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Enjoy Life, Enjoy Hobby

趣味の人生を楽しむサラリーマンの日記

第80回 日本ダービー

クリムゾンベガ

写真は家宝としているものです。

以前、社台レースホースの会員だったときにクリムゾンベガという馬を一口持っていた。500万下のレースに勝利したときのゼッケンが抽選で当たり、騎手のサイン入りで手元に届いたもの。その騎手は競馬に詳しくない人でも知っている武豊。

G1を狙えるほどではない関東馬のクリムゾンベガになぜ乗ってもらえていたのか。この馬の3戦目の未勝利戦、鞍上は柴田善臣騎手が予定されていた。ところが前日に落馬負傷となり、偶然関東に来ていた武騎手に乗ってもらえたのです。そしてその未勝利戦の前走で先着されていた馬などを相手に見事初勝利し、その後も何度か乗ってもらっていた。クリムゾンベガは最終的に4勝して、そのうち2つを武豊騎手に勝ってもらった。

90年代から競馬を見始めた僕のような人にとって武豊はスター中のスター。2006年の凱旋門賞はディープインパクトが歴史を変える瞬間を見たくてロンシャン競馬場に応援に行った(2泊4日の弾丸ツアー)し、2010年に新婚旅行でパリに行ったときにもヴィクトワールピサに乗っていた。サンジェルマン・デ・プレのカフェ・ド・フロールでお茶をしていたら買い物でウロウロしているところまで見かけたりと、僕の競馬ライフの中でもっとも身近にいるのが武豊という騎手だった。

競馬ファンならご存知の通り、近年の武豊はその当時のような成績を残せていない。

僕は武豊のファンであったものの、他を寄せ付けない成績を残していたときから彼が万能の騎手だとは思っていなかった。特に外国の一流騎手のように人気のない馬を上位に持ってくるような力については弱いと思っていた。でもだから大したことはないとも思っていなかった。勝ち星をコンスタントに上げていても大きなレースで人気の馬に乗って成績を残せない騎手も少なくない中、注目を浴びプレッシャーがかかる人気の馬を次々に勝たせるというのはやはり並みのジョッキーにはできないと思っていたから。

騎乗馬に恵まれなくなってからの武豊は、懸念していた通り、以前のように勝ち星を上げることができなくなってしまった。騎乗馬の質の低下は驚くほどで、重賞レースで3番人気以内の馬に乗っている姿をほとんど見かけなくなったばかりか騎乗馬がいないケースすら珍しくなくなった。かつて武豊を乗せていた有力厩舎の依頼がガクっと減ってしまったのだ。

何があったのかわからない。それにしても頂点中の頂点を極めていた人がこの境遇に陥ることの厳しさ、辛さは凡人には想像すらつかない。

その辛い時期を乗り越え、キズナという馬とめぐり合い、ついに5度目のダービー制覇。

レースは平均ペースで流れていたので後ろから3頭目という位置取りが心配だったけれど、最後の直線まで我慢して、毎日杯や京都新聞杯で見せた豪脚をここでも爆発させた。ゴール直前で交わしたところもドラマチックで久しぶりに感動したレースだった。

馬の強さも大したものだけれど、これまでの経験もモノを言った騎乗だったと思う。

個人的にはここ数年仕事がうまく行っていたのに、最近は微妙に噛み合っていないので精神的に少しモヤモヤしていた。でもこんなものは武豊の苦しみからすればまったくもって小さなストレスに過ぎない。

今日のダービーのおかげでまたがんばろうと思えるようになった。

やっぱりいいレースを観ると元気が出てくる。競馬っていいもんだな。

カルロス・クライバー ドキュメント

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2013年5月13日、NHK BSのプレミアムシアターはコンセルトヘボウ125周年記念ガラを放送していた。豪華ゲストを招いてのこのイベントそのものが素晴らしく楽しく鑑賞させてもらいました。

しかし、4時間もあるこの番組の後半はなんとカルロス・クライバーのドキュメント2本立て。クライバーが好きな自分にとってはこちらの方が見応えたっぷり。

いずれもDVDでは随分前から発売されていたもので「Traces To Nowhere」と「I Am Lost To The World」として今でも見ることができる。前者がドイツ製作で後者がオーストリア製作とのこと。残されている映像が少ないだけに重複部分があるのは仕方がないものの、コメントしている人は当然それぞれ異なり、総合すると実に多くの人の口からクライバー像が見えてくる。芸術家にありがちな典型的な天才肌の感覚派だったことが異口同音に語られているところが何よりも印象的で、特にムーティの「技術で指揮をしている人は真似ることができるが感情で指揮をしている人は真似ができない」というコメントがクライバーの本質を表しているように思う。

そして、両手を大きく振り、上半身を揺らしながら躍動的に指揮をしている姿が初見の僕には極めて新鮮だった。これまで映像を含めてそんなに多くの指揮者の見ているわけではないんだけれど、ここまで生き生きした表情で優雅で力強い指揮をしている人を初めて見た。その姿は音楽に没頭している無垢な少年を思わせる。クライバーほど見ていて惹きつけられる指揮者はいないんじゃないだろうか。

それにリハーサル風景も実に興味深い。比喩的な表現を使ったテンポや強弱の指定の仕方があまりにも独特で、たとえばゆっくりと弱く入ってほしいところでは「誰かが入るのを待つように」というような言い方をする(そんなことをしたら曲が進まないとコメンテイターが笑っている)。また気持ちが高ぶって指示に熱が入ってくると息切れしながら熱くまくしたてるように楽団員に思いを伝える。

クライバーはいわゆる天才指揮者として今や伝説扱いになっているとはいえ、時に「上滑りしている」と批判する人も少なくない。カール・ベームのように堅実で実直な歌心で勝負する人も良いけれど、クライバーのようにエモーショナルに音楽を奏でる人に僕は惹かれてしまう(バーンスタインも)。

このドキュメントを観ると、感性の赴くままに曲を羽ばたかせるクライバーは根っからの音楽家であることを実感するし、音楽が人生そのものになっていたことが実によくわかる。

才能豊かに器用さで高い完成度を誇る音楽を作る人はもちろん素晴らしい。一方で、ジャズやロックに限らず人生が音楽そのものになっている人の姿を見ていると何者にも代えがたい感動を覚える。

残された録音が少ないのが返す返す残念ではあるけれど、これからも僕の中のクラシック世界にクライバーは大きな存在として居続けるに違いない。

 

デヴィッド・ボウイ The Next Day

David Bowie-The Next Day

The Next Day / David Bowie

少し乗り遅れたけれど10年ぶりのリリースとなったデヴィッド・ボウイの「The Next Day」を聴いてみた。

ちなみに、僕はボウイに特別な思い入れはない。
クイーンの熱心なファンとして”Under Pressure`でなんとなく身近な印象を持っている程度。CDはベスト盤と、自分が高校生の頃に話題作だった「Let’s Dance」(スティーヴィー・レイ・ヴォーンのことを知ったのはそれから10年以上後だった・・・)を数年前にノスタルジーで買っただけ。だから、ボウイの良き理解者でも聴き手でも語り手でもないです。

とはいえ、アーティストとして一目置いているのも確か。あえてアーティストと書いたのは、ボウイは純粋な音楽家というよりは、音楽に加えてビジュアルやイメージを総合的にプロデュースする表現者だと思っているから。そして表現者としてのセンスとクオリティにおいて、これほど凄い人はそうはいないと思っている。

70年代前半に大成功した人が現代でも同じレベルのパフォーマンスを出すなんてことはまずあり得ない。みんな歳を取り、肉体も精神も感性も衰えてくるのだから当たり前のこと。現在でもまだ活動している人にしても衰えはあって仕方がないことだし、過去の名声に支えられた上での活動であることもまた仕方のないことでしょう。

僕はそれを批判する気はまったくなくて、むしろ過去に築き上げてきたものがそれだけ偉大であることの証でもあるとすら思うわけです。

一方で、一流のミュージシャンというものは全盛期に眩いばかりに輝き、ピークが過ぎてもその輝きが劣化しない、あるいは劣化の下降線が緩やかであるということは言える。

このボウイの新作、Amazonのレビューを見ると賞賛の声が極めて多い。一方で、全盛期の輝きと比較して「これは特にベストというわけではない」という意見も一部に見られます。例えば10年後にベスト盤が発売されるとしてこのアルバムから選ばれる曲があるのか、という論調には納得できなくもない。

それでも僕はこのアルバムを絶賛したい。

サウンドにトリッキーさやエキセントリックさはほとんどない。今回はあえて狙っていないんでしょう。それでも現代の耳で聴いて十分斬新に聴こえるし、それでいながら70年代のボウイのムードも漂わせている。細部まで行き届いた音作りにはトニー・ヴィスコンティのプロデュース力も大きな貢献になっているに違いない。演奏しているミュージシャンの構成がわからないけれど、当然ボウイよりずっと若いメンバーを使っての演奏と思われ、この点はソロ・アーティストならではの強みを生かしている。一方で人任せで作られた音ではなく、どこをどう聴いてもボウイのサウンドになっていて、しかもまごう事なきロックになっているところが素晴らしい。

こんなにカッコいいロックを2013年という時代に聴けるとは思わなかった。良い悪いは別にして90年代以降のロック・ミュージシャンにはこういうロックはできない。もちろん時代の違いによるものではあるんだけれど、若いときに吸収してきたモノが違いすぎる。

何よりも賞賛しなくてはならないのはボウイ自身の創造力が未だに輝いていることでしょう。10年も休んでいたのに。66歳にもなるというのに。クリエイティヴな創造意欲がなければこんなアルバムは絶対にできない。

先にボウイのことを「音楽家と言うよりは・・・」と書いた。でも彼の中心はやはり音楽なんだとこの復帰作を聴いて改めて思った次第。創作意欲に満ちた人の音楽を受け止めるとこちらも元気になります。

余談:輸入盤CDの中の歌詞カードの紙の匂い、昔の輸入盤レコードと同じで妙に懐かしさを覚えてしまった。

リーデルのワイングラス

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小生はお酒が弱いんだけれどもワインは好き。

それでいながら家で飲むときに特にグラスにはこだわっていなくて小ぶりでお安いものを使っていた。でも、いつかはちゃんとしたグラスが欲しいなあなんて思っていた。

先週のGWに木更津のアウトレットに行った際、リーデルのショップがあってついに購入。リーデルはワインの種類、更に葡萄の種類ごとに味わいを最大限に引き出す形状のグラスを用意していて、これはボルドー用とのこと。

持ってみる軽いことにまずは驚く。器の大きさはそれまで使っていた小ぶりのものより遥かに大きいのに軽い。これはガラスが薄いことを意味している。

大ぶりなグラスであることによって、ワインを注いだときの表面積が増え、空気により触れることになりより馴染んだ味わいを引き出す。

また、大ぶりなグラスは口元に運んだときにグラスの中に充満した香りがそのまま鼻に飛び込んできて香りも豊かに感じてしまう。

ワインの種類ごとにグラスの形状を変えることに優位性がリーデルの主張どおりかどうかはわからないけれど、少なくともこのグラスはこれまで使っていたものよりは遥かに味わいを引き出している。

というわけで予想以上に「買って良かった」モノでした。



クラシックコンサート 拍手早くないですか?

最近、クラシックのコンサートによく行くようになり思うことがある。

それは拍手が起こるのが早すぎること。

曲が終わって指揮者がタクトを下ろす前に拍手をしはじめてしまう。

音が収まるまでじっくり余韻に浸っていたい自分としてはちょっと興ざめです。

音が引く前に「ブラボー」と叫ぶマナーのかけらもない人のことを言っているのではなく、拍手を始めるのが早すぎることに対して疑問を感じています。

まだクラシックを本格的に聴き始める前には気にならなかったんだけれど、いろいろなライヴ録音のCD(日本国外)を聴いてみると曲が終わって完全に音が引いてからジワッと拍手が起こっている。それから拍手がどんどん大きくなって「ブラボー」という声が出始めることが断然多い。

反対に最近日本で観たクラシックのコンサートはこれまでのところ例外なく拍手が早い。(ブラボーも)

なぜなんだろう、と考えてみる。

拍手を早くしはじめる人の潜在意識には、「ここで曲が終わったって自分はわかっているんだよ。すぐに拍手できるなんてツウでしょ?」という自己顕示欲の強さみたいなものがあるんじゃないだろうか。

そうだとしたら、これは非常に大人気ない行動だと思う。

僕は芸術ヅラをして音楽を聴いている人が嫌いで長らくクラシックを避けていた。ジャズも同じ理由で避けていた。

両方聴くようになった今言えるのは、クラシックにもジャズにも「自分こそが芸術をわかっている」「芸術を理解できる自分は他の人とはワケが違うのさ」という、非常に精神年齢の幼い人が少なからずいるということです。

クラシックやジャズが日本で幅広く聴かれ始めたのは、オーディオが家庭に置かれるようになった70年代に入ってからで、そのころは情報が少なく、これらの音楽を楽しんだり知識を得ていくにはかなりの情熱が必要だった。そしてポピュラー・ミュージックとは別世界の音楽の知識を深めることができるのは本当に好きな人だけに限られていたはず。

それがいつの間にか「自分は芸術がわかる選ばれた人」という勘違いに変わっていってしまったのかもしれない。

故黒田恭一氏が「芸術ヅラをしてクラシックを聴くのは好きじゃない」とおっしゃっていたのを読んだことがある。当時は BURRN! というへヴィ・メタル雑誌でコラムを書いていらっしゃって、「へえ、クラシックを聴く人でそういう人もいるんだ」と思ったんだけれど、それから20年以上経った今でもまだこのコメントが新鮮に思えるのだから「白い巨搭」並みに昔からクラシックオタクの体質は変わっていないということなんでしょう。
(山崎豊子さんは、60年代に描いた大学病院のくだらない体質の話が2003年にドラマ化されてまだ通用してしまうことを嘆いていたのでそう表現してみた・・・ってわかりにくいか)

もちろん全体のリスナーからするとそういう勘違いな人の比率は少ないはず。なのに目立つ。なぜなら自分こそが芸術の理解者であるということを誇示するから。

まあ、そこまで程度が低い人は稀だったとしても早すぎる拍手の根底には、そういう妙な文化が根底にあるように感じてしまうわけです。

でももう時代は変わっています。ネットで調べれば大抵のことはわかる現代において、クラシック(やジャズ)の知識があることに大した価値はないと思う。それよりも、どれだけその音楽を楽しめているかの方が重要だし、それが当たり前にならないとおかしいんです。

最後までしっかりと曲の終わりを見届けるという当たり前のことが定着しない限り、クラシックが真に日本に根付いたとは言えないような気がします。

ラ・フォル・ジュルネ 2013 を楽しむ

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2013年5月4日、5日、国際フォーラムにおいてラ・フォル・ジュルネ 2013 「パリ、至福の時」で3公演を観て来た。

【1】
指揮:川瀬賢太郎、読売日本交響楽団による、デュカスの交響詩「魔法使いの弟子」とサン=サーンスの交響曲第3番オルガン付き。(以上、ホールA)
【2】
ヴァイオリン:デボラ・ネムタヌ、指揮:フェイサル・カルイ、ラムルー管弦楽団による、サン=サーンスの序奏とロンド・カプリチョーソとハバネラ、デュカスの「魔法使いの弟子」、シャブリエの狂想曲「スペイン」。(ホールA)
【3】
ピアノ:児玉桃、指揮:パスカル・ロフェ、フランス国立ロワール管弦楽団による、ラヴェルの左手のため協奏曲とダフニスとクロエ第2組曲。(ホールC)

1つ目は自分としては初の日本のオーケストラ。過剰な期待も、偏見的不安もなくニュートラルな気持ちで臨んでみた。その演奏は・・・これは仕方がないとはいえ若い指揮者には貫禄がなく統制が行き届いていない印象。演奏はホールAという音響に不利な会場であることを差し引いても力不足は否めず。不揃いで荒い金管の響きが美しさをスポイルしてしまっていたのも残念。ほんの2週間前に観たミュンヘン・フィルと比較してはいけないのはわかってはいるんだけれど、まあ日本のオケはこのくらいなのかなという感想で終わってしまった。あと、サン=サーンスの第3番は、曲自体もそれほど魅力を感じないのでその点もネガティヴな印象になってしまったのかも。

2つ目のラムルー管弦楽団(女性が多くて見た目も華やか)は1階席で、音が上に抜けてしまうという更に悪い音響条件であったにもかかわらず、音は豊かで演奏の技術もまとまりも遥かに上。偶然、前日と同じ曲を聴いたこともあり、指揮者とオケの格の違いが明白にわかってしまった。特に「スペイン」は3拍子のスウィング感が大胆で、とても楽しい演奏。生演奏はこうでなきゃという醍醐味があった。

最後のロワール管弦楽団はベテランが多い編成で落ち着いた雰囲気。ピアノに明確なミスタッチが見られたのは残念だったとはいえ、左手だけのピアノ演奏の妙技を楽しめた。2曲ともラヴェルの色彩感豊かな曲調を迫力たっぷりに、しかも余裕をもって演奏していたところはさすが仏オケというところか。

現時点ではドイツ、オーストリア系のものを中心にクラシックを聴いているので、フランスものは後回しになっているんだけれど、今のところ視界に入ってきていないからこそ今年のラ・フォル・ジュルネの企画は興味を持って行ってみた。フランスものはまったく異質の魅力があり、そのカラフルかつ小粋で楽しい音世界は他国で得られないものであることを実感できて大変楽しい経験でした。観たフランスの楽団は決してトップクラスではなかったのかもしれないけれど、それでもこれだけ豊かな音楽を奏でることができるんだから自国文化の底力というのは凄いと感じ入った次第です。

僕はロックでもジャズでも日本人はほとんど聴かない。日本人の演奏は技術があったとしてもやはり薄味で自分の体内に宿っていないものを形にするのが精一杯だから。特にリズムの薄さは如何ともしがたく、技術でカバーできるレベルを超えた大きな壁になっている。もともと西洋の音楽なんだからそもそも日本人で聴く必要を感じない。ましてやロックとジャズのCDは日本人アーティストの方が倍以上高い値段がついているのだから。

今回、日本のオケを聴いてみてやはり「自国のものではない」感を感じてしまった。とはいえ、生演奏で海外オケを聴くとなるとそれなりの出費になってしまうので日本の楽団もいろいろ試してみたいところ。次はできればN響を聴いてみたい。

それはともかく、ラ・フォル・ジェルネというイベントは本当に素晴らしいと思う。カジュアルなお祭り的なイベントでもあるのでウルサ型のクラシック通にとっては客のレベルが低い(演奏中の雑音は明らかに多い)ことや会場の音の悪さが受け入れ難いに違いない。それでも、気軽なチケット代でいろいろな曲、演奏を楽しむ機会を提供することは、リスナーの裾野を広げるために大変意義のあることだと思う。それに、例えマナーが多少悪くても変なクラヲタがいない分健全なムードであるところがいい。できればこれからも毎年行っていろんな発見をしてみたい。

ジョン・コルトレーン Sun Ship: The Complete Session

Sun Ship Complete

コルトレーン黄金のカルテット最終期に録音されたこのアルバム、しかし本や新聞などで取り上げているところはまず見たことがない。65年のコルトレーンは膨大なスタジオ録音を残していて、とにかくやりたいこと、表現したかったことが山のようにあった時期。そして黄金のカルテットの成熟度が行くところまで行っていた時期でもある。

1曲目の "Sun Ship" 。性急でアブストラクトなテーマからマッコイ・タイナーのスピーディなソロへ展開する構成のカッコいいこと。エルヴィンのドラミングは重量級の迫力と手数、それだけでなくスピード感も最高潮。わずか6分13秒の中にこの時期のカルテットの魅力が凝縮されている。ロックバンドなど軽くぶっ飛ばすエネルギーが凄い。

2曲目の "Dearly Beloved" はスタジオの会話から入り、Ready? の掛け声にすぐさまバンド一体の演奏が始まるビターで重厚なバラード。これも物凄い迫力で充実期にあるミュージシャンの凄みを感じることができる。

以降は表面上の勢いこそなくなるものの、演奏のレベル、緊張感は最後まで続く。

このアルバムの後、「Meditations」の録音でスタジオ入りするもボツ(後に「First Meditations」としてリリース)、その後はいよいよファラオ・サンダースが加入し、フリーの世界へ突入していくので、「Sun Ship」はぎりぎりジャズの範疇に留まった黄金のカルテット、ピークの演奏が聴ける名盤だと個人的には思っている。なのに世間一般で取り上げられることはまずない。

そんな影の名盤に、Complete Sessions が登場した。これを喜びと言わずしてなんと言おう。

Sun Ship: The Complete Session / John Coltrane

Disc 1
[1] Dearly Beloved (Takes1&2,false start and alternate version)
[2] Dearly Beloved (Take 3, breakdown)
[3] Dearly Beloved (Take 4, complete version)
[4] Attaining (Take 1, alternate version)
[5] Attaining (Take 2, breakdown)
[6] Attaining (Take 3, complete version)
[7] Attaining (Take 4, insert 1)
[8] Sun Ship (Take 1, breakdown)
[9] Sun Ship (Take 2, complete alternate version)
[10] Sun Ship (Take 3, Insert 1)
[11] Sun Ship (Take 4, complete version)
Disc 2
[1] Studio Conversation
[2] Ascent (Take 1, complete version)
[3] Ascent (Take 2, incomplete version)
[4] Ascent (Take 3, false starts and imncomplete version)
[5] Ascent (Takes 4-6, inserts/false starts)
[6] Ascent (Take 7, complete insert 4)
[7] Ascent (Take 8, complete insert 5)
[8] Amen (Take 1, alternate version)
[9] Amen (Take 2, released version)

先に結論から言うと、このComplete Sesseionは、完全にマニア向けで初めて聴く人が手を出すディスクではない。理由はオリジナル・アルバムと完全に同一のテイクは1曲(Disc 2 [9])しか入っていないから。1枚のアルバムとして通して聴くものではなく、あくまでも記録としてセッション全体の音源を楽しむもの。各曲の本テイクは以下のように作られていることが明かされている。

"Sun Ship"は、Take 4 のエンディング・ドラムをカットしたもの。
"Dealy Beloved"は Take 4 の冒頭に Take 1 のスタジオ会話を追加したもの(つまり Ready? からいきなり曲に入るのは編集による演出だった)。
"Amen" は Take 2 をそのまま採用。
"Attaining" は Take 3 最初の7分24秒に、Take 4 Insert 1 の後半3分58秒をつなぎ合わせたもの。
"Ascent"は Take 1 のベースソロを1分30秒カットしたもの。

上記の曲の成り立ちに加え、各トラックの音源を聴くと、オリジナル・アルバムの完成度の高さが良くわかる。このレベルに持っていくために納得いくまでレコーディングし、編集して作り上げられたことを大いに実感することができて非常に興味深い。

それにしてもオリジナル・アルバムをまだ聴いていない人をほとんど無視したセッションありのままの姿だけの収録という潔さはなかなか見上げたもので、もし他のマスターテープが見つかるようなら続編に期待したいところ。

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