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Enjoy Life, Enjoy Hobby

趣味の人生を楽しむサラリーマンの日記

Led Zeppelin のリマスター

Zep1
Zep2
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レコードの時代にCDが登場したとき、その音質はオーディオに関心がない人ですら明確に向上を実感できるほどの次元の違う音がした。僕が最初に買ったCDは、インエクセス(Inxs)の「リッスン・ライク・シーヴス(Listen Like Thieves)」というアルバムで、このアルバムの始まり「ドドン、パパン、バシーン」というドラムの音を聴いて、そのあまりにもクリアで歪のない音に僕は思わず「うわっ」と声を上げてしまったほどだった(大げさじゃなくて本当に)。

そして旧譜のCDの化が次々に進み、主要なものがあらかたCDで聴けるようになると、今度はリマスターなる一般人には聞き慣れない言葉が出てきた。

マスタリングとはWikiによると、「録音による音楽作品制作において、ミキシングして作られた2トラック音源(トラックダウン音源、または2chミックス音源)を、イコライザーとコンプレッサー、その他のオーディオ・エフェクト機器を用いて加工し、CDやDVDやBD、インターネット上の投稿サイトといった最終的なメディアに書き出すために、音量や音質、音圧を調整すること」となっている。

そのリマスタリングの効果を、ロック・リスナーに示したのが90年のレッド・ツェッペリンのボックス・セット。この音源はすべてジミー・ペイジの手によってリマスタリングされたもので、ほどなく、全スタジオ・アルバムと、それらには未収録だったスタジオ録音の数曲とで合わせて「Complete Studio Recordings」というセットになって発売された。ペイジは、これ以上スタジオ録音はもう残っていないと当時のインタビューで発言しており、それに背中を押されて箱買いを決意した記憶がある。

それまで所有していたCDとは次元が違う明瞭かつクリアな音像に圧倒され、「そうか、これがマスターテープに収録されていた音だったのか」と感激させられるほどで、音楽のダイナミクスまでに影響を及ぼした音質向上はそれまでのレコードやCDで聴き続けてきた僕を喜ばせた。その向上ぶりは、レコードからCDに変わったときと同じくらい衝撃的なものだったといっても過言ではなかったと思う。

その後、イエス、キング・クリムゾン、ホワイトスネイクなどでも同様のリマスター効果を味わい、初期に購入したCDはその価値を失っていった。つまり、もともとのマスターテープをCD化するためのマスタリングにはそれだけのノウハウが必要であり、CD黎明期はまだポテンシャルを発揮できていなかったということになる。

そして、人気ミュージシャンやグループ、人気盤・名盤のマスタリングはひと通り済んで、最近では二巡目、三巡目のリマスタリングが進行しつつある。

ツェッペリンも90年のあとは2007年に「Mothership」というベスト盤で2度めのリマスタリングが施された。ただし、僕は未聴。ネットの評価では現代的なクッキリした解像感をもった仕上がりらしい。

そして2014年に3度めのリマスターがペイジの手によって施され、とりあえず手元に届いた「I」~「III」を聴いてみた。

まず「I」。1曲め最初の「ダーダッ!」だけで音場感が全く違うことがわかる。イヤホンで聴くとより広い音場感がある。左右の音の振り方も逆になっていて「そこまでイジるか?」と疑問に思っていたら、米Amaozonのレビューによるとこれが本来の音配置らしい。

表に出ている目立つ音は、94年リマスターとそれほどの違いを感じない。ただ、ヴォーカルの裏で流れているペイジのバッキングはより明瞭に聴こえるようになった。低音域も大きな変動はないものの、ローエンドまでしっかり伸びている。

「II」は、左右のチャンネル変更や、音場感の違いはほとんどなく、明瞭さとローエンドの伸びという点が「I」と同様に向上している。ただし、曲によって効果の出方が結構違っていて94年リマスターとの違いをほとんど感じられない曲もある。

「III」も「II」と似た傾向のブラッシュアップで、曲によっては会話部分など効果音系がよりクリアに聴こえるようになっていたりしている。

総じて、リマスターの効果はある。ただし、その向上幅はそれほど大きくない。最近のリマスタリングやハイレゾ音源のトレンドと同様に、カドが立ったクッキリ感よりもレコードに近い柔らかさを目指してリマスタリングされているようだ。これは「Beck Bogert Appice Live!」の40周年盤でも似たような感じだったし、クラシックでもクライバー・ボックスのリマスター盤が同じ傾向に仕上がっている。

劇的な音質向上というところには至っていないものの、音質を真摯に磨き上げたものと言えると思う。まあ、今後もツェッペリンのカタログを売り続けるためには陳腐化させるわけにはいかないというビジネス面での必要性があるとはいえ、最善の施しをしたものを聴いてもらいたいというペイジの思いを感じる仕上がりであると受け止めたい。

尚、それぞれのボーナス・ディスクはそれほどの価値は感じない。「I」のライヴ音源は、これまでに蔵出ししてきたものと比べると音が良くないし、演奏もそれほどでもない。「II」「III」のいわゆるアウトテイク集は、「まあ、こんなのが残っていたんだね」という、ヴォーカル違い、演奏違い程度のものがメインで、単なるカラオケ・バージョンのトラックもある。クイーンのリマスター時のボーナス・ディスクに近いレベルで、マニアが色めき立つような新発見は少ない。微妙に違うだけのバージョンは、エフェクト類がほとんどかかっていないものが多いので演奏を生々しく聴けるという面白みがあるとはいえ、完成度が低いものを何度も繰り返して聴く人はほとんどいないと思う。

初登場曲として、注目されるのは「II」の"La La"、「III」の"Jenning Farm Blues" "Keys To The Highway/Trouble In Mind"。"La La"は軽快なインストで確かにこの3人による演奏ではあるものの、ザ・フー(The Who)のような雰囲気であまりツェッペリンらしくないし、曲としてはお遊びの延長という感じは否めない。"Jenning Farm Blues" は、"Bron-Yr-Aur Stomp" のハードロック・バージョンのヴォーカルなし。仕上がりもアレンジも平凡で特筆するようなものくオリジナルのカッコよさが却って際立ってしまう。"Keys To The Highway/Trouble In Mind"はアコギ1本のコテコテのブルースで悪くはないけれどジャムの延長という感じで特筆するほどのものではない。どれもこれも、初めて聴くツェッペリンの曲ということで新鮮味はあるけれど、繰り返して聴くほどの完成度や深みがあるわけではない。

つまりアウトテイクを含め、完成品の域に至っていないものを蔵出しした、というのが真相のようだ。90年リマスター時のボックスのタイトルが「Complete Studio Recordings」となっていたのはマスタートラックとして完成したものはすべて公開したという意味で、残りのスタジオ録音音源はもうないと言っていたペイジの発言は嘘ではなかったということになる。あとは未完成品でも聴きたいというマニアの皆さん、どうぞ、という主旨で手リリースされたのがこのボーナスCDで、 Companion Disc と名付けているのも未完成品集や素材集であるというニュアンスを含んでいるからなんでしょう。

ただし・・・"Since I've Been Loving You"の別テイクは演奏もヴォーカルも従来のものとはまったく違うしライヴ・バージョンとも違っていて個人的には楽しめた。完成度は本テイクよりも落ちるのは明らかとはいえ、より荒々しい仕上がりの白人的ドロドロなブルースを別の味わいで楽しめるのは嬉しい。

それにしても、こうして久しぶりに初期3作に正面向き合って聴いてみると、ツェッペリンの音楽がまったく古臭くなっていないことに改めて驚いてしまう。ハードロックにまったく関心がない妻ですら「カッコいい」というくらいだからやはり普遍的な魅力に満ち溢れているんだと思う。

熱心なファンでも、長く聴いてきている人なら日常的に高い頻度で聴いていない人は実は多くないんじゃないかと思う。そしてこういうリイシューの一番の効用は、固定ファンにもう一度振り向かせるところにあるんじゃないかという気がする。そして、何度聴いても良いものは良いということを再認識するためにリマスター盤を買うことは決して無駄ではないんじゃないかと思う。

カルロス・クライバーのボックス・セット「Complete Orchestral Recordings on Deutsche Gramophone」

クライバーボックス

音楽を、特にロックを長く聴いてきただけにいわゆるリマスター盤CDが発売されると「しょうがないなあ、まったく」なんて毒づきながら何度か買い替えている。音が良くなっただのなんだので一喜一憂するのもいかがなものかなんて思いつつも聴き慣れたCDの音質が向上するのは嬉しいもので結局は喜んでしまっているだけれど。

クラシックのCDはここ2年弱くらいで買い揃えたものばかりなので、既にリマスターされたものがほとんどと思われ、これまでに買い直しをしたことはない。でも、このクライバーのボックスはちょっとスルーできなかった。

クライバーは最初に聴いたときから気に入り、今も好きなの指揮者の一人で、録音が少ないことも手伝ってオペラ以外のものはすぐに全部入手してしまった。だからすべて持っている音源ばかりなんだけれど、どの演奏も素晴らしいので、より良い音質で聴けるのならきっと後悔しないだろうと思っての購入。

そのリマスター、CDで聴き比べる限り手持ちのCDと大きな違いは感じない。というかほとんど変わらないと思う。だから音にこだわりがよほど強くない人でなければこのボックスのCD音源はお勧めしない。それでもよく聴けば確かに違っている。昨今のリマスターのトレンドは、第一次リマスター期(と勝手に呼ぶ)のトレンドであったクッキリしたクリアな音像とは違って柔らかみと細部のより明瞭な再現を狙っているのは他の音源から見て取れるんだけれど、このクライバー・ボックスも同じ傾向で、じっくり聴き比べると従来盤の音はややシャープ過ぎて艶やかさに駆けるように感じる。ウィーンフィルの芳醇な弦をとことん味わうのであれば、このCDは決して無駄ではないと思う。

目玉であるブルーレイ・オーディオは、最初にお断りしておくと僕のハイレゾ観(http://buhaina.blog.fc2.com/blog-entry-101.htmlで記載)の通り劇的と言えるほど音が向上しているわけではない。でもリマスター盤CDの傾向がより強く出ていて美音の観点ではやはりCDを上回っている。また、マルチチャンネル化は従来(SACD)からあったベートーヴェンだけでなく、シューベルトとブラームスまでカバーしていて、最上の音質をサラウンドで聴けるのは非常に喜ばしい。

総じてクライバー・ファンなら満足できるパッケージと言えるでしょう。

ちなみに僕はすごく気に入ったCDはあまり聴かない。繰り返して聴いて飽きてしまうのが怖くて聴かない。本を好きな人が、面白い本に出会うと読み終わってしまうのが嫌で途中で止めたくなるのと似た心理で、あまり日常品として消費したくないと思ってしまう。だから、実はクライバーのCDはそれほど聴き込んでいなくて、よし、今日は聴くぞ、と気合を入れるときにだけ聴いている。

今回、こうやってしっかりとオーディオに正対して通して聴いていると音質じゃなくて結局はクライバーの生気漲る溌剌とした演奏に圧倒されてしまう。素晴らしい。言葉にならない。

やっぱり主役は音楽ですねえ。

レナード・スラットキン指揮リヨン国立管弦楽団 2014年日本公演

リヨン2014

2014年7月19日
東京芸術劇場
【演目】
ラヴェル マ・メール・ロワ
ラヴェル ピアノ協奏曲(小菅優)
[アンコール] ショパン 練習曲 op.25-1
サン=サーンス 交響曲第3番「オルガン付き」(オルガン:石丸由佳)
[アンコール] フォーレ パヴァーヌ、オッフェンバック 天国と地獄

名の知れた海外一流オーケストラを聴きに行くのはとても楽しいものだけれど、そこまではいかなくとも満足できる演奏というのも少なくないのではないか、ということはラ・フォル・ジュルネでの経験からなんとなく思っていた。

また、コンサートに何度か通っていると曲選びの方もどうしても王道ドイツ系中心になってしまうので、フランスものを味わいたくなったということもあってこのコンサートを選んでみた。まあ、正直なところ知名度が高い指揮者やオケと比べるとチケット代がお安いということもあって気軽に行けるというのも大きな理由ではありましたが。

あと実は興味をそそっていたのは、東京芸術劇場には本物のオルガンがある、ということだった。サン=サーンスのオルガン付きは、かつてラ・フォル・ジュルネ(国際フォーラムAホール)の読響で聴いたことがあるんだけれど、当然電子オルガンでの演奏、そのときの演奏も全体的に印象があまり良くなかったので改めてフランスのオケと本物のオルガンの響きを味わいたかったというのも動機になっていた。

初の東京芸術劇場は、3階席から見下ろすと横がやや狭い感じがするものの雰囲気は悪くない印象で、やはり正面にドカンとオルガンがそびえ立つところが目立つ。

1曲めの「マ・メール・ロワ」は、基本的に静かな曲で眠るのにはもってこいの曲なので少し警戒して臨むも、弦は美しく音色はリッチ、木管は芳醇かつ明瞭で、それほど大きな音を出す場面がない金管がまた安定感抜群の上手さ(特にホルン)。強い音をガンガンと出す曲でなくとも色彩を感じさせる響きが心地よく、聴き入ってしまう。

2曲めの「ピアノ協奏曲」は、オケの編成が小さいもののラヴェルらしい明るい色彩感に富み、よりオケが自由に鳴り響いていかにもフランスと思わせる音。オーケストラの実力は国内オーケストラでは出せない響きでチケット代を思うとかなり得した気分になれる。中国風(ネットではゼッケンという評も)の衣装を纏う小菅優の実力は、例によってソリストの判断基準を持ち合わせていない僕にはわからなかったけれど、彼女はピアノに向かっているときの雰囲気に良い意味で女らしさが出ていなくて堂々としたところは好感を持った。

休憩後にはメインのサン=サーンス、オルガン付き。編成は一気に大型化し、管楽器の増員が目につく。後期ロマン派の曲らしくダイナミックにオケが響いて気分を高揚させる。スラットキンはスマートな棒さばきで、テンポは中庸、変なアクセントの付け方をしたり、勢いに任せた演奏はしないんだけれど、オケが有機的に、時に力強く、時に美しくと表現が豊か。高度なドイツオケのように軍隊調の統制ではなく良い意味の緩さがあるところはフランスのオケらしいといったところなのかもしれない。

期待していたオルガンは、地響きのような重低音と厚みのある中域の音を体で感じられるスケールの大きな音で、初めて体験する本物のサウンドは期待どおりの迫力。オケと一体となったときのクライマックスはなかなか感動的で胸がいっぱいになってしまった。

会場の違いとオルガンの違いで、以前の読響と比べるのはフェアではないことは承知の上で言わせてもらうなら、別の曲のように素晴らしく、この曲はこんなにいい曲だったのかと認識を改めることになるほどだった。

まだクラシックのコンサートに行き始めて1年強、同じ曲を違うオケで聴き比べたのは実は初めてのこと。いやはや違うもんだなあと思い知らされることになった。読響で聴いたときには「う~ん、この曲そんなに好きじゃなかったかも」なんて思ったのに今ではすっかり名曲の仲間入り。

金聖響氏が「聴いて良い曲だと思えなかったとしたら、それは演奏が良くなかったということ」という意味のことを言っていて、そんなことないでしょう、と思っていたんだけれど、そういうことかと納得できるようになってしまった。

アンコールの「天国と地獄」では、指揮者が台から降りて観客に手拍子を煽る演出で陽気に終了。テンポが早いから観客の手拍子が走り気味で合ってませんでしたが、それもまた楽しいもの。

さて好意的に書いてきたこのコンサート、もちろん、コンセルトヘボウやミュンヘン・フィルのときのように数日夢心地でいられるというところまではいっていない。その差は何かというと答えはちょっとわからない。たぶん、ほんの少しの差でしかないんじゃないかと思う。世界最高レベルの指揮者とオケはその「ほんの少しの何か」をきっと持っているでしょう。

それでもあえて言いたい。掛け値なしのいいコンサートでした。ネームバリューがなくてもこんなに素晴らしい音楽が聴けるということを教えてくれたスラットキン&リヨン管弦楽団に心から感謝したい。

ロリン・マゼール逝く

マゼールブル3

今朝、起きてからFacebookを覗いてみたらロリン・マゼールが亡くなっていた。

5月にボストン交響楽団とのマーラー交響曲第5番を観に行く予定で、しかしキャンセルになってしまったので、デュトワに失礼とは思いつつ払い戻していた。その後、PMFでの来日もキャンセル、ベルリン・フィルでの定期もキャンセル、ミュンヘン・フィル任期を残しての離任と直近では悪いニュースばかりで心配していたんだけれど、もうその時が来てしまった。

クラシックを自分の意思で聴き始め、最初に行ったコンサートが昨年4月のミュンヘン・フィルとのコンサートで、しかし、当時の僕は誰でもいいから海外のある程度実力のあるオケを聴いてみたいというだけの理由でチケットを買っていた。

プログラムもベートーヴェンの日の方がいいと思っていて、でもチケットがもう売り切れていたのでワーグナーとブルックナーの日にしていた、というくらいのテキトーさだった。

そこそこの予習をして行ったそのコンサート、しかし当時はそれほど曲の良さがわかっていたとは言えない状況で、当初の「とりあえず海外オケでコンサートを」という程度のノリだということは会場入りしたときもまだ変わっていなかった。

しかし、そこで聴いた音楽は、僕の音楽人生の中でも指折りの感動的な体験だったと言える。

生のオケってこんなに凄いのか。
金管楽器ってこんなに凄いのか。
ブルックナーの音楽ってこんなに凄いのか。

それまでもただ単に生楽器の音を楽しむ感覚で妻と数回コンサートには行っていたので単に生オケの音に感動していたわけではない。そのときサントリーホールで聴いた音は次元が違っていて「これが本場、本物のオーケストラなのか」と「こんな音楽体験がこの世にあるのか」という感動で一杯になってしまった。こういっては何だけれども、後で思うとあの演奏であのチケット代も安かったと思う。

それから、更にクラシックを本気で聴くようになり、それまで義理で聴いていたブルックナーの良さもわかるようになっていった。

つまり、クラシックの本当の面白さを最初に僕に教えてくれたのがマゼールだった。

この人が稀に見る天才の音楽家であることは経歴を見れば間違いない。一方で、ベルリン・フィルでカラヤンの後任になれなかった件を含め、何かこう主流中の主流にはなりきれなかった人でもあるように思う。音楽も独自の解釈と恣意的な表現があって好き嫌いが別れるところ。実直とか誠実というキーワードをこの人に当てはめる人は皆無で、むしろ「俺様」的なところが定着していてイメージもあまり良くないようだ。

でも、僕の音楽人生に大きな影響を与えた人という意味では5本の指に入るくらいの人である。

出会えたことに感謝するとともに、それからわずか1年と少ししか同じ時代を過ごせなかったことが惜しまれる。でも、その7ヶ月前のミュンヘン・フィルとの録音(写真)が残されていたのは幸運だったとしか言いようがない。このCDを聴くたびに僕はこの日のことを思い出すことができるのだから。

R.I.P.

QUEEN-広い間口と奥の深さ

Queen

僕は小さいときから音楽が大好きだったらしい。

幼少の頃、ピンキーとキラーズの"恋の季節"がテレビで流れるとかじりついて聴いた挙句、終わると「もっとやれー」と暴れたという。もちろん記憶にないけれど、暴れすぎて家具の角に額をぶつけて大怪我をし、その傷跡が今でも額に残っているのでたぶん本当のことだ。

10代になってからもテレビの歌番組はよく見ていて、でも不思議とアイドル系はあまり夢中にならず、フォークやニューミュージック(死語!)を聴いていた。たぶん、音楽で勝負しようとしている人とそうでない人を無意識で嗅ぎ分けていたんだと思う。好きな曲を連続でヒットさせていた八神純子のベスト盤を、小学生のときに500円玉貯金で買ったことを今でもよく覚えている。

時代が時代だったのでアリスなんてよく聴いたし、雅夢(今となっては一発屋呼ばわりのロマンチックフォークですな)やオフコースなんていう女の子が好むようなものが好きになったりしていた。まあ、愛知の田舎の中学校だったので視界はそこまでしかひらけていなかったということ。

中学3年生のときに千葉県の浦安に転校してきたら男子はみんな海外のハードロックばかり聴いていた。え、英語の歌?っていうだけでハイカラと思っていた田舎者には相当なカルチャー・ショック。そんな環境に置かれ、キッス(Kiss)、レインボー(Rainbow)、アイアン・メイデン(Iron Maiden)、サクソン(Saxon)、スコーピオンズ(Scorpions)などを勧められ、ただウルサイだけと思っていた歪んだギターのロックにも良さがあるんだと思えるように徐々になっていった。

その中で出会ったのがクイーン(Queen)。そう英国の4人組で今や日本でも知らない人がいないくらい有名なあのバンドのこと。

時は82年、世間では大失敗作と言われている「ホット・スペース(Hot Space)」こそが最初に聴いたアルバムで、しかしすぐにその魅力に取り憑かれてしまった。心から好きになる音楽というのは最初に聴いただけで心を鷲掴みにされるものということを経験上知っているけれど、クイーンとの出会いはまさにそういう「ビビッ」と来るものだった。独特な声質でパワフルに歌うヴォーカル、厚みと温もりを備えたカラフルな音色を持つギター、そしてビシッと決まるカッコいいコーラスは、それまでに聴いたどのロック、いやどんな音楽とも違っていた。そして初めて買った洋楽のレコードが「Greatest Hits」で、1曲めの"Bohemian Rhapsody"でそれまに体験したことのないような衝撃を受ける。音楽を聴いて背筋がゾクゾクして鳥肌が立つという経験は、この曲が初めてのことだった。

後でわかったことだけれども、クイーンは70年代に日本で最初にブレイクし、当初はアイドル的な人気を博していたものの、この82年あたりから日本では人気が下降し始めていた。僕の周囲でも熱心に聴いている人はいなかったし、それ以降、キムタクのドラマや宇多田ヒカルが採り上げるまで、クイーンのことを話題にする人は日本ではほとんど居ないという時期が続いていた。

最初に買った「Greatest Hits」は、それこそ毎日聴いた。学校から帰ってからの日課だったといっても過言ではない。レコードが擦り切れて音が悪化しているのがわかるくらい聴いた。人気が下降線を描きはじめた時期だったとはいえ、出会ったばかりの僕には関係ない。毎日聴いても飽きず、聴けば聴くほど新しい発見があった。

クイーンの音楽にはヘヴィメタル系グループとは違って親しみやすくハッキリとしたメロディがあった。これ見よがしのギター・ソロよりも曲を効果的に盛り上げるメロディアスで華やかなギターがあった。日本の音楽にはない分厚いコーラスがあった。アメリカのグループのようなアッケラカンとしたサウンドではなく、英国らしい湿り気と憂いもあった。そして何よりも曲の幅が他のどんなグループよりも圧倒的に広かった。

それから、他のロック・グループももちろん沢山聴いて、魅力的なバンドにも数多く出会った。レッド・ツェッペリン(Led Zeppelin)、ディープ・パープル(Deep Purple)、フリー(Free)、イエス(Yes)、キング・クリムゾン(King Crimson)などなど。おおまかに言って、より演奏力や表現力に比重が置かれた英国ロック・グループたちであり、男臭いところにがまた魅力的に思えた。

それらを聴いてもクイーンの魅力が色褪せることはまったくなかった。もちろん他のバンドの方が優れているところも沢山ある。ぶっちゃけ演奏技術だけで言えばクイーンはそれほどレベルが高いわけではない。でもクイーンの音楽はクイーンでなければ出せない稀に見る個性があり、聴きやすいのに単純ではなく、アクも持ち合わせている。勿体ぶった複雑な曲があればシンプル極まりない曲もあり、それでいながら聴けば一発でクイーンとわかってしまう。

馴染みやすいと思っていた彼らの音楽は、しかしそういう強烈な個性も備えており、他のバンドを聴けば聴くほどその偉大さを思い知ることになっていく。こうやってハマっていったのは僕が高校から大学生の時代(83~90年)で、当時日本ではすっかり忘れられた過去のバンド扱いだったんだけれど、周囲にこの楽しみを共有出来る人が皆無の状態であっても自分の中ではもっとも偉大なグループに君臨し、その座は揺るぎないところまで来ていた。

僕は、好きなアーティストの音楽を真に理解するためには、他の音楽も幅広く聴かなければならないと考えているんだけれど、そういう教訓はこのクイーンとの出会いと、その後に接した多くの音楽の体験から得たものだ。

広げる幅はロックだけに留まらない。タワー・オブ・パワー、スティーヴィー・ワンダー、プリンスなどのR&Bやファンク系の魅力を理解できるようになると、クイーンがそういう要素も巧みに自分たち流に消化していたこともわかってくる。そうした黒人音楽からは更にジミ・ヘンドリックスにもつながり、デビュー当時にフレディ、ブライアン、ロジャーがフェイバリット・アーティストにジミの名前を挙げていた通り、クイーンにもつながってくる。

リズムの重要性がわかってくると、クイーンの持っているリズム感が決して正確で強力というわけではないものの、独特のリズム感があって、ジョン・ディーコンの柔軟なベースが実に上手いこともわかるようになってくる。このジョンのベースとロジャーのある意味いい加減なドラムとのコンビネーションは独自のノリを生み出し、それを土台にギターとピアノが音を彩ることで他のバンドにはない味となっている。

音楽を聴く耳がより柔軟になり、貪欲に新たな音楽の楽しみを求めるようになると、演奏に聴きどころがあるプログレから発展してジャズにも目線が行くようになる。モダン・ジャズを中心に聴いて、マイルス・デイヴィスやジョン・コルトレーンといった強烈な個性を持った音楽の奥深さまで楽しめるようになっていった。そこはクイーンからはだいぶ離れた世界ではあったけれど、マイルスを聴けばここでもジミ・ヘンドリクスが絡んでくる。実は僕はジミを高校生くらいのときに初めて聴いたときには良さがわからなかったんだけれど、R&B系やマイルスからの繋がりから黒人音楽を理解したあともう一度接してみて、ようやくその良さがわかるようになったという経緯があった。

そんな感じでどんどん他の音楽とつながっていくクイーンの音楽は、無限の幅広さを持ち、奥が深く、つまり音楽がとても豊かだと言える。だからクイーンをきっかけにアンテナを広げれば、良質の音楽へと芋づる式にいろいろなものを引き寄せることができる。

そして今、クラシックを聴くようになっていくと、フレディ・マーキュリーが根底に持っている音楽性に通じるものが宿っていたことがわかるようになってくる。それは晩年にオペラ歌手とデュエットをしたからという表面的なものではなく、初期の曲でさえも根っこの部分でクラシックの要素を見出すことができるようになってくる。クイーンにかぎらず、たとえロックであってもヨーロッパの音楽(特にプログレ系)はクラシックとはどこか結びついているんだと気づくようになった。そう思うようになったのはクイーンを聴き始めてから30年以上を経ってからのことだ。

つまり、クイーンは僕にとって西洋音楽の基礎中の基礎となっていて、他のアーティストやジャンルの音楽にハマってもどこかつながっている。そんな広がりを感じさせ、さまざまな音楽の良さがわかるようになってもクイーンの魅力はまったく色褪せない。

僕にとって、この世に存在する音楽はクイーンとそれ以外に大別できる。そう思い始めたのは20年以上前からだけれども、ジャズやクラシックを楽しんで聴くようになった今でもその思いは揺るぎない。クイーンは僕に音楽の面白さを教えてくれたメートル原器のような存在として常に心の中心いる。

聴きやすく、繰り返して聴くとより深い魅力が感じられるものこそが真に優れた音楽である、という僕の考えを、長い時間をかけて形成していったのもクイーンの音楽に負うところが大きい。

日本ではビートルズが神格化されている。僕もその偉大さを認めつつ、やはり登場した時代が早かったために音楽は基本的にはシンプルで複雑さや表現の深みには欠けているのであまり面白みを感じない(そこがビートルズの価値ではないことは一応承知している)。あるカテゴリーの音楽が形作られようとしている時期はまだ当然成熟・発展をしいないわけで、これは交響曲の世界ではハイドンやモーツァルトでも似たようなことが言えるんだけれど、クイーンを交響曲の歴史に当てはめるなら、ベートーヴェンからシューベルト、シューマン、ブラームス、ブルックナー、マーラー、チャイコフスキーといった領域までをカバーしてしまっていると思う。ビートルズなくしてクイーンの音楽が生まれることはなかったことをわきまえた上でも、僕にとってクイーンの偉大さはビートルズを遥かに凌駕している。

フレディ・マーキュリー亡き今、部分的にブライアンとロジャーが継続していることについて賛否両論があるし、僕もあれはクイーンだとはまったく思っていないけれど、今年のサマソニでは2人の姿をひさしぶりに拝める。それだけで僕は幸せな気分でいられると思う。

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