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Enjoy Life, Enjoy Hobby

趣味の人生を楽しむサラリーマンの日記

Beck Bogert Appice Live 40th Anniversary Edtion

BBA

「ロックギタリストは2種類しかいない。ジェフ・ベックとジェフ・ベック以外だ」とポール・ロジャースが言ったとされているのはやや眉唾モノながら、たとえ誰がそんなコメントを言ったとしても否定することなどできないほどジェフ・ベックのギターは個性的だ。ロックという枠も超えたとしてもエレクトリック・ギターをここまで個性的に鳴らすギタリストとして歴史上5本の指に入ると思っている。

個人的にはジミ・ヘンドリクス、エドワード・ヴァン・ヘイレン、ジェフ・ベックの3人は特別だと思っているんだけれど、中でもジェフは高校生1年生のときに聴き始めてから僕にとって特別な存在。かれこれ28年来の付き合いになる。

いつの時代のジェフも好きだけど、第1期ジェフ・ベック・グループは今となっては音楽的に古いのと他のメンバーの力量が劣るという理由で、BBA(Beck Bogert Appice)はこもった録音状態とアメリカンな曲調が理由で、それぞれあまり好きではなかった。

学生時代にはジェフのすべてのアルバムを買い集めたものの、「BBA Live」だけ買わずにいたのはスタジオ盤の緊張感のなさと、録音が悪い、ミックスが悪い、内容が悪くて本人たちが納得していないから日本以外では発売されていないとこのライヴ盤が言われていたから。

ところが社会人も中堅になってきた2004年ころ、iPodを全曲シャッフルで聴いていたら「Beckology」に収録されていたBBAの"Blues Delux/BBA Bogie"が流れてきて、これがとても良い。少なくとも15年以上は放置していた「BBA Live」を、ようやく手にすることになった(当時はジャズばっかり聴いていた)。

聴いてみて驚いた。ギターとベースの音を左右に振り分けているミックスは好みが分かれるところながら、50~60年代のジャズでは当たり前のことと馴染んでいる僕にはまったく問題なし。そして録音は良好、というよりも素晴らしいと言えるレベルで演奏の生々しさを克明に捉えている。そして何よりも素晴らしいのはそのパフォーマンス。

確かに演奏にアラはある。でもそれがライヴってもんでしょう。ジェフのフレーズとトーンは実に表情豊かで繊細かつワイルド。ティム・ボガートの歪んだベースは本来のベースの役割を超えたリード楽器的な暴れっぷり。カーマイン・アピスは肉体派を誇示する手数とバスドラのキックでロック以外の何者でもないリズムを支える。

何が凄いって少々のミスなんて関係ないという感じの気迫溢れたプレイ、そして3人の自由な絡み。もちろんジャズのようなスタイルの即興とは違うけれど、ただ単に3人で音を揃えましたというのとはまったく異なり、3人が自分のフィジカルをぶつけ合っての、そこでしか生まれない絡み合いと阿吽の呼吸、そして躍動感。スタジオ盤は一体何だったんだというテンションの違い。そして演奏スタイルは紛うことなきハードロック。

ハードロックにはディープ・パープルの「Live in Japan」を筆頭に数々の名盤があるけれど、日本だけでしか発売されなかった「Beck Bogert Appice Live」こそが僕にとってロック・ライヴ盤の最高峰であり、今後その座が揺らぐことはないに違いない。

ちなみに、ここに収録されている"Sweet Sweet Surrender"を披露宴のキャンドルサービスのハイライトで使ってしまったくらい僕はこのライヴ盤を崇拝している。

そんな「無人島に持っていきたい」ライヴ盤に40周年記念盤が登場、当時の録音・ミキシングエンジニアである鈴木氏がオリジナルマスターテープからリマスタリングし、収録時間の都合で従来は曲順を大幅に入れ替えてあったのを当日の演奏順通りに戻したとあっては買わないわけにはいかない。

2004年のリマスター盤(鈴木氏は関知していない)と比較するとひと皮剥けたクリアな音質で、ジェフのナイーヴな音使いがより克明に聴こえるのが最大のトピック。ベースとドラムの音も綺麗に仕上がっていて、マスターテープの音を最大限引き出したという印象。一方で、音圧を上げすぎないことに心を砕いたようで、クリアになったことと引換にベースとドラムの荒々しさはやや控えめになった印象を受ける。ただし、本当のローエンドの音域(イヤホンではわかりにくいか)まで引き出していて、その影響もあってリズム・セクションは定位感が違ってきている。

リマスタリングの手法次第で音の感触がここまで変わるのは少々意外。オーディオ的には今回のリマスターは正しい仕上がりに違いないが、ここは好みが分かれるかもしれない。本来の曲順となったことは従来盤を聴きなれた耳にはまだ違和感があるものの、それは時間が解決することでしょう。

当時は2日間録音しており他にも残っているテープがあったはずで、それが公開されることがマニアには一番望ましいんだけれど、恐らく契約の関係で難しいのでしょう。「BBA Live」アルバムの音源として最高の状態として世に出してくれたことに感謝したい。

尚、ブックレットも充実しており、鈴木氏とプロデューサーの高橋氏の当時を振り返ったインタビューも興味深く、改めて何でもアリだった70年代は本当にいい時代だったんだなあと実感できます。

「人生の特等席」-エイミー・アダムスの素晴らしさ

人生の特等席

「グラン・トリノ」で役者引退宣言をしていたクリント・イーストウッドが、実質的な弟子とも言えるロバート・ロレンツ監督に請われて主演したことで話題になった映画。

冒頭からキレの悪い放尿シーンで始まり、テーブルに足をぶつけたりと老いを印象付ける始まり方。実際、82歳ともなるとこれくらいで普通なような気がするし、まったく違和感がないのは、古くからのイーストウッド・ファンにはちょっとショックかもしれない。それでも、飲み屋で娘に絡もうとする男に激しく詰め寄る件などは往年のイーストウッドのイメージそのもの。そして頑固親父の見本みたいな性格もイメージに違わない。

題材は、僕が好きなメジャー・リーグということということもあって感情移入しやすい。スカウトという観点で言うとやはり好きな映画である「マネー・ボール」と真逆のタイプの主役。確かに、データだけではなくこの目で見ないとわからないことというのは野球ではよくある。

先週(2013年10月18日)からクライマックス・シリーズで地元ロッテを応援していたんだけれど、第3戦で完璧に美馬に封じられた打線の中で、チーム4安打のうち2安打を放った根元が良い働きをしたことはデータでもわかる。この日はタイミングが合っていたから少しでも球が甘ければ左打者なら打てることはさほど特別なことではない。一方でこの日、井口は合っていなかった。それでも粘って2四球。2点差を追う9回の表は先頭打者としての出塁だった。井口という打者は数字では計れない価値がある。

もちろん新人のスカウトがこのような「野球を分かっているか否か」という観点で見ることは少ないに違いない。それでも野球というスポーツは後で数字を見ただけではわからないことが多い。その世界での「この目で」というスカウトの思いは確かに共感できる。

しかし、この映画はそういう話ではない。幼いころに母親を失くし、片親として育ててきた娘との親子の話が本題。しっくり行っていなかった2人の関係がどう変化していくのかを観る映画になっている(原題の「Trouble with the Curve」は屈折した親子関係の道程も暗に示しているようだ)。

こうなると重要なのが娘役のエイミー・アダムス。この映画では、父と距離を置きながらも心の底では慕っている娘、キャリアウーマンとして上り調子の女性、男社会でも物怖じしない強い女性、そして恋愛する美しい女性という要素を求められる中、どの要素も不足なく自然に見せた演技力と存在感はたいしたもの。

「魔法にかけられて」でのお姫様、「ダウト」での真摯なシスター、「ジュリー&ジュリア」での元気で前向きな若奥様、「ザ・ファイター」での肝っ玉姉さんなど、これまでいろいろなタイプの女性を演じてきたキャリアは伊達ではなく、この映画ではその幅の広さを存分に発揮。

あんまり日本人好みの顔立ちではないのか日本ではまったくスター扱いされていないけれど、ここまで幅の広い女優はなかなかいない。映画掲示板ではイーストウッドのことばかり書かれているのでここで声を大にして言っておきたい。この映画でもっとも良い演技をしているのは間違いなく彼女。未見の「ザ・マスター」も放送が楽しみだ。

尚、映画そのものはイーストウッド監督の映画と似たタッチの映像やカメラワーク(スタッフはイーストウッド・ファミリーと言える顔ぶれ)もあり、イーストウッド映画に馴染んでいる人なら安心して観れると思う。ただし、苦味が残るイーストウッドの映画に対し、あくまでも「古き善きアメリカ」を描いたある種御伽噺的な後味の良さを楽しむ映画である、というところは大きな違い。

映画ファンたる者、両方楽しもうではありませんか。

インターネット解約訴訟騒動記

今からおよそ1年前にあったインターネット契約の解約トラブルです。同じ境遇にいる人たちの参考になると思い、記録としてここに残しておきます。

第1章:解約したはずなのに
2012年8月19日、確定したクレジットカードの明細を眺めていると「んんん?」。なんと2011年の10月で解約したことになっていたはずの某社のインターネット料金がまだ請求されていることに気付いた。前年の9月13日に電話で解約を申し込み、解約手続き書類とレンタルルーター返却キットが送られてきて両方を送り返したはずだった。なんだよ、とっくに解約したのに、と翌日サポートセンターに電話をしてみることにした。何かの手違いだからすぐに返金してもらえるだろう、とこの時点では気楽に考えていた。

第2章:コールセンターの対応
翌日、電話をして解約したので返金をと要求してみると「調査して検討しますのでしばらくお待ちください」と一旦電話を切る。2時間ほどして折り返しの電話が入る。「確認しましたが、解約申し込みの書類が届いていないので解約していません。レンタル・ルーターは昨年の9月24日に受け取っています」。いやいや書類も送っているはずだ。ただし、送ったという客観的証拠は残っていない。そもそも到着が保証されていない普通郵便で返送することになっているし、某社側での紛失の可能性だってある。解約者が送り忘れてしまう場合も含めて抜け漏れが起こり得る曖昧な解約プロセスなのに、某社側から解約の再確認をすることはなく、ユーザーに解約完了を知らせることにもなっていない。まあ、クレジットカードの請求に1年も気付かないのもいかがなものかという指摘はあるとは思うけれど、それは個人的なお金の管理の話であって解約プロセスとは別の話だ。仮にカード明細をしっかりチェックしていたとしても1カ月分余計に支払い終えた時点でしか気付くことができないプロセスがまっとうだとは思えない。某社の言い分は「一度解約を申し込まれましても、気が変わる方もいらっしゃるので書類が届くまでは解約としていません」。なるほど、そうこじつけるか。しかし、某社自身がレンタルルーターを1年以上前に受け取ったことを認めている。ならば、もうネットが使えない状態であることがわかっているわけで、気が変わる云々は関係ないでしょう、と言うと「ルーターを返してもメールアドレスはご利用になれます」という。言い分を総合すると、解約を申し出てルーターは返したけどやっぱりメールアドレスだけ使いたいので解約するのをやめることにした、という心変わりがあり得ると言っているらしい。では解約書類が届かなかったら、このまま10年でも請求し続けるんですか、と訊くと「はい、そうなります」という。到着が保証されていない普通郵便を指定しているのは他ならぬ某社であり、某社で紛失していないことを証明できないのにそう言い張るのか、などと突っ込んでも、とにかく解約書類が某社の手元に届いていなければ解約はできません、規約にそう書かれていますの一点張り。契約者は規約に合意したうえで契約書にサインしているため、正当だという主張である。とりあえず、まだ解約できていないのだから即刻解約してくれと要求すると「今日(20日)、解約書類を送り直してからだと21日以降の手続きになります。当社は21日以降は翌月解約になります」と機械的に説明する。これだけ強い解約の意思を示し、ルーターがなくて使えない状態なのをわかっているのに、更に来月分もむしり取るのかと、いい加減苛立ちながら問い詰めると「規約にそのように記載されていますので」と暖簾に腕押し。「ルーターは返したけどやっぱりメールアドレスだけ使いたいので解約するのをやめることにしたということがあり得る」という理由で解約は受け付けないという屁理屈解釈へのツッコミや、まだむしり取るのかという問い詰めに対しては「そうは申していませんが、そのように受け取られるのなら仕方ありません」と、そう受け取る方がおかしいとでも言いたげない事務的な返答をしてくる。では、どんなことがあっても返金はしないんですね?と尋ねると「何らかの指導などあれば別で、どんなことがあってもということではありません」と言う。こんな電話での要求には応えるつもりはないので文句があるのなら出る所にも出てくれとでも言いたいようだ。これ以上サポートセンターと話をしても埒が開かない。一旦電話を切り、策を考えることにした。

第3章:手段を探る
まずは消費者センターに相談してみる。「多いんですよ、そういうトラブル。みんな泣き寝入りしているみたいです。誰かが裁判で勝訴したという実績があればいいのですけどねえ。誰か訴えないですかねえ」と予想以上に頼りにならない。詳細に説明しても「確かに納得できないんですが、こちらではどうしようもできません。弁護士に相談してみてはいかがでしょうか」と区役所の無料弁護士相談を紹介される。早速問い合わせてみると区役所の無料弁護士相談は毎週火曜日だけ、当日予約のみということでいつも予約開始時間に電話が殺到し、そう簡単には予約が取れないらしい。普通に弁護士に相談できるものならしたいが当然お金がかかる。過剰支払いの金額は46,000円程度なので、個人の損失額としては決して安くはないとはいえ、弁護士費用を雇ったら簡単に飛んでしまう額でもある。そこでネットの法律相談サイトで、このような状況で返金を求めても勝ち目がないのか、取り返す手段はないのかと相談してみた。一般的にネットなどで何らかの会員になるときに長ったらしい規約が出てきて承認することによって入会することになっている仕組みが良くあるが、全部読む人などまずいないため、裁判では規約に書かれていても現実的でないければその内容が無効になった例があったと記憶していたから、今回の件も同様にならないかと期待してみての質問投稿だった。翌日、ある弁護士から「解約の意思を認識できていたとして返金が認められる可能性が十分にあります。少額訴訟を検討してはどうでしょうか」と回答が付いた。少額訴訟?聴いたことのない言葉だ。調べてみると60万円以下の金額請求が対象で、裁判は1日で結審し、今回程度の金額だと手数料は印紙代1,000円のみ、それに加えて切手代3,910円だけで済むという。つまりお金と時間がかからない、まさに今回のケースにピッタリのシステムであることを知る。泣き寝入りするしかないかとあきらめかけていたが光が見えてきた。金が惜しいというのもあるものの、某社の画一的かつ人をバカにしたやり方が許し難いという思いが強く、早速訴訟を起こす準備を始めることにした。

第4章:起訴
数こそ多くないものの、インターネットにある少額訴訟サイトの情報は充実しており、準備は難しくなかった。訴状テンプレートを見つけ訴状を書き上げるのも思いの他労力がかからない。被告を誰にしたら良いのかわからないので某社のサポートセンターに再度電話。対応者はこれまでと違うが、こちらの人物照会をしてから対応を開始しているので、これまでのやりとりの履歴は確認しているはずだ。訴訟を起こすので被告人を誰にしたら良いか教えてほしいと言うと、少々お待ちくださいのあと、ごく普通に「社長でお願いします」と回答。ここで手の平を返したような対応を期待しいたわけではないものの、どうぞ訴えられるものなら訴えてくださいという態度に見えてしまう。実はこのあたりから裁判そのものに関心を持ち始め、勝ち負けとか手間の話を抜きにして、この訴訟そのものの活動がどうなるかという興味が出てきてしまっていた。訴状を書き、必要な収入印紙、切手を持って、霞が関にある東京簡易裁判所で手続きを行う。受付前にレビューをしてくれる相談室のような窓口があり、手続きについていろいろと教えてくれる。持って行った切手の金額の比率が違っていたが「合計が合っているからまあいいでしょう」。ちなみに地下にある売店で切手も印紙も購入できるので、訴状さえしっかりと準備していけばあとは裁判所ですべて揃えることができるようになっていた。その訴状については「代表取締役社長という肩書は法的には意味がないので代表取締役代表者としてください」と言われ書き直す。訴状の内容を読んでから「なるほどそういうことですか。クレジットカードの明細なんていちいち全部見ないですよね」と同情的な言葉をいただく。ここで共感してもらえても裁判に影響するわけではないものの、少しなりとも法に関わっている人の感覚なので悪い気はしない。社長表記の問題以外はOKだったが法人を訴える場合は法務省に行って法人登記簿謄本を入手する必要があるというのでそのまま九段下の法務省に行って取得、霞が関に戻り正式に訴状を提出した。余談ながら、東京簡易裁判所の地下にあった食堂の夏野菜カレーは結構おいしかった。

第5章:裁判に備える
裁判を迎えるにあたって、理論武装、想定反論などを踏まえた準備に取りかかる。実は映画もドラマも法廷モノが好きで、弁護士気取りでいろいろ考えているのを楽しんでいる自分に気づく。そしてリーガルハイの古美門研介のように相手をやりこめてやろうとあれこれシミュレーションしてみる。そもそも、不確実な解約プロセスを採用していながら、それをリカバリーする仕組みが一切ない。他のプロバイダーでは、2週間以内に解約通知が来なければ問い合わせてください、としているところも珍しくないが、この某社は「解約完了通知を希望する人は解約申し込み時に言ってください」とWebサイトに書いてあるだけで、電話で解約を申し入れたときにそのような説明は受けていないことは不備として指摘できるポイントだろう。また、「当社はルーターの返却と解約は結びついていません」と言ってきた場合には、「解約後、ルーターを返却しない場合には罰金を取ると規約に書いてある。金を取るときは解約と結びつくが返金のときには結びつかないというのは矛盾している」と言ってやろうなど、議論の的になる内容を頭の中で整理していった。

第6章:手の平返る
一週間ほどしてから、簡易裁判所の書記官より訴訟内容の確認が入る。そして証拠としてプロバイダー料金を引き落としていたクレジットカード請求書と、実際に引き落とされたことを示す通帳の記録を求められる。少額訴訟は1回で結審することが必須であるため、証拠類はすべて揃えておかないと判決を出せないことになり、お金と時間がかかる通常訴訟に回されてしまう可能性がある。だから、必要な書類はビッシリと揃っていなければならないらしい。書記官との数回のやりとりを経て、裁判の日程が10月30日に決まり、10月1日、裁判所より原告と被告に裁判所から召喚状が送られた。そして10月4日には某社から拙宅へ封書が届いた。封書の裏には法務部と書かれており、どんな内容かと幾分の緊張をもって封を開けてみる。書いてあった内容は少々予想外のもので、訴訟を取り下げてくれれば全額と裁判費用を合わせて返金するという和解の申し出だった。和解文書の日付は召喚状が発送された翌日の10月2日である。対応が早い!と褒めてあげたいところだがいくらなんでも早すぎるだろう。要するに社内でこの件を精査し、どうするべきかという議論がなされた様子はない。某社にとってこの一連の流れは想定範囲であり、ルーチンワークに過ぎないのだ。まあ、泣き寝入りする人がほとんどだし、訴訟を起こすまでしつこい人は返金することにしておけばいいんじゃね?というのが見え見えである。そもそも訴えられたとしても勝算があるから頑なに規約を盾にして対応し、訴訟することを意思表示しても何も対応しないのかと思っていたが、裁判による解決でなく和解したいと完全にベタ下り状態である。そこまで下手に出ていながら、振込先を書面で送ってほしいという要求に普通なら入っていると思われる返信用封筒が、やはりというかなんというか入っていない。原告の感情を逆撫でしないようにという配慮はなく、ひたすら事務的に徹しているところにこの会社のポリシーがよく表れている。

第7章:和解
和解文書には、訴訟を取り下げてくれれば返金する、と書かれていた。杓子定規にしか対応しない会社というのはここまでで良くわかっているが、裏を返せばハッキリさせていないことはうやむやにしてくる可能性もあるのかもしれない。故に和解文書に法的な効力がないとしたら、訴訟を取り下げたあとに条件変更を言ってくる可能性もゼロではない。もう不確定要素はなくしたいのでここは慎重を期して、10月12日までに返金されていたら訴訟を取り下げること、そして某社が訴訟費用に計上してなかった法人登記簿謄本代とこの書面送信料金も支払うことを条件に訴訟を取り下げると返信する。すると今度は、謄本代と切手代も払う、返金は12日には間に合わない、ということに加えて確認書も添えられていた。確認書は「返金を受けることを条件に訴訟を取り下げることを約束する」「以降、一切の要求をしない」の2項目が書かれており署名を求めていた。この時点で、まだ返金日について一切触れてこないので、確認書の文書を「返金を受けたことを条件に」に変えてくれれば確認書にサインすると返信した。返金が確認できない限り訴訟は取り下げないという意思表示も加えて。尚、今回は返信用封筒が付いてきたが、2回の文書ともに「解約文書を受け取っていないので本来は解約できない」「規約どおりではないが」という、何度も聞かされた文言がしつこく書かれており、あくまでも要求に屈したわけではないといことが行間に滲み出ていた。つけ上がって必要以上の要求をされないように釘を刺しているつもりなのかもしれないが、それは確認書で担保しようとしているのだから折れるなら潔くなれないものなんだろうかと改めて呆れてしまう。結局、10月18日に「返金を受けたことを条件に」と書き換えた確認書が再送されてきて、22日には入金すると書かれており、約束どおり返金された。簡易裁判所に経緯を話して訴訟取り下げを申し出ると「良かったですねえ」と心からの喜びの言葉をいただき、取り下げの手続きに入った。

第8章:終わって考えてみると
ということで欲していた結果は得られたものの、規約を盾に自社の仕組みを一切省みずにすべての要求を拒否しながら、訴訟になれば180度方向転換して応じるというモラルの低い会社が存在していることは非常に残念であり、いつのまにか少し楽しみにしていた裁判を経験できなかったのもちょっと残念ではあった。まあ、これだけでも面白い経験、社会勉強にはなったと思う。振り返ると某社のサポートセンターの人たちはとても良く教育されていた。最初に返金を要求したときに即答せず、数時間後に内部で検討したかのように回答をするところも恐らくマニュアル通りだったのだろう。解約プロセスの不備を突いて揺さぶりをかけると、私個人もおかしいとは思うんだけれどというニュアンスを出しつつも一線を越える失言はなく、徹底的にマニュアル通りに受け答えをしていた。そういう意味でプロとして良くやっていたと思う。ただ、結局は全面的にこちらの要求に応じることになった背景には、電話のやりとりが録音されることをこちらが意識して、腹が立ちつつも大きな失言のないように注意していたこと、解約書類が届かなければ10年でも支払い続けるのかというツッコミに「はい」とルール通りに答えざるを得なかったことなど、結果的に裁判になったら立場が悪くなるような発言をすることになった(こちらが引き出した)ことなどがあったからだと思っている。規約を盾にすれば正しいと言い切れるという態度が結局は墓穴を掘ったんじゃないだろうか。この件に限ったことでなく、ルールがあれば何も考えずにそれを守って行動するという思考停止型の態度が個人的には嫌いだし、そういう姿勢がまかり通るという世の中であってほしくないという気持ちがあることも裁判を起こす動機だった。最後に、お世話になった裁判所のシステムにも一言。いまどき、やりとりがすべて紙というのもいかがなものかと思う。急ぎの時はFAXでのやりとりになり、あまり調子が良くない我が家のFAXを久しぶりに使うのはかなり不安だった。一般企業より10年は遅れているし、これが通常訴訟だったらと思うとぞっとする面倒さだった。ここはさすがに改善してほしいものだ。

2013年 凱旋門賞

凱旋門賞2013

僕が競馬に興味を持ち始めたのは94年くらいのこと。年齢は既に26歳で始めたのは遅い方だったと思う。

しかし、ひとたび夢中になると納得するまでとことんやることはそれまでの趣味と同様で、一時期は結構ハマって
いた(今でもやってるけど)。競馬の仕組みを理解しはじめ、競馬関係の書物にも手を伸ばしていくと、そのうち
のひとつに大橋巨泉著「競馬解体新書」という本があった。

この本は、まだ競馬予想家、評論家をしていたころの著者が、サンケイスポーツのコラムを書いていたときのもの
を集約した本だったようで、まだまだ競馬発展途上国である日本の競馬の問題の数々を、舌鋒鋭かったころの巨泉氏が指摘している(最近は老人の愚痴みたいなことしか言ってないけどこの頃は多くの面で日本が遅れていたゆえにまっとうな物言いが多かった)。ちなみに、そこで指摘されている問題の多くは、今となっては解決されていることが多く、氏の主張が正しかったことを証明している。ただし、G1レースの登録料が1万円であることと、スクラッチ(出走取り消し)が許されていないところ、馬券控除率の高さは今でも変わっておらず、日本の競馬は未だに欧米に比べて遅れていると言わざるを得ない。

そのような内容ゆえに、おいおい海外の競馬事情に触れているところが多く、その日本の競馬と違った馬優先の在り方に惹かれ、僕の目も自然と海外競馬に向くようになっていった。また、NHKの「世界の競馬」、グリーンチャンネルで放送していた「知りたいKEIBA情報局」という番組で実際に海外の競馬に触れることができる環境も増えてきた世相でもあり、合田直弘氏が次から次へと世界のレース映像を、馬名、騎手名、調教師名、馬主名などを淀みなく紹介するのを楽しみにして観ていた。

そんな「遠くの国」でやっている別世界のことだったものを、同じ世界のものと教えてくれたのが99年のエルコンドルパサーの長期フランス遠征だった。

グリーンチャンネルでは初戦のイスパーン賞から生中継で放送。クロコルージュの末脚に屈したときには「やはり海外のレベルは」と思ったことを昨日のことのように思い出す。しかし、続くサンクルー大賞ではまだ適正距離と思われていなかった2400m、そして多くのG1ホースが相手という条件の中、直線一頭だけ馬なりの楽勝という強い勝ち方。このときからもうエルコンドルパサーへの期待が大きく膨らんだ。

フォア賞でボルジアを差し返し、迎えた本番の凱旋門賞の結果は多くの競馬ファンがご存知の通り。最後の最後にモンジュー(今では偉大な種牡馬)に交わされたときには、思わず倒れ込み、ドーハの悲劇以上の脱力感を味わったものだ。日本であれだけの強さを見せ、フランスでも実績を積み上げてきたエルコンドルパサーでさえ負けるなんて、もう勝てる馬なんか日本から出ないんじゃないかという思いに囚われてしまうほどのショックを受けた。

そして2006年、それでも「勝てるんじゃないか」と思わせたのがディープインパクト。この年、ロンシャンは好天に恵まれ、日本の馬場に近い硬い馬場が予想され、一般紙(!)ではディープインパクトの調教を連日好調と伝えていた。ライバルはフランスのハリケーンランとドイツのシロッコで、ハリケーンランの父はエルコンドルパサーを破ったモンジュー、シロッコの父モンズーンが現役最後のレースで勝った馬がウインドインハーヘア=ディープインパクトの母という血のめぐり合わせという観点でもドラマのある組み合わせだった。

歴史が変わるかもしれない。競馬ファンとしてここ(日本)にいていいのか。

そんな思いに駆られた僕は、レース4日前の水曜日にフランスに行くことを決断。たまたま仕事が落ち着いていたこともあって、週明けて月曜日と火曜日の有休も取ることができた。困ったのは航空券で、格安チケットは5日以上の滞在以外にはない。2泊4日という日程は基本的に正規料金のチケットしかなく、確かエコノミーで30万円以上していたと記憶している。それでもなんとかミラノ経由で17万円というチケットを入手し、僕はロンシャンに向かった。土曜日の夜23時にパリのホテルに着き、日曜は1日競馬で終わってから日が暮れたエッフェル塔と凱旋門を眺めただけでホテルに戻り、月曜日の朝にはチェックアウトという、時差ボケを感じる暇もないまさに弾丸ツアーを敢行。

こちらも結果はご存知の通りの3着(後に薬物検査で失格)。競馬場からの帰路、激しく落胆し、またも「もう勝てる馬は出ないんじゃないか」という思いにさせられてしまった。

その後、2010年にロンシャンに行ったときは新婚旅行を兼ねての観戦でで、あまり期待していなかったナカヤマフェスタが惜しい2着という結果に、「日本の競馬もまだ行ける」と思い直す。ちなみに、競馬場で後ろにいたワークフォース応援と思われる英国紳士から「よくがんばったな」という感じで声をかけられたことをよく覚えてい(余談ながらカフェ・ド・フロールでお茶をしていたときに武豊が目の前を通るなんてこともあった)。

2012年の凱旋門賞は、ついに悲願達成かと思われたその時に重馬場巧者ソレミアの一世一代の走り(その後ジャパンカップで大敗して引退)で勝利がスルリと逃げる。こうなると運がないとしか言いようがない。

そして今年(2013年)の凱旋門賞。

日本から2頭出し、レベルも過去最強クラス、さらに前哨戦で共に良い勝ち方をしての参戦。オルフェーヴルに至っては去年の実績もあり、これ以上期待できる条件はないだろうという状態でレースを迎えた。しかも強力なライバルと見られていたノヴェリストが出走回避という追い風までが吹く。

・・・それでも勝てない。

オルフェーヴルもキズナもほぼ思い描いていた通りにレースを運べていたし、目立った不利もなかった。しかし、勝ったトレヴは直線に入ってから抜け出す瞬発力が凄まじく、ゴール前でさらに突き放す圧倒的な強さ。

この2頭でも力負けという恐るべき牝馬は、2011年の覇者、デインドリームに匹敵するかそれ以上の強さではないだろうか。こんな女傑と当たるとはなんという不運。いや、不運ではない。これが欧州競馬の層の厚さというものなのかもしれない。

既にキズナは来年の参戦意志を示しているけれど、すべてがうまくいく日がそのうちやって来るんだろうか?サンデーサイレンスが一気にレベルを引き上げた日本のサラブレットがヨーロッパを制するときが来るのか。ドバイを制した日本でもその思いは募るばかり。

僕が生きている間になんとか夢を見てみたい。

「パーフェクト・プラン 完全なる犯罪計画」【ネタバレ】

パーフェクト・プラン

WOWOWでやっていた日本未公開映画。まあ、キャスト、製作陣の地味さを考えれば仕方がないかも。

さして期待していなかったこともあって、意外に楽しめた。

主人公は、営業センスがありながらどうやら最近はあまり仕事がうまく行っていない保険セールス。ちょっと胡散臭い雰囲気と、ところどころ頼りない雰囲気を主役のグレッグ・ギニアがうまく出している。

思わぬ小さなことが転んでどんどんヤバイ状況になっていく話の展開は、どこか「ファーゴ」を思わせる。コーエン兄弟のようなアクはないものの、その分リアリティがあると言えなくもない。でもねえ、DVDのキャッチコピーのように「凌ぐ」というのはさすがに言いすぎ。

そんな「ファーゴ」の出来損ないとして観ていると最後には、全部主人公を貶める罠だったということが明かされて、すっかりだまされるという映画。
(余談ですが、この種の大どんでん返し系の映画レビューには必ず「途中でオチが読めた」という人がいるけれど、根拠のない邪推でもしないかぎり読めるはずがなく、読めたと宣言してツウぶるのは恥ずかしいと思う。仮に読めていたとしても、何も証明できないネット上で言っても胡散臭いと思われるだけであることに気付いた方がいい。)

日本未公開、話が進むと内容も「ファーゴ」の二番煎じ、となるとまあ「そんな程度の映画かなあ」と力を抜いて観てしまう。そう思わせておいて最後に「ええええっ?」と思わせるオチだったことはかなり意外性があって実に気分良く騙されました。

あと、地味にいい役をもらい続けているビリー・クラダップの切れた演技と、いつのまにか女優復帰していたリー・トンプソンの衰えていないルックスを観れたことも個人的には高ポイント。

映画慣れしていない人にも進められるなかなかの佳作映画でした。

クラオタ・・・見境いのない独りよがりな没入者たち

このブログの記事の比率を観ればわかる通り、僕の趣味は音楽系が占める比率が高い。ロック歴は既に30年以上、ジャズも12年くらいは聴いてきた。長く聴いてきて一向に飽きないのは何度も聴くに耐える音楽としての深みがあるからでしょう。そしてこの1年でクラシック(今のところオーケストラものがほとんどだけど)を聴き始め、新たに深みのありそうな世界を覗くようになった。まあ、クラシックとはつまり古典という意味なわけで、深みがなければ100年、200年と残る古典にはなり得ないに違いない。

音楽が自分の体を成す一部となってきたのは中学生くらいからで、もちろん直感的に好きな音楽を選んで聴いていたものの、徐々に音楽について分析したり考えたりしながら聴くようになっていった。

幼少時代から、父の好みにより休日となるとクラシックとジャズを中心に1日中音楽を聴かされていたにもかかわらず、それらに魅了されることはなく、父が「小便の飛ばし合い(男の子が小便をどこまで遠くまで飛ばせるか競い合っている=音量の大きさを競っているだけで意味がないという意味)」と蔑んでいたロックに熱中した。ロックには若者を熱狂させるエネルギーとパッション、骨っぽさがあって血気盛んな10代には断然こっちの方が魅力的だった。

実はクラシック(やジャズ)に近寄りたくないと思う理由がもうひとつあった。それは愛好家たちが放つ「自分たちは芸術をわかっている選ばれた文化人である」という空気。要するにスノッブの仲間に入りたくないという思いを、子供ながらに強く抱いていた。

今振り返ると、クラシックやジャズの愛好家が、たかが音楽を聴くことくらいで文化人を気取ってスノッブになる理由はなんとなくわかる。

ここ日本について言えば、70年代からクラシックとジャズを聴く環境は大きく変わっていった。オーディオが一般家庭に置かれるようになり、家で音楽を聴くことが特別なことでなくなったことが事の始まりと言える。一方で決して気軽に買えるというほどのものでもなく、自分が中学生(80~82年)のころでも音楽を必要としない家庭にはレコード・プレイヤーがないところも珍しくなかった。つまり、一般人でも聴けるようになったが、聴こうという熱意がないと聴けないし、レコード1枚が今のCDより相対的にずっと高かった時代に音楽に詳しくなるということは、文化人の端くれくらいの勘違いはあっても不思議はなく、それがエスカレートして「自分は音楽をよくわかっている知識人」とさらに勘違いさせる空気すら70年代という時代にはあったんじゃないだろうか。

この時代には「レコード芸術」「スイングジャーナル」といった専門誌も広く読まれるようになり、その影響もかなり大きいように思う。

雑誌は、まだインターネットのない時代にリスナーが情報入手できるほとんど唯一の手段だった。そこに掲載されるのは評論家の文章であるんだけれど、評論家が「見識者」の地位を築くことができたのはレコード1枚の値段が高かった時代に役得で多くの音源を聴くことができるという立場上の優位性に支えられたものであったのは紛れもない事実でしょう。まだ海外旅行が一般的でない時代に、短期の現地取材で少し見たり聞いてきただけで本場のことをわかったかのように振舞うこともできたことも想像に難くない。つまり、今の時代なら誰でも得られる情報であっても当時は尊敬される情報であり、そういった情報を持つごく一部の人による考えでこの狭い世界の世論を支配することができた時代だった。

もちろん、そういう情報不足の時代であったからこそ、評論家として名を成すには大変な熱意と努力が必要だったんだと認めるのはやぶさかではない。ただし、当時有名だった評論家の意見は今読むと、非常に独善的で偏狭で知識も豊富なようには見えない。それはその時代の限界だったのだから仕方のないことだと思う。最大の問題は「自分こそがわかっている」という態度の物言いをする人がやたら多いことだ。音楽評論というよりは単なる人格攻撃にしか見えない酷いものもある(ただし、相手は日本語が読めない外国人だからできるという情けない攻撃だけど)。唯一の情報源である雑誌からそういった論調の物言いばかりを読んできた読者は、いつしか勘違いし始めたんじゃないだろうか。このように振舞えはツウと見てもらえるんだと。

なぜこんなことを書いているかというと、21世紀になってもクラシックの聴き手にこういうスノッブが山ほどいることを、この1年で嫌というほど見てきたから。

Amzon、HMVなどのレビューで、ロック系やジャズ系のアルバムについてはスノビッシュなものはほとんど見かけない。当たり前だけれど皆が正直に感じたことを書いている。例え批判であっても、それはレビュアーが感じたことがそのまま書かれているように見える。

ところがクラシックのレビューはそうでないものが多い。

「○○(指揮者)の演奏はダメだ」
「○○(指揮者)は、△△(作曲家)をわかっていない」
「○○(指揮者)の演奏は精神が伴っておらずうわべだけだ」
「○○(指揮者)の演奏は音響であって音楽ではない」
「△△(作曲家)の曲をこんなふうにやって(演奏して)はいけない」

というようなコメントが、当たり前のように書かれている。

恐らくは譜面も読めないような人が、アゴーギクがなんちゃらとかポルタメントがどうこうとかいう専門用語を多用して初心者を煙に巻く。哲学書などまったく読まず、多人種が共存する社会も知らず、ミサにも行ったこともない、坊主で葬式をあげる国民が、欧州人による欧州文化の表現そのものを酷評している。共通しているのは、その演奏がどう良くないかという理由をほとんど示さず、すべて断定調でどう読んでも「自分こそが一番わかっている」としか読めないような物言いであること。

世間ではクラオタ(またはクラヲタ)という言葉がある。僕の中でオタクの定義は、「楽しむ本質を見失い、見境なく何かに没入している独りよがりな人」となっていて、例えばオーオタ(オーディオオタク)とは、本来は音楽を良い音で聴くことを目的としていた人が、音楽より音質を楽しむようになってしまった人のことと言う意味である。

ちなみに、グローバルで販売されているクラシックのCDでダメな演奏などひとつもないというのが僕の意見である。もちろんレベルの差はいくらかあったり、部分的な演奏の乱れがあったりするとしてもどれも一定の水準はクリアしているし、ある程度名の知れたオーケストラなら明らかに問題と言えるようなものはない。(流石にそういう問題があるものを演奏者が発売許可するとは思えない)

それなのに酷評されるCDが多いのはなぜか。

要はその人の好みに合っていない、というただそれだけのことです。好みに合わないものを批判するのは一見間違っていないかのように見えるでしょう?でももっとも幼稚なレベルに思えるわけです。例えば譜面と突き合わせて、文献で作曲者の意向を分析したりして、「この演奏は・・・」とでも言えればひとつの批評と言えるでしょう。でもクラオタの批判はそんなに深いものではないんですね。どの曲を、あるいはどの部分を自分の好みのテンポと強弱と音色で聴かせてくれるか、そんな程度の判断基準くらいしか持ち合わせていないわけですから。

それは頭のてっぺんからつま先まで自分好みの服を着て欲しいと恋人に押し付けるのに等しいわがままと言って差し支えないレベルの幼稚さだと僕は強く思うわけです。味噌ラーメン専門店が出したものを「ラーメンは醤油に限る。この店はラーメンをわかっていない」と言う人がいたら普通は頭がおかしいと思うでしょう?ところが、ここ日本におけるクラシックの世界ではそう言い切ることがツウの証であるかのような状態が21世紀になっても続いている。

もちろん、聴き手はそういう判断レベルで好きなアーティストを分別して聴いていて良いんです。ただし、世間に向かって大指揮者を分かっていない呼ばわりするのならその主張が正当である客観的な分析も提示できて当たり前でしょう。でもそんな解説ができている人など見たことがない。その演奏のどこがなぜ良くないか、ということすら書いていない。それなのに批判の論調といったらそれはそれは手厳しい。

もっともらしく見せるために、「わかっていない」とか「中身がない」とか一見説得力があるようで何の根拠もない理由で切り捨てることで自分の好みを客観性があるかのように正当化する。こんなに子供じみたリスナーがたくさんいるのは僕が知る限りクラシックの世界だけです。そしてこのような振る舞いの人種を育てたのは、先の雑誌であり、人格からして疑いたくなるような物言いの評論家たち。だって、断定調リスナーと評論家の文体や語彙が判で押したように同じなんですから。

クラシックやジャズのリスナーをスノッブと見て若い頃は避けてきたことは先に書いた通りだけれども、一方でそれぞれ深い音楽への理解がないと楽しめない高尚なものなんじゃないかとも実は思っていた。今はもう違う。クラシックは大人気ない人が大人を気取るために利用する道具のひとつになってしまっている。本来、クラシックが好きで聴いてきたはずなのに「クラシックをわかっている自分」に酔っている状態になってしまった人のことを、僕はクラオラと呼んでいる(Yahoo!知恵袋などで誰の演奏が良いかという質問に対して根拠なくお奨め盤を嬉々として書いている人はほとんどが該当)。

そして若いときの僕は、既にそういうオタクの空気を敏感に感じ取っていたからきっと近づこうとしなかったんだなと、今になって思う。

もちろん、普通にクラシックを楽しんでいる人、肩に力が入っていなくても深く理解している人の方が多いことはわかっているつもりです。でも、オタクの人って無駄に声が大きいしよくしゃべる(=ネットの目立つところへたくさん書き込んでいる)。だから見たくなくても視界に入ってきてしまう。今、クラシックへの理解を深めようといろいろ情報を欲している僕からするとかなり鬱陶しくて目障りなことこの上ない。これからクラシックを聴こうと思っている人にもきっと同じように感じる人がいるはずで、このような閉鎖的でスノビッシュな世界を見たら嫌になって入口で引き返す人もいるんじゃないかと思うと、こうした古い価値観のスノッブはクラシック業界にとって有害でしかないように思えてしまう。

クラオタの皆さん、自分を偉そうに見せるために音楽を利用するの、もうやめませんか?

所詮、音楽なんて娯楽。なくても生きていけるもの。一方で、知識があれば教養人、知識人と見てもらえる。でもそういう尊敬を集められるのはなぜかというと、いろいろなものに通じている人は視野が広いと見てもらえるからなわけです。ところがオタクの人って、例外なく興味の幅が狭い。映画、絵画、料理、ファッション、スポーツくらいの主要娯楽を満遍なくある程度語れることは最低限のことであるのは当然、と言えるくらいでないと知識人や文化人に見てもらえるはずがない。いろいろなことを知っているから視野の広さと、物事の真理を見極める目が養われていると思われ、知性と教養があると見てもらえるわけで、クラシックだけに詳しくてもこの世になくても困らないもののひとつを必要以上のレベルで知っているだけの人(まさしくオタク)と評価されて終わりなわけです。

クラオタの人は自分のことを見つめなおした方がいいと思います。まあ、こういうこと言われても自分のことだと思わないんでしょうけれど。

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