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趣味の人生を楽しむサラリーマンの日記

「ALIVE」 上原ひろみ

上原ALIVE

僕が好きなロック、ジャズ、クラシックは言うまでもなく欧米の音楽だ。彼の地で生まれ、彼の地で育った、彼らにとっての「自分たちの音楽」。

翻って、日本人にとっての「自分たちの音楽」とは何かと言えば、童謡、民謡などの大衆モノや雅楽のようなものということになるんでしょう。

両者は(しつこいけど)言うまでもなく、まったく異質の音楽である。

戦後、欧米文化を貪欲に取り入れてきた日本人は、音楽も洋楽化し、今ではJ-POPと呼ばれる音楽のサウンドは洋楽とほとんど変わらないように聴こえてくる。編曲はコード進行やリズムパターンを真似ればそれらしくできてしまうのでJ-POPはすっかり洋楽化し、歌詞以外は大差ないかのように思える。

音楽とは時間(リズム)とメロディの組み合わせでできていることは誰でも知っていると思う。このリズムというやつが厄介だ。日本人はリズムに対する感性が非常に鈍いと僕は思っている。それは日本の伝統音楽を聴けば明白で、後打ちで単純であることだけが望まれた日本の歌にとってリズムはさして重要なものではなく、要は日本人はリズムを欲していない人種なんだと思う。

ジャズ、クラシックもリズムは多様で音楽を支配するといっても過言ではないほど大変重要な役割を担っている。R&Bやファンクはリズムそのものがが音楽を作っているとさえ言えるほどだ。

それに較べて伝統的な日本の音楽はリズムが単調で、ウネリ、すなわちグルーヴがない。いや、グルーヴという概念がそもそも存在しない。

日本人がリズムを欲しなかったのは、日本語が原因だと思う。基本的に1音にひとつの音符を乗せることしかできない日本語は、3つの音符だと3文字しか語れないけれど、英語だと I Love You と言えてしまう。だから日本語はノッていけない。僕は、日本語で歌っているかぎり、それは民謡などに端を発する日本古来の音楽と基本的に変わらないと思う。歌がない音楽だとしても日本人の血が流れている音楽には基本的にリズムのウネリや粘りといったものがないところは同様なことが言える。

と、前置きが長くなってしまったけれど、だから日本人にジャズなんて無理なんです、ということが言いたかったわけです。

西洋人(あるいはアフリカ系黒人)が作り、体内に染み付いたリズム感を、民謡が根底にある日本人が体得できるわけない。その壁を超えられるとしたら現地で生まれ、現地で育った人くらいなんだろうけれど、それは人種と国籍が日本人というだけであって中身はもう日本人とは言えない(クラシックのピアニスト内田光子とか)。

そこで本稿の俎上に上げるのが日本人ジャズ・ピアニスト、上原ひろみ。

上原ひろみはデビュー以来、一貫して実に日本人らしい音楽をやってきていると思う。これを「日本人のジャズ」とバカにする人がいるのも決しておかしくはないし、的外れだとも思わない。

リズム感は洋楽のそれとは大きく異なり、日本人そのもの。ジャズのコード、音階がピアノ奏法のベースにはあるものの音楽の骨格を成しているかと言えばそうではなく、ある意味、上っ面だけにも聴こえる。また、かつてのジャズ・ジャイアント、例えばマイルス・デイヴィスやジョン・コルトレーンのようなコクやアクは皆無で、かつおだしの醤油味と評してもいいような健康さがある。

ここでダメな人はもうダメでしょう。その人の音楽人生とは交わらなかったということでサヨウナラするしかない。

でも、僕はあえて言わせてもらいたい。上原ひろみは日本人のジャズだから素晴らしいのだと。マイルスやコルトレーンは大好きだけれど、それだけがジャズだとも思わないし、そういう凝り固まったオタクにもなりたくない。

僕が日本人のジャズを否定しているのは、結局モノマネでしかなく、欧米人と同じ価値観の表現をしようとしていて低いレベルのものしかできないからということに尽きる。だから決して超えることはできない。

でも上原ひろみは違う。彼女は誰かのマネなんか一切していないし、誰かのようになろうと思っていない。基本的に全曲オリジナルで演奏の形態も自分でイメージしたスタイルを一貫して通している。ただただ、やりたい音楽をやりたいことをやりたいようにやっている。それを認めてくれるレコード会社に恵まれたことがまずは最大の幸運と言えるところで、もうひとつの幸運は支えてくれるサイドメンにも恵まれているところにある。

その恵まれてきたサイドメンの中でも最強と言えるのが、このアルバムのアンソニー・ジャクソンとサイモン・フィリップス。

この3人による1枚目のアルバム「VOICE」で既にこの3人でしか成立しない音楽が展開されている。プログレッシヴ・ロックを彷彿とさせる複雑なリズムも、和風テイストの中で消化されオリジナリティ十分。仕事ならいくらでもありそうな2人だけにコレ1枚作れただけでも御の字のところ、次の「MOVE」で更なる進化を遂げ、独自のピアノ・トリオとして行けるところまで行った感じがあった。ところがまだ先があることを見せつけたのがこのニュー・アルバム。

その緻密なコンビネーションには更に磨きがかかり、もはや孤高の域にまで到達しているかのような複雑怪奇な展開の1曲めから始まる。ピアノもさることながら、ベースとドラムの勢いは従来2作を凌いでいる。芸風は確かに変わっていない。でも、まだここまでできるんだという確信があるからこその3枚目という必然性を感じられるのも確か。シンセをまったく使わなかったのも、「まだできることがある」という伸びシロあっての結果であるように思う。サイモン・フィリップスは叩きまくり、ツーバスのドコドコもこれ見よがしではなく音楽に自然に溶け込んでいる。アンソニー・ジャクソンはこれまでになく縦横無尽にスペースを埋め尽くしているし、ベースの音量バランスも前作までよりも大きめで存在感がある。演奏に関して言えば3枚の中で再上位に来ることは間違いない。

このメンツでの活動がここまで続いたのは、他のどのジャズ系、ロック系グループでもない音楽ができるからという面白みがあるからに違いない。超絶技巧だけで押しまくるわけではなく、抑えるところは抑えているし、フォービートをこれまでになく導入したり、ポップな曲もうまく織り交ぜていて幅も持たせている。3人でのパフォーマンスの発展性、拡張性が、9曲で約75分というこれまでにない長さをもたらした理由でもあるんじゃないだろうか。

1月のブルーノートでのライヴを観たときに、まだこのグループは進化すると思ったものだけれど、その成果は確実にこのアルバムにパッケージされている。サイモンがTOTOを脱退したのはこのグループの音楽的成功と無関係ではないと思わせるに十分な内容で、間違いなくこのトリオの最高傑作。あらゆるミュージシャンがあらゆる音楽をやり尽くしている現代におて、ここまで独自性の高い音楽をここまでの完成度で仕上げたことは驚異的だと思う。

上原ひろみはもっと音楽家として評価されるべき、と以前から思ってきたけれど、その思いをさらに強くさせるこのアルバムの仕上がりは無条件に賞賛したい。あっぱれ。いや、もうどんな言葉でも表現し切れないくらいに素晴らしい。

ブルックナーを聴きこむ

ショルティのブルックナー

【ただいまクラシック歴18ヶ月目】

クラシック、中でも交響曲を追求する道は大筋決まっているようだ。

やはりベートーヴェンから始まり、シューベルトやシューマンといった後継者を追い、ブラームスにたどり着く。そして、後期ロマン派交響曲の到達点と扱われているブルックナーやマーラーに向かっていく。

マーラーはこのブログでも何度か取り上げている通りまだ勉強中の身で、金聖響氏の本「マーラーの交響曲」を読んだりしているうちに徐々にその良さがわかってきている状況(でも、まだよくわからない)。

僕はたとえば若いころに出会ったプログレッシヴ・ロックや、30代から聴き始めたジャズ、特にマイルス・デイヴィスやジョン・コルトレーンが今では大好きなんだけれども、すぐに好きなったわけではなく、「なんだか良さがわからないけれども、この音楽は追求すれば素晴らしい感動をいずれ得られるんじゃないか」と感じて、我慢強く聴き続けているうちに、かけがえのない音楽だと思えるようになっていった。つまり「何かある」と思ったら、そのときよくわからなくてもとことん聴き込んで、徐々に深い理解に到達できるという根気強さがある。

交響曲において、マーラーと並ぶ大きな山がブルックナー。登りたくない人は登る必要はなく、登れた(ような気になった)人は、大いに通を気取ることもできるという特性も持っている。

マーラーとブルックナーが、なぜそのように上級者向けの扱いを受けるかというと理由があると思う。まず、曲が大変長く、聴き通すのに根気がいること。それから、メロディや構成が親しみやすいとはいえず、何度か聴いただけでは曲を覚えられないという理由も大きい。反論を承知で言えば曲の骨格が弱い、あるいは完成度が低い。たとえば、ベートーヴェンやブラームスの曲を口ずさめば、曲の姿をイメージして頭の中で音楽を膨らませることはそんなに難しくない。「田園」の第1楽章など、そのままオルゴールで奏でられても何の違和感もないくらいで、既にそれだけで音楽になっている。それが可能なのは曲の骨格がしっかりしているからだ。

マーラーとブルックナーの曲は、そのように単音だけで奏でるとたいした魅力は見いだせない、という僕の見立てに反論する人は少ないと思う。言い方を変えれば、スタイルこそまるで違っているとはいえ、両者はオーケストレーションで聴かせる音楽ということでもあり、その点でそれまでの作曲家と異質のオーラを放っているというのも事実ではある。

両方を愛好するリスナーが多くいる一方で、共通点はここまでに書いてきた通り、「長い」「魅力に欠けるメロディ」の2点だけというのが僕の現時点での見解で、両者を一絡げに語るのは、プログレッシヴ・ロック・グループをすべて同類として語るのと同じくらい間違っていると思う。

ブルックナーで最初に聴いたのは、父が所有していたベーム指揮ウィーンフィルの第7番で、最初に聴いたときには、ただ音が通りすぎて終わってしまった。つまり何も引っかからず、何も感じなかったということ。特に嫌な印象もなく、ただただ関心を持てなかった。好きの反対は嫌いではなく無関心、という言い方があるけれど、そうだとすればまさに好きと対極の感想だったということになる。

それでも例によって根気強く聴き続けた。なぜなら、半年くらい後にマゼール指揮ミュンヘンフィルのコンサートに行くことになっていてメインがブルックナーの交響曲第3番だったから。このコンサートに行こうと思ったのは一度クラシックの生演奏をちゃんと聴いてみようと思っていたときに、大好きなワーグナーのタンホイザーが聴けるプログラムだったから。つまりブルックナーの第3番は特に関心を持っていたわけではなかった。

とはいえ、せっかく高いお金を払ってコンサートに行くのだからと予習はしていこうと思った。ではどのCDを選ぶかとなったときに目に入ったのはカラヤン指揮ベルリンフィルの全集。クラシック聴き始めのころはカラヤンを選んでおけば間違いないだろうと思っていた(今でもそれは概ね間違っていないと思っている)のと、お値段も安かったというのがその理由。

ところが第3番を何度聴いてもそれほど好きになることはなく、やはりブルックナーは僕にとって遠い存在であり続けていた。

ブルックナーの交響曲は、壮大なスケールで描くオーケストレーションに持ち味があり、それに目を向けると派手な音楽ではあるんだけれど、音色は極めて渋く、地味(辛気臭いという声もある)で、遊び心がなくて煌びやかな高揚感がない。女性ファンが少ないのは恐らくそれが理由だと思う。僕もその良さがぜんぜんわからなかった。それに極論すればブルックナーの曲は全部同じだと言ってもいいと思う。「ブルックナーは9曲(あるいは11曲)の交響曲で自己の音楽を表現した」とポジティヴな言い方をする人もいるけれど、メロディも曲の展開もバリエーションが少ないのは紛れもない事実じゃないだろうか。

そんな、魅力をわかっていない状態で観たミュンヘンフィルの(2013年4月)の演奏は、壮絶とすら言える迫力と完璧なアンサンブルで、音楽人生においても何度も経験したことのないような感動を味わことになった。今思うと、本当に素晴らしい演奏が聴けたもんだと、いい加減な動機で行ったはずのコンサートとの出会いに感謝しているほどである。

それからカラヤン以外の演奏をいくつか聴き進めていくうちに、どんどんブルックナーの素晴らしさに惹き込まれていったというわけです。

どうやらブルックナーについては、統制が取れて、時にキビキビとメリハリのあるカラヤンの美しいスタイルが僕には合わなかったらしく、マゼールのようにゆったりと柔らかに、アメーバのように伸縮する(テンポが揺れる)、それでいながらオケを存分に鳴らすスタイルが好みにあっていたようで、好みの演奏が音楽理解を深めるという経験をしたのもこのときだった。もちろん生演奏で聴かないとわからないブルックナーの音楽のスケールの大きさを体で感じたとことも理解を深める大きな要因だったと思う。

また、チェリビダッケのブルックナー集に収められていた宗教曲テ・デウムを聴いたときに、これはブルックナーの交響曲と同じ世界だなと感じ、教会のオルガン奏者として音楽家キャリアを始めているブルックナーのルーツがここにあるということに考えが至るようになってきたことで、ブルックナーが描こうとしている交響曲のことが少しわかるようになっていった(ような気がした)。

今では僕にとってのドイツ3Bは、ベートーヴェン、ブラームス、そしてブルックナーというほどに愛聴し、ブルックナー交響曲集は10種類を超えるまでになっている。

とはいえ心酔していると言えるほどブルックナーが好きかと訊かれるそこまでは行っていない。前述の通り、ベートーヴェンやブラームスは魅力的な旋律とカッチリと構成されたオーケストレーションに音楽としての高い完成度があり、それと比べるとブルックナーの曲は旋律がそれほど魅力的だとは思えないし、曲の構成も完成度が高いとはあまり思えない。特に第8番や第9番の第2楽章など、あまり魅力的とは言えないメロディを何度も繰り返していたりして、「これがそんなにいいかな?」と思ったりもする。

一方で、一見地味な音色でも壮大なオーケストレーションでスケール豊かな音世界を作っているという点においては他の作曲家の音楽にはない大きな魅力で、そのあたりが精神性が高いと評価される大きな理由になっているような気がする。表面的な美しさでない部分に魅力があるブルックナーの音楽の本質が通好みと言われる、所以はそんなところにあるんじゃないだろうか。

厄介なもので、この精神性というものは聴き手の勝手な判断で行われることが多く、写真のショルティ指揮シカゴ交響楽団の演奏などは、オーケストラ(特に金管)の迫力と演奏の上手さを認めつつも、深みが足りないという評価をよく見かける。僕はこのようにオケを鳴らしきった迫力ある演奏はブルックナーの魅力をよく引き出していると思うんだけれど、そこはまあ好みの問題ということなんででしょう。ちなみに僕は肌に合わなかったカラヤンの演奏でも精神性が低いとだなんてまったく思わないし、自分に合わないと言ってきたカラヤンでも最後の録音になったウィーンフィルとの第7番など本当に素晴らしいとさえ思う。だいたい一介のリスナーが、一流の指揮者が研究を重ねた末に録音に臨んだ演奏に対して「ブルックナーをわかっていない」と言い放つ無神経さに僕にいつも唖然としてしまう(おっとクラオタ批判をまたしてしまった)。

もちろん、僕だって現時点でブルックナーを完全にわかったなどとは思っていないので、手持ちのCDをこれからも繰り返し聴いて、素晴らしきブルックナーの世界をより深く味わえるようになりたいと思っている。じっくり聴きこんで、これからより音楽の魅力がわかるようになっていけると思うとそれだけで楽しいじゃありませんか。

ザ・ブライアン・セッツァー・オーケストラ 2014年日本公演

Brian Setzer 2014

ロカビリーは僕の音楽趣味の本線ではなく、ブライアン・セッツァーは決して視界の中心に入ってきているミュージシャンではない。これまでも、そして多分これからもそういう存在にはならならないんじゃないかとも思っている。でも、この人ほどミュージシャンとして心底リスペクトできる人はいない。

90年代になってから後追いでストレイ・キャッツを聴いたのは、やはりロカビリー(というか英国で人気が高いジーン・ヴィンセントか?)を自身のルーツに持ち、後にビッグ・タウン・プレイボーイズと純ロカビリー・アルバムまで出してしまったジェフ・ベックがインタビューで名前を持ち出していたからという動機からだった。

ハードロックかプログレばかり聴いていた当時の僕に大いに魅力的に映った、というほどではなかったものの、ロックの熱さはちゃんとあるし、意外なポップさもあり、これはこれでアリかなくらいな軽い気持ちでそこそこ聴いていた。ストレイ・キャッツの後は、第一線での活躍という印象がなく、一部熱心なファンが付いたマニアックなロック・ミュージシャンというイメージで見ていて特に関心を持ち続けていたわけではなかった。

まだ外回りをする仕事をしていた99年のある日、移動中のクルマでかけていたラジオから聞き覚えのある曲が流れてきた。あれ?「これってストレイ・キャッツ?でも派手なホーンアレンジがあってにずいぶんと賑やかだな」なんて思っていたら、それがブライアン・セッツァー・オーケストラだった。

その後いろいろ調べてみると、アルバムがヒットし、グラミー賞までもらっているという。新聞にまで取り上げられ、オーケストラ結成当初から周囲に「うまくいくわけがない。やめとけ。」などと言われながらも、「いや、ロカビリーとビッグバンドは相性がいいはずだ。」と信念を曲げずに続けた結果、3枚目のアルバムでついに花開いたという経緯までも紹介されていた。

そもそも大人数のオーケストラという経済的に不利な活動形態で、メンバーを集めて活動を維持することだけでも大変なのに、自分の信じる道を進み、素晴らしいものを作り上げ、ついに大衆を認めさせてしまった。僕はこういう話に滅法弱い。こんな話を聞かされたら応援しないわけにはいかない。

直後の来日公演を観たら、応援しなきゃという気持ちさえどうでもよくなってしまった。なんといってもパフォーマンスそのものがとても素晴らしかった。底抜けに楽しく陽気で、バンド一体となったエネルギッシュなサウンドはまさに圧倒的。音楽としてもしっかりとしているし、サービス精神も旺盛で、まさにこれぞエンターテイメントと言えるステージに完全に打ちのめされてしまったのである。その後も来日公演に何度も足を運び、毎回期待を裏切らないパフォーマンスで幸せな気分にさせてもらってきた。

おかしな話ではあるんだけれど、トリオ編成だったストレイ・キャッツのときに耳を惹いていなかったセッツァーのギターが、オーケストラでの演奏を聴き始めてから俄然魅力的に聴こえるようになってきた。僕は、音楽である以上は機械のような正確さで弾くことがテクニックであるとはまったく思っていなくて、芸として優れていながら音楽的なエキサイトメントがあるかどうかを評価軸としていて、その観点でセッツァーのギターはとてもレベルが高い。それに遅ればせながら気ついたというわけである。

実はギタリストとしてのセッツァーについて言えば、93年のポール・ロジャースの「Muddy Water Blues」というトリビュート・アルバムで実は「この人凄いな」と思っていた。このアルバムは曲ごとにギターの名手を招き、それぞれがソロを取るという企画性の高いもので、ハードロック系のギタリストが腕を競っているところが聴きどころになっている。また、ブルースとはいえ、脇を固めているのがいわゆるハードロック系のメンバーなのでサウンドはヘヴィーだ。その中の "I Can't Be Satisfied" にセッツァーの名前があったときには「なんでロカビリーの人が?」と思ったものの、聴いてみたら感心してしまった。いつもと同じあのギターをヘヴィな曲でカマして、違和感ないどころか堂々と存在感をアピールしていたのから。感心というよりは、「うわー、ここでもこの人自分の道を貫いているなあ。」と思わずニヤリとしてしまったという方が正しい。

そんなセッツァー、オーケストラを率いてひさびさの来日、妻にもあのステージを経験させてあげたいと半ば無理やり連れて渋谷公会堂に行った(CC Lemonホールじゃなくなっていたのね)。

相変わらずの楽しいステージに、カッコいいセッツァーの姿を拝めて満足。観るたびに、この人は生粋のミュージシャンだなと思う。とりあえず売れているからとか、これで生活しているからとか、うまくいかなくなったら裏方に回って食いつないでいけるかな、なんて計算がない。例えCDをリリースできなかったとしても、きっとどこかの街角で演奏しているに違いない。死ぬまでこの人はロカビリーをやり続けているはずだ。こうやってギターを弾いて歌うことがこの人の生き方そのものであることがヒシヒシと伝わってくる。そこまで思わせてくれるミュージシャンはそうはいない。

ただ・・・今回はさすがに少し衰えを感じてしまったのも事実。特に前半は指がもつれ気味だったし、全体にギターのキレがなくなっていたように思う。家に帰ってから2001年のDVDを改めて観てみたんだけれど、やはりキレ味がぜんぜん違う。よく考えて見ればセッツァーももう55歳、それも仕方がないことかもしれない。更に言うと、オーケストラのメンバーも以前のようにソリストとしてキャラも実力もあった人が今回は見当たらず、ステージ全体が少し地味だったのも精彩を欠いて見えた理由かもしれない。もっとも新しい(といっても5年前だけど)「Songs From Lonely Avenue」という素晴らしいアルバムからは演らず、「Dirty Boogie」「Vavoom」からの曲ばかりのセットリストも新鮮味がなかったし、アンコールを含めても80分程度という短い時間だったのも正直なところ物足りなさがあった。

年齢との戦いや長期にわたってレベルの高いメンバーを維持する難しさという課題もある中で、いつも満点の内容というのはさすがに求めすぎなのかもしれない。

というわけでいくつかのガッカリはあったものの、僕のブライアン・セッツァーへの忠誠心にいささかの変化はなく、これからもずっとこうして活躍していってほしいと願って止まない。なんてったって、あなたは生ける文化遺産と呼んで良いミュージシャンなんですから!

「かぞくモメはじめました」-安心して観れるアメリカ・ホームコメディの王道

かぞくモメはじめました

最近家で観た映画。

トム・クルーズが主演ということで話題になっていた「オブリビオン」。そしてキャストも魅力的でPTAの傑作として語れれている「ザ・マスター」。

どっちも非常につまらなくて、わざわざ毎回プロジェクターをリビングにセッティングして映画を観ている身からすると、映画を観ることじたいが少々面倒にすら感じ始めるくらいのダメージがあった(苦笑)。

さて今週はどうしようか、とレコーダーHDDのライブラリーを探すと妻が選んで録画してあったと思われる妙なタイトルのものが見えた。それが「かぞくモメはじめました」。予備知識ゼロ、録画した妻も選んだことすら忘れているという期待値の低さで観始めた。

原題は「Parental Guidance」。

【以下、ネタバレあり】

期待値が低かったせいもあったと思うんだけれど、これはアメリカ映画の王道を行くホームコメディで、気軽に観れるジャンルのものとしてかなり上出来な映画だった。

まだ子供が小さい、ある5人家族で両親が家を空ける事態になり、母方の両親が子守で呼ばれる。教育方針が大きく食い違って関係良好とは言えない母親とその両親、いかにも問題を抱えていそうな3人の子どもたちが冒頭から紹介され、「ああ、これがなんだかんだうまく行くようになって、家族円満っていう話なんだろうな」と誰でも予想がつく。

でも、ここで出てくる問題や価値観は人類普遍のものばかり。だから安心して観て、共感して、一緒に笑って泣ける。ちなみにキャストが地味なせいか日本未公開、話題にすらなっていない。だから日本で観た人も「4枚まとめてレンタルキャンペーンのときについでに借りた」というような人が多いらしく、思わぬ拾い物だったという声が上がっている。

気分よく映画を見終えることができるという意味で、最高レベルの映画と言えましょう。休日の午後にピッタリ。

それにしても驚いたことがひとつある。

日本でも、最近は幼稚園や小学校の運動会で、競技をして勝負をつけないとか、徒競走でみんなで仲良く横一線でゴールするとかお花畑教育をやっているところがあるらしいんだけれど、同様なことをやっているエピソードが出てくる(3ストライクでも三振扱いにならない)。

優勝劣敗、弱肉強食のアメリカでもそんなナンセンスな教育方針をしようというところがあるということに心底驚いてしまった。もちろん映画の話ではあるけれど、現実になければ映画のネタにもならないだろうから実際にもあるんでしょう。

僕は、子供の頃から運動が苦手で勉強も中の中レベルだったんだけれど、勝ったり負けたりを経験することは重要なことだと思っているし、「仲良し」教育を受けた子供たちだって大人が仕組んだ無理のある世界であることくらいそのうちに気づく。子供を子供扱い(といかほとんどペット扱い)するからこういうおかしな教育方針が出てくるわけで、でもまさかそれをアメリカ映画でそういう教育方針のバカバカしさを代弁してくれるとは思ってもみなかった。

まあ、何はともあれ、歴史的傑作とは違うものの、ホームコメディの王道であるこの映画はオススメです。レンタル屋にあったら是非手を伸ばしてみてください。

ラ・フォル・ジュルネ 2014 を楽しむ

LFJ2014-1

【ただいまクラシック歴18ヶ月目】

5/3(土)
【1】
指揮:小泉和裕
演奏:東京都交響楽団
演目:ベートーヴェン 交響曲第3番「英雄」
会場:ホールC

【2】
演奏:プラジャーク弦楽四重奏団
演目:ベートーヴェン 弦楽四重奏曲第11番「セリオーソ」
ベートーヴェン 弦楽四重奏曲第7番「ラズモフスキー第1番」
会場:ホールB7

5/4(日)
【3】
演奏:ボリス・ベレゾフスキー(p)
アンリ・ドマルケット (vc)
ドミトリー・マフチン (vl)
演目:ショパン チェロ・ソナタ
ショパン ピアノ三重奏曲
会場:よみうりホール

【4】
演奏:トリオ・ヴァンダラー
演目:シューベルト・ピアノ三重奏曲 第2番
会場:ホールB7

今年も行ってきましたラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン。これで3回めの参戦です。

このイベントの良いところは、まさに初心者にピッタリだということ。1公演を通常コンサートの半分強くらいの長さに設定して、料金は半額くらい。プログラムが数多く用意されていてつまみ食いできる。そこにGW特有のお祭り気分が加わり、実に気軽にクラシックを楽しめるところが魅力です。

このブログで何度も書いている通り、むしろ避けていたクラシックを聴こうと思ったのは妻が紹介してくれたこのラ・フォル・ジュルネがきっかけで、生演奏を気軽に楽しむのにこんなに適したイベントはないと思います。

2年前は右も左もわからぬ状態で、チャイコフスキーとラフマニノフのピアノ協奏曲を聴いて「ああ、生のオーケストラってなんて素晴らしいんだろう」と感動、昨年はフランス音楽の華やかさに魅せられ、とそのときどきにはそれほど関心を持っていなかった音楽の素晴らしさを知る機会となっていました。

今年は10周年記念ということで、各年にテーマとしてきたものの総集編とのこと。といえば聴こえがいいんですが、言い方を変えるとなんでもアリというごちゃ混ぜ状態。あと、昨年の教訓でホールAは避けようという条件でプログラムを物色すると知っている曲ではあまり魅力的なものがなく、それならまた新しい出会いを求めようということで室内楽を中心としたプログラムを選んでみました。

【1】
これまで日本のオケの実力に疑問符を投げかけてきたものの、まだ聴いたことのない都響で会場はホールC、そして大好きな「英雄」というわけで選んでみた。席が1階の8列目と近かったこともあってか従来の日本のオケに感じなかった楽器の鳴りっぷりの良さが嬉しい誤算。厳しく見ればそれでもまだもう一声オケの一体感と迫力が欲しいし、傷こそなかったものの金管は余裕がなかったことも事実だけれども、コンマスの熱の入り様もよく、好演だったと思います。生で観るとオケの動きがわかっていいですね。指揮者の棒捌きは地味で観ていて面白いとはいえず・・・。テンポが全体に遅く、ピリオド・スタイルとは真逆の演奏で、妻は間延びが耐えられなかった(特に第2楽章)ようでした。

【2】
ベートーヴェン弦楽四重奏曲中期の代表作2曲のプログラムで事前に予習はみっちりとしていった。初めてのB7ホールは約800人収容で、演目からある程度人気を得ているが故の広めの会場。席は後方で、演奏が始まると音がかなり遠い印象。というか音楽演奏のためのホールではなく音がかなりデッドで音がほとんど響かない。ステージが低く視覚的にもよろしくない環境で後方席はちょっとキツかった。演奏は悪いとは思わなかったんだけれど、会場のマズさに閉口。このときはこんなものかと思ったんですが・・・。

【3】
こちらも初めてのよみうりホール。コンサートのためのホールではないものの、一応演奏会も想定してると思われる会場とあって楽器の響きは良好。席が7列目の中央というのも功を奏したかもしれない。やはり前日のホールB7の音響は特殊だったと思わざるをえない。チェロの胴鳴りから豊かに響いてオーディオでは絶対に出ない素晴らしい生音を堪能できました。ピアノ三重奏曲でのバイオリンもとても良い響き。ベレゾフスキーのピアノはミスタッチが多いとツイートされたりしていたけれど僕にはわからなかった。いずれにしても4回のプログラム中もっとも楽しめた良いコンサートでした。

【4】
再度B7ホール。左端だったとはいえ今度は8列目と前の方でだいぶ音は聞こえたけれどやはりこの会場は音が響かない。よみうりホールで良い音で聴いたばかりだけにチェロとヴァイオリンの響きが萎んで聴こえてしまう。曲はショパンに比べると古典的でわかりやすく、やや長めの曲ながら素晴らしいコンビネーションで演奏を堪能できました。

というわけで、今回は背伸びして室内楽系を中心に選んでみたけれど、ちょっと僕にはまだ難しかったかもしれません。もちろん演奏の良さ、曲の素晴らしさは感じられたのだけれど、やはり室内楽系はちんまりしていて、何かこう興奮するものがないので時に少々眠くなってしまったのも事実。まだまだ、もっと勉強しないといけませんね。とはいえ、チェロの音の美しさは印象的でもちろん観てよかったと思います。あと、B7ホールはちょっと考えもの。よほどのプログラムでも無い限り次回からは積極的に選ばないと思います。

さて、来年は何がテーマになるのかな?

で、2日め終了後は恒例(?)のVIRONでのディナー。これもすっかり楽しみになってしまっています。

LFJ2014-2
LFJ2013-3

うさぎのもも肉とアンドゥイエット、そしていつも美味しいパンを堪能しました。思わず唸りたくなるくらいの美味さ。贅沢なGWの過ごし方でした。

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