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趣味の人生を楽しむサラリーマンの日記

ヘッドホン/イヤホンのノイズ・キャンセリング評価軸に見るネット評価読み取りの難しさ



今や、ヘッドホンやイヤホンでその機能を備えていることは何ら特別なことではなくなったのがノイズ・キャンセリング(以下NC)。

外部ノイズのキャンセル能力は、メーカーや機種によってまちまちで、ないよりはマシというレベルのものから外部世界と隔離された静寂をもたらしてくれるものまである。

個人的な経験から言うと、やはりボーズはNCの先駆けであり、NC性能はトップクラスにあると思う。QCシリーズは長らく、ライバルすら存在しないほどダントツのNC性能を誇っていた。

そこに並びかけるようになったのが、MDR-1000Xヘッドホンを発売してからのソニー。以降、イヤホンも含めてNC性能はいずれも高いレベルにあり、電車通勤、飛行機での移動のときに音楽に没頭することを強力に支援してくれる。

3ヶ月前に手にしたテクニクスのEAH-AZ70WのNC性能は、これまで使ってきたイヤホン(BOSE QC20、QC30、SONY WI-1000X)と比べても頭一つ抜けたレベルにあって、窓を開けて電車が走っているご時世の中、とても重宝している。

そのEAH-AZ70W、ネットではNCレベルを最強にするのではなく50%くらいにすると効きが一番良いという意見が少なからず書かれている。そんなはずないんだけどなあ、と思って50%にしてみたらNCの効きは弱くなった。うーん、やはりそうか、と。

そもそもノイズ・キャンセリングとはどのような機能なのか。

例えば、飛行機内のような騒音下において、音楽を聴く妨げになるのは高周波ノイズと低周波ノイズ。文字で表現するのが難しいけれど、低音では地響きのような「ゴー」という音がそれに近い。高音だと「サー」「カァー」という文字が妥当で、裏声で出していただけるとイメージが近いかもしてない。昔のテレビで放送されていないチャンネルに合わせたときのあの音がそれに近いと言えばわかっていただけるかも。身近なところだと換気扇の音は低周波ノイズと高周波ノイズが多く含まれていて、僕は新機種購入後にはまず家の換気扇下で効果を試している。

これらは文字通りノイズであって、人間にとって雑音にしか聴こえないもので、尚且聴こえてきてほしくないもの。そして、低周波ノイズ/高周波ノイズの中で音楽を聴いていると高音と低音がマスクされてしまい、耳に届きにくくなってしまう。カーオーディオで低音と高音を上乗せしたくなったり、音量を上げたくなったりしてしまうのもこうしたノイズの影響によるもの。このようなノイズを打ち消す技術がノイズ・キャンセリングであり、音量を上げずとも、あるいは低音と高音を上乗せしなくてもバランスを崩さず聴こえることが最大のメリットである。

一方で、そうしたノイズ成分が少ない音、例えば人間の声がそれほどキャンセルされないのもノイズ・キャンセリング機能の特徴である。メーカーは「安全のために人の声はキャンセルしない」などど説明しているんだけれど、ノイズ成分が少ない音をキャンセルすることは、現在のNCの技術では難しく、できないというのが現実でしょう。なぜなら、「人の声が消えない」という少なくないユーザーの声に応えることができれば一人勝ちできることが目に見えているのに、技術的にできるのであればやらない理由がどこにあるというのだろう?技術的なブレークスルーがない限り、人の声は消えるようにはならない。

「人の声が消えない」という不満は、NCの技術でどのような音が消せるかを理解していないことによる。繰り返しになるけれど、ノイズ・キャンセリングはノイズをキャンセルする技術であって、外音キャンセルではない、ということを理解している人はとても少ないように思う。高周波/低周波ノイズを削減できれば、それらのノイズによってかき消されてしまう音が耳に届き、バランス良く音楽が聴けることが最大のメリットであり、人の声などが聴こえることがNCの至らない点ではないと僕は思っているので物足りないとは思っていない。

BOSE QC30が発売されたときに、QC20よりもNCが弱くなったという声が多かった。このとき、「QC30の方がNCの効きが強いのにどうしてこんな評価をする人が多いんだろう」と思わずにはいられなかった。そして前述の通り、テクニクスのEAH-AZ70Wでは、50%くらいにすると効きが一番良いという意見が少なからず出てきている。

QC30もEAH-AZ70Wも、NCの効きは強力で、耳障りなノイズ成分をかなりカットしてくれる。そうなるとあまりキャンセリングしない人の声のような音が相対的に目立つようになってしまう。ノイズカットを評価基準にするのではなく、外音カットを基準にしている人は、人の声が目立たない状態の方が、ノイズ・キャンセリングが効いていると感じる、ということらしい。そして、騒音下で音楽を聴くことを強力に助けてくれる高周波/低周波ノイズのキャンセルよりも、人の声が目立つかどうかの方が評価基準になっている人が多く、ネットにはそういう書き込みがとても多い、ということ。

確かに、人が感じたことを率直に書き込むのがネットの評価で、それはそれで正しいことではある。でも、ノイズ・キャンセリングは何を実現する機能で、どのような効果があるか正しく理解されないまま、感じたことだけがネットには流れてしまうこともネットの評価の危うさでもある。

冷静に考えてみてほしい。EAH-AZ70Wのゲージが50%が一番効きがイイ、なんて、そんなことがあるはずがないでしょう?なんのためにメーカーがそんなことするんですか?と僕は思うんですが、なかなか正しく理解されない。一生懸命、技術を詰めてきたメーカーも気の毒だなあと思ってしまうわけです。

文化後進国 音楽後進国 ニッポン

音楽は世の中に必要か?日本では「なくても困らない」と答える人が結構いるような気がする。

僕が学生のとき、叔父と会話をしていて、アルバイト代を何を使っているのかという話になった。レコードを買うことにかなり使っていると言うと「そんなものなくても生きている」と即答で返ってきた。叔父は音楽にまったく関心がなく、BGMが流れていると「鬱陶しい」とまで言う。

確かに、食べ物や水のように、音楽がなくても生命を維持できなくなるというものではない。でも、音楽がなくなった生活は味気なく、心が荒む。想像してみてほしい。音楽がない生活というものを。テレビや映画の映像からすべて音楽を取り除いたらどうなってしまうだろう?音楽がないスポーツイベント、音楽がないテーマパークに「豊かさ」はあるだろうか?

以前にも書いたことがあるけれど、日本人は総じて音楽を愛していない。愛していないから、まともに音程を取ることができない歌手がテレビで歌い、CDに握手券をセットにして売るという、音楽を冒涜した商売を平然とやっている。こんなに音楽を小馬鹿にしたことを堂々とやっているのは恐らく日本だけだ。JASRCが音楽教室から著作権を取ることを認めた日本はこの程度のもので、文化レベル、教養レベルの低さは目を覆いたくなる。

そもそも、日本は生の音楽に触れる機会がとても少ない。欧米に行けば、ストリートや地下鉄の駅でも生演奏の音楽を聴く機会が多いし、教会のミサで歌うなど、生活に音楽が根付いている。音楽は生きていくために必要であるものであることが、言葉にしなくても当たり前のこととして認知されている。でも、日本ではそう思っている人は非常に少ない。

新型コロナウィルスの影響で音楽家が大きな打撃を受けている。有名音楽家は、コンサート活動ができなくてもある程度生活はできるかもしれない。そのような地位と名声がある人の音楽は多くの人が認めるだけの価値があるからで、その域に達していない人は食っていけなくて当然という風潮があり、収入がなくなった音楽家が役所で生活支援の申し込みをしたら「働けばいいじゃないですか」とあしらわれたという。好きでやってるんだから仕方ないだろう、ということらしい。収入がなくなったのは国の外出自粛方針で仕事の場がなくなくなったからであって、失業したわけでもないというのにこのように扱われてしまうのが日本という国である。

コンサートができなくても飯を食っていける音楽家なんて人はごく一部にすぎない。コンサートができていても音楽だけでは飯を食っていける人は少数だ。音楽だけで食っていけない人が数多くいて、そうした裾野の広さと、その中で切磋琢磨して一部とてつもない才能ある人が選ばれるから、多くの人に愛される価値のある音楽を作ることができる。音楽だけで飯を食っていけないけれど、音楽をやっている人は数多くいて、でもそのような人がいなくなってしまったら、どうなってしまうだろう。競争相手がいない世界でレベルが高いものが生まれることはなく、音楽はとても貧弱なものになり、価値の高い音楽を作れる人がいなくなってしまうかもしれない。

コロナ騒動で、最初に標的にされたのは音楽で生活をしている人だ。ライブハウスは悪者扱いされ、コンサートはほとんどすべて中止になり、音楽家は収入がなくなってしまった。音楽だけではない、映画館も美術館も演劇場も、文化的な営みを行う場、人々の心を豊かにする場は、ほとんどすべて政府の要請で閉鎖されることになった。それはもちろん、感染拡大、医療崩壊を防ぐために仕方ない措置ではある。

問題は、社会生活や医療を維持するために政府の方針で収入を失った人や組織を政府がまったく援助しないことだ。いち早く音楽家への金銭的支援を打ち出したドイツとは大違いである。

内閣府のWebサイトには「クールジャパンは、外国人がクールととらえる日本の魅力(アニメ、マンガ、ゲーム等のコンテンツ、ファッション、食、伝統文化、デザイン、ロボットや環境技術など)」とあり、これらを世界に発信して売り込むことが謳われている。ここで挙がっている人たちの多くが、外出自粛要請によって生活が脅かされているというのに、そうした関係者に支援をしようという動きは一切ない。アニメは世界に誇れる文化だと、ドヤ顔で言っていた政治家は今何をしてるんだろう。本当に文化というものを理解しているんだろうか?いや、わかっているはずがない。政治の道具に利用しているだけだ。

一見、なくても生活できると思われている文化的営みは、人々が心を豊かに生活するのに欠かせない。音楽は太古の昔から、世界中にあり、文明が発達していないアフリカの僻地であっても存在する。生活に必要ないものであれば、音楽が存在しない国がいくつもあっておかしくないはずだ。

最後に、前述の叔父は娘の披露宴のときにプロフィール・ビデオを見て号泣「あの音楽が泣かせるんだよなあ」と言っていたことを付け加えておこう。

グレタ・トゥーンベリさんの扱われ方に違和感あり

トゥーンベリ201910

以前から薄々思ってはいた。自分が捨てているゴミは一体どうなっているんだろう、と。

何も善人ぶるつもりははく、単純な疑問としてそう思っていた。ただ、そう思いつつも、きっとうまくどこかで綺麗に処理しているんだろう、と都合よく考えていた。しかし、最近のプラゴミが悪者になっている風潮(なぜかストローが目の敵にされていて、ストロー作りで生計をたてている人には随分迷惑な話だ)を見ていると、やはりゴミというのは綺麗に処分されているわけではないらしい。

同様に、地球温暖化が以前から問題になっている。人間が排出するフロンやCO2がオゾン層を破壊して温暖化しているというアレである。人間が地球上で生活している期間など、地球の歴史の中ではごく一部で、長い目で見れば地球の温度はそれなりに大きな温度差で上がったり下がったりしているから、本当に人間のせいで地球が温暖化しているかどうかは議論が分かれるところではある。なぜなら1000年や2000年など地球の歴史から見ればほんのわずかな期間であり、そのような長いスパンで気候の変動を見届けた人、調査できた人など誰もいないのだから。

とはいえ、人間が地球温暖化になる可能性を作っているのであれば対策はした方が良いと思っている人は少なからずいらっしゃるに違いない。

そんなご時世に、環境活動家として今話題になっているのがグレタ・トゥーンベリさんだ。

彼女の言っていることは実に正しい。グウの音も出ないほどの正論である。しかも言いっぷりが、まるで昭和のクラシック音楽評論家のように辛辣で痛快であるため、注目度が急に高まっている。

ただ、僕は彼女の言っていること、それを新聞やニュースが取り上げて注目の人に祭り上げていることに大きな違和感がある。

以前、別の記事にも書いたことがあるんだけれども、人間というのは正しいことが実にできない特性を持った生き物である。例えば、みんなが言っているからと流されてそれが正しいと思ってしまう特性は代表的なもの。組織の一員になると、アイヒマン実験で立証されている通り、正しくないとわかっていても思考を停止させて上の指示に従ってしまう人が多い。

ここでもうひとつ、人間のダメ特性を紹介したい。人間という生き物は自分にとって都合が良い情報は聞き入れて、都合の悪い情報はなかったことにするという特性を持っている。多かれ少なかれ誰もが持っている特性で、どれだけ公正を心に誓っている人であっても、不都合な物事に完全に向き合った行動を取るというのは困難を極める。

自分にとって都合が悪い情報はなかったことにする人間の特性が、冒頭に書いた、僕がぼんやり抱いていた「自分が捨てたゴミはどうなっているんだろう」という疑問を深堀りすることなく、なんとなくうまく処理されているんだろうという思考に至らせている。自分が捨てたゴミが地球を汚していると考えたくなくて、処理できていないとわかったとしても自分で行動を起こす気になれないという不都合な状況が、なんとなく「うまく処理されているんだろう」という都合の良い考え方をさせてしまう。

僕と同様に、自分が捨てたゴミがどう処理されていて、どう地球を汚染していて、それにどんな対策をしたら良いかまで考えている人はほとんどいないだろう。自分に都合の悪いものから目を逸して、なかったことにするのが人間なのだから。また、ゴミが地球を汚しているという事実がわかっていたとして、自分が捨てるゴミだけではない、自分ひとりががんばることではないと考えている人がほとんどだろう(自分も含めて)。それほどまでに、人間というのは自分勝手である。環境問題に取り組むなんて面倒だし、今の自分の生活が困っていなければ別に何もするつもりはない。これがほとんどの人の本音ではないだろうか。

そうした弱い方向に走らないトゥーンベリさんは立派である。でも、現時点は口だけである。世の中の多くの人はトゥーンベリさんが言う通り、対策しないとツケが回ってくるとされる環境問題にほとんど何もしていない。だから今後の世代にそうした負の遺産を押し付けることになるだろう。では、若い世代は本当に皆が「環境のために今すぐなにかをすべき」と考えているんだろうかと考えると、トゥーンベリさんが批判している大人と同じくらい何も考えていないと思う。なぜならいま生きている世代までなら、大した問題に至らないから。自分が困らないのに、後世のために苦労や不便を強いられることを喜んで受け入れる人は少数派である。人間というのは他人のために自分を犠牲にするということなどできない自分勝手な生き物なのだから。

トゥーンベリさんは、そうした自分勝手な人間集団を動かして環境対策を実現できたときにはじめて成果が出たのだと言える。

僕は、過去に70名の運用チームの責任者をしていたことがある。意識の高い仕事熱心な人もいれば、業務として意義があることでも自分にとって利益がないことには一切積極的に取り組まない人もいる。そして潜在的に同じ思考を持っている人(本当はそう思っているけれど仕事だから仕方なくやっている人)を含めると、自分に利益がないことに積極的に取り組まない人の方が圧倒的に多い。そういう人たちをどう動かして行くかが、常に自分の課題だった。

政治家を含めて、自分さえ良ければ良いと思っている人間を動かさないと理念を持った集団にはなり得ない。これを実現するのは容易いことではなく、地球レベルで、いち個人にはなんのメリットもない環境対策を浸透させて行動を変えるのは、想像を絶するハードルの高い行為だと言える。しかも彼女のような辛辣な物言いをする人は、多くの場合、嫌われてそっぽを向かれてしまうことが多い。

口で文句を言うだけなら誰にでもできる。成果を出すのは思っているより遥かに大変である、ということに、16歳のアスペルガー症候群を患う少女はいつ気づくのだろうか。

僕はトゥーンベリさんを嫌っているわけでも、考え方に反対しているわけでもない。むしろ彼女が言うように社会が変わって欲しいと思っている。でも、恐らく成果を出すことはできないだろう。そして、成果が出る見通しすら立っていないのに、大きく持ち上げられ、結局大人社会に消費されて終わってしまうような気がしてならない。

映画やドラマの演技は日本人のメンタリティに合っていないんじゃないだろうか



遅ればせながら(?)、1年ほど前から英会話の勉強をと思ってスピード・ラーニングを聴き始めている。この教材はすでに広く世間に知られている通り、英語のセリフが出てきて次にその日本語のセリフが出てくる、というもの。勉強というよりは数多くの英会話を聴いて慣れることで英語を身に着ける、という教材になっていて、どんな子供でも見よう見真似でそのうち言葉が喋れるようになるという考え方に基づいているんだそうです。とはいえ、宣伝文句通りに聞き流していると、日本語だけが耳に残り、英語は文字通り流れてしまうので身に付く可能性は低そう。毎日聞き流しで続けていると、意味がわからないのに聞き流す習慣が身に付いてしまうので内容がほとんど頭に入ってこなくなります。真剣に聴き続けることができれば多少効果はあるかも、というのが個人的な感想です(喋っている内容が非常につまらないので真剣に聴き続けるのはかなりの忍耐が必要)。普段英語に触れる機会が少ない人が英語特有の響きに慣れるという点では多少の効果はあるかもしれません。

そんな教材の在り方の是非はともかく、聴いていてものすごく違和感を覚えてしまうところがある。その違和感とは同じ状況で同じ内容の言葉を、それぞれ英語と日本語で喋っているのに、その温度感や感情の伝わり方がまるで違っているところ。もちろん、しゃべっている人の声が違うから違和感がある程度あるのは仕方がないんだけれども、同じ内容を喋っていてもまるで別のことを喋っているんじゃないかと思うくらい情感が違うところが少なからずあります。

もちろん、本物の会話ではないので、英語部分の会話も作られた感はあるんですが、日本語部分は多少感情を込めた風でありつつも朗読的で、むしろ中途半端に感情表現しようとしてわざとらしさが目立ってしまっている。更にひどいところでは、例えば、英語では声を震わせて苛立った様子を伝えてくるのに、それに続く同じ意味の日本語ではNHKのアナウンサーのような端正な喋り方に少し色が付いている程度の、つまりは棒読みに近い喋りが出てきてしまうような部分まである。

本題とは関係ないけれど、Vol.40からの日本語喋りの男女2人は、日本語台本が会話的でないことも手伝ってかなりひどい。37歳のスコットの声は50歳以上と思しき声質で(「相棒」で同じ喋り方で同じ声の50歳以上と思しき俳優が出演していた)、セリフで「○○さ」「○○だなぁ(語尾を上げる)」を多発、カコは発声すら覚束ない小刻みに震えた力ない声で淡々と話し続ける。本を持って朗読している姿が目に浮かぶかのようにお仕事的に、しかし微妙に感情を込めた会話が流れて行くのです。会話劇として見た場合に教材制作側の力不足は明らかで、この不自然な調子の会話が気になってリスニングに集中できない。まあ、単なる教材なのだから、そこまで気にしないでくれよ、ということなんでしょうけれど、もう少しなんとかならなかったのかと思ってしまう。

このような違和感について考えると、以前から僕が思っていたことにまた行き着いてしまうのです。

僕は、テレビや映画で見る日本人の俳優は、老若男女、どうしてこう揃いも揃って演技が下手なんだろうと常々思ってきました。その大きな原因のひとつは、デーブ・スペクター氏が言っているように、日本の芸能界は事務所が強すぎて、事務所が推す、演技の勉強も訓練もあまりやっていない役者を制作側が使わざるを得ないから、という事情がまずはあります。

一方で僕が思うのは、そもそも日本人は映画やドラマでその役を演じるというメンタリティを持っていないんじゃないかということ。その架空の人物になりきって、自分の内面をさらけ出しながら人物を表現する、という行為ができない。もう少し踏み込んで言うと、我を前面に出すという行為を美徳としない古来からの日本文化からくる、控えめ、あるいは恥ずかしがり屋なメンタルが演技に向いていないように思えるのです。

例えば会社でカンファレンスがあり、最後に質問は?となったときに手を挙げる人が日本では非常に少ないことは、他の国の人にもよく知られているところです(その場に外国人が混じっていると特に)。昔、ハリウッドのユニバーサル・スタジオのアトラクションで、「じゃあ、これに参加したい子は?」と進行役が観客に尋ねたときに、アメリカの子供たちの多くが「私を指名して」という熱意を前面に出して手を上げてアピールしていた様子を見たことがありますが、似たようなシチュエーションで、日本の子供があそこまで積極的になっている姿は見たことがありません。これも、出しゃばりは品がなく、控えめで慎ましくあることを美徳とする日本人のメンタリティがそうさせているんでしょう。出る杭は打たれる、という慣用句がここまで浸透している国は恐らく日本だけだと思います(少なくとも英語にはそのような慣用句は僕が知る限りない)。

そのような日本人のメンタリティが、演技の世界においては全部悪い方に出てしまっているんじゃないかと思うわけです。抑揚のない淡々とした演技しかできない、あるいは妙な喋り方の型を恣意的に作ったクサイ演技(田村正和、松田優作、木村拓哉、森本レオなど)しかできない、あるいは昭和中期のドラマのようなドラマの中でしか存在しない不自然に角ばった演技しかできない、という状態を作ってしまいるのは、役の人物になりきれないことをごまかすための小手先の手法でしか演技できないからではないか、と僕は考えています。

自分をアピールする習慣がない人種が、映画やドラマで必要とされる役になりきる表現ができない、言い換えるとそもそも日本の社会には演技というパフォーマンスをするという下地、文化がない。いやいや、日本にだって、歌舞伎や能があるじゃないかという声もあることでしょう。でも、映画やドラマの演技と歌舞伎や能の演技は誰が見てもわかるように別物です。歌舞伎や能は、演じている人物がどんな外見なのかわからない完全に作り上げられたメイクと衣装で、まったくの架空の世界の人物を決められた手法で演じるものであるのに対して、映画やドラマの演技にはお決まりのセオリーはなく、その俳優そのままの姿、そのままの声、そのままの喋り方で現実の世界を自己表現することが求められます。役の人物と役者の魅力が入り混じったものが最終的に「演技」として視聴者が目にするわけです。

手法ではなく、自分の内面をさらけ出してその人物を表現することが求められるリアルワールドの演技は、前述のような日本人のメンタリティに合っていない、だから日本の俳優の演技は稚拙(表現に乏しい、あるいは自分の内面を隠すかのような不自然に芝居掛かったもの)になってしまう。特に演技力の差が顕著に現れているのが子供の俳優たちです。外国の子役の演技が演技に見えないほど自然かつ個性的であるのに対して、日本の子役がセリフを棒読みして表情すら作れず、誰がやっても同じようなものになってしまうのは、演技の勉強や技術が足りない(演技の教育が足りない)のではなく、生活習慣や文化の違いという根深いところからくるメンタリティの違いが原因であるように思えます。

以前「日本の音楽を聴かない理由」という記事を書いたことがありますが、欧米でメジャーな映画、音楽、ダンスという娯楽のレベルが日本で数段落ちてしまうのは、日本の生活や文化、日本人のメンタリティに合っていないからという、身も蓋もない話に落ち着いてしまう。もちろん、それぞれの分野において世界の第一線で活躍、評価されている人もいますが、ごく一部であり、世界との間にある大きな壁を乗り越えるのは簡単なことではないな、なんてことをスピード・ラーニングを聴いていると考えてしまうのでした。

安室奈美恵引退フィーバーで思い出した2つのこと

安室201809

【1】騒いでいるのは本当のファンではない

僕はQUEENのファンである。世の中にある音楽はクイーンとそれ以外に大別できるといっても良いくらいクイーンのことをこよなく愛している。初めて聴いたときからフィーリングが合ったし、聴けば聴くほど好きになり、音楽に詳しくなってから聴いても新しい発見がある奥の深さを持っており、その勿体つけた音楽は好みが分かれるとはいえ、ポップミュージックとしてとても完成度が高いところが最大の魅力。

そんなQUEENの人気は日本から火がついたというのは有名な話で、しかし、僕がQUEENを知ったのは82年。髭面短髪になったフレディの外見的変貌と、「フラッシュ・ゴードン」の商業的失敗、中心的存在だった10代女性ファンの成長などが重なって、日本では人気が下降しはじめた時期だった。更に、ニューウェーブから派生して、よりキャッチーでフレンドリーで大衆的なグループとして、ワム!(Wham!)、カルチャー・クラブ(Culture Club)、デュラン・デュラン(Duran Duran)などが次々に台頭しはじめ、日本でも若いファンが急増しはじめていた時期でもあった。

高校に入った頃(83年)には、周囲は完全にそれら新しいグループの話題一色のムードで、QUEENは完全にオールドファッション扱いになっていた。僕がいくら力説しても、時代遅れの音楽なんて聴く気がしない、というのがほとんどすべての人の反応で、大げさにではなく本当にそのくらい極端に時代遅れ扱いされていた。86年のある日、オリジナル・アルバムを1枚ずつレコードで買い集めていた時期に、レコード店から家に戻る途中に中学の同級生に偶然遭遇、雑談していると自転車のカゴに入っているレコードに手を伸ばし、「何買ってきたの?」と袋から出てきた「世界に捧ぐ(News Of The World)」(77年発売)を見て「ヘッ、まだこんな古いの聴いてんの」と嘲り笑われたことを昨日のことのように覚えている。

80年代の日本におけるQUEEN人気はそんなものだったので、東芝EMIに移籍してからのQUEENは新譜が出たことさえ話題にならなかった。移籍第一弾の「The Works」のときはまだそこそこプロモーションされてたけれど、「The Miracle」「Innuendo」に至ってはレコード店でプロモーション用ポスターが貼られることもなく、目立つところにCDをディスプレイされることもなく、ひっそりと他のCDと同じ場所のラックに新譜が1枚だけ置かれていた。もちろん話題に上ることはなく、特に「The Miracle」は、(当時は知られていなかったけど)フレディがHIVキャリアことをメンバーが知ってから制作され、バンドとしての一体感を取り戻した完成度の高いアルバムだったにもかかわらず、評価されていなかった、否、評価の俎上に載せる人すらいなかった。

ところが、フレディ・マーキュリーが亡くなり、残された録音から制作された「Made In Heaven」が発売されると、CDショップには特設コーナーが設けられ、新聞でも採り上げられるほどの話題になった。「Made In Heaven」はフレディが世に出してほしいと願って残していた音源を元に残りのメンバーが仕上げたアルバムだっただけに、特別な意味を持つアルバムだったとはいえ、純粋なQUEENのアルバムと捉えるのには無理があり「The Miracle」に及ぶ内容とは言えなかったにもかかわらず、「The Miracle」よりも遥かに売れた。特にここ日本においては何倍も売れたんじゃないだろうか。

と、長い前置きはここまで。

以前の記事で書いた通り、僕は日本の音楽は聴かない(http://buhaina.blog.fc2.com/blog-entry-270.html)。洋楽とJ-POP(歌謡曲)の質の違い、日本人の音楽との距離感と合わせて、パフォーマンスのレベルの低さと、この程度の客(日本人)にはこの程度のものでいいだろうという作り手の志の低さを理由に挙げた。でも安室奈美恵にはそのような思いを抱いたことがない。もちろんショービズ本場のアメリカでも通じる世界一級品のレベルとまでは言わないけれど、プロとして歌も踊りもしっかりしているし、聴衆に質の高い娯楽を提供しようという志があるから。芸能界という日本特有のジメジメした狭い世界で生きるのではなく、表現者であることを第1優先で活動している姿にファンでなくても好印象を抱いていた。

引退宣言をしてから最後のツアーを収めたDVD(ブルーレイ)が記録的な売上であることがニュースで採り上げられる様を見て、前述のQUEENのことを思い出してしまった。100万を超えるその最後のDVDの購入者で、前作のDVDを持っている人はどれだけいるんだろう?タイトルすら言えない人がほとんどなのでは?小室時代を終えた後の曲を歌える人がどれだけいるんだろうか?ずっと追いかけているファンはむしろ小室時代が彼女のキャリアの中では異端と言っているというのに。人気のあった閉店前のラーメン屋に行列したり、販売中止が決まってカールが在庫切れになったのと似たような、本当は好きだったわけでもないのに「ファンである自分」と主張しはじめる身勝手な人が多くてとても嫌な気分になる。

ちなみに、今ではもっとも広く聴かれている洋楽アーティストといっても過言ではないQUEENでも、熱心なファンと思える人に実際には一度も会ったことがない。熱心なファンを目の当たりにしたと思ったのはミュージカル「We Will Rock You」の会場、新宿コマ劇場だけだ。ファンが多いと言われているアーティストでも本当のファンというのはそれほど多いわけではない。僕はビートルズはあまり好きではなくて知識もないけれど、僕よりビートルズのことを知っているな、この人はファンだなと思った人はこれまでに2人しか会ったことがない。

以前、X-JAPANのHIDEが亡くなったときに葬儀に行列するファンがテレビのニュースで報道されていたけれど、あれにも強烈な違和感を感じた。並んでいる行列にカメラを向けると3~4名のグループが目立つ。ある特定のアーティストの熱心なファンというのはそう周囲に多くいるものではない。本当のファンが行列をなしていたのなら、数名のグループなど存在しないだろう。

【2】小室哲哉の重い罪

先に書いた通り、安室奈美恵のキャリアの中で小室哲哉プロデュースの時代はむしろ異端の時期だった。にもかかわらず、ニュースなどで流れるのは小室時代の曲ばかり。まあ、でもそれは仕方がない。みんなが知っている曲はすべて小室時代の曲なのだから。

一世を風靡した小室哲哉は、才能のある音楽家だったと僕は思っている。しかし、懐メロとして聴く人はいても小室哲哉の音楽が好きで今でも聴きたいと思っている人はほとんどいない。ゼロとは言わないけれど、売れた枚数と今でも愛好しているという人の比率統計が取れたら、他を寄せ付けぬ記録的な低率になるんじゃないだろうか。つまり音楽家としては完全に終わっている。理由は簡単、音楽を舐めて、音楽を金儲けの道具にしたから。

まだそれほど有名でなかったときに小室哲哉が作っていた曲は歌のメロディ、骨格がしっかりしている。わかりやすく言うと、最初から最後まで歌を口ずさむことができる。渡辺美里の"My Revolution"を思い出しみれば、最初から最後まで通して鼻歌で歌える曲であることがわかるはずだ。

小室哲哉がキース・エマーソンから影響を受けたことは割と知られるところで、学生時代には論文(雑誌の投稿だったかな?)まで書いていたという。他にも様々な洋楽アーティストの音楽を吸収して、TMネットワークで才能を開花させた。キーボード(あるいはピアノ)奏者というのは譜面に強く、感覚だけでなく理論的もしっかりしていて、さらに才能を持っていたからこそ成功した。

しかし、「小室哲哉プロデュース」ブランドになってからの楽曲は、曲の構造が非常に貧弱である。ある程度印象に残るメロディが少しできてしまえば、編曲能力があり、打ち込みで自分だけで制作できるから、曲として形をつくることができてしまう。もちろんそれも才能があるからできることとはいえ、その「ある程度印象に残るメロディ」の部分以外は、おざなりのメロディがチョロっとあるだけでほとんど頭に残らない。わずかな素材を元に引き伸ばして曲の体裁を整えるだけなので中身が薄くなる。

「小室哲哉プロデュース」は、別にプロデューサーとして優れているのではなく、短い歌メロを元に編曲で誤魔化して曲に仕上げ、伴奏も打ち込みで作るという成り立ちからそうなっただけのもの。歌メロの断片を元にしているだけだからそもそも他人に委ねることができない。打ち込みというテクノロジーができて、イージーに曲を作ることができてしまうようになったから、他の人が介在しない、他人の手間をかけない、省力化された音楽、それを「小室哲哉プロデュース」と呼んでいたにすぎない。少なくとも彼は歌をプロデュースしていたとは思えず、たとえば「~が」と歌う場合に、美しく発音するために「が」を「んが」のように濁らせるのが基本のところ、はっきり「があ」と汚く発音させていてそのまま放置していたりする(意図して狙った効果も感じられない)。

そんな状況でも、周囲がちやほやして次々に作曲を依頼、それがまた売れて、無名時代からは想像できない大金がバンバン入ってくる。似たような歌メロやコード進行のものが増え、歌メロは更に簡素化されていった。そもそもポップミュージックの作曲というのは12音という限られた音階を組み合わせて作るだけのシンプルなもので、技法や構成に凝って、必ずしも時間を積み上げれば良い曲ができるというものではない。一方で、誰でも作れるシンプルなものだからこそ、閃きや創造力や独自の感性が要求されるわけで、編曲はもちろん、得意とも思えない作詞までして、演奏家として活動してテレビに出演して芸能活動までして、作曲以外の仕事を大量こなさなくてはならない忙しい状況であんなにハイペースで質の高い楽曲を次々に作り続けることができる作曲家がいるはずがなく、商業主義に流された小室哲哉は消費されるだけの中身の薄い音楽しか作らなくなった。彼が不幸なのは、ダウンタウンの浜ちゃんの歌や沖縄サミットのような曲に「手抜きが酷いですね。もう一度書き直してください」と言う人が誰もいなかったことだろう。

歌詞になると手抜きは更に凄まじく "Feel Like Dance" という文法間違い(正しくはDancing)に始まり、"Can You Celebrate?" という、ネイティヴが聞いたら「あなたはドンチャン騒ぎできますか?」という意味の迷タイトル曲を日本歌謡曲史に永久に残すことになった(一時期は結婚披露宴の定番曲だったそうで)。この曲がまた、安室奈美恵引退フィーバーでヘヴィローテーションされてしまっている。

要するに、この程度の曲をチャッチャと作ればいいんでしょ、どうせ聴衆の程度が低いから手抜きしてもバレずに売れちゃうし、という姿勢で彼は音楽を金儲けの道具として利用した。小室人気絶頂期に僕はそう思っていたので僕は小室哲哉のことを心の底から軽蔑し、「先週Globeのコンサート言ったけど最高だった」という友人に対して「手抜き音楽ばかり作っている小室はすぐに消える。10年後には誰も聴いてない」と言い放っていた(嫌な奴だねえ、まったく。でも事実そうなったよ)。ちなみに小室人気絶頂の当時、トーク番組に出ていた松山千春が小室哲哉に触れ、客に向かって「お前ら可哀想だよ。10年後に風呂場で湯船に浸かって鼻歌で歌える曲がないんだから」と言っていたのは僕とまったく同じ感覚から来たものだったんだと思う。

でも実際、懐メロとしてカラオケで歌われたり、懐メロとして聴かれることはあっても、今でもあの「小室哲哉プロデュース」の音楽を求めて聴いている人がどれだけいるというんだろうか。手抜きで作られた引き伸ばし加工品音楽に長く親しまれる奥深さがあるはずがない。そうやって手抜きが板についてしまったから、音楽家としてその程度のものに小室哲哉は成り下がってしまた。今、新たに小室の音楽が聴きたいという人がどれだけいるというんだろう?安室奈美恵が小室哲哉から離れたのは、自分の方向性を持って物事を客観的に見て、ブームが長続きしないことを見越していたからのように思える。もちろんこれは勝手な想像だけど。

確かに音楽は売れて、広く知られてナンボという要素はある。でも金儲けの道具として作られた音楽が長く愛され続けることはない。セールスの記録が残り、その功績が消えることはないであろう小室哲哉。今でもカラオケの印税だけで年に数千万以上は入ってくるであろう成功を手に入れたかもしれないけれど、本当に優れた音楽は何世代にもわたって聴き続けられて行くもので、今の若い人に小室哲哉プロデュースの曲に聴かれているかどうかは調べるまでもなく皆が知っている。

才能を無駄遣いして、音楽家として恥ずかしい生き方を選び、音楽を金儲けの道具にして消耗品を大量生産し、この程度の客にはこの程度の音楽でいいだろうという悪しき文化を定着させた小室哲哉の罪は重い。

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