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趣味の人生を楽しむサラリーマンの日記

Living Colour at Blue Note Hawaii

Living Colour2017

ホノルル旅行のためのチケットとホテルを予約してしばらくしてから、ハワイにもブルーノートがあることを知る。滞在期間中の出演アーティストは当初空欄のままで、そのうちに決まった出演者がリヴィング・カラー。

リヴィング・カラーは僕が大学生だった89年にデビュー、当時は黒いツェッペリンなんて言われるほどの黒人ハードロック・グループで、そこそこ聴いたし、演奏の上手さ、パワフルさに敬意を懐き続けていました。しかし彼らはやはり黒人ならではの音楽性を持っていて、若い自分にはその黒人らしさが色濃く残る部分のせいでのめり込むことはなく、以降は追いかけることもありませんでした。それでも音楽性の高さ、ヴァーノン・リードのギターの素晴らしさ、重々しいドラムの確かな腕前はとても印象に残っていて、とうの昔に解散していたと思っていたある日、サマソニで見てまだ活動していることに驚きと喜びを感じていたんです。

そんなリヴィング・カラーをジャズ・クラブで観れるとなれば行かずにはおれない。

アウトリガー・ワイキキ・ビーチ・リゾート内にあるブルーノートに入店すると、あらあらガラガラじゃありませんか。1stセットということもあるかもしれませんが、ライヴが始まるときでも50人ほどの観客だけで、ヴォーカルのコリー・グローヴァーは、この状況に戸惑い気味に見えました。

ライヴ・パフォーマンスじたいは、さすがの一言。ヴァーノン・リードはさすがに以前ほどは指が動かないとはいえ、バンドとしての演奏のレベルは高く、特にドラムのウィリアム・E・カルホーンの重くタイトなドラミングは、CDから窺い知れるレベルの通りで、このドラムが演奏のクオリティを支えていることが良くわかる。とにかく上手い。テクニックに溺れるタイプではなく、ビート、グルーヴを創出するというドラムのもっとも重要な仕事をハイレベルでこなしていて素晴らしい。

70分くらいのステージが終わったあと、ブルーノートのブティック(グッズショップ)を覗くと、ヴァーノン・リードとコリー・グローヴァーがサインに応じていて、客が少ないこともあって一緒に写真を撮ってもらいました。ヴァーノン・リードに「もう20年以上活動しているね」と言うと「ああ、いろいろあったけれど長くやってるよ」と優しく話しかけてもらって感激。途中からベースのダグ・ウィンビッシュも現れ、「86年に武道館であなたに会った」と言うと「ミック・ジャガー?」「いや、ジェフ・ベック」と言うと「ヤン・ハマー、ジミー・ホール、サイモン・フィリップスと演ったときだね」と言ってくれてこれまた感激。

ハワイ旅行ではおまけ的なライヴ参戦でしたが、忘れられない思い出になりました。

P.S.
ブルーノート ハワイについて。
オープンは2015年末とのこと。
料金は10ドルのミニマムチャージ込み。
料理は、ジャズ・クラブとしては値段は標準的(=やや高い)で、お味の方もジャズ・クラブとしては標準的(=あまり美味しくない)。余談ながら、食事を出すジャズ・クラブは、Blue Note、Birdland、SMOKE、Iridium、Dizzy's Club Coka-Cola(以上NY)、Ronnie Scot's(ロンドン)、Duc Des Lombards(パリ)などに行ったことがありますが、料理が美味しいと思わせてくれるのは、BLUE SMOKEというBBQレストランが実質経営しているマンハッタンのJAZZ STANDARDだけです。日本のBlue NoteやCotton Clubのような料理のレベルを海外のジャズ・クラブに求めてはいけません。

ジャズ・クラブは、箱や内装や料理よりもどのようなミュージシャンをブッキングできるかが(当たり前だけど)とても重要。バカンス気分の観光客に向けて本格的なジャズばかりをブッキングしてもウケないし、ギャラが安くてあまり質が高くないお気軽音楽のミュージシャンばかりだとクラブとしての格が下がる(価格不相応と思われる)というジレンマにどう立ち向かって行くのか、難しいところだと思います。

場所柄、観光スポットとしていろいろなWebサイトで紹介されていて、ジャズ・ファンでない読み手を想定した「おしゃれでイイトコ」みたいな記事が溢れていますが、本格的なジャズ・クラブの佇まいを求める人(そういう人がワイキキに多くいるとは思えないけど)には、出演者の顔ぶれを含め、総じて物足りない印象は拭えません。勝算あってのオープンだとは思いますが、僕はあまり長く続かないような気がしています。

8年ぶりにタワー・オブ・パワーのライヴに行く

TOP201607

過去に一番多くライヴを観ているバンドは間違いなくタワー・オブ・パワー(Tower Of Power)のはず、どれくらい行ったんだっけと思って調べてみたらこうだった。

89年(有明コロシアム:Kirin Beer's New Gigs出演時)
92年(メルパルク・ホール)
93年(On Air)
94年(旧ブルーノート東京)
95年(On Air East)
98年(On Air East)
99年(On Air East)
08年(ブルーノート東京)

最初に観てからハマり、来日ごとに毎回出撃。今思えば1,500人も入るメルパルクホールで演っていたのは驚き。狭かった旧ブルーノート東京でかぶりつきで観たのも懐かしい。

99年を最後に足が遠のいたのは、さすがに毎年行かなくてもいいだろうと思い始めたことと、オールスタンディングの会場があまり好きでないことが主な理由だったと記憶している。関係あるのかないのか、ジャズにハマり始めた時期とも重なっている。

08年には「ご無沙汰だったしブルーノートなら」と思ってこと。既に8年前のことなのでハッキリとは覚えていないけれど、この時のパフォーマンスの印象があまり良くなかった。しばらく生で見ていなかった影響なのか、今思うと無意識で黄金時代を基準にしてしまったいたようで演奏にキレがなくなったなあ、なんて思った。個々の演奏のレベルも少し落ちたかなという印象もあった。ジャズのライヴを数多く観てきたせいで耳の基準が変わっていたのかもしれない。もちろんライヴじたいは楽しんだし、この歳でこれだけのライヴができるというだけで素晴らしいと思ったので決してがっかりしたわけではない。

その後も毎年のように来日していたので、熱心な数少ないファンに支え続けられてやっているんだなと、一歩下がった目で暖かく見ていた。まあ、ライヴに行かなかったというだけで新譜も買っていたし、CDは聴いていたので、ファンをやめたつもりは一切なくて、ヒット曲もなく、たいしてCDも売れていないだろうに精力的にライヴをこなす彼らに敬意を抱き続けてきたこともまた事実。

2010年に結婚して妻の影響を受けてクラシックを聴くようになったのと同じように、妻も僕が聴いている音楽を気に入ってくれるものがあり、タワー・オブ・パワーもそのうちのひとつになっていた。妻も音楽の良き理解者であり、タワーをドライブのときに流していると「カッコいいね」と言ってくれていて、ではいつかライヴに見せてあげようとなんとなく思っていた。そしてようやくそれが実現することに。行ったのは7月8日のブルーノート東京2nd set。今回のメンバーは以下の通り。

Marcus Scott (vo)
Emilio Castilio (ts)
Tom Politzer (ts)
Stephen "Doc" Kupka (bs)
Sal Cracchiolo (tp)
Adolfo Acosta (tp)
Jerry Cortez (g)
Roger Smith (key)
Francis "Rocco" Prestia (b)
David Garibaldi (ds)

しばらく遠ざかっていたので知らなかったんだけれど、ここ数年はロッコの体調不良とガリバルディの脱退などで2人の揃い踏みは久しぶりとのこと。やっぱりこの2人がいるといないとでは行く前の気持ちが違うわけで、これは嬉しい。そして、長らくリード・ヴォーカルを務めていたラリー・ブラッグスに代わって新ヴォーカリストが加入したとのこと。ブラッグスは近年ではもっとも素晴らしいヴォーカルを聴かせていただけにここは期待半分、不安半分。

いざ始まると、そんな能書きなど吹っ飛び、久しぶりのタワーにテンションがマックスに!

8年前に「今のタワーはこんなもんかな」と思った記憶が悪い意味で増幅されていたのかもしれないけれど、なんのなんの、演奏もいいじゃないか!そりゃあ、「Hipper Than Hip」のような全盛期の凄みはありませんよ。それでもさすがと思わせるレベル。手数が減っても、タイトで複雑なリズムと柔軟性を備えるガリバルディのドラムはやはりタワーには欠かせない。病気から復帰したロッコのウネリも過去に観たどのライヴよりもグルーヴを感じてくれた。ブラスは変わらず高値安定。ソロ時間まで与えられたギターもなかなかだったし、ハモンドを響かせるキーボードもイイ。

新ヴォーカリストはブラッグスほどの安定感はないものの、やや高めの声質でレニー・ウィリアムス時代の曲がハマる。
Don't Change Horses
Just When We Start Makin' It
Only So Much Oil in The Ground
(To Say the Least) You're The Most
Just Enough And Too Much
Ain't Nothin' Stoppin' Us Now
あたりの曲は初めてか一度くらいしかライヴ聴いた覚えがなく、それぞれ演奏も良くて大感激&大満足。定番曲として外して欲しくない
What Is Hip
So Very Hard To Go
Soul Vaccination
も押さえてあってこのセットリストは完璧だった。1st setで演奏されていたらしい"Down To The Night Club"と"You're Still A Young Man"は個人的には重要ではなかったので結果的に2nd setで大正解。

この日はギリギリまで仕事に追われていて(1st setだったら間に合わなかったなあ)テンションが低かった僕は、あるいは反動が出たのか精神が開放されて体が激しく動いてしまう(苦笑)。妻も「楽しかった」と言ってくれたし、僕もとにかく楽しかったとしか言いようがない。行って本当に良かった。

行く前は、活動を続けている彼らに敬意を評して程度の気持ちで臨んでいた僕は反省した。まだまだ十分現役のパフォーマンス。彼らは決して儲かるバンドじゃない。一時は落ちるところまで落ちたけれどそれでも続ける。これしかないんだから。彼らはこれが生き方になっている。「どう?これが俺たちの人生なんだぜ」というオーラが出ているライヴを観ると僕は幸せな気分になる。それを十分すぎるほど感じさせてさせてくれたタワー・オブ・パワーに感謝。50週年に向けてこれからもがんばってほしいものです。

プリンス永眠 - 殿下こそが数少ないオーセンティックな音楽家

prince201604

僕のプリンス観は、1年半前の記事に書いた通り(http://buhaina.blog.fc2.com/blog-entry-131.html)。その記事の最後をこう締めている。「もし、亡くなったというニュースを聞いたらショックを受けるであろうミュージシャンはそんなに多くないけれど、プリンスは間違いなく大きな喪失感を味わうだろうな、とマニアでもない僕はそう思っている」。

その時期が、こんなに早く来てしまうとは・・・・

プリンスは過小評価されている代表的なミュージシャンだと思う。朝の情報番組ですら扱っていたくらいだから、もちろん今回の突然のニュースの採り上げられ方は大きい。当日朝のツイッターのトレンドでもトップ。しかし、それは音楽家としての採り上げられ方ではなく、奇抜なファッションやイメージで知られる有名人的なもので、彼の音楽の偉大さに対してのものではないように見える。

音楽をネガティブに評価するときに、「偽物」「中身がない」「深みがない」「薄っぺら」などの表現がある。実際、アーティストによっては僕もそういう言葉を心の中でつぶやくこともある(あえて口には出さないけど)。ただし、こういった評価はとても感覚的で、使っている人ですら具体的には説明できない。それでも音楽好きなら感覚的に共有できる言葉でもある(クラシック評論を除く)。

ところがプリンスに関してはその種のネガティヴな評価はまず聞かない。もちろん嫌いという人はいるだろうし、そもそもここ日本ではあのイメージに対して好感を持つ人は少なくて関心がないという人が大勢を占めている。それでも「プリンスが好き」「(好きでなくても)プリンスは凄い」と言える人はもうそれだけで「この人わかってるな」と思う。つまり、広い意味でのポピュラー・ミュージック、ブラック・ミュージックの理解度を示す基準になるアーティスト。デヴィッド・ボウイやスティーヴィー・ワンダーはじめ、生前から多くの同業者が畏敬の念をもって賞賛しているのも、プリンスが「本物の中の本物」だからだと思う。

プリンスの音楽のキモは言うまでもなくリズムだ。まず、ここで音楽の理解度を問われる。「音楽にとってリズムってものすごく重要だよね」と言って「そりゃもちろん」と即答できる人か否かで「音楽がわかっている/わかっていない」の篩にかけることができると思っていて、リズムの価値がわかっていないような人にプリンスの凄さはわからない。そのリズムはシンプルで音が軽いのに骨太のグルーヴがあるという誰にも真似できないもの。基本となるドラムだけでなく、音量と響き方まで完璧にコントロールされたパーカッションや効果音の配し方、シンプルなのにニュアンスに富むギターのカッティング、繰り返しのリフであってもウネリ感が持続するベースといったところなどが言葉で表現できる特徴か。重要なのはそれらの組み合わせ方が巧みで、どれも出すぎたことにならないバランス感覚があるということ。こういうことは音楽学校のようなアカデミックな学びから得られるものではなく、感性と肉体からしか生まれてこない。だから他人には真似できない、プリンスだけの音楽になる。99.9%のミュージシャンはこの領域までたどり着くことができないから、プリンスが尊敬を集めることは当然のことだと思う。

それ以外にも、黒人フィーリングが濃厚で繊細なバラードやリズム抜きのシンプルな曲を演らせても一級品。すべての楽器を演奏することも多く、プロデュースから録音エンジニアまでこなしながら、更に凄いのはそういった他の人が上り詰めても行けない領域のクオリティの曲を量産できてしまうこと。これだけ言って凄さをわからない人は、忌憚なく言わせてもらうならそもそも音楽がわかっていない(たとえば「Purple Rain」で記憶が止まっている)人だと思う。

皮肉なのは、そんな高品質楽曲、演奏を量産できてしまうが故にその凄さ、ありがたさが薄れてしまったことかもしれない。毎年のようにリリースされる新作に満足する熱心なファンがいる一方、「プリンスとしては大したことない。平均クオリティの大量生産」と評する人もいる。音楽ファンというのは「もっともっと」と求めるもので、飢餓感があればあるほど与えられたときに満足するという特性があって、例えば少々ジャンルは違うけれどキング・クリムゾンのようにライヴ音源を100本以上も販売されてしまうとたとえ内容が良くてもひとつひとつにありがたみがなくなって熱心に聴く気がしなくなってしまう。一方、「○○の5年ぶりのアルバム」には話題が集中して高い評価が集まりがちになる。音楽の質と関係ない「周辺事情」で低く評価する人を生んでしまったのが、プリンスの有り余る才能の悲劇だったのかもしれない。

最後に、もうひとつ過小評価されていることとしてギターに触れないわけにはいかない。小技から派手な速弾きまで完璧にこなすテクニック、リズム・ギターのウネリの作り方、エレキ・ギターが持ち得るサウンドをここぞというところで使うセンス、いずれも彼以上を思い浮かべられる人がいない。ギタリストを比較して順位付けをするなんてナンセンス極まりないけれど、格で言うなら間違いなく超一級品である。

これだけの才能を失った悲しみはあまりにも大きい。しかし、1年半前の記事に書いた通り僕はそれほど熱心なプリンスのファンではない。まだ飽きるほど聴いているわけではないから、これまでのアルバムを楽しんで更なる新たな魅力を見つけられるに違いない。それを楽しみに残されたアルバムを聴いていきたいと思う。

P.S. 膨大にあると言われている未発表曲がどのようのコントロールされてリリースされるのかが気になります。くれぐれもレコード会社の営利第一主義にならないものであってもらいたいものです。

プリンス新作-休養明けの殿下はいかに?

Prinde Art Official Age
3RDEYEGIRLS

最初にお断りしておくと、僕はプリンスの熱心なファンではない。ただし、類稀に見る才能を持ったアーティストだと尊敬していて、アルバムも8割くらいは所有している。

出会いは月並みに「Purple Rain」だった。洋楽全般を幅広く、そして熱心に聴いていた高校生のころに大ヒットし、広く世間にプリンスの名を知らしめたことは知っての通り。聴きやすくもひねくれた面を持つ音楽に引っかかりを感じ、ロック的な要素があったことも手伝って何度も聴いた記憶がある。同じ時期に録音され、売れセンを狙っていない曲を収録したという触れ込みでリリースされた「Around The World In A Day」は流石に「Purple Rain」のようにはスッと心に入ってこなかったものの、奥深さがあるように感じ、「何度も聴けばきっとわかるはずだ」と思いながら繰り返し聴いていた。音楽には天才的なものを感じつつもこのアルバムを好きと言えるほどまでにならなかったことは、他の一般的なポピュラー音楽の聴き手も似たようなものだったと思われ、実際にセールスは前作ほどは振るわなかった。そして次の「Sign Of The Times」は個人的にはもう魅力を感じられず、ついに戦線離脱。

以前、ジミ・ヘンドリクスの項目でも書いた通り、僕が黒人音楽を楽しめるようになったのは30代になってからのことで、学生時代にプリンスを真に理解できなかったのは今思えば当然のことだったと思う。それでも、最小限の音数でベースもギターも入っていないのに骨太のグルーヴを作った"Kiss" など、その存在を忘れさせない活躍をしていて頭の隅には「また機会があったら聴いてみてもいいかも」という思いが残り続けていた。

時は過ぎて2003年、CDショップ店頭で新作「N.E.W.S.」を発見。当時いた会社にプリンスが大好きな人がいて「最近はジャズに走っている」と言っていたんだけれど、僕自身がジャズの面白さが分かり始めてきた時期だったこともあってぐっと興味が増し、久しぶりに聴いてみた。ここで展開されているのは電化してからのマイルス・デイヴィスを少し思わせるファンク風味が濃いフュージョンで、オール・インストゥルメンタルのこのアルバムを僕は結構評価していた。ただ、プリンスをもう一度好きになったというよりは、「N.E.W.S.」のサウンドと演奏(実際かなりハイレベル)が気に入ったという感じではあった。

次の「Musicology」もその勢いで購入、聴きやすくもスカスカでグルーヴィなサウンドが心地よい興奮を呼ぶ、音楽性とポップ性のバランスが優れたアルバムに仕上がっていて、レビューには「殿下が地上に還ってきた」と評する人もいた。この時期、僕は通勤時間の9割は50~60年代のモダン・ジャズばかり聴いていたし、70年代のファンクの良さがわかるようになっていた。即ちく黒人音楽に目覚めつつあった時期であったこともあり、かつて聴いていたときには聴き取れなかったプリンスの魅力がわかるようになってきたようで、失われた年月を取り戻すべく旧作を次々に買い求めていった。

そうは言っても最初に書いた通り、僕はプリンスのマニアではない。アルバムのクオリティが常に安定しているわけではないし、量産される曲の数とくらべて名曲と呼べるようなものは少なく、口の悪い人はそこそこ品質楽曲の大量生産だと言う人もいて、僕もそういう傾向は否定できないと思っている。ただ、遡ってひと通り聴いてみて思ったのは、一部、意図的に完成度を狙わなかったものを除くと、どのアルバムもとてもしっかり作られていて、しかもほとんどプリンス1人で制作しているという凄さ。効果音やパーカッションを含めて、一音一音、どの音がどのタイミングでどういう鳴り方をさせるかをすべて計算してやっていることから、プロデュースや録音エンジニアリングの実力も凄いこともわかる。

もっと凄いのは、楽器演奏も含めて多くの部分を1人で制作しているというのにほぼ1年に1枚のペースでアルバムをリリースしていること。クラシックやジャズとは違って、ポピュラー・ミュージックの世界はアルバムがヒットすれば多額の印税が入り、音楽ビジネスの世界にどっぷり浸かると2年おき、3年おきにアルバムを出すのが大物アーティストの常識であるこのご時世において、ここまでアルバムを量産できる創造性には舌を巻くほかない。

そんなプリンスが、2010年に雑誌の付録という形態でリリースした「20ten」から3年間ものインターバルをおいて発表したのが「Art Official Age」、そして3RDEYEGIRL名義での「Plectrum Electrum」。

1人密室ファンクの前者と、バンドスタイルでロック色が強いの後者という使い分けは、内容こそ違っているとはいえ2009年に3枚組でリリースした「Lotusflow3r/Mplsound」と似たような試みでプリンスとしては目新しくはないけれど、2面性をハッキリ区別しているだけにアルバムのカラーは明確で聴き手にはわかりやすい。

完成度はプリンスとしては80点のデキだと思う。今回もそこを悪く言う人がきっといるに違いない。でもプリンスの80点は、ほとんどのファンク系ミュージシャンの100点を超えている。みんなプリンス・クオリティに慣れてしまって麻痺している側面もあるに違いない。既に50代半ばを迎えたミュージシャンにかつての弾けるポップ性を期待するのは難しい一方で、黒人由来のグルーヴ感はより確固としたものになっているように思えるし、音楽の密度も濃厚なまま。本当にこの人は生粋のミュージシャンだと思う。音楽への情熱に溢れ、人生が音楽になっている人を僕は尊敬せずにはいられない。

80点でいいんじゃないですかね。こんな音楽を作れる人、他にいないんですから。もし、亡くなったというニュースを聞いたらショックを受けるであろうミュージシャンはそんなに多くないけれど、プリンスは間違いなく大きな喪失感を味わうだろうな、とマニアでもない僕はそう思っている。

ジミ・ヘンドリックス-黒人音楽の理解度の試金石

Jimi-Electric Ladyland

僕はロックをもう30年以上聴き続けている。高校生の時(83~85年)から、その時代の音楽よりも70年代のロックの方が遥かにカッコいいと思い、過去の名盤を次々に聴き漁っていたから、その頃の英国ロックには結構詳しいつもりでいる。とはいえ、有名ドコロでも得意不得意なアーティストがいてその不得意の代表格がジミ・ヘンドリックスだった。

高校生の頃の情報源は雑誌のみで今と比較すると得られる知識は格段に少なかったんだけれど、歴史を紐解くと早い段階でジミの名前が目に入ってくるのは当然のことだった。そして当時、新譜としてリリースされたのが「Jimi Plays Monterrey」で、早速買って伝説と言われるライヴを聴いてみた。ところが、何度ターンテーブルにレコードを乗せても良さがもうひとつわからない。ギターは80年代のギタリストのように速く正確というわけでもないし、ハードロックとは微妙に質が異なるという違和感が拭えなかった。このライヴはジミのアメリカ凱旋の意味合いが濃く、それゆえにコンパクトで聴きやすいヒット曲が中心だったので、ロック・クラシックスの勉強としてはまあ良かったかなという程度の受け止め方でジミとの最初の出会いは終わってしまった。

その後も、ときどきジミのCDには手を出したものの、大きく印象が変わるほどではなく、再度ジミを聴くようになったのは30代半ばを過ぎたあたりから。次々に発掘、リイシューされるライヴ盤を聴いてライヴ・パフォーマンスの凄さが少しずつわかるようになってきた。一方で、スタジオ録音の演奏はこじんまりした印象で「聴かなくてもいいかな」と評価せず、依然として僕の好きなロック・ミュージシャン・リストの上位にはやってこない。

本当にジミがイイと思えるようになったのは実に40歳を過ぎてからのこと。理由はわかっている。僕が黒人音楽を聴くようになったからだ。タワー・オブ・パワー(ほとんどが白人だけど)を筆頭に70年代のファンクのカッコ良さを知り、プリンスのアルバムを次々に聴いて黒人のグルーヴに心酔できるようになり、ついにジャズを聴くようになったことが大きい。

特にモダン・ジャズの全盛期である50~60年代のジャズはほとんどが黒人で、黒人でないと醸し出せないグルーヴがあることは多くの人が認めるところだと思う。その後、ジャズは70年代に向かってファンク、ソウルの要素を取り込み、フュージョン化していく流れがあり、マイルス・デイヴィスやハービー・ハンコックなどの大物がその本流にいたほどだった。ジャズからの流れでこれらの音楽を僕も楽しめるようになり、耳が肥えていったというわけだ。とまあ、簡単に書いているけれどこの「徐々に理解してく」期間はおよそ15年にも及び、ある日突然開眼したというよりは徐々に体に馴染んでいったというのが正直なところである。

黒人音楽の特徴は、やはり太くウネるリズムとグルーヴにある。リズムはベースとドラムに限った話ではなく、ギターにも歌にも黒人独自のリズム感が根付いていて、それらが複雑に絡み合って黒人音楽を成している。

実はその高校生時代に夢中になっていた70年代のロック、レッド・ツェッペリン、ハンブル・パイ、フリーなどは黒人音楽であるブルース(英語発音だと「ブルーズ」で淡谷のり子や青江三奈のブルースとはまったく関係ない)の影響が濃厚でそこが好きでたまらなかった。そうか僕はブルースが好きなんだ、じゃあ、ブルースを突き詰めようと聴いた B.B.キングの「Live At The Regal」は、しかし僕の感性にかすりもしななかった。どうやら、泥臭くて黒人度100%なものは馴染まなず、白人が加工した少し洗練させた黒人音楽が僕には合っているようだと思うようになっていった。

黒人音楽は小難しいわけではないし、装飾が少なく基本的には簡潔である。それでいて単純でないところもある。世にあるヒット曲には印象に残るキャッチーな歌メロを何度も繰り返し、ほとんどブリッジとサビだけを聴かせるためだけのようなものがある。例えばワンチャンの "Lets Go" とか、ペット・ショップ・ボーイズの "West End Girls" などはその典型で、白人音楽の代表ジャンルであるユーロビートなどはそういうものが多く見られる。打ち込みで単調なリズムとシンセでお手軽に色付けをして、少しの印象的な歌メロだけでできあがってしまうという作り手に取ってお手軽なもので、後に何も残らない。このユーロビートの安易さに全面的に乗っかったのが昔の小室哲哉の一連のヒット曲だといえば多くの人に安易さを実感していただけると思う。

一方で、黒人の歌は曲の骨格がしっかりしていて、歌メロにはほぼ例外なく起承転結があるところが特徴と言える。黒人は、同じメロディを単調に何度も繰り返すだけの歌というのはまず書かない。例えばプリンスが作曲したバングルスの "Manic Monday" はわかりやすいヒット曲だけれど歌にはしっかりとした起承転結があり、同じメロディをしつこく繰り返すようなことがない。だから演奏がなくても鼻歌で歌うことができる。黒人のアイデンティティを示すことに熱心だったとは思えないポップスター、マイケル・ジャクソンの曲ででさえも概ね同じことが言えるくらい、歌の起承転結は黒人にとって当たり前のことになっている。

余談ながらその昔、黒人を気取ってバラエティ番組によく出ていたなんちゃらブラザーズが「オレオレオレオ~、ヤレヤレヤレエ~」としつこく繰り返していた歌をヒットさせていたけれど、あれなどは黒人音楽とは対極にある白人的な曲で、形だけ黒人のマネをしても、あの頃はお金が儲かるある意味良い時代だったんだなあと今にして思う。

それはともかく、もう一度繰り返すと黒人の歌は簡潔であっても単調でなく基礎がしっかりしている。ある意味、簡略化をあえてしていないとも言える。リズム、特にベース・ラインは一見ただの繰り返しに見えることはあっても微妙にニュアンスを変えるのがお約束。間違ってもラインベースなどは弾かない。

このような単純化に陥らないための要素が集まった結果、洗練される方向に向かうことがなく、それが泥臭さにつながっているように思える。そして、そういう黒人音楽の核とも言える泥臭さの魅力がサッパリわからなかったのが、まだ音楽について幼い感性しか持っていない学生時代の自分というわけである。

ジミの話から話が膨らんでしまったけれど、こと自分に関しては黒人音楽を直感的に理解することができず、こんな感じで遠回りをしながら理解してきたことがこんな逡巡の経緯を書かせている理由である。そして、ようやく40歳を過ぎてからジミ・ヘンドリックスの本当の魅力がようやくわかってきたというわけである。

ジミの音楽の基本は言うまでもなくブルースであり、ソウルやファンクの要素も濃厚。そこにこの時代特有のサイケでフリーキーなテイストが加わってくる。言い換えるとツェッペリンやパープルのようなハードロック的な要素はあまりない。ギターは、正確さやスピードと言った面では今となってはそれほど見るべきものはないかもしれないけれど、ギターを歌わせる技術は未だに近づける人すら存在しないと思わせるものがある。映像を見ると、身体とギターがひとつになったかのような表現に呆気にとられてしまう。ジミのギターの凄さがわからない人はエレクトリック・ギターの本質が見えていないとすら思う。ソロだけでなく、カッティングもオブリガードもすべてが有機的につながったギターワークをこんなにハイレベルに融合させている人を他に知らない。

まだ理解しきれていなかったときにはワイルドなライヴ演奏に魅力を感じていたけれど、ジミのことがわかってくると密室で落ち着いて作り込まれたスタジオ盤の魅力がまた捨てがたく、ソウル、ファンク、R&B、ブルースを無作為にぶち込んでロックに仕上げた「Electric Ladyland」はその頂点といえる傑作だと思う。死後にエクスペリエンス・ヘンドリックスが関与した未発表モノは、基本リハーサルや没テイクかもしれないけれど、それゆえにジミの持っている音楽の素顔が見えて、その素顔だけでも他のどの音楽よりも素晴らしいと言えてしまうほどの輝きがあることに思わず唸ってしまう。

ちなみに、ここ日本で「この人、めっちゃ黒人音楽好きなんだんなあ」と思える人に僕は会ったことがない。もちろんネット上ではそういう人も見かけるけれど、現実の世界ではそれに近い人にすら出会ったことがない。たぶん、日本人は実は黒人音楽は肌に合わない人種なんだと思う。だからジミも人気がない。昔、ポール・ロジャースが日本ツアーでジミのカバーを数曲演ったらまったくウケず、次の日からセットリストを変えてしまったというエピソードがあるくらいジミは日本では一部の物好きにしか聴かれていない。

そう、ロック好きがジミを楽しめるかどうかは黒人音楽の面白さをどこまで理解しているかを測るリトマス紙のようなものだ。ジミが大好きで他の黒人音楽はまったく聴かないという人は恐らくいないだろう。彼がいなければプリンスもレニー・クラヴィッツもヴァーノン・リードも現れなかった。エリック・クラプトンもジェフ・ベックもリッチー・ブラックモアも違うスタイルでギターを弾いていたに違いない。

このように、あるジャンルやあるミュージシャンの魅力を時間をかけながら理解できるようになっていくことは音楽を聴く趣味の醍醐味だと僕は思っているんだけれど、今や「わからない音楽をわかるように努力する」という忍耐を持った人はもう殆どいないんでしょうねえ。

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