これらにこだわって良い音を引き出すことがオーディオ・マニアの嗜みであり面白みであり、入り口にこだわるのは確かに意味があった。でもCDプレイヤーが登場してからは、特に工夫しなくてもレコードより遥かに良い音質を簡単に引き出せるようになった。

余談ながらレコードの方が音が良いといっているのはアナログ特有の音質が好きという意見であって、デジタル音源の処理が拙かった登場初期のCDから進化を遂げてマスタリング技術も成熟してきた現代においては、デジタル音源のデメリットはほとんどなくなっている。実際音楽家の口からCDの音が良くないという意見は聴いたことがなく、悪い悪いと言っているのはオーディオ・マニアだけであるということを、実利重視で音質向上を求めている人はよく覚えておいた方が良いと思う。ちなみにここで言っているオーディオ・マニアというのは実際に良い音なのかが重要なのではなく、良い音が出るとされるもので聴いて自己満足に浸ることができる人たちのことを指している。

話を戻すと、いろいろいじくり回したいオーディオ・マニアはCDの登場以降、旧態然としたオーディオの嗜みを奪われ、楽しむことができなくなってしまった。高額のCDプレイヤーを祭り上げ、振動対策で大幅に音質が良くなるなどと言っているのはレコード・プレイヤー時代のノスタルジーから抜け出せないだけの時代遅れの人にすぎず、それを言ってしまうと職を失うオーディオ評論家と、評論家に毒されたオーディオ・マニアたちがそういう風潮を未だに引きずっているにすぎない。

次にアンプについて。拙宅のシステムでは以下の4つのアンプが稼働できる状態になっている。
ONKYO TX-SA805(AVアンプ)
KRELL KAV-400xi
Mcintosh MA6900
NuForce Dia
AVアンプはピュア・オーディオ・モードを除くと、映画を派手に鳴らすために厚化粧した音になるので音楽を聴くための音質評価からは除外する。それ以外のアンプは正直なところ、ほとんど変わらない。いや、そんなはずはないだろうという意見は理解できる。実際違いはある、クレルはクリアで超低音域のパワーと伸びに優れ、マッキントッシュはそれに比べると柔らか味があり、ニューフォースは力感はないけれどクリアでバランスの良さがある。実はアンプの評価、特にパワーについてはかなり大きな音量を出したときに差が現れやすいもので、近所迷惑にならない程度の音量では大きな違いを感じるのは難しい。

ちなみにオーディオに限らず、品質レンジの幅がある工業製品は、とりあえず機能を果たすだけの低価格帯のエントリー・レベル、ある程度品質を追求して無理なく手が届く価格のミドル・レンジ、とことんこだわって一般人には開いた口が塞がらない価格のハイ・エンド製品といったカテゴリーの分類される場合が多い。実は誰にでも差を実感できるのはエントリー・レベルからミドル・レンジへのグレードアップ。そこから上を目指すと価格に比して向上する幅がどんどん小さくなる。もっとも変化幅が大きいスピーカーでさえこの法則はあてはまっている。

拙宅のアンプの価格は、定価ベースで下は3万円、上は70万円弱と非常に大きく、しかしその音質差は小さい。オーディオに関心がない妻などは全く違いが感じられないレベルである。ニューフォースのアンプはこの価格にしては性能が優れているのかもしれないけれど、8万円も投資すれば十分に優れたアンプが手に入ることは経験上知っている。このようにアンプのというものはそれほど大きな差をもたらすものではないと言わざるを得ない。

最後にスピーカーについて。

スピーカーは、オーディオのコンポーネントの一部だと思っている人が多くいるけれど、僕に言わせればスピーカーこそがオーディオそのものである。なぜなら、価格差によって確実に品質の差があり、同じ価格帯の製品であっても音の性格がまるで違うから。また、その違いはCDプレイヤーやアンプの価格帯別音質差など無に等しいと思えるほど大きい。そして無数にあるモデルの数だけ、音の違いがあるといっても過言ではない。だから、良い音を求めるということは、その人にとって理想に合ったスピーカーを探すことを意味している。

ひとつ強調しておきたいのは、ここで言う良い音とは、情報量が多いとか解像度が高いなどのオーディオ的パフォーマンスのことだけを指しているわけではない。自分が好きな音楽が自分の理想の通りに鳴っている音こそが「良い音」だと言える。音楽が好きなわけでもない単なるオーディオ・マニアやオーディオ評論家の意見がアテにならない最大の理由は、どういう音楽がどう聴こえるかという視点で評価をしていないことにある(それ以前に単なる音質評価もロクにできない人がほとんどだけれど)。

僕のオーディオは、ホームシアター用に揃えたペアで5万円程度のトールボーイ型スピーカーから始まっている。これは、父のオーディオである程度耳が肥えていた僕にとって音楽を聴くにはかなり残念な音質だった。次に、クリプシュのRF-82Fというスピーカーを使った。大幅な音質向上を果たし、特にジャズの管楽器が元気良く鳴るところが気に入っていた。しかしドンシャリ傾向で同じ楽器の音(特にピアノとヴィrブラフォンで顕著)が音域によって微妙に響きの差があって、繊細な音の表現は苦手だった。その後、今も愛用しているのがJBLのProject 1000 Arrayというスピーカーだ。定価ベースで言うとクリプシュの5倍以上のプライスタグを付けた、オーディオに興味がない人にとっては呆れるほどの高価格、一方でオーディオ・マニアにはハイエンドの入り口程度のポジションの製品である(ちなみに新品ではとても手がとどかないので中古での購入)。

このスピーカーはほとんど話題に上らず、モデルライフも短かった。モヒカンとも言われた独特の見た目、この価格帯でホームシアターを意識したJBLとしてはスリムな形状が、コアなJBLファンには軽薄に映ったのではないかと推察する。

しかし、このスピーカーの音質はミドル・レンジのスピーカーとはやはり次元が違うと言えるくらいクオリティが高い。ひとつひとつの音がきめ細やかであり、解像度が高くても音に刺々しさが一切ないし、クリプシュのように妙な高音の強調もない。また、超低音域の伸びと響きは、恐らくこのクラスでないと出ないレベルのもので、このせいでマンション住まいだとあまり大きな音で鳴らせないほどだ。オーディオに興味がない妻も、ここまで来るとさすがに「すごくいい音」と言うし、やはり関心がない義妹も「本物の楽器の音みたい」と言う。

このスピーカーは当然試聴して、音質と音の傾向が自分の好みに合っていることを確かめてから購入を決めた。当時はジャズばかり聴いていたので、ベースの躍動感が出て、管楽器がクリアかつ迫力を伴って鳴ることを優先していた。緻密かつ明瞭で柔らかい音の表現ができて余裕を持って厚みある低音が全体を支える、そんな理想通りに完璧に鳴ってくれるスピーカーだった。それどころか楽器の微細な音のニュアンスまで表現できる緻密さも備えている。

先にアンプについて書いたけれど、これらに投資したのはこの生涯付き合えると思えるこのスピーカーと出会った後のこと。とことん気に入ったスピーカーが手に入ったら、あとはそのポテンシャルをフルに発揮させたいという思いに駆られるのはまあ仕方のないところで、僕もそう思ってアンプに投資してしまった。でも、冷静に考えると国内メーカーの15万円程度のアンプでも不満を抱くようなことはたぶんなかったと思う。アンプへの投資は、気に入ったスピーカーにできるかぎり最良のパートナーを付けてあげるという自己満足の部分が大きい。

スピーカーが決まり、アンプも驕ってしまってから、僕は新しいオーディオ製品を探すことはもう止めてしまった。今でもオーディオ雑誌は読むことがあるけれど、以前のように自分が買うことを想定した読み方はせず、一応のトレンドを押さえるために客観的に製品紹介として読んでいるだけ。自分で納得できるオーディオを組むことができたら、あとは思う存分好きな音楽を楽しむことに集中できるのでオーディオ製品の情報収集に無駄な労力をかけなくても良くなる。

ミドル・レンジのスピーカーは万能とまではいかず、その分キャラクターがあるので好みの一品を探し当てる楽しみがあると言えるけれど、上手く鳴る音楽ジャンルの幅がやや狭いのは致し方ないところ。しかし、このProject 1000 Arrayクラスのスピーカーまで来ると流石に隙がなく、どんな音楽もハイレベルで鳴らすことができる。これは実は貪欲に新しい音楽を求め続ける音楽好きとってはとても重要なことだと思う。

ジャズを快適に聴くために揃えた我が家のオーディオ・システム。その後、クラシックの楽しさに目覚めると、このスピーカーはなんの不足もなく素晴らしい音でそのオーケストラを鳴らしてくれた。弦楽器の美しさ、チェロやコントラバスの重々しい響き、木管の芳醇な音色、金管の安定した鳴りと迫力というオーケストラ・サウンドの再現に求められる厳しい要件を難なくクリアして素晴らしい音楽を聴かせてくれたことに改めてこのスピーカーのポテンシャルを見せつけられた思いがする。

基本性能が高いスピーカーは、このようにどんな音楽にも対応し、その音楽が内包している響きを引き出すことができる。特に高い再現能力を求められる生楽器の音楽において。クラシックやジャズを聴く人は、より音楽を楽しむために多少無理をしてでも最良のスピーカーを手に入れることをお勧めしたい。間違いなく豊かな音楽ライフを送ることができるはずだから。

QUEEN+Adam Lambert in SUMMER SONIC 2014 と QUEEN+◯◯考

QAL

これでブライアンとロジャーを生で観るのはきっと最後だろうから程度の動機でサマソニ参加を決めたんだけれど、終わってみればクイーンのステージは実に立派だったし、間違いなく思い出に残るライヴになった。

本題に入る前に、古くから賛否両論あるこの「QUEEN+誰それ」という形態について僕のスタンスをまずは述べておきたい。

実は賛の人も否の人も(そしてブライアンとロジャーも)フレディの代わりなどいるはずがないという点で意見は一致している。なのに意見が食い違っているのはなぜか。否定派の意見を要約すると、違うヴォーカリストで違う形態になるグループに QUEEN という名前を使ってクイーンの曲を演奏するな、ということらしい。

ちなみに僕は筋金入りのクイーン・マニアであり、フレディが最重要人物だったと認識しているけれど、他のメンバーがいてこそのクイーン、4人揃っていないとクイーン・サウンドにならないと思っている。確かにフレディは間違いなく稀有なヴォーカリストでショーマンではあった。しかし、1人の自立したミュージシャンとしての力量がそれほどでもなかったことはソロ・アルバムがクイーン・ファンの一部にしか聴かれていないことが証明している。フレディとソロ契約したCBSは莫大な契約金を支払い、「Mr. Bad Guy」がまったく売れなかったことが今でもトラウマになっているという。クイーンの楽曲にしてもフレディの曲は1/3くらいだし、アルバムを聴いている人なら初期の作品ではブライアンとロジャーがそれぞれリード・ヴォーカルを取っている曲が沢山あることも知っているはずだ。

4人揃ってという意味では僕の場合、ジョンがいないこともフレディ不在と同じくらい痛い。普通のロック系ベーシストではああいう軽快なリズム感が出せなないし、ロジャーのドタバタしたドラムと一番相性が良いのはまちがいなくジョンの柔軟なベースなのだから。

このように半分欠けているグループがクイーンとなのかと問われたら僕も No と言いたいところだ。でもフレディはこの世にいないし、ジョンは引退しているんだからもうオリジナルの形は望めない。

一方で、ブラインとロジャーだってクイーンサウンドを担ってきた重要メンバーである(否定派の中にはクイーン=フレディという理解の浅い人も結構見受けられる)。2人はクイーンを愛しているのだから、新作を作ることは難しいとしてもクイーンの音楽を続けていきたいと思っているのは当然のことだ。フレディと同様にソロでは目立った成果を上げられない彼らもクイーンという器の中で自分たちが最も輝くということはよくわかっている。ならば2人でクイーンの音楽を継承して活動していくことはしごく当たり前のことだと僕は思う。

残された2人がクイーンの音楽を続けることを否定する人は、今後クイーンの音楽はCDでのみ聴かれるべきである、ということなんだろうか。「いやそうじゃなくて4人揃っていないんだから QUEEN という名前を使ってほしくないんだ」という意見は、たとえば Brian/Roger+Adam Lambert という名前で活動しろというんだろうか? クイーンの曲を演奏するためのグループで、クイーンのメンバーが半分もいるのに?それに「クイーンとは違いますよ」という意味でわざわざ「QUEEN+誰それ」と付けているとブライアンとロジャーも言っている。今回のサマソニのステージでアダムのことを「New Vocalist」と紹介せず「New Man」と紹介していたのも、自分たちがQUEENそのものではなく、アダムがフレディの後任ではないというニュアンスを込めたものだったように思う。

ちなみにグループ名というのは非常に影響が大きいということを無視してはならない。80年代に Discipline という名前で活動しはじめたロバート・フリップのグループは、途中から急に King Crimson を名乗り始めた。ビル・ブラッフォードの話によると、ライヴをブッキングしてもらうのにも苦労していたのにバンド名を変えたらオファーがどんどん来て、ギャラが何倍にもなったという。志や理想主義も結構だけれど、名前だけで聴いてもらえない、興業として成り立たないということになってしまったらこの世に存在しないのと同じことになってしまう。頑なに QUEEN の名前を使うことに反対している人、そこを厳しくしてどんなメリットがあるんですかね?娯楽バンドで売れることを普通に目指してきたグループなのに今更ビジネス判断が含まれての名前使用を批判しちゃうんですか?単に感情的に収まりがつかないということなんだと思いますが、「あれはダメ、これはダメ」と締め付けているその感情って何かの役に立つんですかね?後向いてばっかりでいいことあるんでしょうか?

というわけで僕は「QUEEN+」での活動はまったく否定しない。もちろん QUEEN ではないけれど、QUEEN の音楽を伝え続けることができる唯一の手段だと思うから。サマソニで思ったよりも若い世代を多く見かけたことで、伝えることに意義があると改めて思った。封印していいことなんて何もない。みんなフレディ・マーキュリーのことを知っているし、今はもういないことも知っている。代役によるパフォーマンスであることは誰でもわかっていることなんだから、アダムが歌うクイーンとオリジナルのクイーンを混同する人なんていないはずだ。

では誰が歌っても良いかと言うとそうとも思っていない。フレディの代わりのポジションに収まってちゃんと個性を主張できる人でなければならない。恐らくブライアンとロジャーもそう思っているはずだ。気軽にいろいろなヴォーカリストをとっかえひっかえして活動しているわけではないのは、代役を務めることができる人材すらそうはいないことを物語っている。

その点で、ポール・ロジャースは完璧だった。自分のスタイルで歌いきって、フレディの代役をやろうなんて1ミリも思っていない。ポールが歌うクイーンという娯楽が成立していたと思う。こんなのクイーンじゃないという人も少なからずいたがそれはその通り。ポールが歌うクイーンが QUEEN+Paul Rodgers というバンドだったのだから。

話はそれるけれど、そんな QUEEN+Paul Rodgers(以下QPR) 名義で、全曲オリジナルで新曲のスタジオ・アルバム「The Cosmos Rocks」を作ってしまったことはこの主旨に反した活動だったと言わざるを得ない。ただ、ツアーをやっているうちにポールとブライアン/ロジャーの3人でインスピレーションが湧き、良い新作が作れると思って話が広がってしまったのは恐らく間違いないところで、そこでバンド名を変えるわけにもいかないという事情はあったと思う。尚、この「The Cosmos Rocks」はクイーンサウンドがところどころ見えるものの、もちろん従来のクイーンの音楽ではない。でも3人の個性がうまく交じり合った素晴らしい内容なので妙な先入観を持たずに広く聴いてもらいたいアルバムである(特にポールのファンとロック色の強いクイーン・ソングが好きな人に)。

では、「アダム・ランバートはどうか」をサマソニのステージを振り返りながら述べてみたい。

まず、僕はアダム・ランバートは名前しか知らなかったので、YouTubeにいっぱい上がっている動画で少しチェックしてみると、なんかこねくり回して妙なアクセントな歌い方で印象が悪かった。歌は上手いとは思うけれど、思わず唸ってしまうというほどでもない。フレディやポール・ロジャースよりも線が細くて高い声も好みに合わない。外見はジョージ・マイケルみたいでまあ悪くないかな、という程度。ほんの数分見ただけで僕は動画チェックをやめてしまった。どうせサマソニで本物を観るからここでこれ以上悪い印象を増長しても意味ないかなと思ったからだ。

その後、Facebookでたびたび上がってきていた北米ツアーの情報は意識的に見ないように気をつけて1ヶ月以上を過ごし、そして本番のステージを迎えた。

"Procession" のSEから "Now I'm Here" というオープニングは北米ツアーと同様で、実は初来日と同じ始まり方でもある。初めて聴くアダム・ランバートの声はやはり高いけれど、フレディがライヴではフェイクしていたところもスタジオ・バージョンと同じ歌メロで無理なく歌い切るあたりはフレディへのリスペクトを感じさせる。正直なところ歌の表現の幅が広いとまでは思わないけれど、自分のスタイルを貫いて、どの曲もしっかり歌いきっている。クイーンのある特定の曲を歌えるヴォーカリストはもちろん他にもいるだろうけれど、多様な曲想の数々の名曲をすべて歌いこなせる人はほとんど見当たらず、アダムの健闘ぶりは称賛に値する。

フレディをリスペクトし、どんなクイーン・ソングにも対応できる強みが前半の曲で生きている。特にフレディの資質が強く出ている "Killer Queen" "In The Lap Of The Gods" はポール・ロジャースにはいかにも合わなさそう。恐らく QPR のツアーのときにはセットリストの候補にも挙がらなかったであろうこれらの曲を演奏できるのがアダムの強み。ちなみに "In The Lap Of The Gods" を生で聴いて「うぉ~うぉ~ららら~うぉ~」と歌えたのは個人的には非常に嬉しいできごとだった。

ちなみにアダムは歌だけで評価していては魅力がわからない。フレディとは異質ではあるけれど、やはりゲイならではの雰囲気とエキセントリックなキャラクターがあって、クイーンに良く合っていると思う。"Killer Queen" で、わざわざ用意したソファに座って扇子を手に歌う演出とそれを普通に恥ずかしげもなくノリノリやってしまうところなんて単なる歌手ではできない異能ぶりだし、そもそもフレディのことを理解していないとこういう演出はできない。

何度したのかわからない衣装替えでサングラスにブラックレザーの79年ジャズ・ツアーのフレディのような衣装から、虎柄のキンキラ服と黄金の王冠を被ったイっちゃってる装いまで、ド派手な衣装を堂々と着こなすアクの強さはなかなかのもの。あの最後の王冠姿は一歩間違えばお笑いの世界に突入する際物エンターテーナーそのものでフレディと一脈通じていることを感じた人は多かったんじゃいかと思う。

歌にしてもステージの振る舞いにしても別にフレディのマネをしているわけではないんだけれど、リスペクトしている気持ちは前面に出ていた。もっとシンプルに言うならフレディへの愛があった。だから当初ネガティヴだった僕の印象はどんどん変わっていき、ブライアンが「アダムのような才能のある人に会えれば活動できるけど、なかなかね・・・」と言っていた気持ちがとてもよく理解できるようになってしまったのだ。

もちろん、だからと言ってアダムのファンに転じたわけではない。でも、このステージに立つ男としてこの人はベストじゃないかと思えるくらいの存在感があったし見事なパフォーマンスだった。モノマネだけでないアダムの個性でそれを実現していたのだからたいしたもの。この人の魅力は音だけ聴いてもわからないと思うし、YouTubeのようなこじんまりした映像で観るよりもライヴの会場で映えると思う。選曲にアダムの意見も入っていると思われ、北米ツアーでフレディのソロ・デビュー・シングルだった "Love Kills" を選んでいるところなどマニアならではの目線も感じさせてくれる(ついでに言えばアダムによる "Dr. Brian May" というメンバー紹介もマニアじゃないと意味がわからなかっただろう)。

そのセットリストに話を移すと、今回はフェス仕様の短縮版(実質80分程度か)で、北米ツアーでは演奏されていた曲や、ロジャーとサポート・ドラマー(確か息子だったはず)とのバトル、ベース・ソロ、ギター・ソロが省略されていた。あとは大阪で演奏された "Who Wants To Live Forever" "Somebody To Love" がオミット、代わりに "In The Lap Of The Gods" と "I Want It All" が演奏されている。ちなみに、北米ツアーのフルセットでは東京と大阪に振り分けられた曲はもちろんセットリストの固定曲で、 "Tie Your Mother Down" "Dragon Attack" "Last Horizon" "39" あたりも毎回演奏されている。

代わりに日本を意識して組み込まれたのが2曲。"39" に変わってアコースティック・セットでブライアンが "手をとりあって" を演奏、そして驚きが"I Was Born To Love You"。実は9年前の QPR の来日時はキムタクのドラマでこの曲がブレイクした直後とあって、急遽この曲を組み込んで、アコギ1本でブライアンとロジャーで歌い分ける形で披露していた(サービス精神旺盛なブライアンの発案と思われる)。ブライアンがそれを忘れているはずがなく、初演は直前の韓国でのフェスだったとはいえ日本のためにわざわざセットリストに加えてきたことは想像に難くない。実は QPR のときのようにアコギだけで演るのかと勝手に想像していたんだけれど、ちゃんと「Made In Heaven」のアレンジのバンド演奏でやってくれた。この曲をこのバージョンで演奏したのは初めてのはずで、当然初見、初聴。生で聴いて感激してしまった。

ステージの演出としては、スクリーンにフレディを登場させて一部歌もそのまま流すのは QPR のときにもやっていた手法で、ただし QPR のきは "Bohemian Rhapsody" の最初の方だけだったのが、今回はもう少し拡大して他の曲でも使っていた。"These Days..." でロジャーがドラムセットを離れて歌うのも QPR のときと同じ。そのときはドラム・マシンを使っていたけれど、今回はサポート・ドラマーに叩かせていたのが違うくらい。

演出ではないけれどちょっと意外だったのは、サポート・ギタリストを付けていなかったこと。ブライアンはソロ・ツアーのときからもう1人ギタリストを付けていて QPR のときもそのまま同じメンバーを付けていた。今回は1人ですべてやっていて、しかし過不足はなく、レッド・スペシャルの分厚い音だけで埋め尽くされたサウンドを浴びることができたのは個人的にはうれしいことだった。演奏はかなり荒っぽかったけれど、ブートレグを聴き漁っている人なら昔からこんな感じであることは知っての通り。

最後に、ステージセットについて。ひとつ前のアヴリル・ラヴィーンまではただの黒い背景の味気ないステージで、まだ明るかったこともあって照明も最低限しか使っていなかった。北米ツアーの派手なライティングを見ていたので「このステージでクイーンは本当に大丈夫かいな」と思っていたら、ちゃんとステージ裏では組まれていて、光のスペクタクルとも言える派手なステージを観ることができた。やっぱりクイーンは屈指のエンターテイメント・バンド。大きな会場で派手なパフォーマンスがとてもよく似合う。フェスに参加するならメイン・アクト以外には考えられない。

というわけで、期待していなかった QUEEN+Adam Lambert は予想を遥かに超えるエンターテイメント・ショウを堪能させてくれた。人生で最初に見たライヴがクイーン85年の武道館。あれから30年近く経って、こんなに楽しい思いをさせてくれた彼らには感謝の言葉しか出てこない。歌っている観客が沢山いたのもうれしかった(「あんなに歌っている人が多いなんてびっくりした」とはファンとまでは言えない妻の感想)。

今年の夏は良い夏だった。サマソニ、QUEEN+Adam Lambert のおかげで間違いなくそう言い切れる。

QUEEN+Adam Lambert in SUMMER SONIC 17-Aug-2014

[0] Procession (SE)
[1] Now I'm Here
[2] Stone Cold Crazy
[3] Another One Bites The Dust
[4] Fat Bottomed Girls
[5] In The Lap Of The Gods...Revisited
[6] Seven Seas Of Rhye
[7] Killer Queen
[8] Teo Toriatte
[9] Love Of My Life
[10] These Are Days Of Our Lives
[11] Under Pressure
[12] I Was Born To Love You
[13] Radio Ga Ga
[14] Crazy Little Thing Called Love
[15] Bohemian Rhapsody
Encore
[16] We Will Rock You
[17] We Are The Champions
[18] God Save The Queen

P.S. 後日ミルトンキーンズのライヴDVDを見直して改めてフレディの凄さ実感してしまった。でも、今の QUEEN+ と比較してどうこう言うものではないでしょう。

SUMMER SONIC 2014に初参加-中年おじさんは夏フェスに耐えられるのか

サマソニ2014

拙宅はQVCマリンフィールド(旧称千葉マリンスタジアム)まで徒歩15分という立地、野球好きの身としては年に数回のロッテ戦を観にいくのにまことに都合がよい好環境にある。そして、スタジアムの隣には幕張メッセもある。

年間にいろいろとイベントが開かれる海浜幕張近辺にあって、一際大きく無視できないのがサマソニ。ロックを聴いてきた人間として、実は毎年気にはなっていた。ずいぶん前にデュラン・デュランが出演していたりしたときにはちょっと行ってやろうかなんて思ったものの、他に知っているバンドも見当たらず、真夏の屋外または室内でもスタンディングのフェスに尻込みして二の足を踏み続け、行こうと思うまでにはあとひと押しが足りなかった。

でも、今年は行くことにしましたよ!
17日東京(そう、なぜか千葉だけど東京と呼んでいる)の日曜日メインが QUEEN+Adam Lambert だから!

いざチケットを入手してから、ではどういう予定を組もうかなと出演者を眺めてみると、こんなに沢山のバンドの名前が並んでいるというのにほとんどわからない。知っているのは前日ではロバート・プラント、メガデス、当日もリッチー・サンボラとアヴリル・ラヴィーンだけ。ああ、クラフトワークも一応知っているか。しかもそんな彼らを知っているのも名前だけでCDは1枚も持っていないという体たらく。過去のラインナップではジャミロクワイ、ニューオーダー、チープ・トリックなんて名前もあったので今年は個人的にはハズレだったのかもしれない。

その他の会場も含め、無数にあるバンド名リストを眺めてみると、そもそも邦楽なのか洋楽なのかすらわからないほどで、もはや僕には遠い世界ということをしみじみと感じてしまった。やはり、僕の世代のイベントではないのかなあという雰囲気。若者向けでもたとえばレッチリとかリンキンとかだったら観てみたかったとは思う(このへんもメインリスナーはもう30代半ばくらいか?)。

ちなみに、ロックフェスは僕の学生時代にもいくつかあったけれど、出演者にはそれなりの傾向があったし、客層もおよそ同傾向にあるラインナップで企画するのが一般的だったように思う。ところがサマソニは、アイドルからメタルからテクノまで、邦楽洋楽もうなんでもアリでそこを楽しむイベントということなので、普段まったく邦楽(J-POPっていう言い方は気持ち悪くて嫌なんだよね)に無関心ではあるけれど、そこも含めて楽しませてもらう心構えで会場に向かった。

どのステージにどう臨むのか、本当はいろいろな選択肢があるサマソニ、しかしもうクイーン以外は正直なところどうでも良いのでステージはマリンに固定、アリーナも疲れそうなのでスタンドの日陰から観戦を決め込んだ(上の写真はそのシートからのもの)。Rブロック側のスタンド(ブロックの制限はスタンドにはない)は午後になると1F席でも日陰に入りはじめるし、15時くらいにはその日陰もだいぶ伸びてくるので、前のめりにアリーナで観ることをあきらめてのんびりを決め込むなら座れる席は沢山ある。つまり1日じゅう日陰に座って過ごすことができるので、これならおじさんでもそれほど体力を消耗しない。

というわけで14時からのマリン・ステージを楽しんできた。

【木村カエラ】
最初に無伴奏で歌い始めたときの、歌メロがどんなふうなのかわからないくらいの音程の不安定さに不安がよぎったものの、ノリの良い曲になるとそれほど気にならなかった。とはいえ、低い音域の不安定さは相変わらず。彼女はステージ映えするし声も良い。女性に支持者が多いように変に男に媚びたところがないのも好感が持てるし、ロック系女性シンガーのスターとして素養は十分に見える。あとは歌をもうちょっとなんとかしましょう、という感じ。曲も残念ながら消耗品的なものが多いのでもうちょっと普遍性のある名曲と呼べるようなものがあると本当の意味でのスターになれるのかも。

【Dreams Come True】
ドリカムは、邦楽をほとんど聴かない僕がCDを買ったことがある数少ないアーティストのひとつで、テレビでライヴも見たことがあるのでだいたいの雰囲気は知っているつもり。邦楽の中では歌が上手いとされる吉田美和ではあるけれど、得意な声域から少し外れると不安定になる。それは織り込み済みなので、まあいいんだけれど、素っ頓狂な声で変なしゃべり方のMCにはちょっと気恥ずかしさを覚える。お世辞にも上手いとは言えないダンサーが4人もいる理由もよくわからない。でも、音楽はもともとしっかりしているし、何しろ誰でも知っているヒット曲をたくさん持っているのはこういうフェスでは強み。"Love Love Love"を生で聴いたら妙に感動してしまった。

ドリカムが終わると客がどっと動き始め、周囲はほとんど空席になった。やはりこれまでに出演者とこれ以降の出演者は客層が違うようだ。このタイミングでなくとも出演者の変わり目で客の移動は少なくなく、すっと同じ場所で座っている人はむしろ少ないので、かつてのミスチルのような超人気グループが大トリ前に出演しているようなときでもなければ、17時くらいまでなら2人分の席を探すのは苦労しないんじゃないかという雰囲気だった。僕と妻もこのタイミングで日陰ゾーンになったスタンド前方にちょっと移動。

【Richie Sambora featuring ORIANTHI】
人気グループを離れてソロでフェスに参加しているアーティストは、僕がこれまで観てきた経験からするとたぶん面白くない。どこそこのバンドのだれそれというネームバリューがあってもソロ・ミュージシャンとしての評価を得ていない人だとツアーもなかなか組みづらいし、そもそも本業もあってソロ活動にドップリ浸かって膨大な時間を割けるわけでもない。そういう微妙な立ち位置のミュージシャンにうってつけなのが単発仕事で完結するフェス出演。残念ながらリッチー・サンボラは悪い予感の通りで、ボン・ジョヴィの昔のヒット曲以外は盛り上がらないし、曲も演奏もつまらない。毎曲のようにギターを持ち変えるものの、そのギター・プレイが単調で音楽にも幅がない(まあ、ボン・ジョヴィのアルバムのプレイでわかってはいたけど)。底の浅さが見えてしまった感じで、この人はやっぱり主役の脇にいるポジションが向いているのだと納得することになってしまった。話題性のある女性ギタリストも見どころ特になし。ツイッターでもほとんどポジティヴなコメントを見かけなかったし、妻も一番つまらなかったと言っていた。

【AVRIL LAVIGNE】
やや奇抜なメイクでノリノリなロックというイメージのみの予備知識で接する。バンドはここまでの出演者の中で一番の安定感。軽快でもヘヴィでラウドなサウンドは、邦楽には望めない骨太さがある。アヴリルは歌い方はバリエーションがないけれど思ったより声が綺麗でよく伸びるし音程も安定している。もうちょっとトンガッたキャラかと思ったら衣装含めラブリーなイメージで売っていることを初めて知った。始まった当初は、本人も意識していると思われるかわいいオーラと合わせてなかなかいいじゃないか、と思って楽しんでいた。ところが、ステージが進んでも同じような曲が続く一本調子。ヒット曲を並べたセットリストだったらしんだけれど、こんなに単調なステージは60分でもちょっとキツイと思ってしまった。でも、彼女はスター性はやっぱりありますね。こう言ってはなんだけど、木村カエラや吉田美和とはぜんぜんオーラが違う。女の子のファンが多い理由がよくわかった。

【QUEEN and Adam Labbert】
正直に告白するとこれを目的に来たにもかかわらず、あまり期待していなかった。気持ちが盛り上がらないまま、オープニングのSEが流れ始める。でも始まってみたら、まあ圧巻でしたね。いろんな思いが湧き上がってしまったので、別項目で詳しく書くつもりですが、とにかくこれまでのバンドとは格が違う。バラエティに富んだ名曲の数々、そして曲そのものが持つ普遍的な魅力。恐らく、初めて観た人も少なくなかったと思われるほぼ満席のスタジアムにいたオーディエンスは良い曲を持っていることの強みをまざまざと見せつけられたに違いない。アダム・ランバートも実際に見てみるとそれほど印象が悪くなく、随所にフレディへの尊敬が見られるところがうれしい。ブライアンのギターはまったく衰えはなくて、太くて迫力ある現役そのものの音。ロジャーは若い時のようなキレがないのは仕方ないとして2005年に観て落胆したときから衰えの加速はなく最低ラインは維持、健闘していたと思う。とても素晴らしいライヴだったんだけれど、"God Save The Queen"が終わる前に花火が上がってしまったのはちょっと早すぎ。クイーンのステージはこの曲まで含めてのものなのだからもうちょっと待ってもらいたかった。

というわけで今回、初めて行ってみたロックの夏フェス。前日からWOWOWの放送を見たりしながら俯瞰してみて思ったのは、行く前はあまり合点が行っていなかった多すぎて節操のないラインナップが実はフェスの持続するためのスタイルとしてできあがっているんだということ。心から見たいバンドがひとつあればいい。特に興味があるわけでもない初めて見るバンドも楽しもう、何よりもお祭り気分を味わおう、と思えるのなら多少高いチケット代も納得が行く。そしてそれに同意してくれる客がたくさんいたから、フジロックやサマソニは長続きしているんだと。まあ、フェス慣れしている人には今更のことにようやく気づいたというわけです。

古い話で恐縮ではあるけれど、89年の8月に有明コロシアムで Kirin Beer's New Gigs というフェスに行ったことがあって、この時もジェフ・ベックを目当てに行って、他のバンドを楽しめたし、ここでタワー・オブ・パワーに出会って後には大のお気に入りのバンドになったわけで、音楽フェスの楽しみはまさにその新しい音楽との出会いにあるといっても過言ではない。

さらに思い起こせば、ジャズを聴き始めたころに初回開催となった2002年の東京JAZZも夏の屋外フェスでとっても楽しめたし、それゆえに翌2003年にも行った。ウェイン・ショーターやハービー・ハンコックがお目当てだったんだけれど、当時まったく知らなかった人に多く出会えたのが楽しかった。オマーラ・ポルトゥオンドやユッスー・ンドゥールなんて、趣味の外の人たちだしその後聴いてないけれどステージが素晴らしかったことを今でも覚えている。ああいう大きな会場で見栄えがするジョシュア・レッドマンを初めて観たのも、テリ・リン・キャリントンといういい意味で女をまるで感じない凄いドラマーを発見したのもこのイベントだった。

ただ、今思い起こしてみると前者の Kirin Beer's New Gigs は、タワー・オブ・パワー以外は客層が被っていた(他出演者はバッド・イングリッシュ、スティーヴ・ルカサー・バンド)方だと思われ、もともとこの年限りの企画だったのかもしれないけれど、これ1回きりで終了。なんにしてもこの路線だけで毎年続けるのはたぶん難しい。

後者の東京ジャズは、実はいかにもというジャズ・ミュージシャンの出演者はそれほど多くなく、ヒップホップ系やワールドミュージック系、第3回くらいからは邦楽のポップス系の人まで出すようになり、ロック・フェスはうるさいだけで疲れるから嫌だけど、のんびりとお祭りは楽しみたいという人の受け皿となっていったようようで、今日でもまだしっかり続いている(今年はジャズ色が強いラインナップになっているのでまた路線が変わってきた?)。

どうやら多様な出演者とお祭り気分が味わえることが、フェスの長続きの秘訣ということのようらしい。あとは出演者の質をいかに高められるか、主催者の力が問われるという図式になっている。音楽が盛り上がるこの種のイベントは是非続いてほしいので、主催者の方々には今後もがんばっていただきたいものです。

さて、表題の「中年おじさんは夏フェスに耐えられるのか」という懸念は杞憂に終わりました。前述の通り、アリーナで見ることさえあきらめてしまえば終始日陰に座って観れるから。どの席にいてもトイレは遠くないし、野球のときに営業しているスタンド裏の売店も稼働、足を伸ばせばサマソニのための屋台も数多く出ているので、食べるものにも困らず、ほぼ快適に過ごせる。心配していた人混みも僕が予想していたほどではなかった。ただ、今回は猛暑というほどは暑くなかったし、適度な風にも恵まれたので夏らしい暑さがありつつも快適だったと思う。疲れなかったのは徒歩15分という地の利(短パンTシャツにサンダルという軽装で行けたのもそれ故)もあってのことではあるので、電車で遠路はるばるの方はそれなりの覚悟は必要かもしれません。

というわけで、ひさびさの夏フェスはやっぱり楽しかった。来年以降もラインナップによってはまた行きたくなるかもしれない。

「クロワッサンで朝食を」

クロ朝

中年女性の爽やかそうな雰囲気のカバーとなんとなくハッピーな感じの邦題に惹かれて観てみた。したがって予備知識はゼロ。

冒頭で紹介される原題は「パリのエストニア女」、ということで家政婦である主人公のアンヌ(ライネ・マギ)と主人であるフリーダ(ジャンヌ・モロー)が共にエストニア人であることからこのタイトルになっているらしい。ただし「女」は単数形とのことで、さてどちらを指しているのか、という想像の余地を残したもの。

映画冒頭はアンヌのエストニアでの生活が描かれている。母親の介護で2年、既に離婚したアル中の亭主が未だにつきまとう。外は深い雪。母が亡くなり、子どもたちも自立し、束縛から開放されたアンヌにかつて老人ホームで働いていた実績と、以前勉強していたおかげでフランス語を話せることを買われて家政婦として初めてパリに行くことになる。

世話を見るフリーダは、絵に書いたような金持ちわがまま老女で心の中は子供そのもの。朝は紅茶とクロワッサンでないと始まらない。アンヌに対しても遠慮なくわがままを言い続ける。

という話を淡々と素っ気なく見せる。まあ、説明的なところはほとんどなく、あくまでも日常を切り取ったかのように飾り気がない。全編、画面のトーンが白く、モノクロ映画でもいいんじゃないかというくらい色彩感がない。ハリウッド映画に慣れている人にはかなり退屈な映画だと言えるでしょう。

「ドライビング・ミス・デイジー」のフランス版という意見は、筋だけを見ればその通りかもしれないけれど、主人と使用人(運転手・家政婦)との距離感が全く違うし、「パリのエストニア女」は心を通わせていくようなエピソードも少なく、淡々としているので味わいがまったく違う。2人がどうして心を通わせるようになっていったのか、明確にわかる事件のようなものはなく、日々のお互いの言動の積み重ねがそうさせているという控えめなところを楽しめるかどうかでこの映画の評価は変わってくると思う。

正直なところ、僕も食い入るように見ていたわけではない。でもあとでひとつひとつのできごとを振り返るとじんわりと来る。

主演のライネ・マギという女優は実際にエストニア人とのことで、介護疲れが見える映画冒頭から若さはもう過去のものという雰囲気。華やかなパリを散歩することをささやかな楽しみにしたりしているところが田舎から出てきた少女のようでなんとなくかわいらしく、フリーダに影響されて少し洗練されて綺麗になっていくところもわざとらしくない範囲で表現されている。老いた感じから女性としての美しさ(それは若さゆえのものではなく内面から湧き出るもの)を取り戻していく様を表現できているところがこの映画の見どころのひとつ。

ジャンヌ・モローはジャズ・ファンなら特にお馴染み「死刑台のエレベーター」のあの人。まあ、見た目はすっかり変わっています。しかも凄いダミ声。撮影時84歳とのことなので当然ではありますがその老いをそのまま存在感に変えてしまっている。その存在感と、いけ好かないわがまま金持ち女(衣装は自前だったんだとか)の暴君っぷりは半端な女優では出せない雰囲気。

ちなみに、最後のシーンで2人がお互いに理解をしあった的な見方をしている方が多いようですが、大きな衝突こそ起きないものの、これからもこんなことを繰り返しながら2人(ステファンも入れて3人か)の関係が続いていくんだろうなあ、と僕は感じました。

ドラマチックでもなんでもない日常(でも実は御伽話的でもある)を描くフランス映画らしいフランス映画が見たい人に是非観ていただきたいでところ。フリーダが住む家の家具、カーテン、壁などのインテリアの趣味の良さや、日常的なパリの雰囲気を味わえたり、フランス文化が好きな人ならたまらない目の保養付き。

あ~、またパリに行きたくなっちゃったな。

オファリング(魂の奉納)ライヴ・アット・テンプル大学 / ジョン・コルトレーン

Offering

Offering: Live At Temple University / John Coltrane

[Recording Date]
1966/11/11

Disc 1
[1] Naima
[2] Crescent

Disc 2
[3] Leo
[4] Offering
[5] My Favorite Things

John Coltrane (ts, ss, fl, vo)
Pharoah Sanders (ts, piccolo)
Alice Coltrane (p)
Sonny Johnson (b)
Rashid Ali (ds)
Algie Dewitt (bata drum)

Additional musicians:
Arnold Joyner (as [2])
Steve Knoblauch (as [5])
Umar Ali (per)
Robert Kenyatta (per)
Chales Browwn (per)

久しぶりにオフィシャルもの新音源発掘で、躍動感溢れるカッコいいジャケットと燦然と輝くインパルスのロゴに期待を抱かずにはいられない。

この音源じたいはラジオ放送を前提に録音され、実際にオンエアされているため、ブートレグでは有名で熱心なファンなら [1] [2] [3] は既に聴いたことがあるかもしれない。[1] は5分強のコルトレーンのソロが終わったあとにラジオ中継ならではのアナウンスが入ることでも有名な音源でもある。

それがなぜ今頃になってオフィシャル・リリースされたかという経緯は、初回プレスのみに同封されているブックレットに藤岡靖洋氏の解説によって詳しく書かれている。このブックレットは、英文の翻訳もついていて(しかも藤岡氏による原文間違い注釈付き)、この日行われた大学でのコンサートに至る経緯とその日の空気を詳しく知ることができる濃密なもの。藤岡氏は精神性云々の話になるとコルトレーンをとかく神格化させようという意識に囚われ、その強すぎる主観が事実を歪めていると思われるフシがあって疑問を感じるところもあるんだけれど、こういうドキュメント系の取材の熱心さは格別でここではそれが良い成果として結実している。

その音源発見の経緯は偶然であったことが書かれている。藤岡氏は各国でコルトレーンの講義を行っていてその締めとして冗談半分で「ところで、誰かコルトレーンの録音テープを持っていませんか」と聴衆に訊くのがどうやらお約束になっているらしく(そう書かれているわけではないがそう読める)、テンプル大学での講演後にもそれをやったら「僕、持っています」と当時、大学でこのコンサート放送のデレクター的立場だった人が手を上げた、ということらしい。よって、この音源はエアチェックがソースの従来のブートレグとは異なり、マスターテープからの商品化ということを謳っている。

また、この日の音源にはいくつかの特徴がある。

【1】いつもと違うメンバー
まず、ジミー・ギャリソンに代わってソニー・ジョンソンなる人物がベースを担当。Additionalでクレジットされている2人のアルト・サックス奏者、3人のパーカッションには聞き慣れない名前が並んでいる。アルトの2人は当地の大学生2名が半ば飛び入り的に参加、3名のパーカッション奏者は地元でジャムセッションしていたメンバーでそこにコルトレーンが定期的に顔を出すようになったことからの参加だったとのこと。

【2】癖のある録音バランス
音質は良好ながら、いわゆる大学関係者による、言い換えると素人による録音とあってマイクセッティングなどはこなれていなかったようで、サックスの音だけが明瞭に捉えられている。ピアノは遠目でソロになるとまあ聴こえるという及第点、ドラムは聴こえるが何人もいたはずのパーカッションは、たくさん鳴っていそうだということが分かる程度、ベースに至っては [5] 冒頭のソロ部分以外がほとんど聴き取れないというものになっている(実際に弾いていなかったとしてもおかしくないくらい聴こえない)。

【3】コルトレーンの雄叫び
後期コルトレーンのサックスは雄叫びと比喩されることも少なくないけれど、ここでは [3] [5] で声による本物の雄叫びを聴くことができる。「A Love Supreme」や「OM」のようなチャントではなく、また歌というよりは民族音楽的な雄叫びのようなものであり、演奏に気分が高揚してこうなったのか、計画されたものなのかは不明。

特に【2】の録音バランスは個人的にはかなりの減点材料で、コルトレーンの吠えるサックスさえ聴こえていれば成立するのではないかと思いがちな晩年のコルトレーン・グループにおいても、ベースが聴こえないとバンドとしての音楽カオスが滲み出てこないことを実感する。

オフィシャル化にあたって期待したかったのは、音質の更なる向上とバランスの改善、そして今回初出の [4] [5] の出来栄え。

音質はしかし、僕の所有しているセミ・オフィシャル音源からあまり向上しておらず、音量バランスは残念ながらそのままだった。これは資料としてマスターテープの状態を尊重したのかもしれないけれど、現代の技術をもってすれば少しはなんとかなったんじゃないかという気持ちは残る。

尚、藤岡氏はこのCDはマスターテープそのものを発見したことを歴史的発見として扱っているのに、[1] のラジオ放送用アナウンス部分は編集でカットされたと書いている。本当のマスターテープならアナウンスは入っていないのでは?つまり、あくまでもラジオ放送に使ったテープが発見されたというのが事実と思われ、ここでも事を必要以上に大げさに報じて事実をねじ曲げる性癖が顔を覗かせているように思える。あれだけ取材を緻密に行う氏がどの状態のテープが保管されていて、このCDでどのように使用したのかについて詳しく言及していないのも不思議だ。

(話を戻して)新発見となった [4] [5] は他の日の音源とくらべて特別な凄さがあるわけでなく、他の曲同様に癖のあるあ音量バランスのまま(当然か)。全体に、参加させたゲストのレベルの低さ(特にアルトはプロフェッショナルなレベルとは言い難い)などを鑑みると、繰り返しの鑑賞に耐えるというよりは資料的価値の高い音源と言える。

というわけで、鑑賞するための音楽を求めている僕にとってはその期待通りとはいかなかった発掘音源でした。コルトレーンを堪能するなら他に良い音源が沢山あるのでくれぐれも初心者は手を出さないように注意していただきたいところです。

とはいえ、既にある程度出尽くしているコルトレーン音源なだけに、公式にリリースされたことはひとつの事件に近いものであるということに間違いはない。

クラシック・ファンにお勧め-ニューヨーク・フィルのWebサイト

Gilbert-NYP

ロリン・マゼールが亡くなったのを機に、Twitterなどでは多くのコメントが飛び交っていて、その中で、かつて音楽監督を務めたニューヨーク・フィルのWebサイトでいくつかの音源を聴くことができるという情報があった。

試しに覗いてみると、なるほど確かにかなり沢山の音源がある。しかもプログラムも悪くない。マーラーの9番、ブルックナーの8番、ショスタコーヴィチの5番、サン=サーンスの3番、モーツァルトの38番、シベリウスの2番(2つ)をはじめ、リヒャルト・シュトラウス、ドビュッシー、などがある(2014年8月2日現在)。有料のコンテンツもあるけれど、これらはすべて無料で聴くことができてしまう。もちろん会員登録などの面倒な手続きも要らない。

http://nyphil.org/watch-listen/audio/listen?filter=concerts

PCをUCB-DACに接続してオーディオで聴いてみると、音質も素晴らしく、じっくり鑑賞する目的で聴いてもなんの不足も感じないクオリティで提供されていることに思わず頬が緩んでしまう。

昨今はレベルが落ちたなんて言われるニューヨーク・フィル、ここ数年のこれらの演奏を聴いている限りまったくそうは思わなかった。むしろ上手い。特に金管はいかにもアメリカのオケらしい華やかさと迫力があって流石だなあと思わせてくれるくらい素晴らしい。

このサイトにはもちろん、現音楽監督であるアラン・ギルバート指揮の音源も多くあり、他にも客演指揮者の音源、協奏曲の音源などが惜しげもなく公開されている。

思わぬところで無料で聴ける良い音源を見つけ、せっかくなので聴きながら録音させてもらって、せっせとライブラリに加えている。ライヴ録音をそのまま公開していると思われ、咳払いなどのノイズももそのまま記録されてしまっているし、あれれというところ拍手が入ったりもする(チャイコフスキー悲愴の第3楽章の後や、マーラー復活の第1楽章15分あたりの盛り上がりの後など)。日本のコンサートでも変なところで拍手をする人を揶揄する意見を見受けるけれど、どうやらニューヨークのオーディエンスはもっと緩い感じなんだな、ということもわかって面白い。無料で寛大な運用は一方でサイト管理も緩いようで誤植や、クリックしても再生できない曲もあったりするのが玉に瑕だけれど、そこはまあオーディエンス同様にご愛嬌。

それにしてもこれはかなりの太っ腹な戦略と言えるんじゃないだろうか。

例えば、他のメジャー・オーケストラだとベルリン・フィルのデジタル・コンサート・ホールやロイヤル・コンセルトヘボウの rco-live.com などが有名だけれども、基本的には有料で、サイトで収益を上げることを目指して作られている。要は売れなくなったCDやコンサート以外の新たな収益源を求めたものという狙いが明確だ。

もちろん、ニューヨーク・フィルのサイトにも有料コンテンツはあって、Downloads and CDs のところを見れば購入することができるんだけれども、Amazon のサイトに移るなど、サイトそのものにお金が入る仕組みをはじめから目指していないように見える。

ネットで稼ぐカタチを作るのは、形式だけであれば今やまったく難しくないことではあるものの、有料コンテンツのみで収益を上げるとなるとそのコンテンツに大きな魅力がないとうまくいかないであろうことは誰の目にも明らかで、ベルリン・フィルやロイヤル・コンセルトヘボウくらいになるとオケそのものの価値が既に認知されていて、指揮者もそれに応じたレベルの人が付くからこそ、有料であっても成り立つんでしょう。

それがニューヨーク・フィルだといささか怪しい、そう思ってここまでの大公開に踏み切ったんじゃないかと思う。いや、ニューヨーク・フィルだってヨーロッパのオケほどじゃないにしても歴史と伝統と実績があるオケであることを思うと、クラシックの世界のブランド志向は世界的な偏りを示していることを感じてしまう。金聖響氏が、大指揮者と有名オケばかりが評価されていることを嘆いていたのは、自分が世界で認められていないというやっかみも入っているだろうとは思うんだけれど、欧州有名一流オケ以外の運用の厳しさを見ているとあながち的外れだとは思えない。

だって、ニューヨーク・フィルのサイトで公開されている演奏は本当に素晴らしいんですから。欧州一流オケとの差は紙一重だし(その紙一重の違いが大きいという意見は否定しないけれど)、金管の剛直さなどはアメリカのオケにしかない味わいがある。

クラシック歴の浅い僕は、どうしても最初は歴史的な名盤や有名指揮者、有名オケを中心に聴いてきたので、アラン・ギルバートとニューヨーク・フィルの音源は一切聴いたことがなかった。過去の名盤・名録音が箱で安価に買える(近年録音のものは高い)という市場要因もあって、興味があってもそこまで手が回らない。でも、このサイトで聴いてみたら実に良いではないですか。年初の日本公演に行かなかったことを少し後悔しているくらい、良い演奏を聴かせてくれている。そうやってファンを発掘させる役割を担ってくれれば良いという狙いでサイト運用をしているのであれば、その狙いを達成できるものを提供していると思う。

付け加えるならば選曲もなかなか面白いものが少なくない。バルトークのピアノ協奏曲など、CDではなかなか手が伸びないようなややマイナーな曲は聴く機会が少ないので嬉しいところ。海外オケの日本公演だと集客重視でまず演奏されないであろう曲が聴けるのもありがたい。まあこれはBSなどで観ることができる海外オケの地元公演全体に言えることだけれども。

というわけで、ブランド志向でない良い意味でのニュートラルさを持ったクラシック・ファンには本当にこのニューヨーク・フィルのサイトはお勧めです。PCオーディオの環境がある人は自身のオーディオにつないで思う存分楽しみましょう。

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