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Enjoy Life, Enjoy Hobby

趣味の人生を楽しむサラリーマンの日記

アット・ザ・フィルモア完全版 / マイルス・デイヴィス

At The Fillmore

At The Fillmore / Miles Davis

常に時代の一歩先を進み、新しい音楽を作り上げたかと思えばもうその次に向かっていたマイルス・デイヴィスだけに、どの時期の音楽が素晴らしいかという意見は人それぞれに違いない。

それでも70年のマイルス、すなわち電化が本格化しはじめたころのマイルスは人気が高い。ウェイン・ショーター在籍時最後の瞬間を捉えた4月の「Live At The Fillmore East」(2001年リリース)の荒れ狂ったかのような演奏も今では評価が高いけれど、リアルタイムでアルバムとしてリリースされていた強みも手伝って「Miles At The Fillmore」がひとつの頂点であることに異論を挟む人は少ないんじゃないだろうか。

メンバーの豪華さもさる事ながら、やはり演奏が凄い。技術とか構成とかそういう音楽理論の話ではなく、バンドが発するエネルギー、躍動感、勢いが凄まじい。フィルモアという聖地にわざわざ乗り込んでいった当時のマイルスがロックに対抗しようとしていたことはよく知られるところで、演奏はジャズからの流れを引き継ぎながらスタイルとしてのジャズは完全に吹っ飛んで、ロックをも超越したアグレッシヴなサウンドを炸裂させている。

その「Miles At The Fillmore」、テオ・マセロによって水曜日から土曜日までの4日間の各50分前後のステージを、それぞれ25分前後に編集したものであることはよく知られるところ。これはLPレコードの片面にそれぞれ収録するという制約を逆手に取ってテオが大胆に編集。カットはもちろんのこと、基本的に同じようなセットリストだったはずの4日間がまったく違う内容だったかのように聴こえるほどの手の入れようだった。それはある意味、レコード芸術としての立派な作品だったと言える。

その「作品」だった「Miles At The Fillmore」、ついにその4日間の「原本」が正式にリリースされた。

実は「原本」はオフィシャルレベルの高音質ブートレグとしてかなり前から流通していた。ただし、なぜか木曜日は陽の目を見ておらず、土曜日はパーカッションがやたら強調されてキーボードが遠い妙なバランスで収録されていたこともあって、この「Miles At The Fillmore」が好きな人にとってはまだ半分が欠けているという思いが強かったんである。(この記事を書いたあとに調べてみたら、数年前に木曜日とちゃんとした土曜日も出ていたようです)

それが全部揃う。こんなにメデタイ事件はない。

注目されるのはまず録音状態。「Miles At The Fillmore」やブートレグでは会場の反響音が豊かで、特にマイルスのトランペットがかなり響いている。それが4日間とも反響音がかなり抑えられたオンマイクな音場になっているのは大きな違いだ。何やら混沌としたムードを伝える響きはもちろん魅力的だったけれど、ダイレクトかつクリアに楽器の音を捉えているこの録音状態は演奏を楽しむという意味でとても好ましい。各楽器のバランスはとても良い。ブートレグの土曜日のような偏りもなく、4日間ともすべての楽器がしっかりと聴こえる。総じて録音状態は素晴らしい。

4日間の演奏を聴いていると曲目が似たようなものでも内容は当然別物で、それぞれに大変興味深く楽しめる。テンションが低いところ、上がってくるところなんてまさにその日の気分という感じ。また、ショーター在籍の4月のフィルモアがまだロスト・クインテットの延長にあるのに対して、わずか2ヶ月しか経っていないにもかかわらず、グロスマンとキースの加入によってバンドとしてのサウンドカラーが一変していることも改めてよくわかる。

この「原本」に対して、「冗長な部分がある」とか「Miles At The Fillmore の編集の素晴らしさが逆によくわかる」という意見も少なからず見受けられるのは個人的には不可解だ。確かに指摘していることはその通りだと思う。すべてを聴くと演奏にも「あれ?」と思うところもある。でも真のファンならば、マイルスの、マイルスグループの音楽をとことん楽しみたいとは思わないんだろうか。「Miles At The Fillmore」は確かに編集が大変巧みであり、素晴らしい瞬間が凝縮されている。でも、それは生演奏の姿だとは到底思えない。

「Miles At The Fillmore」を良いと言ってしまうことは、たとえばプロ野球やサッカーを観るのなら好プレイ集を見ておけばそれで良いということにならないだろうか。野球もサッカーも、中だるみするところが必ずある。エラーもあれば凡プレイもある。でも本当に好きな人なら、そういうところを含めて最初から最後まで観ることがスポーツ観戦だと理解しているはず。

中だるみ、凡プレイ、エラーがあるのが生演奏。だから生演奏は面白いんだと僕は強く思っている。「Miles At The Fillmore」完全版はそんな生演奏の基本的なことを思い出させてくれるのと同時に、この文化遺産と言っても過言ではない音楽のありのままの姿を伝えた貴重な記録だと言えるんじゃないだろうか。

(余談)
今のフィルモア

これが現在のフィルモア・イースト跡地。2008年撮影。マイルスはもちろん、ジミ・ヘンドリックスやキング・クリムゾンを聴いている身には聖地と言える場所なので用もないのに立ち寄ったのでした。

リッカルド・シャイー指揮 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団2014年日本公演

シャイー2014

2014年3月21日
サントリーホール
【演目】
メンデルスゾーン 序曲「ルイ・ブラス」
メンデルスゾーン ヴァイオリン協奏曲(五嶋みどり)
(アンコール)J.S.バッハ 無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第2番
ショスタコーヴィチ 交響曲第5番

2015年からはミラノスカラ座の音楽監督就任が決まっているリッカルド・シャイー率いるライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の日本公演に行ってきた。

席は2階で後ろから2列目だけれど真正面で、距離も決して遠くないし音の響きは申し分なし。本当にこのホールは音響が素晴らしいし見やすい。

1曲めはメンデルスゾーンの「ルイ・ブラス」。音が出てきてすぐに本場ドイツオケの整った響きが安心感を呼ぶ。短い曲だけれど、交響曲に劣らないオーケストラのスケールを要求する曲で、軽快で華やかなメンデルスゾーンらしい響きを味わえる。音色はあまりツヤや華やかさはないけれどそこは老舗オーケストラの特徴なのかもしれない。

2曲めはグラミー賞を受賞したばかりの五嶋みどりをソリストに迎えたメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲。大股で堂々と立ち、体をくねらせながら何かに取り憑かれたかのようにヴァイオリンを弾く姿はテレビで観た通り。その見た目とは裏腹に出てくる音は清楚で決して過度な情念を上乗せしたようなものではないところはCDで聴いた通りの印象。僕はまだ技術的なところはわからないけれど、それでも良い演奏であることは感じ取れた。

ここまで、良い演奏とは思いつつ圧倒されるようなものまではちょっと感じなかった。眠るまではいかなくとも頭がややボーっとする瞬間もあったのは最近忙しくて疲労が溜まっているせいもあったかもしれないけれど、どうやらメンデルスゾーンは僕の好みにあまり合っていないらしい。演奏会の生演奏はもちろんそれだけで素晴らしい体験だけれども、曲が好きかどうかも結構重要なんだなという当たり前のことを感じた次第。

五嶋みどりのソリストとしての力量はむしろアンコールのバッハの無伴奏の方で、まともにヴァイオリン・ソロを聴いたのは初めてということもあってなかなか良かった。

そしてメインはショスタコーヴィチの交響曲第5番。

ちなみにシャイーとゲヴァントハウスと言うと、ベートーヴェンやブラームスの交響曲全集の快速テンポによる演奏のイメージが強く、ここでも同じような演奏が展開されるかと勝手に予想していたら、冒頭からゆったりと重厚な入り方。それでも重々しいところまではいかないところがシャイーの表現ということか。

この曲に入ってから俄然オケの鳴りが充実してくる。豊かなダイナミクスとカッチリとした合奏能力が素晴らしい。フルートをはじめ木管の美しさは特筆モノだし、金管の鳴りっぷりとティンパニの強打は迫力たっぷり。少し渋めのサウンドがショスタコーヴィチの曲によく合っている。反面、バーンスタインの演奏のように情念を感じさせるものはあまりなく、最終楽章を予想外に遅いテンポでゆったりと進めても現代風のスマートさがある。これはこれでひとつの素晴らしい演奏だったと思う。

翌日まで頭をボーっとさせるほどの感動こそなかったとはいえ、やはり良い演奏を聴くのは嬉しいし、心が豊かになる。また来週から仕事をがんばろうっって思えるのだから生演奏はやめられない。

「ザ・ロイアル・セッションズ」 ポール・ロジャース

ザ・ロイアル・セッションズ

The Royal Sessions / Paul Rodgers

洋楽を聴き始めてまだそれほど経っていない高校3年生(85年)ころ、レッド・ツェッペリン解散の後に目立つ活動をしていなかったジミー・ペイジが新しいバンドで復帰するというビッグ・ニュースが流れた。そのバンドのヴォーカルはブリティッシュ・ロック界で最高のヴォーカリストであるという。陽のロッド・スチュワートに対し、陰のポール・ロジャースという紹介のされ方をしていたことを今でもよく覚えている。

何だ「陰」って?と思いつつ、そのニュー・バンド、ザ・ファーム(The Firm)のデビュー・アルバムを発売と同時に入手して聴いてみた。まず、サウンドがあまりハードでないところが、ハードロックにズッポリとハマっていた血気盛んな高校生にはやや肩透かし。いや、今聴いてもこのバンドはものすごく地味だと思うので、当時の僕は正直言って「ツェッペリンの続きはこれしかないんだから」と無理やり納得して聴いていたように思う。今と違って、アルバイトで得た最低限の生活資金で LP 1枚買うことはかなり覚悟を決めてのことだったというのもあって、理解できなくても何度も繰り返し聴くという根気も時間もその頃はあった。

このザ・ファーム、理解できなかったのはサウンドだけではない。最高と言われているヴォーカリストのどこが最高なのかわからなかったのである。ハイトーンのシャウト型ヴォーカルばかり聴いていた当時の僕の耳はそんな程度だったということ。ところが歌詞カードを手に歌ってみようと思ったら、まったく歌えない。なんだこの歌い方は。

そしてその後に続いて出たバッド・カンパニーのベスト盤「10 from 6」を、フリーの「Best Of Free(現在のCDとはまったく構成が違う)」を聴き、これらバンドの素晴らしさを知ると同時にポール・ロジャースというヴォーカリストの偉大さを思い知るようになる。思えばソウルフルなヴォーカルという、よく耳にしていた形容を理解できるようになったのもロジャースのおかげ。

プロのヴォーカリストたるもの、発声と音程のコントロールは最低限できていなくてはいけない。本来当たり前のことだけれど、日本のテレビで見かける歌手たちでこの条件を満たしている人は1割も見かけない。その最低限のレベルとは何か、ヴォーカリストの基準を僕に教えてくれたのもロジャースだった。もちろんロジャースは最低限など軽く超越して完璧にヴォイス・コントロールするし、何よりアドリブでここまで自由自在に歌える人は僕の知っている限り、すべてのジャンルに視界を広げても他にいない。

ロック界で圧倒的No.1の実力を持つロジャースが、黒人音楽であるブルースやR&B、ソウルをルーツに持っていることはよく知られている。それ故に、これまでにも「Muddy Waters Blues」やミニ・アルバム「The Hendrix Set」のような企画モノがあった。これが凄い。他人の曲を自分色に染め上げて、しかも余裕たっぷりに歌い切ってしまう。

ただし、これまでのアルバムはあくまでもロックの中からのアプローチだった。バック・ミュージシャンはニール・ショーンはじめ完全なロック畑の人で、自分のルーツをロック・ヴォーカリストの立ち位置から演ってみたものだったように思う。

この久々のアルバム(驚くべきことにボーナス・トラックとDVD付きで日本盤までリリースされたのであえてカタカナで書かせてもらおう)「ザ・ロイアル・セッションズ」は、メンフィスにあるRoyal Studioで、本物のR&B、ソウル系のミュージシャンをバックに制作されたもの。Webサイトによると録音は基本的にライヴで行っているらしい。

これらは聴いたあとで知った情報だけれども、バックがロック畑の人でないことは前知識がなくともすぐにわかる。ブラス・セクションや女性コーラスが付いたいかにもメンフィスなムードはもちろん、ロック系ミュージシャンとは語法が明らかに異なるサイド・メンバーによるサウンドは紛うことなきサザン・ソウルの世界。

ちなみに僕はR&Bやソウルはフィーリングとしては好きだけれど、熱心な聴き手ではない。タワー・オブ・パワー、プリンス、スティーヴィー・ワンダーのCDは結構持ってはいるものの、その程度。オーティス・レディング、ウィルソン・ピケット、サム・クック、マーヴィン・ゲイといった有名ドコロのCDは、数多くのCDライブラリを持つ身でありながらかつて一度も買ったことがない。だから本物のR&Bのテイストがあるからという理由だけでこのアルバムを持ち上げようとは思わない。

このロジャースのアルバム、始まって歌が入った時点でロジャースの世界に入ってしまうのはいつのことながら、本物のR&Bサウンドの中で歌われるリラックスしたヴォーカルがひと際素晴らしい。ロジャースが好きな人はもちろん、古いR&Bが好きな人すべての人に聴いてもらいたいと思うほどのハマりぶり。やはり、これだけ余裕たっぷりに気持よく歌われると聴いている方も気持ちよくなれる。何よりも音楽に敬意を表しているし、愛があることが伝わってくる。だから音楽そのものが持つ輝きがそのまま現れている。

人間、多感な10代に聴いてきた音楽というのは深層に刷り込まれているものだと思う。僕が今でも80年代前半のアイドル歌謡曲やニューミュージック(死後!)をときどき口ずさんでしまったりするのはそんな10代に聴いてきた音楽だから。

実はこの「ザ・ロイアル・セッションズ」で歌われているのは、ポール・ロジャースがそういう多感な時期に歌ってきた音楽そのものである。ある意味、それを再生しているだけに過ぎない。では僕が10代の頃に聴いた音楽を、僕と同世代の歌手が再生したら同じように音楽本来の魅力に満ちた深みのあるアルバムとして仕上がるかというとかなり絶望的だと思う。要するに日本の音楽というのはその程度のものしかない。

僕は日本人には音楽を真に愛している人が非常に少ないと思っている。それは「その程度のもの」しか聴いてこなかった故に音楽なんてその程度のものだと無意識に思っているからだと思う。ここで言っている日本の音楽とは、日本古来の音楽が根底にありながら西洋音楽のマネをしたもののことを指している。マネは所詮マネでしかない。

しかし、もともと英国にだってR&Bやソウルがあったわけではなく、英国人はそれら外来音楽を取り入れて自分のモノにする熱意と愛情があった。日本は、例えばかつてはビートルズのブームに便乗したグループサウンズなんてものがあったけれど猿マネまでで終わり、自分たちのモノにすることなく単なるブームで終わらせてしまった。ブームに乗っかっていた人たちは結局音楽を愛していなかったからだと思う。

音楽は歴史の積み重ねである。だから文化のひとつとして広く愛される。このアルバムを聴いて、音楽を愛する人種と単なる商売道具と化している国民性の違いをまざまざと見せつけられてしまったような気がする。今やアイドルビジネスのみで成り立っている精神的に幼い日本の音楽界は、あと100年経っても欧米に追いつくことなどできないと思う。

だから僕は今後も西洋音楽を聴き続けるし、聴けば聴くほど更にその深さを思い知り、感動し続けることができると思っている。

ジャズに染み付いた間違ったイメージ

マスターカード

世間一般では、ジャズに対して「お上品、ムーディ、高級、大人な音楽」というイメージを持っている人が多いらしい。僕も好んで聴くようになる前はそう思っていた。でも真面目にジャズを聴いたことがある人ならきっと鼻で笑うに違いない。

ジャズは基本的に熱く、激しく、情念に燃えた音楽である。その中にお上品でムーディな曲や演奏もあるにはあるという、よく考えれば当たり前の話。そういったムーディさを好む人が少なくないのは事実とはいえ、巨人と言われるような人、マイルス・デイヴィス、ジョン・コルトレーン、ウェイン・ショーター、ソニー・ロリンズ、アート・ブレイキー、リー・モーガンなどの音楽の本質が上品さやムーディなところにあると思っているジャズ・ファンは1人もいないんじゃないだろうか。

さらに言えば高級も大間違い。

以前、大竹しのぶが出演していた MasterCard のテレビCM「ニューヨークの夜にも」編でこんな内容のものがあった。「ドレス・・・820ドル」「お土産の万年筆・・・320ドル」などと来て「大人同士の夜・・・プライスレス」で締める例のあのCM。その中で「初めてのジャズクラブ・・・200ドル」というコピーが出てくる。これなどは「ジャズ=高級」のイメージだけで作られた実に安易な間違い、いや捏造と言える。まず、ミッドタウンにあるクラブだとしてもヨレヨレでなければGパンで行って差し支えないのがマンハッタンのクラブ。ゴージャスなドレスなんて着て行ったらどうなるかは推して知るべし。

遠く離れた島国日本で演奏するために一流を呼んで、サービスも料理もニューヨークより2段階以上はレベルが高いブルーノート東京を除けば、世界中どこの国に行っても2人で200ドルもするジャズクラブは恐らく存在しない。高いことで有名なNYブルーノートですら、一流アーティストでもせいぜい1人60ドル程度、他なら有名どころでも50ドルを超えることはまずなく、ドリンクしか用意しない一流クラブのヴィレッジ・ヴァンガードは高くても40ドルくらいだ。しかもこの金額には10~15ドルのミニマムチャージ(飲食代。ただし飲み食いしない場合でも返却はない)が含まれている。もちろんバンバン飲み食いすれば100ドルを超えることも可能だけれど、ジャズクラブはそもそも長居して飲食を謳歌するところではない(飲み食いする場所としては快適ではない)。

ジャズはジャズが知らない人ほどには難しくはないしハードルも高くない。そう正しく理解されるためには、この妙な高級イメージがなくならないとまずはダメなんでしょうねえ。

A Night At The Opera / Queen を Blu-ray オーディオで聴く

オペラ座の夜ーブルーレイ

このブログでは触れたことがないけれど、僕はクイーンのマニアである。オリジナル・アルバムをすべて所有してるのはもちろんのこと、サウンドボード収録である程度以上の音質にある海賊盤は押さえているし、古くからの映像作品もすべて目を通している。世にある音楽はクイーンとそれ以外に分類できるというほど特別なグループであり、そんなことになってもう30年くらいは経とうとしている。

クイーンの名盤として真っ先に挙がるのが「オペラ座の夜」でしょう。それ故にこのアルバムはさまざまな形でリリースされており、サラウンド音源だけでも現時点で3つのバージョンが存在する。最初にリリースされたのは DVD-Audio。これをマルチチャンネルで聴いたときにはちょっとしたショックと言えるくらいのインパクトがあった。

もともと初期のクイーンは過剰なまでのオーバーダビング(特にギターとコーラス)を駆使した音作りが特徴だった。"ボヘミアン・ラプソディ"のドキュメンタリーを見ているとオーバーダビングにオーバーーダビングを重ねたものがあるようで、つまりレコードやCDに起こすためのマスターテープはレコーディング機材のスペック(当時は24チャンネルか?)以上の音をミックスダウンしたものになっている。つまり、膨大な数の音を収めたトラックを無理やり2チャンネルのステレオに押し込んだものというわけである。

だから5.1chサラウンド化は、そのマルチトラックのマスターをより余裕を持って各チャンネルに振り分けることができることを意味する。ロックのアルバムにおいて、これほどサラウンドに適したアルバムはない。実際、こんなにいろんな音が入っていたんだと大いに実感できる仕上がりになっている。

DVD-Audioの次のマルチチャンネル音源は、30周年記念盤の中の1枚としてリリースされた。これはDVD-Videoフォーマットで、96KHz/24bitだったとはいえDTSでの収録だったため、DVD-Audio盤よりもスペックダウンしていた。しかし、マスタリングをし直したことにより音質は向上、おまけながら曲に合わせて流れるさまざまな映像もこのDVDのためのオリジナルで制作したものまで含まれるという力の入れようで、観て楽しく、これで十分決定版と言えるものになっていた。

そしていよいよBru-rayオーディオがリリースされた。収録されているのはいずれも96KHz/24bitのリニアPCMとDTS-HD Master Audioでそれぞれ2chステレオと5.1chがある。スペックとしては今考えられる最上のものが採用されているだけでなく、既に一般家庭に普及しているBlu-ray再生装置でその最上の音質が得られるのだからありがたい。

聴いてみると30周年記念盤DVDよりも更に一皮剥けたサウンドで、スペックに恥じない高音質。DVD-Audio → 30周年盤はリマスタリングの効果が大きく、ミックスも違って聴こえていた。Blu-rayオーディオ盤は30周年を基本に音を更に磨きあげた仕上がりになっており、スペックだけでなく音質も今望み得る最上のものと言って差し支えない。

DTS-HD Master AudioとリニアPCM、両方の収録はディスクの空き容量を鑑みてのことと思われるけれど、AVアンプでの再生を考えた場合に結構意味がある。DTS-HD Master AudioはAVアンプの「映画再生用」音作りで再生されるため派手に着色される。リニアPCMだとPure Audioモードを選ぶことができるため、AVアンプ特有の派手に装飾されたサウンドを排除することができるところに意義がある。

僕はクラシックをSACDマルチで聴く場合は、妙な装飾のない Pure Audio モードで聴くことにしている。でも「オペラ座の夜」は DTS-HD Master Audio の派手な音の方が似合っている。そんなところもクイーンらしいかもしれない。

というわけでクイーン・マニアなら手にしておくべき音源であることは間違いない。ただ、音がクリア過ぎるのも考えものと思うところがブライアンのギターで、もうちょっと濁っていた30周年記念盤の方が僕は好き。それでも音質至上主義の人や、とりあえず最上の音質は手元に置いておきたいという人は廃盤になる前に買っておいた方がいいでしょう。

それにしても、久しぶりに聴いて思ったのは本当にこのアルバムの曲は良く出来ているということ。

一部でコンセプト・アルバムと呼ばれているものの、特にそんなコンセプトなんてないことは歌詞を読めばすぐにわかるし、曲間を開けずにつなげていることからトータルで聴かせているように思えるものの、曲調はバラバラ。

これだけ幅広い音楽性を持ちながら、咀嚼、消化して40分強のアルバムに無理やり押し込んでしまう強引さが当時のクイーンの良い意味での若さだと思う。そしてひとつひとつの曲の完成度は高く、小難しくしせずにシンプルさを求めながら捻りを効かせるアレンジと演奏で料理してしまう。口で言うのは簡単であるけれど実は難しいことを20代の若者がやっているんだから感心してしまう。個人的には、これだけの幅広いサウンドを支えるにジョン・ディーコンの柔軟なベースも特筆に値すると思う。

サラウンド音源は楽しむ幅を広げるものではあるけれど、音楽そのものに魅力があってのことということも改めて考えさせられた Blu-ray オーディオ盤だった。

「Mehliana: Taming The Dragon」 Brad Mehldau & Mark Guiliana

Mehiliana

Mehliana: Taming The Dragon / Brad Mehldau & Mark Guiliana

ピアノ弾きとしてはもうチャレンジングと思えることがなくなってきたんだろうな、というのが1度聴いたあとの感想。ピアノはほとんど登場せず、シンセ(ムーグっぽい音など)、エレピが中心の音使いは「メルドー初のエレクトリック・アルバム」の看板通り。公開されている写真も地味でラフな服装で、あえてジャズ・ミュージシャンであるイメージを払拭しようとしているフシもある。

さて、エレクトリックとはいえシンセもエレピも70年代に流行った楽器で新鮮というよりはむしろ懐古的な音であり、つまりはその中で何ができるかということにチャレンジしたかったということなんでしょう。エレピのフレーズはピアノの延長、というかそのままピアノで弾いたらいつもの演奏とさほど違わず、かつてのチック・コリアのようにアコースティックとエレピの二面性は感じられない。むしろ、ピアノの延長として弾くことができないシンセの使いこなしの方が面白味を感じる。[5] ではアンビエントなサウンドで構成された曲で方向性はまったく違うものの冨田勲が頭をよぎったりもする。

ドラマーとのデュオでどこまでバリエーション展開できるかという課題は、最小限の登場に留めたピアノを効果的にアクセントとして使うなどの工夫でクリアしていると思う。ドラマーのマーク・ジュリアナは初めて聴くけれど、ここでは細かいスネアワークを中心としたプレイでテクニックは確か。シンバルを控えめかつバランス良く使い、巧みに空間を埋めるなどサウンドの一角を担う重要な役割をこなしていてセンスを感じる。名義が Brad Mehldau & Mark Guiliana になっているのはそんな貢献を示したものとかんがえられる。

全体に、決して熱く弾けはしない根暗なサウンドという意味では従来のメルドーの音楽と何ら変わらないと言えるけれど、表面的な音は当然別物で、麻薬的にハマる人と環境音楽にしか聴こえない人と評価が大きく別れるでしょう。好みを抜きにして音楽のレベルとしては流石というレベルには仕上がっていると思う。

僕のように過剰なほどCDを所有している音楽リスナーが繰り返して聴くCDは「そのCDでしか聴けない何か」があるからで、僕はメルドーのピアノ・トリオ作品の多くにその「何か」があると感じている。ピアノを除外したこのアルバムに
その「何か」を感じるかと訊かれると「特にはない」と僕は答えるし、たぶん多くの人がそうなんじゃないだろうか。10年後にこのアルバムがどう聴かれているかが最終評価ということになると思う。

ちなみに、メルドーのツアー予定を見ていると従来路線のピアノ・トリオがメインのようで、このエレクトリック路線をしばらく腰を据えてやっていこうと思っているほどではなさそう。目くじら立てずに、このサイドビジネスを楽しんでくれということなのかもしれない。



オーケストラの生演奏について考えてみる

ティーレマン2013

【ただいまクラシック歴16ヶ月目】

交響曲を中心としたオーケストラ音楽のCDを聴き続け、何度か生演奏に接してきて改めて生演奏とはどんなものなのかを考えてみた。

そもそも、オーケストラに限らずクラシックは生で聴く音楽である。レコードなどに記録されることもなく、その場に流れ、その場で消えてしまう。ポピュラー・ミュージックはもちろんのこと、やはり生で聴くことが原点であるはずのジャズでも現代ではPAを通さずに演奏されることはまずないという中で、今もって楽器や声を生だけで聴く音楽は音の電気増幅など存在しなかった時代から今と同じような形態で聴かれていた古典(クラシック)音楽以外にはない。

こんな当たり前のことをなぜ書いているかというと、世界中の音楽好きを探しても生演奏しか聴かないという人は恐らく存在せず、ほとんどはCDで聴いているということを時に忘れそうになってしまうから。特にここ日本では生演奏に触れる機会というのは非常に少なく、記憶を遡っても、自分から聴きにいくぞという意思を持って足を運んだとき以外に聴いた生演奏となると学校のブラスバンドかストリート・ミュージシャン、あとはディズニーランドのバンド演奏くらいしか思い出すことができない。日本で普通に生活しているとそれほどまでに生演奏に接する機会がない。

ちなみに旅行でパリに行った時には教会でミサが歌われており誰でも普通に出入りできる状態だったし、地下鉄の通路では12人くらいの学生と思しき弦楽グループが演奏している場面にも出くわした。たかだか5日くらいの滞在でもこうなのだから、やはり彼の国では生の音楽は生活の一部であることは明白な事実。

注目すべきは上記で挙げた音楽ジャンルやカテゴリーがもともとは日本の音楽ではないことで、日本に存在しなかった外来音楽である以上、ここ日本において生で聴く生活習慣がなかったのは当然といえば当然のこと。その外来音楽が市民に根付く手段となったのはテレビやラジオであり、レコードであったことに異論を挟む余地はないでしょう。だから遠く離れた島国日本で西洋音楽を聴くということは録音されたものを聴くということであり、それを当たり前と思ってしまうことは至って自然なことというわけである(余談ながら現代では日本古来の純粋な邦楽を聴く人は生でも録音でも限りなくゼロに近い)。

特に伝統的西洋音楽の象徴、クラシックを日本で聴くともなれば録音されたものが当たり前、という概念は一層強いものになる。ところがここまでに書いた通り、クラシックこそが生で聴くことを前提として作られている音楽の最右翼。スピルバーグ監督が「映画製作者は映画館のスクリーンでどう見えるかを想定して映画を作っている(家庭のテレビでの視聴を想定していない)」と発言していたのと同じように、作曲家は教会やホールでどう音が響くかを考えて曲を作っているのだから、そもそも録音された音は特殊であり、音楽の本当に姿を聴き取ることができないのは当然のことというわけである。

実際に生演奏を聴けばCDとは大違い、いやほとんど別物であることが誰にでもわかる。

生は、体に圧力を感じるほどの音量、広い空間がもたらす響き、その響きが楽器の音を艶やかにする。

一方で、特に弦と弓が擦れる音や木管の息吹といった細かい音が遠く離れた席には届くことはない。また座席によって響きが異なり、指揮者が意図したサウンドをすべての観客に提供できるわけではないという欠点も生演奏にはある。数多くの録音を残したカラヤンは、その録音の意義のひとつとしてコンサートホールでは実現できない平等な音作りを目指していたという。確かにそれこそが録音された音楽の価値のひとつであることは間違いない。

しかし、生演奏で表現できないものがあるからと言って録音の方が優れているというのはおかしい。音の機微が拾えることがその音楽をより深く理解することになるとは僕は思わない。顕微鏡で絵画を見ることに意義がないのと同じように、音楽にも適切な距離感とスケールというものがある。クラシックはやはり教会やコンサートホールが相応しい。

昨年の秋にNHK交響楽団で鑑賞したブラームスは後日「クラシック音楽館」で放送されていたので聴き比べてみた。実演では物足りないと思っていた演奏が録音で聴くとそれほど悪くない。一方で、11月に観たロイヤル・コンセルトヘボウのコンサートの翌週にオーストラリアで録音された同じプログラムの演奏をインターネット・ラジオで聴いてみたら実演の感激に遠く及ばない。

この2つのオケを比較すると、ソロパートの演奏力差よりも音の鳴りっぷりと合奏の精度と迫力と美しさに大きな隔たりを感じた。それが録音だとわかりにくくなる。不安定に聞こえたN響の金管は録音で聴くとその乱れがオブラートに包まれたようにわかりづらくなっていたのにはちょっと驚いた。各楽器の機微を捉えることができると思っていた録音は、1つの楽器の音を捉えきることができないという側面も持っているということになる。また合奏の微妙な精度のなさもわかりづらく、意外や録音は七難隠すものであると体感したときには思わず心のなかで唸ってしまった。これがロイヤル・コンセルトヘボウだと話がだいぶ違ってくる。圧倒的な音圧、揃った弦の音の美しさが録音では半分も聴き取れない。

更に思い出すと、昨年4月に観たミュンヘン・フィルを筆頭にラ・フォル・ジュルネで観た名も知らぬオーケストラまで、レベルの差こそあれ本場ヨーロッパのオーケストラは会場一杯に音を響き渡らせる底力がある。一方で日本のオーケストラにその響きを感じ取ったことは今のところ一度もない。

ここで僕はひとつの仮説に辿り着いた。本場のオーケストラは、楽器の演奏手法だけではなく本来の演奏場所であるコンサートホールで音を響かせる術が、誰かに明確に教えられなくても体の芯まで染み込んでいるのではないかと。そしてお稽古から出発した演奏家集団である日本のオーケストラにはそれが圧倒的に足りないのではないかと。これこそが文化の壁なんじゃないだろうか。

先日の「クラシック音楽館」で観たウィーン・フィルのベートーヴェンは良い演奏で、きっと生は凄かったんだろうなあと想像できる音だった。実際、当時の公演後にはツイッターなどで感激のコメントが数多く寄せられていたことを覚えている。そして「クラシック音楽館」放送後には「この程度であんなに騒いでいたのか」と言う輩が数多く現れた。生で聴いていない人にそのときの音楽の凄さは絶対にわからないと思う。特に一流のオーケストラであればあるほどその差は大きいのではないかと僕は思っている。

Led Zeppelin II が教えてくれたもの

Led Zeppelin II

映画「世界でひとつのプレイブック」を観ていたら、「えっ?この場面、このシチュエーションで?」というところでレッド・ツェッペリンの "What Is And What Never Should Be" が大胆に使われていた。

少々乱暴に言えばブルースの改作と言えるような曲が大半を占めるツェッペリン。その中でもブルース色が強く、スローパートと早い展開部が交互に入れ替わるダイナミクスこそあるものの地味な存在なのがこの曲。ツェッペリンで好きな曲は?と訊かれてこの曲を上位3曲に挙げる人はまずいないと思う。それでも映画に使われてしまうあたり、アメリカでのツェッペリン人気が根強いことをよく表している。

僕が洋楽を聴き始めたのは中学3年生のときからと決して早くはない。まずクイーンにハマり次のお気に入りバンドを探し求めていた15歳(83年)くらいのとき、FM fanという今はない雑誌に1970年のビルボード年間チャートが掲載されていた。そこでアルバム・チャート2位にランクされていたのが "What Is And What Never Should Be" 収録されている「Led Zeppelin II」。ハードロック系のアルバムがそんなに売れていたことじたいに驚き、早速レコードをレンタルしてみた。

初めて聴いたときのことはよく覚えている。カセットテープに録音するためにヘッドホンで聴いた。ロックの衝動性に溢れ、ダイナミックに躍動するそのサウンドは10代の僕の感性を大いに揺さぶった。そのころの僕の音楽知識と体験では真に理解していたとは言えないけれど、当時リアルタイムで活動していたバンドと比較して遥かにスリリングでカッコいい。確実にそこには何かがあると感じさせてくるのに十分なものがあった。

その後、聴けば聴くほどにツェッペリンに魅了されていく。ブルースの魅力、ベースがグルーヴを形成することの重要性、ドラムがバンドを推進する核であること、個人の技量ではなくそのメンバーの組み合わせだからこそ生まれるケミストリーなど、ロック・バンドとして重要なものは何か、すべてツェッペリンに教えてもらったと思う。他のバンドを数多く聴くようになると、ますますツェッペリンの魅力がわかってくる。幅を広げて聴いた中からフリー、ハンブル・パイ、ウィッシュボーン・アッシュという渋めながら素晴らしいバンドやプログレッシブ・ロックにも巡り合った。80年代後半、LAメタル全盛期にこれら70年代のロックを好き好んでい聴いていた学生は少なくとも周りには一人もいなかったんだけれど、ちょっと古いロックの方が僕には断然面白かった。

余談ながら、お気に入りのアーティストだけ聴いていたらそのアーティストの本当の魅力に気づくことはできないものだ。できるだけ多くのアーティスト、様々音楽を聴いてこそ、お気に入りアーティストの本当の魅力がわかるものだと思う。クイーンやレッド・ツェッペリンの偉大さは、数多くのロックを聴いてきたからこそ理解できるようになったと断言できる。そうやって耳が鍛えられていくのも音楽の楽しみで、だからこそ一生の付き合っていける趣味なんじゃないだろうか。

70年代のロックはまだ未成熟で、演奏の正確性という意味ではレベルが高いとはいえない。その分緩い部分があるんだけれど、その緩さが音の可能性を広げていて何よりも人間味があったし、緩いと言っても音楽の聴かせどころを心得た人たちがとても多かったように思う。ロックだけでなく、ファンクやR&Bについても70年代のものが断然魅力的で、まだそのジャンルが成熟していない時期だからこそ作り手の情熱に満ちていて、上り調子の面白さがある。

そういったことを思う出発点になった「Led Zeppelin II」もそういう要素に満ちている。正直なところ録音はもうひとつだし、ジミー・ペイジのギターは下手くそだとは思うけれど、今聴いてもあまり色褪せていないのは普遍的な音楽の魅力を備えた強みがあるからではないだろうか。

うーん、でもイマドキの若い人が聴いたらどう思うんだろう?僕の職場はほとんどが20代から30代なんだけれど、彼らはレディオヘッド、リンキン・パーク、オアシスなどを聴くことはあっても70年代のハードロックは眼中になさそう。「ダイ・ハード4」でクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルをラジオで流すジョン・マクレーンに、若いコンピューターオタク(ジャスティン・ロング)が「カビ臭い音楽」と切り捨てるシーンがあったけれど、あれが現実なのかも。

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