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趣味の人生を楽しむサラリーマンの日記

「小澤征爾さんと、音楽について話をする」-クラシックの楽しさが詰まった良書

小澤と村上

世の中には、とにかく気になったCDを片っ端から買いまくり、数千枚ものコレクションがありながらロクに聴かず、どのCDを所有しているのかすら把握できていない人がいる(そういう人を何人か見かけたことがある)。

僕の場合は初回に聴いてよほど酷いと思わない限り最低でもまず3度は聴いてみるし、そのCDを所有しているかどうかはもちろんのこと、どういう印象だったかもすべて覚えている(映画は「あら、これ観たことあった」を何度か経験したことがあるけれど・・・)。ハードディスクに収めて売ってしまったものを含めるとたぶん2000枚くらいはCDを所有していると思うんだけれど一応大切に聴いている方だと思う。また、貴重盤やジャケット違いなどには興味がなく、純粋に音源を求めてCDを買うので所謂コレクターではない。

クラシックを聴き始めて、正確に言えば管弦楽、もっと正確に言えば交響曲を真剣に聴き始めて16ヶ月。

ハマリはじめの症状としてよくあるCD買いまくり病が延々と続き、枚数だけで言うと恐らく500枚は軽く超えている。タイトルだけで言うと150くらいか。つまり「箱」が多いということだ。枚数が嵩んでいるのはひとえに「箱」が安すぎてそこから手を付けているのが大きな要因になっている。

室内楽やピアノ曲やリートが数多く収録されているシューマンやシューベルトの箱は、「売り切れ廃盤になってしまうかも」という妙な強迫観念に勝手に襲われて買ってしまったんだけれど、これまでの自分の流儀の通り、音楽を理解しながらCDを買い進めていくという観点では拙速だったのでちょっと後悔している。一方で、指揮者でアーカイヴしているボックス(カラヤン、バーンスタイン、ベーム、マゼール、チェリビダッケ、アバドなど)は聴きたい曲をそれぞれのスタイルで聴けるので大変楽しい。

そうやって、有名指揮者、楽団、曲がある程度頭に入ってきたときに、ブックオフで妻が見つけてきたのがこの「小澤征爾さんと、音楽について話をする」だった。元々、妻はクラシックを聴く(というかその影響で僕が聴くようになった)し、村上春樹のファンであることからこの本に目を付けていたのだった。小澤征爾も村上春樹も世界に名の知れた有名人であり、日本にファンも多いためか結構売れた本らしい。

僕は村上春樹については、25年くらい前に「ノルウェーの森」を読んだくらいであまり印象に残っていないくて正直なところ好きでも嫌いでもない。一方、小澤征爾はクラシックに関心を持つ前から一目置いていた。

何年前だったか思えていないけれど少し古い話だったと思う。小澤征爾が中国の学生楽団のリハーサルを熱心に指導するNHKのドキュメントを偶然見た。クラシックなどむしろ嫌いだった時期だったにもかかわらず、僕は食い入るようにそれを見てしまった。アマチュアを相手に全身全霊を注ぎ込む姿は、地位や名誉を超えた、音楽に人生を捧げている音楽家の姿そのものだったからだ。恐らくレベルが低いと思われる中国の学生にあそこまで魂を注ぎ込む熱意には胸を打たれるものがあった。ロックこそがこの世で一番素晴らしい音楽だと信じていた僕は、しかしそれ以前に音楽が好きであり、こういう音楽を心から愛する人の熱意を見せられると魂を揺さぶられてしまう。

そのときから小澤征爾は僕の中では「偉人」扱いになっていた。そんな小澤征爾が、気心が知れている村上春樹にリードされてかなり正直に思っていることを語っているのがこの本。

ドキュメンタリーや裏話のような話があまり好きでない人には退屈かもしれないけれど、その種の「へえ」的なものが大好きな僕には、たとえクラシックの知識の上っ面しか知らない現時点で読んでもかなり面白い。

特に師事していたカラヤンとバーンスタインについては詳しく語っており、まったく異質なキャラクターであったことがとてもよくわかって大変興味深い。少しだけ触れられているベームについてのコメントも含めて、小澤征爾が評している有名指揮者たちのキャラクターは、僕が聴いてきた彼らの音楽の印象がそのままで、改めて音楽というのは人間性が作るものなんだと強く思わされた。カラヤンの指揮する音楽が細かいところから完璧な統制を見せているのに対して、バーンスタインが音楽全体を楽しく作っている印象だった理由は2人のキャラの違いによるものだとよくわかる。その2人を含め、断片的に語られるいろいろな人のエピソードが非常に楽しい。余談ながら、師事していた巨匠2人の呼び方が、片や「カラヤン先生」に対して「レニー」と分かれているところがまた2人のキャラクターをよく表しているように思えて面白い。

もちろん、曲の分析、演奏への洞察という指揮者なら考えて当たり前のことを小澤征爾の視点から語っているところも大変に興味深い。

あと、この本を読んで思ったことは小澤征爾はいろいろな人からかなりかわいがられるという持って生まれた人間性で随分と得をしているなあということ。もちろん本人の才能と努力あってのこととはいえ、今の地位を築くにあたって運もかなり味方していたことが垣間見える。

一方、村上春樹という人が実に音楽好きな人だということもよくわかる。聴いているポイントが、音楽好きの人のそれだ。この人の別の場のコメントで「翌日聴くレコードを前日に選んでおく。CDは味気ないから聴かない」というようなことを言っていたのを読んだときにはただの偏屈なレコード・オタクだと思ったんだけれど、そうではなかった。

ちなみに本書の中で、小澤征爾はレコード・コレクターは嫌いだと言っている。僕も音楽ではなくレコードを愛でる人は本末転倒な変人だと思っているんだけれど、音楽家の目から見てもきっと異常なんでしょう。村上春樹と交流が続いているのは、村上がただのレコード・コレクターではなく音楽が好きなんだからなんだと思う。

そんなワケで、2人の目線をヒントに今の自分がクラシックの理解を深める意味でもとても面白い本だった。音楽って楽しいなあと読後に晴れやかな気分になれます。もっとクラシックを理解してからまた読むと楽しめるんじゃないかと期待してこてからもクラシックを聴き続けようと思った。

「ラッシュ プライドと友情」

ラッシュ

クルマ好き、モータースポーツ・ファンからの評判が高い「ラッシュ プライドと友情」を鑑賞。

僕は世代的にF-1ブームが日本で起きていた80年代後半以降がリアルタイム。鈴鹿にも4回観戦に行った。好きなドライバーはマンセル、パトレーゼ、ピケあたりで、渋いところではブーツェンも好きだった。それでもF-1を追いかける上でセナとプロストのライバル関係が興味の中心だったことは言うまでもない。

そんな世代ゆえに、ハントとラウダのライバル物語は文献で読んだだけにすぎない。

それでもこの映画はシビれる。

演出は映画的に当然されているけれど、基本的なストーリーは実話そのもので、知っていたはずなのにこの2人のライバル関係の強烈さ、作り話でもここまでよく出来たドラマティックさはないだろうという76年シーズンの凄まじさに圧倒されてしまう。

だから必要以上の化粧はせず、ストレートに仕上げたのは大正解。こんなにエキサイティングな話はすべてのスポーツに対象を広げてもたぶんないと思う。

僕は雨上がりで路面は完全ウェットの鈴鹿の最終コーナーで日本GPのスタートを観たことがある。スタートするやいなや、スタンドで観ていても1コーナーへの視界は水しぶきで真っ白、後半グリッドにいるドライバーはそれでもアクセルを踏み込み突入していく。それを見て「ああ、この人達は完全にイカれている」と思ったことをよく覚えている。それはこの映画でも感じ取れないくらいの「死に直面しているドライバー」を感じさせるに十分過ぎるほどのインパクトだった。

その他、3.5リッター時代のフェラーリV12、ランボルギーニV12、ホンダV12の爆音も体で感じているので本物のF-1の迫力は知っているつもり。その迫力は正直なところ映画館では半分も再現できない。そんな経験をしていても、この映画はよくF-1の魅力を伝えていると思う。

レースシーンはとても良く出来ている。撮影賞をあげたいくらいに。もちろんケレン味ある演出はされているけれど、リアリティをまったく損ねていないところは賞賛に値すると思う。

それにしても、こういうライバル関係というのは憧れる。僕は考えて行動する方なのでハントのような本能的な生き方にも憧れる。徹底的にプロフェッショナルなラウダにも憧れる。つまり実話にして男のロマンに溢れているのだからシビレないわけがない!

マス、エマーソン、イクス、アンドレッディ、ロイテマンなんて聞き覚えのある名前がポンポン出てきたり、6輪タイレルが写ったりするなどF-1マニアがニヤリとする材料にも事欠かない。


久しぶりに余韻に浸れるエキサイティングな映画でした。是非劇場で。

人は自分で思っている以上に周りに影響される生き物

僕は仕事でも遊びでも方向性がブレない。皆が言っているからそうだ、というふうに流されることはなく自分で考えて情報を判断して結論を導く。何を当たり前なことを、と思っている人は一度自分の胸に手をあてて考えて欲しい。僕の知る限り一匹狼で生きていく何かしらの力がある人以外は、おかしいと思っていても周囲に合わせてやり過ごす人がほとんどだ。人間というものはそういう弱い生き物だからこそ最近のJR北海道や、古くは雪印乳業のような事件が起きてしまう。

もっとも、僕だって無闇矢鱈と周囲に言いたいことばかり言っているわけではなく、多少本意でなくてもおかしな結論に至らないと思えば「ではみなさんお好きにどうぞ」とやり過ごすことは当然あるんだけれど、長いものに巻かれてばかりいたら自分の存在意義は何かという質問に自分で答えられなくなってしまう。

ところが中には皆と同じ意見であることに安心感を見出している人がいて、そういう人は意外なほど世の中には多いらしい。特にアマチュア批評の世界において、厳しい意見に同調することで自分が高い目線にいるように思い込み、心地よさを覚え、満足している人が少なからずいるように見える。

なぜこんなことを思い始めたかと言うと、前項で書いたBOSEのQC20iの批評で、あのレベルの高音質を実現していながら音質が悪いという評判があまりにも多いことに疑問を感じ始めたから。

以前、このブログでも書いた通りBOSEは個性的な音作りや製品を売りにしたメーカーで、本格的にHi-Fiを追求していったときに製品選びの視界から消えていくブランドである。それ故に音にうるさいオーディオマニアからは初心者向けのレッテルを貼られてしまっている。つまり、BOSEを賞賛すること=オーディオがわかっていないこと、という風潮がある。

確かにかつてのBOSEのノイズ・キャンセリング・ヘッドホンは4万円程度のプライスタグをつけていた割にはそれほど良い音とは言えなかった。価格の多くはノイズ・キャンセリングの機能に支払っていて、それでも価値があると思う人が使っていたと言えるかもしれない。そのときにできあがってしまった評価「ノイズ・キャンセルのヘッドホンは音は良くない」というのは音質を語る人の合言葉のようになってしまい、QCシリーズを褒めようものならオーディオがわかっていないと思われてしまうような風潮が出来上がってしまったように思える。

それはアナタの主観でしょうと思うかもしれない。でも僕が長く愛用してきたゼンハイザーIE8と較べてQC20の方が断然良い音がすることは誰でもわかると言えるくらいの差がある。IE8は確か26,000円くらいしたからQC20の31,500円が音質だけ見ても高いとは思わないし、世間で言われているように「音質は1万円クラス」なんてことは断じてない。

もうひとつ違和感を持ったのは食べログのレビュー。

先週伊豆に旅行に行って、1日目の昼食は国道沿いのどこにでもありそうな海鮮の店で食べた。そこのレビューで多く書かれていたのが「観光地プライス。この値段でこの味はない」というまるで騙されたと言わんばかりの内容。確かに思わず頬が緩むような美味しさだったわけではない。天ぷらはもう少しがんばってほしいとも思った。でも、天ぷら付きそばで一応デザートまでついて1500円という値段が不当に高いとまでは思えない。店の内装は綺麗だったし、個室もしくはしっかりとしたパーティションで区切られた座席は居心地も悪くないし店員の接客も丁寧だ。それなのに「騙された。所詮は観光客狙い。二度と行かない」というような突き放したレビューがずいぶん入っている。

翌日の昼食は川奈にある海女の小屋・海上亭というところに行った。下の写真の定食のようにしっかりと食べられるメニューだと1700円を超えるくらいからとファミレスの平日ランチタイムのようにはいかない。(写真中央の碗は鰯のつみれがたっぷりはいった味噌汁)

海女の小屋・海上亭

ここでも眼から鱗が落ちる味というほどの料理は出てこないものの、それなりに美味しいものは出てきて納得できる。景色が良くて田舎の大衆料理店という感じの雰囲気は首都圏ではなかなか味わえないものがある。ところがここも「観光客を狙った不当に高い店」というレビューが多い。

共通しているのは、観光客狙いと断じて高い高いと価格をまずは批判、味は客観的に読み取れない抽象的な表現の批判に終始し、観光客を相手にした店を褒めたら食通の名に傷がつくという自称グルメたちの上から目線である。

そもそも、観光地にあるのに観光客を相手にした商売であることを批判している理由がよくわからない。観光地は都心の店のようにオールシーズン客が来るわけではなく割高になるのは当たり前ではないか。批判している人に「ならばそのあたりでアナタが美味しいと思った店を挙げてください」と訊いたら恐らく1店も挙げられないだろう。なぜなら彼らのレビューは自分が高い批評眼を持ったかのように思い込むための自分のためのものだから。

BOSEの件も食べログの件もそれぞれにわかりやすい先入観がある。ノイズ・キャンセリング機能を持つイヤホンは音が悪い、観光客相手の料理店はまずい、というもの。こういうわかりやすいキーワードに便乗して批判することで自分の立ち位置が高いところにあることを誇示したいという、実に器が小さい人が世の中にたくさんいるんだということを最近立て続けに感じたというわけです。

まあ、ネットの情報は取捨選択が大事ということは以前からわかっていたけれど、本来は自分の意見を書くための場所が世間のありがちな定評に左右されて自分を立派に見せるための場になってしまっていることに唖然としてしまう。

思い起こせばわかりやすいキーワードの定評というのは他にもある。「カラヤンの音楽は表面をなぞっているだけ」「フレディ・ハバードのトランペットはテクニックだけ」などなど。これらの批評も僕は的外れにしか思えない。

ネットに書き込むアマチュア批評家のみなさん。自分の意見で書きませんか。そのための匿名投稿なんですから。

BOSE QuietComfort 20i 求めていた理想のイヤホン

以前にも書いた通り、iPodの登場は時間のない音楽好きに音楽漬けの生活をもたらす革命だった。そして自然な流れとして「より良い音で聴きたい」と思う人も増えてヘッドホン・イヤホン市場が活性化、今では何を選んだら良いのかわからないほど多種多様なモデルがこの世に存在している。そしてヘッドホン・マニア/イヤホン・マニアと呼べる人たちまで現れ、彼らは一体何種類持っているのかというくらいあれこれ使っているらしい。

少し脱線するけれど、より良い音で聴きたいと思う人が増えたということはiPodの音質が必要十分だったことを証明していると僕は思う。カセットテープのウォークマンの時代にそういうニーズが出てこなかったのは、レコードやCDより明らかに音質が落ちることを皆が知っていて、そういうものだと割りきって使っていたからじゃないだろうか。

それはともかく、僕もiPodを手に入れてから良いイヤホンを求めるようになった。3000円程度の汎用イヤホンを使っていたところに BOSE QuietComfort(以下QC)2を購入し、良い音で聴けるのはやっぱりイイなあと思うようになったから。ただ、ヘッドホンはスーツ姿のときにはさすがに使う気になれないし、むしろスーツ姿の通勤時こそが一番音楽を聴く時間というわけでイヤホンにも関心が向かったというわけです。イヤホン・マニアからすれば大して多くの種類を使ってきたわけではないけれど、高音質を求め始めてからは、

Ultimate Ears super.fi 5 pro
SHURE SE530
Klipsch Custom-3

を経て、SENNHEISER IE8に落ち着いていた。

5 proを使い始めたときには「へえ、イヤホンでもこのくらいのイイ音で聴けるんだ」と素直に喜び、特に求めていた低音がうまく出てくれていたところが気に入っていた。ところが使い始めてすぐに片耳から音が出なくなるというケーブルトラブルに遭遇。実はこのイヤホンはケーブルだけ取り替えることができることもウリのひとつだったんだけれど、それゆえにケーブルは保証に含まれないという。しかも、発売されて日が浅い製品だったということもあってケーブルの在庫がないと言われ、数週間待った末に来たケーブルは太く針金のようにしなやかさがまったくない硬いものに仕様変更。硬すぎて首を動かすとイヤホンに圧力がかかりイヤーピースがズレてしまうというひどい代物で嫌な気持ちを引きずりながら使っていた。

更なる高音質を求めてSHUREに移行。こちらは期待通りに音質向上を体感できてバランスも良好。特に良かったのがウレタンフォームのイヤーピースで、柔らかく耳穴に完全にフィットするから外部の音をかなり遮断できるところは他にない大きな強みと感じていた。後にIE8で使ってみたコンプライよりも快適で耐久性も高くて大変な優れモノだったと今でも思っている。実はSE530の音質傾向はあまり耳に合わず物足りなさを感じていたんだけれど、遮音性の高さがリスニングにとても良い影響を与えることを教えてくれたイヤホンだった。ところがこのイヤホンもケーブルが徐々に硬化した末にちょうど耳周りの曲がる部分が割れて被覆がはがれてしまうという欠点があり、保証で交換してもらってからヤフオクで売却(次モデルでその部分は補強されていた)することに。

SHUREほど音が良くなくてもいいから遮音性に優れていて、これまで泣かされてきたケーブルのトラブルがなさそうなものをと思ってクリプシュに変更。イヤーピースはSE530のものを流用して使っていた。音質はSE530と似た傾向で全体的にレベルダウンした印象。どうせ電車で聴く目的なのでこの程度でもいいかと思っていたものの、毎日聴いているとちょっと物足りなく思えてくる。その後BA型を使っていないから断定はできないんだけれど、SHUREとクリプシュの音に共通する物足りなさがBA型イヤホンの音の特徴だとすると僕の好みには合わなかったということらしい。あとクリプシュはケーブルの耐久性は問題なさそうだったものの、ザラザラな表面に由来するタッチノイズがひどく、またしてもケーブルが使い勝手をスポイル。

その後、 ゼンハイザーのIE8へ。価格で言えばSE530からずいぶんとダウン。しかしこのイヤホンは豊かな低音とヘッドホンを少し連想させる音場の広さが魅力的で4年近くも愛用している。解像度はそれほどでもないもののそこそこ音の見通しも良く、高音がサラッとしてあまりキンキンしないという聴きやすさが魅力。また、4年使っても輸入イヤホンによく見られるケーブルの脆さがなく、タッチノイズもないという点でもとても優秀。万事OKというわけでもなく遮音性が低いところは不満で、音がコモリ気味になることを覚悟でビクターのウレタン・イヤーピースでカバー。このイヤホンが使えなくなったらその次のモデルであるIE80にすることを心の中で決めていたほど気に入っていた(そうでなければ4年も使い続けていられない)

それほどの伴侶と思っていたはずのゼンハイザー。それなのに今、手元には BOSE QuietComfort20iがある・・・。

QC20i 箱

イオンモールにできたBOSEストア、コイツが罠だった。以前の記事に書いたSoundLink Mini Bluetooth speakerはもともとかなり興味があったのに加えて試聴で納得できる音だったので購入した。ここまでは想定範囲。一方でQC20はまったく興味がなかった。

僕はQC2でノイズ・キャンセリングの威力を知り、今はQC15を所有している。QC15はノイズ・キャンセリング効果がぐっと高まり、音質もある意味BOSEらしくないクリアでスッキリしたイイ音になっている。中低音にたっぷりとした厚みがあって高域がやや詰まった従来のBOSEサウンドとはかなり路線が違っているけれど、BOSEなりにまっとうにHi-Fidelityを目指した製品としてとても気に入っているし、ノイズ・キャンセリング機能がもたらず快適さは十分すぎるほどわかっているつもり。

それでもQC20に興味がなかったのには2つ理由がある。QC2を入手したころにソニーのノイズキャンセリング・イヤホンを試聴して「なんだこれ。ほとんど効いてないじゃん」と思い、イヤホンでノイズを除去するのは難しいんだなと勝手に思い込んでいたのがひとつ。あとは肝心の音質についての世評があまり良くないというのがもうひとつの理由。

ところがBOSEストアで何気なく試聴して驚いたのがノイズ・キャンセリング効果の凄さ。僕の後に試聴した若い男性がコントローラーのスイッチを入れた瞬間、店中に響き渡る大声で「うおー、なにこれ、すっげー」と絶叫していたほどだと言えばイメージが湧くでしょうか(実話です)。

音質も決して悪くない。いやむしろ思ったより遥かに良いとすら思った。少なくともIE8よりは確実に1ランク以上は上だと断言できる。QC20と実勢価格がほぼ同じのIE80との比較はわからないけれど、IE8から変えるとすべての音がクリアに再生される。音質的にQC15より大きく劣るということもない。もちろんイヤホンなので音場が狭くて響き方に物足りなさはあるし、極低音も劣る(低音はIE8よりもだいぶ量感が少なくてそんなところもBOSEらしくない)。

世評では、価格を考えると音が悪い、まあノイズ・キャンセリングだからしょうがないかという意見が多いけれど、価格に見合った音質も確保していると思う(ネット情報事情についての記事は次の機会に書くつもり)。

ちなみに僕のイヤホン用途は電車移動のとき、すなわちほぼ通勤時間に限られる。ネットでイヤホンのクオリティを熱く語っている人はどうやらそうではないらしく、室内で耳を凝らして聴いているらしい。僕なら室内という条件ならヘッドホンを使う。耳の穴の中だけで音を作るイヤホンはオーディオ的には不利なのはわかっているわけで室内でイヤホンの質を追求するなんて意味がわからない。

そして電車通勤で使うということはさまざまなノイズの中で使うということになる。ノイズは電車の騒音だけではい。駅の人混み、多くの人が歩いている音、地下鉄の駅だと空調なども結構な音を発している。そんな環境を当たり前として受け止めてしまっているけれど、実はかなりノイズまみれな環境が電車通勤というものである。

そんな環境で音楽を聴くにあたって重視されるのが「如何に外部ノイズを遮断するか」であるのは言うまでもない。ノイズを遮断できずに音質にこだわっているとしたら、それは前項に書いた「国道沿いで空気のキレイさにこだわっている」のと同じこと。そういう意味で耳栓に匹敵するイヤーピースを誇ったSHUREはひとつの解だったと思う。

もうひとつの解がノイズ・キャンセリング機能を持ったものということになる。ちなみにQC20はイヤーピースを耳の穴にこじ入れるタイプではないにもかかわらず耳穴によくフィットし、装着した時点で外部の音が聞き取りづらくなるくらいの遮音性を持っている(個人差はあるでしょうが)。そこからコントローラーの電源を入れると、少々大袈裟に言うのなら外部世界から遮断されたのかと思うくらいの静寂が訪れる。これで音楽を聴いて本を読み始めると電車に乗っていても自分がどこにいるのかを忘れそうになってしまうほど。ここまで外部の音が聴こえなくなるといろいろ不便もありましょう、ということで外部の音を敢えて拾うアウェアモードも用意されるのは面白い気遣い。ただ、そのとき再生音が小さくならないところが画竜点睛を欠く感があるのはちょっと残念。

このNC機能を実現するためにどうしても無くすことができないコントローラー部分は確かに邪魔ではある。それでもよくここまで薄く小さくできたもんだなと個人的には思う。何しろここにバッテリーまで内蔵しなくてはならないのだから。iPodを想定してサイズを決めていると思われ、下の写真のように輪ゴムで止めれば意外と邪魔にならない。

QC20i 裏

ちなみにQC20iの「i」はiPod、iPhoneの本体を制御できるリモコンを備えていることを意味しているけれど、iPod classicは古すぎて非対応。一方でタッチパネル画面のスマホやプレイヤーで輪ゴムはちょっと現実的でないかもしれず、そうなるとコントローラーの収め方がなかなか難しいかもしれない。まあ、プレイヤーの制御を本体ですることを不便だと感じていないからiPod classicがリモコンに対応しなくてそれほど残念ではない。

QC20は、その遮音性とノイズ・キャンセリング機能、オーディオ的な基礎能力により、電車で微細な音を聴き取ろうというリスナーにとって、これ以上のものはないと思わせるに十分なイヤホンだと思う。特に最近はクラシックばかり聴いているから電車内でも弱音を聴き取れるイヤホンは非常ににありがたく、通勤が楽しくて仕方がない。このイヤホンも永く活躍してくれそうで、そう思える逸品に巡り会えたことは大変喜ばしい。

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