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趣味の人生を楽しむサラリーマンの日記

食品関係の偽造問題-悪いのは業者だけなのか?

精肉

もうかなり昔のような感じがするけれど、ほんの数ヶ月前まで食品表示の偽装が大きなニュースになっていた。古くは賞味期限の偽装も話題になったことがある。

僕は学生時代(25年くらい前)に、近所のスーパーの精肉部門でアルバイトをしていた。バブル時代ということもあってお店も寛大で夏休みなど長期休暇のときだけ雇ってくれるという形態で出たり入ったりしながら、高校1年生の冬から大学を卒業するまで足掛け6年以上もやっていた。

他のアルバイトはほとんどやったことがなく、いろんな経験を積むという意味では良くなかったものの、例えば近所に競合店ができたらどうなるか、人事異動で責任者が変わるとチームがどう変わるのか、同じアルバイトでも仕事をしっかりやる人とまったくやらない人がいるところなどを長期的に見ることができて、社会とは、会社とはこういうものなんだ、ということを学ぶ場所になっていたと後になって思うようになった。だから、わがままに長期間に亘って季節労働をさせてくれていたことを今でも感謝している。

話を戻そう。

その時代(80年代後半)のスーパーでは、今となっては騒ぎと扱われていた偽装は当たり前のようにやっていた。僕が働いていたところは、例えばある和牛を松阪牛として売るようなブランド偽装はやっていなかったけれど賞味期限の偽装はやっていた(当時は消費期限という言葉はまだなかったような気がする)。

そのときの経験から賞味期限の偽装は、根本的には消費者に問題があると思っている。

例えば豚肉は、6日くらい店頭の冷蔵ケースに置いてあっても大きくは褪色しないし味が落ちるわけでもない。しかし、消費者は1日でも新しい日付のものを買っていく。加工日が当日でないもの以外は、だからどんどん売れ残っていく。仮に3日前の加工日のものが置いてあったらそれが売れる可能性はほとんどない。

こうした、食するのにまったく支障がないのに売れ残っていくこと事態を防止するために、賞味期限を3日と設定して3日めに再度ラップし直して新しい日付のラベルに張り替える。これを「巻き返し」と呼んでいた。そして次の3日後まで残ってしまった場合は廃棄する、というやり方である。他の肉においてもパックに貼られた賞味期限まで鮮度が保てないようなラベルの貼り替えはさすがにしていなかった。

この方法は確かに100%誠実とは言えない。しかしながら、必要以上の食品廃棄をなくす意味で悪いやり方だとは今でも思わない。

基本的に調理されて提供される肉において、食べ比べて加工日1日の差を感じ取れる人はまずいないだろう。それでも店頭冷蔵ケースの棚の奥から引っ張りだして最新加工日のパックを買っていく人が数多く存在する。ここに根本的な歪みを生む原因がある。

そもそも、生肉を買ったら冷蔵庫に入れて2日以内くらいまでに消費するか、冷凍して長期保存するかどちらかである場合が多いと思う。だから先の豚肉の例で6日間の賞味期限に対して加工から3日経ったものでも何ら問題はない。それでも客は最新日付にこだわる。日付が少しでも古いものがあればそれが残って行き、そのまま廃棄されるのではないか、という想像力を持っている人は少ない。

以前、新聞の投稿でこんな内容のものがあった。投稿者は高齢の方で、牛乳を買おうとするときに製造日がもっとも新しいものを選んで買い物かごに入れようとしたところ、孫に「これは今日使うんだから古い日付のものでいい」と窘められ、反省したというものだった。ちなみに僕も自ら進んで古い日付の牛乳を買うけれど、それはここまで書いてきたような経験があるからこそであって、子供にそう教育したこのお孫さんの両親はなかなかたいしたものだと思う。

というわけで、賞味期限の日までは食べる鮮度が保たれているという条件付きで賞味期限の偽装は間違っていないというのが僕のスタンス。客は選ぶ権利がある、廃棄は店の問題などといった意識の低い消費者が多くいる以上、無駄な廃棄を防ぐにはこの方法しかない。

一方でブランド偽装は話が違ってくる。A3ランクの無名和牛を松阪牛と称して売るのは悪質な詐欺以外の何者でもない。詐称する側の言い分としては、「どうせ食べてもわからないくせに」という考えが根底にあるようだけれど、偽装肉を食べてあまり美味しくないと思う人がいたら松阪牛はこんなものかと思われ、本物を作っている人たちを冒涜することになる。

ただし、消費者も必要以上のブランド意識は捨てて、良い物を求める人はそれなりの味覚を磨く必要があるという意見は正しいと思う。僕は生肉を見ればおよその値段はわかるし、焼いた状態でも食べればだいたいの値段は想像がつく。ある観光地でご当地A5ランク和牛を焼き肉で食べたときには「これは最上級の肉ではない」とハッキリわかったので、そう思ったらその店には二度と行かなくなる。

食品偽装にはもうひとつ「芝エビ」と「バナメイエビ」のようなもタイプがある。本来はこれもやってはいいけないことだけれど事はそこまで単純ではない。日本ではプリプリ感のあるエビが好まれ、その場合はバナメイエビの方が美味しいと感じる人が多いという。「鮭弁当」と「トラウトサーモン(ニジマス)弁当」も似たようなものか。これらは元々の食材の使われ方があったものの、代替食材の方が安くて同等程度(あるいはそれ以上)に美味しく仕上げることができるようになり、そうかと言ってメニュー名を変えると品質が下がった受け取られるために元の食材でそのまま名乗るうちに習慣になったもののようだ。これは一言で悪いとはなかなか言えない。

いずれにしても、その業界で働きはじめて「そういう習慣だから」と言われて仕事を覚えさせられたら、それに反論してその仕事を辞めるという行動に走る人はまずいないと思う。悪質なものとそうでないものをうまく線引きできる軸のしっかりとした人はそうはいない。誤解を恐れずに言えば、消費者がモノを見定める価値観がないからこういうことが起きるのであって、今は沈静化しているもののいずれまた起きるような気がする。

僕だって最初から「巻き返し」を理解して従っていたわけではない。まだ物事の考え方に軸がない学生時代には、そこまで考えが及ばないから「そういうものか」と流されていたに過ぎない。でも今は違う。倫理的におかしいと思ったものは例え周囲の人間が流されていても僕はハッキリと「いけない」と言ってしまう。だからかつての雪印乳業や最近のJR北海道のような不正が自分の組織にあれば、問題だと声を大にして言うか、その会社を辞めるかしていると思う。

人の道を外れたことをしないと自分の身を守れないような組織は悲しいとしか言いようがないけれど、それも人が作った組織である。人は集団になればなるほど思慮が浅くなり、流されてしまう生き物だ。でも、おかしいと思ったら行動しなくてはならない。集団に流されているだけの自分で良いと思っていたら、自分の存在意義はゼロということになってしまう。そう思える人が増えて欲しいと思う。

(肉知識の余談)

いわゆる焼肉屋で提供されている「ロース」肉は実はロースではなく、モモ肉という習慣がある。ロースはすべての部位の中で脂身が一番多いところで柔らかく旨味が豊か。一方でモモ肉は肩肉と並んで脂身が少なくて固い部位で旨味は乏しい。そもそも、ロース肉は手切り(スライサーを使わずに包丁でカットしたもの)に加工しづらいこともあって、スーパーの肉屋でロースの手切り肉が売られているケースはまずない。一方でモモ肉の手切り肉はカルビ(肩ロースまたはバラ)と同様に見かける。そのモモ肉がどういうわけか焼肉屋ではロース肉と称して売られているというのが実態。

知り合いに脂身が苦手な人がいて「でもロースなら食べれる」と言っていたので話を聞いてみると焼肉屋の「ロース」肉のことだった。こんな間違った知識を一般の人に植えつけるこの焼肉業界の悪しき習慣は一刻も早くやめるべきだと思う。

一方で、スーパーで売っているロース肉と焼肉屋のロース肉の違いに気づいている人がほとんどいないことが人間の味覚のテキトーさを良く表していていることもまた事実である。

マーラー 交響曲第2番「復活」 ヤンソンス指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団

ヤンソンスのマーラー2番

妻が居ぬ間にエンジョイする(?)シリーズ本日の第2弾は、まだ映像を見ていなかったヤンソンスとコンセルトヘボウ(RCO)のマーラー交響曲第2番にすることにした。マーラーはもっか勉強中の身で、まだよくわかっていない。それでも第2番と第5番は好きな曲だと公言できるくらいにはなってきた。

このヤンソンスRCOのSACDシリーズはマーラーに限らず、コンサート会場にいるかのようなホールの響きを再現した他にはない素晴らしい録音のSACD製品で、このマーラー第2番にはおまけでDVDが、第8番はなんとブルーレイが付いている。

2番のDVDは、ハイビジョンを見慣れた目にはぼんやりした画質で少々ガッカリするけれど、やはり映像の持つ威力は大きく、汗を滴らせながらのヤンソンスの熱演に充実の時を過ごすことができる。マーラーはオーケストレーションの複雑さに大きな特徴があるだけに各楽器の動きが見えるのも音楽の理解に役立つ。舞台裏でトランペットやホルン、打楽器を鳴らすところもあって、映像で観ればそんなところも効果がよりわかりやすい。

ヤンソンスと言えば、あまり癖がなくアッサリした演奏をイメージされる方も多いでしょう。でもそれ故に音楽の造形が美しく、スマートかつ芳醇な音色を持つことができているとも思う。

このマーラー第2番は、溜めるところはテンポを遅くしてスケールの大きな演奏に仕上げているところがちょっと予想外。それでもヤンソンスらしい品の良さは決して失っていないところはさすが。ついでに言えば、思わずフライングしたくなる「ブラボー!」も、音がしっかりと鳴り止んでから起きるという聴衆のレベルの高さにも感心する。

一流の指揮者に一流のオーケストラ、そして恐らくコーラスも実力者たちのはず(座ったままで満足に発声ができるのはレベルが高くないと無理らしい)。DVDなだけにドルビーデジタルでの収録が唯一残念ではあるけれど元の録音が優れているので映像を観ているとあまり気にならない。

それにしても、2本集中して音楽の映像を観るとさすがに疲れますね。こんなことは滅多にしないと思いますが。

「ライヴ・アット・ザ・ロニー・スコッツ」ジェフ・ベック

Jeff Beck Ronnie Scott's

Perfoming This Week...Live At Ronnie Scott's / Jeff Beck

今日は、珍しく休日に妻が外出。外は4月なのに寒いので音楽三昧を決め込むことにした。妻がいるときにはなかなか観れない映像作品を、ということで久しぶりにジェフ・ベックのロニー・スコッツのライヴを。100インチ・スクリーンとSONYのセンター・スピーカーを導入してからは初めての鑑賞。

ジェフ・ベックは僕がもっとも好きなギタリスト。ポール・ロジャースが言ったとされる「世の中にギタリストは2種類しかいない。ジェフ・ベックとそれ以外だ」というのは僕の中のジェフのポジションを言い当てている。本当はジミ・ヘンドリックスもそう言える人だと思うけれど、70歳を目前にした今でも100%現役と言える内容の濃い活動をしているジェフこそが僕にとって唯一無二のギタリスト。

このロニー・スコッツ・クラブでのライヴ映像は、近年のジェフのパフォーマンスのエッセンスが集約されていると思う。僕はギターは(というかどの楽器も)まったく弾けないけれど、他のギタリストと根本的に弾き方、発想が違っているのはよくわかるし、映像を観ればそれが尚更よくわかる。

カメラワークが素晴らしく、手元の接写が多いのはアマチュア・ギタリストはもちろん、ギターが弾けない人でも十分に楽しめる。ギタリストと言うと、正確さや流麗さといったテクニックを評価しがちだけれど、肉体の一部として音が出てくる人はそうはいない。好き嫌いはともかく、この映像を観てそれを感じない人はいないでしょう。

ごく最近の活動状況はあまり追っていない(ちょうど来日公演があったばかり。キーボードなしのギタリスト2名というカルテットだったとか)のでよく知らないけれど、このときのラインナップは近年でも最高レベルだったと思う。ヴィニー・カリウタのドラムは安定感抜群で、やはりドラムがしっかりしていると安心して見ていられるし、ジェイソン・リベロの「本当はジャズやってるけどまあサポート役で」という余裕の弾きっぷりもバンドにフィット。若く外見の話題が先行していたタル・ウィルケンフェルドも堅実に上手い。何より、4人が楽しそうに演っていることがよく伝わってくるところが観ている者をも幸せな気分にさせてくれる。

ジョス・ストーンやイモーゲン・ヒープがヴォーカルで、アンコールのあとにはエリック・クラプトンがヴォーカルとギターで参加とゲストも豪華で、イベントのスペシャル感も満点。特に「近所にいたからちょっと飛び入り」という普段着のような姿(でも時計は高そうだ)で気楽に演っているところがまた楽しい。

先にバンドを褒めたとはいえ、火の出るような攻撃性があるわけではなく、そういう意味では物足りなさがないわけではない。でもジェフもそういう円熟の演奏が似合うようになって、しかもその良さがあるし、クラプトンとの楽しそうなセッションを観ているとロック・ミュージシャンであっても歳を重ねるのは悪くないな、と思える素晴らしいライヴということに疑いはない。

ちなみに僕はロニー・スコッツ・クラブには2010年に行ったことがある。そのときはジャミロクワイのドラマーがやっているファンクバンドでこれがなかなか良いライブだった。(下の写真)

Ronnie Scott's myself

そんな経験を一応しているので、この場の雰囲気は良く知っているつもりで、あそこでこんなライヴが観れるのなら10万出しても惜しくないとさえ思う。

蛇足ながら、ブルーレイ盤の音の良さも特筆モノで、センター・スピーカーをアップグレードした恩恵を存分に味わうことができた。仮想空間ではあるけれど、このバンドを家に呼んだかのような体験ができるAV環境に自己満足できた有意義な時間でした。

「ヒッパー・ザン・ヒップ」 タワー・オブ・パワー

Hipper Than Hip

Hipper Than Hip / Tower Of Power

僕は音楽の基本はロックだけれども、フィーリング的にはファンクやR&Bも好きで、スティーヴィー・ワンダーやプリンスなんかは何枚かアルバムを持っているし、音楽としてもリスペクトしている。ジミ・ヘンドリックスだって黒人ならではファンクネスがあるわけで、ジャズも愛聴する僕にとってファンクはそんなに遠いところにいるわけではない。

特に好きなのがタワー・オブ・パワー。最初に見たのは89年の Kirin Beer's New Gigs というイベントでのこと。このときのお目当てはトリを務めたジェフ・ベックだったんだけれど、その前に出てきたタワ・オブ・パワーのパフォーマンスにインパクトがあった。その後、全盛期のアルバムを聴いてその魅力に取り憑かれてしまう。

そんなタワーの全盛期のライヴが5ヶ月も前にリリースされたていたとは知らなかった。FM放送用の音源らしく2枚組の各ディスクとも45分ずつという構成のスタジオ・ライヴ。

74年のライヴ、すなわち名作「Back To Oakland」がリリースされた後の演奏とあって、そのパフォーマンスはまさに絶頂期のスナップショットと言えるもの。鉄壁のホーン・アンサンブルとコーラス、レニー・ピケットの若々しくも熱いサックス、ミック・ジレットの力みが魅力のトランペット、ブルース・コンテの渋いギター、チェスター・トンプソンのジャジーかつファンキーなハモンド、ロッコとガリバルディの鉄壁かつ変態なリズムセクションを余すことなく味わえる。コレを聴いて体が動かない人がいたらファンクなんて一生聴かなくていい、そう断言する。

録音も狭い会場(って知らないけど多分間違っていない)で録った、オンマイクでダイレクトな音像であるところが更に演奏の凄さを後押し。ホーンのリアリティはもちろんのこと、ガリバルディのクリスピーでタイトなドラムサウンドがクリアで嬉しい。厳密に言えば音質は超クリアとまでは言えないものの、FMラジオの音源であることを考えればこれ以上は望めないレベル。ロッコのベースは主に厚みを出す周波数域がやや薄くて音像がややぼやけ気味に感じられるところはあるものの、ボトムの低い音域からしっかり録れているし、決して足りないわけじゃない。

演奏で特に凄いのが18分を超える "Knock Yourself Out" で、自由かつ伸びやかに展開される各ソロはもちろん、中盤のチェスター・トンプソンのオルガンとガリバルディのドラムの絡みが、スタジオ盤 "Squib Cakes" 後半パートを更にグルーヴィーにした感じで悶絶する。

らしくないのはジャケットのアートワークくらいで、こんなにカッコいい演奏が聴けるなんてそれだけでも幸せ。いやこんなにグルーヴィでカッコいい演奏は、それだけでもう文化遺産と言っても過言ではない。世の中のファンク好き、R&B好きの皆さん、聴いていない人は損してますよ!

ぶらん、2歳の誕生日を迎える

ぶらん2歳

我が家に来て1年と7ヶ月の愛猫、ぶらんが今日2歳の誕生日を迎えました。

ペットショップのケージの中で子どもと遊ぶ姿に愛嬌を感じたものの、その場では特に何もせず帰宅。翌日になっても頭から離れず、会社を定時に上がってもう一度ペットショップに行くといない。「ああ、あの子ならもう別の店に行っちゃいました」と言うので「連れ戻してください!」と懇願して、うちの子になりました。

結婚する前にマルチーズを飼っていたことがあって断然の犬好きだったのに、妻が猫を飼いたいと言っていたこともあって「猫もいいかな」なんて思っていた程度だったんだけれど、もともと動物が好きということもあって勢いで飼いはじめましたね。

犬が群れで行動する生き物で集団のヒエラルキーを守って行動するのに対して、個別行動を習性とする猫は自由気ままとかわがままという印象があって、人にも懐かないと勝手に思い込んでいたんだけれど、一緒に暮らしてみるとそうでもない。

否、自由気ままというのは確かにそのとおりで、一人(一匹?)でいるときもよくあるんだけれど、ぶらんは人好きで、例えばお客さんが家に来たときなんかもとりあえず近寄ってスリスリやる。犬が習性で媚を売っているのに対して自分の意志でやっているものだからから本音でやっている感があって素直に見えてくる。

最近は人間の行動を予測し、おやつがもらえる時間などには行動が機敏になったり、会社から帰ってくる時間になると玄関の前で待っていたりして、家族の一員という感じがますます強くなってきました。そうそう、家でお仕事をやっているとやたら見学したがるところも面白い(写真は浴槽掃除をしているときに見学に来たところ)。

人間好き、飼い主好きで適度に距離感を保つ猫という生き物は僕にとってとても心地よい同居人。家に笑いと癒やしをもたらす猫のいる生活、とっても楽しいです。

「ベートーヴェンの交響曲」 金聖響+玉木正之

金-ベートーヴェンの交響曲

【ただいまクラシック歴17ヶ月目】

金聖響と玉木正之の共著となっているものの、実際にはほとんど金聖響の解説、思いを綴ったベートーヴェン交響曲の専門書。(話を引き出したのは玉木氏の模様)

これはクラシックを聴いている人の多くが認めていることだと思うんだけれど、ベートーヴェンの交響曲は本当に良く出来ていると思う。

わかりやすいのに安易ではない。美しいけれど安っぽくない。しっかりとした構成。立派なオーケストレーション。ハイドンやモーツァルトといった貴族のためのBGMであった古典派の次に、大衆受けを狙わなくてはいけなかった最初の時期にここまで完成度が高いものを作ってしまったことには驚く他ない。探偵小説の始まりにして最高峰に位置するコナン・ドイルの小説に匹敵する決定的な古典と言って反対する人は恐らくいないでしょう。

僕もクラシックを聴き始めるにあたって最初に手を付けたわけだけれども、その後いろいろ他の作曲家を聴いてみると更にベートーヴェンの凄さがわかる。どの曲にもそれぞれの性格の違いがあり、駄作が1曲もない、ということを実現していると思わせる作曲家はベートーヴェンの他にはいない。

例えば、シューベルトも1番、2番、6番などはそれほど良い曲だとは思わないし、シューマンやメンデルスゾーンもベートーヴェンほどには曲の構成が優れているとは思えない。ドヴォルザークはどれも似たような曲ばかりだし、ブルックナーも極論すればすべて同じで少しバリエーションが違う程度。マーラーは2番~4番、6番と7番と9番は本質的には共通でバリエーションのように思える(実際、3番の第7楽章が4番の第4楽章になったりしている)。チャイコフスキーも前期の曲は印象が薄く、後期の曲も少々メロディが耽美的過ぎる嫌いがある。全曲優れていてそれぞれに個性があるという意味ではブラームスが思い浮かぶものの4曲しか書いていない。

そのベートーヴェンについて金聖響(ちなみに僕はプロの音楽家に「さん」とかは絶対に付けません。カラヤンさんとか言わないでしょ?)が思いの丈を熱く語っているのがこの本。

日本のクラシック評論家というのは、悪口を権威ぶって言っているだけで演奏や曲についてリスナーに何の情報提供もしていないと僕は思っていて、為になる本がまったくと言ってよいほどない。彼らの文章を読んでより音楽が深く理解できりようになったと思えたことが1度もないのである。「クラシックCDの名盤」という本なんて酷いもので、客観的視点がゼロの好みだけで語っている評論家に何の価値があるんだろうという思いしか残らなかった。特に宇野氏がハイティンクについて「顔を見ただけでなんと才能がない人かと思った」なんて書いているのなんて音楽評論でもなんでもなく単なる中傷、こんな人格が欠如している人が物書きとしてやっていけることじたいが異常としか思えない。

この本は指揮者の視点で曲の分析をしているもので、もちろん金聖響ならではの視点での譜面読み取りと研究に基づいたものになっている。読めばベートーヴェンの交響曲についての理解が深まること請け合い。特に僕のようにある程度わかってきたレベルの初中級者にとっては非常に為になる本だと思う。

特に金聖響がよく引き合いに出す大指揮者時代の演奏スタイルについてはちょっと考えさせられた。大指揮者時代というのはフルトヴェングラーからカラヤンくらいまでの時代あたりのことで、オーケストラが大規模化し、広く大衆に聴かれるようになり、よえい大規模で大袈裟なスタイルになっていった演奏のことで、クラシック・ファンの多くが好んでいると思われるスタイルのこと。

僕もそういう大指揮者時代の演奏が好きでバーンスタインやバレンボイムのベートーヴェン全集なんかはお気に入りのものだったりする。一方で、作曲された時代にはそのようなスタイルがイメージされていたわけではないという金聖響の主張は確かにその通りかなという気にさせてくれる。

妻が金聖響とOKEのベートヴェンのCDを何枚か持っていて、「録音は良いけど音が薄くて豊かさがないな」と感じていたんだけれど、この本を読むとなるほどそういう意図で演奏されていたんだなと納得できるし、同様な観点で一時期流行したピリオドスタイルの演奏についても「アリかもね」と思えるようになったのは僕にとって大きな収穫だった。

あと、評論家やクラオタをチクチク批判しているところも、僕が日頃から思っていることと同じで、ああ、まともな人なら同じようなことを思うんだなとちょっと笑ってしまった。このブログでクラオタ批判を以前に書いたことがあるけれど、今読み返してみたら金聖響の言っていることとほぼ似たような主張であることにもちょっと驚いた。

金聖響は指揮者であるたけに演奏についての評論をすることはないだろうけれど、このくらい主観と客観のバランスを取って音楽評論できる人がいないというクラシック文筆家の世界も相当病んでいるような気もする。ロック、ジャズと聴いてきて評論家のレベルが低いのは間違いなくクラシックですよ、ホントに。

話がそれてしまった。

もちろん金聖響の主張にも疑問を感じるところはある。氏の主張する譜面に忠実に演奏すること、作曲された時代を尊重するというのはひとつの考え方であって、指揮者が自分勝手に解釈して演奏するのも僕は別に間違っているとは思わない。譜面の指示が本当に適切か?と思われるケースがあることは本書でも触れていて、そういうところは忠実派の人もその通りに演奏しないわけなんだから、結局指揮者の勝手なんじゃないかと言いたくなってしまう。それに曲はあくまでも素材である、ということは別に否定されることじゃないような気がする。

(この記事を書いた日のNHK「クラシック音楽館」のインタビューで、ルドルフ・ブフビンダーが「どれが正解かとかはない。ストラヴィンスキーだって同じ自作曲をxx年後に指揮したら全く違う演奏だったんだから」という内容のことを言っていて、我が意を得たり、だった。)

そんなこんな、思うところはあるけれど、ベートーヴェンの交響曲が好きな人、もっと知りたい人はにこの本はお薦めできます。

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