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趣味の人生を楽しむサラリーマンの日記

演奏技術と音楽とのビミョーな関係

どのジャンルでも、ずば抜けた演奏技術がある人というのが一部にいる。そして、得てしてそういう人は批判されがちな傾向にある。要はテクニックはあるけれど「つまらない」「音楽性が豊かではない」「感動しない」という類のものだ。

本来、音楽を表現するための楽器演奏技術がテクニックのはずなのに、そのハイレベルなテクニックのせいで音楽表現を批判されるという本末転倒な現象が起きてしまっているんだけれど、実はなかなか厄介な議論でもある。

【ロックの場合】
昔、ハードロック・グループのミスター・ビッグ(Mr.Big)のライヴ盤レビューが雑誌に載っていて、ライヴであるにもかかわらず差し替えや編集なしで完璧なテクニックを披露する演奏力を絶賛し、最後はこのようなコメントで締められていた。

「でもテクニックがありすぎるのもスリルがなくて困ったものだ」(原文は覚えていません)

当時まだ20代前半だった僕は生意気にも「へえ、雑誌のライターってロックのこと何もわかっていないんだなあ」と瞬時に思った。ここで言っているテクニックとは高速かつ正確に楽器を演奏することを指している(はずだ)。ロックのスリルと興奮は演奏の正確さによってもたらされるわけではないことを知らない人が雑誌編集者をやっている事実にただただ驚いてしまったわけです。

改めて言うまでもなくロックという音楽は、お金がなくてもできるし、楽器演奏のレッスンを受ける必要もないし、教養もいらない。譜面だって読めなくてもいい。ただ「演奏したい」という純粋で抑えきれない情熱から生まれた音楽。だから昔から若者による若者のための音楽であり続けてきたんだと思う。

だからテクニックなんてもともと重要ではない。音にしたいという情熱とパワーがあって、自分の感性で表現できればいい。その感性をどう表せるかの術を身に付けて昇華させれば誰にもマネできない個性溢れる音が出てくる。その術とは正確性を突き詰めることではなく、自分の思いをどういう音にできるかという技術ということができる。

例えて言うならレッド・ツェッペリンなんて、その最たるバンドじゃないだろうか。演奏の正確性ではミスター・ビッグの足元にも及ばない。でもロックとしてどちらにスリルがあるかと言えばツェッペリンを支持する人が圧倒的に多いに違いない。つまり、ツェッペリンにはロックの勢いとスリルを聴き手に感じさせる演奏表現の術を持っているけれど、ミスター・ビッグにはそれがないということ。

僕は1967年生まれなので多感な10代のときに時代は80年代になっていた。にもかかわらず60年代後半から70年代のロックに夢中になったのには理由がある。ビジネスとしての形ができてしまった80年代の音楽はお金を中心に物事が決められる傾向が強くなって類型化していったのに対し、60年代後半から70年代のロックは、自分たちの表現をしたいという思いに満ち溢れているから。自分たちの音楽に志があったと言い換えてもいいかもしれない。だから今聴いても音楽そのものの根底にある部分にプリミティヴな魅力があり、本質的に古臭くなっていないものが多い。

当時の聴衆の要求レベルも高く、モノマネや無個性は評価しなかったという時代がそんな個性を育てていたという側面も大きかった。だからこそ、みんな自分だけの表現方法を磨いてどこで何を主張すれば良いのかという音楽のツボを押さえていたんだとと思う。ズレていてもいいと思えるところはどうでもいい、でもキメなくてはいけないところはビシッと決める。演奏の表現の幅が無限大のロックにおいて自分流の表現は何よりも重要なファクターという僕の確信は少しも揺らいだことがない。

もちろん、自分流の表現をするにしても一定以上の技術が要求されるのも事実ではある。僕がビートルズを殆ど聴かないのは楽器演奏者として最低限の表現力も主張も持っていないから(時代的に仕方がないし、ビートルズは演奏を楽しむものではないことは承知している)。でも、例えばフリー(全員10代でデビューしたブルース・ロック・グループ)なんかは荒っぽくて正確性なんて度外視した演奏だけれども、その人(たち)でなければ出てこない音の主張の塊とも言えるくらいの個性がある。ロックの演奏の良し悪しとはそういうものだと僕は思っている。

【ジャズの場合】
ロックの聴き手が、退屈だと軽蔑しながらもその演奏技術にどこかコンプレックスを感じてるのがジャズ・ミュージシャン。実際、ジャズ・ミュージシャンの演奏技術は平均的なロック・ミュージシャンよりも遥かに高い(一流レベルとなると双璧だと思うけれど)。

そんなジャズの世界でもテクニックだけ、と批判される人はいて、代表的なトランペッターとしてここではフレディ・ハバードとウィントン・マルサリスを挙げてみる。ちなみに名手ということになると、クリフォード・ブラウンやリー・モーガンを挙げることに異を唱える人は少ないと思うけれど、この2人が「テクはあるんだけどねえ」と批評をされるケースはほとんどない。

ブラウンやモーガンは上手い。でもそれに輪をかけてハバードとウィントンは上手い。いや、技術があるというべきか。そのせいかテクニックはあるけれど・・・風の批判が少なくない。、ハバードについては僕はまったくそうは思わない。

例えばハバードのリーダーアルバム「Hub-Tones」の1曲め"You're My Everything"なんて歌心に溢れていて、技術もしっかりしている。それでいながらテクニックだけに頼ってこねくり回すようなことはせず、嫌味なくリラックスした心地よい演奏を聴かせてくれる。ところがハバードはフリー・ジャズ系のアルバムなどで聴かれるアヴァンギャルドな演奏をもこなすテクニックの幅があり、これを「器用貧乏」と批判する人が現れる。確かに、アドリブの流麗さに欠けるところはあるけれど、そんな不器用さを含め、どんな時にでも一生懸命トランペットを吹くことに情熱を傾けるハバードの音楽がつまらないとは僕にはどうしても思えない。もちろん、そこが嫌いというのはあってもいいと思うけれど。

ちなみに更に技術に優れるウィントン・マルサリスは反対に僕はどうにも受け付けない。トランペットという楽器は音がかすれたり、裏返ったりしやすいもので、上手いトランペッターでもそいういった「音が乱れた」と思われる部分が瞬間的に聴こえる部分が多々ある。この「音の乱れ」は本来の技術という意味では傷と言えるもの。でも、思わず力が入りすぎたりしたときに表れる部分でもある。演奏家もあえて成り行きに任せているところがあるし、それを多くの聴き手もわかって楽しんでいる。ところがウィントンの手にかかると不安定要素まで自由自在かつ完璧にコントロールできてしまう。ここまで来るともう嫌味にすら聴こえなくもない。

そもそも僕の感じ方としては、ウィントンは真面目すぎていろいろな意味で遊びがなく、トランペットも音楽も窮屈で聴いているとだんだん息苦しくなってきてしまう。ここで言っている遊びとはユーモアだったり、洒落っ気であったり、緩さであったり、厳格・正確と正反対のことだと思っていただいて構わない。僕の場合、厳格な音楽、窮屈な音楽は演奏する喜びが感じられないのでなかなか自分から進んでは聴こうと思わない。もちろんウィントンは超一流のミュージシャンだし、素晴らしい瞬間はあるんだけれど、トータルで見るとあまり魅力を感じないというのが僕の受け止め方になっている。このような感情を持っていると完璧な技術もネガティヴな要素に見えてきてしまう、というのが正直なところかもしれない。

ここで言葉遊び的に言わせてもらえるならば、技術があることよりも、音楽を魅力的に聴かせ、聴き手を感動させる技巧(巧さ)があることこそが音楽におけるテクニック、というのが僕の音楽観ということになる。

演奏の基礎レベルの違いこそあれ、やはりある程度以上の技術レベルをクリアしていれば、節回しや色付けといった表現が評価の対象になる、という意味でジャズもロックも基本的には同じと言えるのかもしれない。

【クラシックの場合】
さてさて今度は、最近ようやくその良さが分かり始めてきたクラシックについて考えてみる。

まず、クラシックは基礎として求められる演奏技術レベルが極めて高く、そもそもそこがジャズやロックと大きく違うところ。音の長さや強弱まで指定された譜面というものに書かれている通りに演奏するといところも大きく違う。

なにしろ、幼少からお稽古として習う「大人公認」が一般化している唯一の音楽であり、各国の王室・皇室の方々が観に行って違和感を抱かれない唯一の格調高いジャンルである。いつ、どの時代にも裕福層に支持され、誰もが認める芸術のひとつ、それが何百年も続いて築かれたものなのだから、高いレベルの演奏技術を求められるのは当然のことでなんでしょう。

ずっとクラシックばかり聴いていてたまにジャズに戻ってくると、上手いと思っていたジャズ・ミュージシャンがいかにいい加減で自己流に演奏しているのかを思い知らされ、クラシック演奏家の精緻な演奏技術レベルの高さを実感してしまう。

グローバル・マーケットでCDが売られているような有名ソリストであれば、かなり高度な技術を身に付けているのはあたりまえで、少し聴いただけではどの演奏家でも大きな違いがあるようには聴こえない。まだまだ僕の耳がそこまで肥えていないことが最大の原因ではあるけれど、ちょっと聴いただけで「あ、あの人だ」とわかるほど演奏に自由度を与えられていないのもクラシックという音楽である。

ところが最近聴いてみたマウリツィオ・ポリーニには、そんな僕にでも他のピアニストとは一線を画す技術があるとわかるほど正確無比なタッチとリズム感がある。そしてこの人の評価がまた「機械的」などとよろしくない。

僕はクラシックこそ演奏に正確性が求められると思っていたんだけれど、「技術はあるのに表現したいものがない」などと書き、時計好きであるカール・ベームを機械的な正確性を重んじる人物と決めつけて、そのベームが目をかけたポリーニの演奏も単に機械的であるかのような印象を読者に植えつける、悪意しかない評論を目にしたこともある。クラシックの世界においても正確さは必ずしも歓迎されているわけではないらしい。

その反面「感情や主観に溺れない格調高い演奏(Wikiより)」というポジティヴな見方もあり、これも十分に正しいように思う。そもそも、格調高い芸術であるはずのクラシックで、格調高さを実現するための基盤である演奏技術の高さが批判されるということの意味がわからない。

僕は今のところ、ポリーニの正確無比な演奏はひとつの表現として個性的だと思うし、冷たいとかいった感想を抱くことはないし、ポリーニにも格調高さをベースにした「技巧」はあると感じている。曲が決まっているクラシックの場合、自分のイメージと違う演奏を「ダメだ、なっていない」と批判する慣習があるから、ポリーニの演奏が好きでなければ、技術があることを叩くことで批評らしい体裁になるということなんだと思う(残念な風潮ですな、しかし)。

【まとめ】
ここまでつらつらと書いてきたけれど、格式も何もない平民音楽であるロックの世界を除けば、技術があることが音楽の魅力を減退させるなんてことは言えないということ。確かに超ハイレベルの技術があると、不正確だからこそにじみ出る味わいが削がれ、ある意味人間味がなくなるという傾向はある。一方で高度なテクニックがある人は正確さがなければできない表現を土台に勝負している。それぞれで描かれる世界は性質が異なる面があるとはいえ、結局ただ単に好みかそうでないかでしかない。自分の好みでない=その良さを感じ取る感性がないだけなのに、技術がある演奏家に「テクはあるけどねえ」と言い放つことで自分が音楽をわかっていると気取ることができる、という音楽スノッブが作り出す風潮はどこか歪で気味が悪い。

音楽は、器が小さい人に虚栄心を抱かせるために利用する道具ではなく、楽しんで心を豊かにするもの。そんな当たり前のことを忘れたくないものです。

「天使の分け前」鑑賞 【ネタバレあり】

天使の分け前

監督のケン・ローチは、英国社会の低所得層の人たちを描く社会派として知られている、らしい。

僕は、それを知らなかったので、映画の宣伝文句を真に受けて観てしまった。その宣伝文句を読んだ人は、たぶんこう思ったはずだ。「そうか、不良が利酒の才能を開花させて、人生がうまく回り始め、皆がハッピーな気分になるサクセスストーリーなんだろうな」と。

前半は、主人公がやってきた悪事をしっかりと描き、そこを脱することができない弱さを見せる。親切に助けてくれる人がいても、そう簡単には足を洗えない。

結局、最後はヴィンテージ高級ウィスキーを盗んで、仕事も手に入れ、新しい生活に向かうところで終わる展開で、「これは人生厚生の話だったのでは?」と思っていた僕は違和感を禁じ得なかった。

映画掲示板を観ると、どうやらそう思った人が多かったらしく、「マイナス100点」「過去最低の映画」という評価がたくさん並んでいる。

これもちょっと違う。そもそも、景気が悪いとか低所得層が増えているだの言われながらも日本はまだ豊かであり、その豊かボケしている人がこんなに多いとは思わなかった。

スコットランドなど英国北部はさしたる産業もなく、炭鉱社会が終わってから経済は完全に衰退していることくらい、一般常識がある人なら知っていると思っていた。一度職を失い、社会的信用を失うとちょっとやそっとの努力ではそこから這い上がることはできない。そんな社会で日本人の平均的な生活レベルを営めるような裕福な人が少ないだろうということを知っていないとこういうズレた感想出てこないんだろうな、と思う。

映画の中で、主人公に絡んでくるワルたちと喧嘩ばかりしている理由、「親同士が仲が悪かったから」というところで、いくら現地を見たことがない日本人でも読んであげないといけないと思う。「ああ、ここの貧困層の社会は、自分だけの努力では変えられないほど病んでいるんだな」と。

この映画は、盗みが成功して痛快!なんてことを描きたいわけじゃない、ということが理解できないと、薄っぺらい表面的な正義感と道徳観だけの感想しか出てこなくなってしまう。明日食べるものにも困る生活から抜け出すための突破口が見えない、という生活からをどう脱却するかという死活問題を、ちょっとのユーモアを交えて撮ったこの監督はなかなかたいしたものだと思う。

僕も途中からは「えっ?盗みやっちゃうの?」と思ったんだけれど、全体を俯瞰すれば、こうでもしなければまともな生活を送れない社会と、ほんのちょっとでも希望があるところを描いた映画だと合点がいって、なるほど、ひとつの社会派映画としてこれはこれで良くできていると思うようになった。オークションで100万ポンド以上で幻の名酒っを落札したアメリカ人が試飲して満足そうに「美味しい」と喜んでいるところも皮肉が効いている。

こういう複雑な感情を抱かせる映画は、娯楽ボケしている人では作れないし、観ても楽しめない。ここ日本においては、ある意味、観る人の知性と教養が試される映画だと思う。爽やかな後味はまったく残らないけれど、じわっと重みを感じ、考えさせてくれる良い映画。大人の人だけにお勧めします。

足の裏が痛い-足底筋膜炎との付き合い

今から5年位まえ、41歳のころから左足の裏に痛みを感じるようになってきた。症状は朝の寝起きのときだけで、そのうち痛みは消え、出勤するころにはすっかり問題なくなっていたので特に気にすることもなく日々を過ごしていったものの、そこから2年くらいかけて徐々に悪化していき、朝の痛みをピークに1日中痛みが引かなくなっていた。

この状態に至ってようやくネットで調べ見ると「足底筋膜炎」あるいは「足底腱膜炎」という聞き慣れないキーワードにすぐにたどり着くことができる。症状についてはWebのいろいろなところで解説されているので状況を理解するのにさほど時間はかからなかった。平たく言えば足底筋の衰えということで、ああ、ついに自分もこんなところまで衰えてくるようになったのかとガッカリしたところまではまだ良かった。困ったのはその治療方法がどこにも書かれていないということ。

朝一番の寝起き直後は、いよいよ顔をしかめたくなるような痛みが走って足を引きずりながら歩くのが当然のようになり、日中でも席を立ったときの一歩目でかなりの痛みを感じるようなってきたので、ついに整骨院に通うことに。以下は、その後2年にわたってこの怪我(?)と闘ってきて得た経験と知識の記録。

先に結論を言うと、痛みは消えなかった。ただし、ピーク時に比べるとだいぶ痛くなくなり、顔をしかめるようなことはなくなってくれた。とはいえ、未だに長時間立ちっぱなしのときなどは痛みが気になるレベルでもあるので今でも気遣いが欠かせない、そんな感じに落ち着いている。(2016年9月追記: 現在はほとんど痛みはなくなりました。ただし、歩き方の改善は続けています)

【治療はやはりほとんど無意味】
整骨院には週2回、昼休みを少し長めに取る形で半年くらい通った。最初は患部を直接強くマッサージしていたものの、痛みが更に悪化するようになったので先生も「う~ん、どんなマッサージが良いのかは人それぞれなので患部周辺のマッサージと足首や膝下を積極的に動かすようにしましょう」と方向転換。以降、この治療方針でずっと続けていった。

その期間中、痛みは一進一退しながら徐々に良くなっていった。ただし、後述のような歩き方対策も並行してやっていたのでこの治療が本当に効いていたのかどうかはなんとも言えない。治療開始時期の最初の2ヶ月くらいは、週に1回のジョギングも控えて治療を再優先にしていたのにまったく良化が見られなかったのと、それまで10年以上続けてきた軽度なジョギングが問題だと思えず、よほどハードな運動をしない限り悪影響はないと判断してジョギングは再開。それでも症状が悪くなるようなことはなかった。


【足の使い方が問題だった】
人間にとって当たり前の行動のひとつ、「歩く」こと。どのように歩くかに注意を払っている人はモデルとかでもない限りほとんどいないと思う。

一方で、人間は体のどの部分であったとしても左右が完全に対称でもないし、使い方も左右で異なる。たとえば肩こりが右だけ強い、なんてことは決して珍しいことではない。

僕の場合、歩くときに右足の指先、特に親指の先に力を入れて歩いている。ところが左足の指先には力を入れておらず、むしろ上向きに開放するように歩いていることがわかった。もちろんこれは無意識にやっていること。

足底1

歩くときにはこのように指先に力をまったく入れていない。

実は、無意識と言いつつ、指先に力を入れて歩いているときと歩いていないときがあるなあ、と漠然と気づくこともあって、そんなときには指先に力を入れずに歩くように心がけていた。指先に力を入れて歩くのはなんとなく無駄な力を入れているように思えたし、無駄であればどこかに不要な負担がかかるように思っていたから。

ところが、整体師に言わせると指先に力を入れながら歩くのが本来の歩く形ということで、力を入れずにペタンと歩いているから左足の足底筋が使われなくなり、衰えたのではないかと説明。「だから土踏まずが左足の方が下がっているでしょう?」と言われ、触ってみると確かにそのとおり。

そこで、左足の指先に力を入れて歩くように心がけることにしてみた。ところが長年の習慣で身についてしまった歩き方がそう簡単に変えられるはずもなく、右足のように自然な感じで指先に力を入れることができない。そうこうしているうちに左足の別のところが痛くなり始めてしまった。無理はよろしくないので、気持ちだけ左足の指先に向けるような感じで歩く方針に頭を切り替える。とにかく、土踏まずをベタっと地面につけるような歩き方が一番良くないらしい。

足底2

こんな感じに指先で掻き込むように意識して歩く。

これをサポートするために、整体師の勧めで、土踏まずの部分が大きく盛り上がっているソールを靴に入れることにしてみた。このソールを入れると指先に力入れる歩き方になりやすい。また「座っているときに足の指先を掻き込むような動きを繰り返してみるのが効果的です」と治療当初から言われていたので、風呂に入っているときや家でボーっと映画を見てるときに床を掻き込むこともときどきやってみた。

【まとめ】
これらの対策によって、ある程度自然に左足も指先にある程度力を入れて歩けるようになっていった。ただし、今でも意識していないと左足指先に力が入っていないときがあるし、未だ完全に自然にというわけにはいかず、左右の力の入れ方が微妙に違っていて、歩くという当たり前の行動として身に付いた行動を変えるのは容易ではないということを実感しながらの毎日。

治療方法を総合すると、どれもこれも衰えた足底筋を鍛え直すことに集約されているように思える。通院を止めてから症状が悪化したということはなく、歩き方を意識し続けたことで痛みは軽くなっていったので、足底筋を鍛え直すという方法は多分高い確率で合っているんじゃないかと思っている。

週に一度、5キロ程度のジョギングなら足底筋に悪いことはなく、ここでも足の指先を掻き込むように走ればむしろ足底筋を鍛えることにもなっているのかもしれない。

というわけで、やるべきことは意外とシンプルだったという結論ではあるんだけれど、歩き方の習慣を変えるのはなかなか容易ではなく、身に付くようになって半年以上経ってから、「そういえば最近は痛みが少なくなってきたな」という感じだったので、地道に続けて、効果が少しずつ現れるという忍耐を要するものであったのも事実。また、症状が軽くなったといっても完治したわけではなく、たぶんこのまま一生付き合っていかないといけない類の怪我でもあると思う。ちなみに筋の衰えなので温泉に浸かったとか湿布を貼るなどの治療で急に良くなるということはなさそうです。

人によって原因も適切な治療も違うと思うので、誰もが試行錯誤をしながら適切な方法を見つけていくことになると思いますが、有効な特効薬的なものがないこの怪我で悩んでいる方に、僕の経験が少しでも役に立てば、と思います。

ハイレゾ音源って本当に音が良い?

ハイレゾ

その昔(14、5年くらい前の話)、デジタルカメラが一気に高性能化していった時期があった。僕が初めて買ったデジカメは当時最先端の300万画素モデルで値段は90,000円くらいはしたと思う。そこから1年も経たないうちにどんどん画素数が増えていく、いわゆる画素数競争が始まった。

デジタルカメラの画像は御存知の通り、細かい正方形の点の集合体であり、その点が細かくなればなるほどジャギー(=段階状のギザギザ感)がなくなる。画素が多くなればなるほど滑らかで鮮明な画像になるから画質が良くなるという理屈は誰が聞いても納得できるわかりやすい話だったと思う。

確かにコンシューマーが手にすることができるようになり始めたころのデジカメは何十万画素程度で、少し引き伸ばしただけでジャギーが出てしまうものだった。ある程度の画質を得るために高画素化は必須であり、技術としてまっとうな方向性だったことに間違いはない。

ところが画素数競争黎明期(300万~500万)のときに、画素数が多い=高画質という刷り込みが定着したまま、実は画素数なんてその当時でさえ画質にとってあまり重要でないものになっていた。例えばA4用紙に写真を印刷して普通の人がジャギーが気にならないレベルにどれだけの解像度が要るかというと実は300万画素もあれば足りているということを知っている人はそれほど多くはない。

ある程度の画素数があればジャギーは気にしなくても良い。そうなると画質を決定するのはイメージセンサー(CCDなど)そのものの性能ということになる。イメージセンサーが実際の画をどれだけ精密にデータ化できるかは、どれだ多くの情報を受け止めることができるかにかかっていて、イメージセンサーじたいのサイズ(面積)がどれくらい大きいかが重要になってくる。イメージセンサーがどんどん高画素化していったあの時代、実はコストダウンのためにイメージセンサーじたいのサイズはむしろ小型化していた。それを画像処理技術、中でもエッジ強調することで鮮やかに見せかけて誤魔化していた(なのでシーンによっては不自然な画像になっていた)ことも一般の人にはあまり知られていない。

このイメージセンサーの変化をピザで例えるならば、Lサイズ8枚切りからMサイズ16枚切りに変わったのと同じことで、16枚切りにしたという情報だけを前面に出していたメーカーも、それを喜んでいたコンシューマーも愚かだったとしか言いようがない。数値というスペックは誰にでもわかりやすいけれど、その数字の本来の意味まで遡って考えてモノの良し悪しを判断しないとこういうことになってしまうといういい例だと思う。

このスペックのひとり歩きで最近気になるのが、オーディオのハイレゾ音源。不況のオーディオ界にとって今やほとんど唯一ビジネス拡大の目があるといっても過言ではない期待の商品。いや、藁にでもすがりたい不況オーディオ業界の救世主といったところか。ソニーはわざわざハイレゾ宣言をして商品展開をしているほどその救世主にあやかろうとしている。

かつてコンパクトディスク(CD)を超えるメディアとしてSACDやDVD-Audioが登場したころには、レコードよりも遥かに高音質とされていたCDのスペックを「いや、やっぱり不十分だ」と否定する形でその必要性が語られていた。忌憚なく言わせてもらえば、SACDやDVD-Audioという次世代のメディアでビジネスをしようとしたメーカーがCDを貶めたという見方が正しいと今では思っている。

SACDとDVD-Audioはごく一部のオーディオマニアに支持されただけで一般市民にはまったくウケなかった。オーディオに興味がない人だとその存在すら知らない。ちなみに8年くらい前にいくつかの大手CDショップで店員に「SACDはどのへんに置いてありますか?」尋ねたことがあって、そのときの反応は「(語尾を上げて)はい?もう一度言っていただけますか?」とか「そういうアーティストですか?」なんていうものだった。ようやく4店舗目で「CDと同じところにおいてあります」というまともな返事が返ってきたという、つまりその程度の認知度であり、今でも一般化したという話は聞こえてこない。理由は簡単で、ほとんどの人がCDの音質に不満を抱いていなかったからということに尽きる。

そして次にやってきたのが昨今ブームのハイレゾである。というと何やら新しいもののように思えるけれど実はDVD-Audioは基本的にハイレゾと形式はまったく同じだし、クオリティレベルはSACDも似たようなもの。違うのは(高額なものが非常に多い)専用プレイヤーが要らないということで、PC(あるいはNAS)に格納したファイルを再生するPCオーディオやネットワーク・オーディオが徐々に広まり、ファイルさえ手に入ればさまざまな方法で再生できるというフレキシビリティが再度注目されるようになった理由らしい。

僕も良い音で音楽を聴くことを何よりの楽しみとしている人間なので、ハイレゾ音源が当たり前のように流通するようになってからいくつかを入手して聴いてみた。(すべて96KHz/24bit)

【1】Moanin’ / Art Blakey ・・・【A】
【2】Free For All / Art Blakey ・・・【B】
【3】Something Else / Cannonball Adderley ・・・【B】
【4】Out To Lunch / Eric Dolphy ・・・【A】
【5】Blue Train / John Coltrane ・・・【B】
【6】Speak No Evil / Wayne Shorter ・・・【A】
【7】Night Dreamer / Wayne Shorter ・・・【C】
【8】At The Golden Circle / Ornette Coleman ・・・【C】
【9】Kind Of Blue / Miles Davis ・・・【B】or【C】
【10】MOVE / 上原ひろみ ・・・【C】

これらハイレゾ音源は【A】~【C】の3つに大別できる。

【A】マスタリングしなおしてミックスが違っているもの
【B】マスタリングしなおしたもの
【C】マスターはCDと同じで単にスペックが上がったもの

マスタリングをし直したというクレジットがないものは【C】に分類した。尚、「Kind Of Blue」はリマスタリング版がリリースされているけれどそのクレジットは192KHzのみ。わざわざ新しくマスタリングしたのに96KHzだけ古いマスターを使うとは思えないので【B】だと思うけれどどちらなのかわからない。

【A】と【B】は高音質化した商品として価値があるものの、そもそもマスタリングが違っているのだからハイレゾの仕様そのものがもたらす音質向上がどんなものなのかわからない。純粋にハイレゾの価値を見極めるとしたら【C】しかない。

【A】は誰がどう聴いても音が違うのがわかる。なにしろモノラルがステレオになっているんだから。そして音のひとつひとつが磨かれていてマスタリングの良さも実感できる。混濁していた管楽器の音は明確に分離されて聴こえてくるところは比較にならないレベルの違いで、CDでは音が悪いと思っていたハービー・ハンコックの「処女航海/Maiden Voyage」のブラッシュアップぶりは感動モノだった。でも、これはハイレゾの恩恵ではなくリマスタリングとミックス違いのおかげ。【B】になると一気にCDとの差がわかりにくくなってくる。音質にこだわらない人にとっては恐らくもう違いはわからない。良く聴けばCDでは楽器の音が僅かに歪んでいたところがスムーズかつまろやかに聴こえてくるのがわかる。少しザラついたところをコンパウンドで磨いたような感じとても言えばよいだろうか。【C】も似たような向上を感じられるけれど、もはや違いがよくわからない。よーーく聴けば良くなっているような気がする、程度。【B】【C】はブラインドテストをして聴き分ける自信が僕にはない(特に【C】)。

尚、拙宅には一般の人なら呆れるくらいの投資と綿密な研究の末に選ばれたオーディオ機器があり、それでもこの程度の差しか聴き取れないという結果であることも付け加えておきたい(投資すればいいってもんじゃありませんが)。

ここで少し話が脱線するけれど、僕は人間の感覚ほど信用できないものはないと思っている。

ボルドー大学のワイン醸造研究所では受講生に暗闇で試飲させるカリキュラムがあって、そこではなんと赤ワインと白ワインを間違える人が続出するという。ワインの勉強をするために入学してきた学生たちが赤と白の区別さえつかなくなるというのは驚く話だけれども、確かに似た味わいのものはあるような気がする。このカリキュラムは先入観から来る人間の感覚がいかに曖昧かを経験させ、白、赤、ロゼの味わいを一義的に決めつけることの危険性を思い知らせるのがその狙いとのこと。

人間の聴覚も、さまざまな環境によって左右されるアテにならないものだと思っているので、高額のオーディオケーブルに変えて期待を持って聴くと音が良くなったと感じるのと同じように、ハイレゾというだけで良くなったと感じる人は世の中には沢山いて、そのプラシーボに自覚のない人がまた数多くいることも予想できる。

困ったことに、先入観の怖さをわかって冷静に判定している人とまったくわかっていなくて思い込みで喜んでいる人とがネットでは同じ土俵で同じように語り合っているのだから一体どれを信じたら良いのかなんて誰にもわからない。

先入観に囚われず、ファイルの波形分析を冷徹に行っている人たちの間では「ニセレゾ」という言葉が使われ始めている。800×600ピクセルの写真を1600×1200に引き伸したからといって画質が向上するわけではないことは言わずもがな。192KHzとか24bitとかいう数字は単なるファイルの仕様であって中身が伴わなければ音質が良くなるわけではないという当たり前といえば当たり前のことに気づいている人が増え始めたことを示しているようだ。

そもそも、スペック通りの音が収録されていたとしても本当に人間にそこまで必要なのか、という議論は「聴こえなくても感じられる」という何やらスピリチュアルな常套句を言い訳に、オーディオマニアは論理的な議論を避けたがる。ネットにはどの周波数まで聴き取れるかのサンプルがあるので一度試してみればいい。現在46歳の僕は14KHzまでしか聴き取れないことを正直に告白しよう(ただし、某サイトにある320k MP3と128K MP3の聞き分けテストは100%正解できたけど)。ハイレゾのメリットとして20KHz以上が収録されていることに意義を感じている人なら何KHzまで自分で聴き取れるかくらいはで試しているはずだけれど、誰も「20KHzなんてまったく聴こえなかった」とカミングアウトする人はいない。20KHzは全人類でもっとも高音まで聴こえる一部の(主に若い)人の可聴上限であって、18KHzを聴き取れない人もかなり多いんじゃないだろうか。

(参考)
http://itsd210.s24.xrea.com/ja/mosquito_sound/

この種のネガティヴな情報は、オーディオでビジネスをしようとしているメーカーから出てくるはずがなく、そのメーカーから広告収入を得ているオーディオ雑誌からも出てくるはずがない(実はこのブログ記事と同じような内容のコラムを掲載していた「AV Review」誌はなかなか誠実な雑誌だ)。

ハイレゾの真価は可聴領域ではなくダイナミックレンジ(ビット深度)と言う人もいるようだけれども、もしそうなら24bitではなく32bitの音源が出てこないのはなぜなんだろう?理論的には24bitは16bitの方が優れてることになるだろうけれど、24bit/48KHの音源がほとんど注目されないのは何を意味しているか、言わなくてもわかるだろう。

結局、ハイレゾは幻想だと僕は思う。中には聴き分けられる黄金の耳をお持ちの方がいらっしゃるかもしれないけれど、ほとんどの人にとっては聴き分けできるかどうか微妙というのが本当のところじゃないだろうか。結局SACDやDVD-Audioと何も変わっていない。そんなモノのためにCDの倍の値段を払うくらいなら、別のCDを買って新しい音楽との出会いを求めた方が健全と言えるんじゃないだろうか?

マスタリングをしなおしたものでもない限り、僕はもうハイレゾ音源を買うことは多分ない。ハイレゾであれ、DVD-Audioであれ、CDであれ、所詮は器の話であって、中に入るものがどういう内容でどういう状態で収められているかが重要であることに音楽ファンは早く気が付いた方がいい。レコード会社は、ハイレゾという器で商売をするのなら丁寧にマスタリングをやりなおす(中身の状態を良くする)くらいの心意気があってほしいと思う。今の技術でできる最良に磨かれた状態(マスタリング)のものをハイレゾという器で用意しました、というのなら説得力があるけれど。

CDという規格は音楽を楽しむのに十分以上のものであり、それでいながらオーディオ史上もっとも安価に手に入るメディアであると思い直すのも悪くないと思うんだけれど、新しいモノに行かないと楽しくないという人の欲求は満たされないのかもしれない。

「恋のロンドン狂想曲」

恋のロンドン狂想曲

日本では未公開だったものが「ミッドナイト・イン・パリ」の評判が良かったことを受けてめでたく上映されることになったというウディ・アレン監督の作品。

現題は「You Will Meet a Tall Dark Stranger」。最初はどういう意味なのかと思ったものだけれども、「あなたは背が高くて浅黒い(素敵なってこと?)人と出会うでしょう」という占い師の決まり文句なのだとか。

そんなタイトルなだけに、オープニングから占い師と思しき人に相談に行くジェマ・ジョーンズ演じるヘレナのシーンから始まる。占い好きな人でも、これはちょっとねえ、と思わせる雰囲気がプンプンしてくるこの最初の描写だけでもうアレン監督お得意の胡散臭い演出が冴える。

とはいえ、話は占いがテーマというわけではない。

ジョシュ・ブローリン演じるロイとナオミ・ワッツ演じるサリー夫妻とサリーの両親(アンソニー・ホプキンス演じるアルフィとヘレナ)を中心に人間模様が描かれて行く。

いきなり回春に走るアルフィ、占い師の言葉しか信じないヘレナ、隣家の若い子に惹かれる一発屋小説家ロイ、その売れない小説家を支える美術アシスタントで雇い主が自分に気があると思っているサリーと、これだけで収集がつかなさそうな舞台設定をしている。

しかも、基本的にそれぞれが勘違いしている人ばっかり。それがいろいろな形で絡んでは解けて行く。今風に言うならば「痛い」4人の大人を中心に織りなす滑稽な人間模様。

まあ、ここまでいろいろな勘違いが重なることは現実にはあり得ないんだろうけれど、そこはウディ・アレンがうまく見せて、失笑が漏れまくる話になっている。思わず「クックック」と笑ってしまう演出と小ネタも満載。ロイとサリー馴れ初め回想シーンで、ピクニックで芝に二人で横たわり、1文節言い終わるたたびにチュッチュとキスするロイの嫌らしさなんてもう「フッ」と思わず笑いが漏れてしまう演出。

全体的に、みんな欲深くて相手のことよりも自分のこと、だってそれが人間なんだもん、というのをこれでもかと見せている。映画なので多少大げさな演出はされているとはいえ、「でもこういう人っているかも」と思わせる一線の引きどころも絶妙。

万人向けとは言わないけれど、一癖あるコメディとして秀逸。僕は「マッチポイント」から観ている新参者ですが、個人的にはウディ・アレンの映画ではこれが一番おもしろかった。

ちなみに、後で思い起こすとロンドンである必要性があまり感じられない。ニューヨークで良かったんじゃないの?という感じがする。

「マッチポイント」では雰囲気とシチュエーション(貴族的な大金持ちとか)で英国テイストを利用していたのでそれなりに必然性があった。でもこの映画ではそういうものも感じられない。穿った見方をすれば、ニューヨーク以外で撮る理由付けのために「マッチポイント」では英国テイストを盛り込んだのかも知れず、いろいろなロケーションで撮影するようになった近年は、もうそんな口実は不要になって、好きな場所で好きな映画が撮れるようになったということなのかもしれない。

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