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Enjoy Life, Enjoy Hobby

趣味の人生を楽しむサラリーマンの日記

飲み会の話題って


今回は、いつもより一段と独り言。

僕はお酒に強くないので、それほど飲みには行かない。もちろん、歓送迎会や忘年会などのイベントにはよほどの先約がない限り参加しているし、以前いた会社の知人たちからお声がかかれば断ったりはしない。

これはもう随分前から思っていたんだけれど、それにしても会社付き合いの飲み会はどうにもこうにもツマラナイことが多い。

なぜツマラナイかというと、話題の9割以上が仕事絡みだから。もちろん仕事をネタにすることじたいは否定しない。でも、9割が仕事に絡んだ話、しかも仕事への思いを語るとかではなく、あそこであんなことがあった、誰々がどうだらこうだらという他愛もない話ばかりという状況にもういい加減飽きた。特に同じ会社の人と飲んでいるときに、ほとんど何の為にもならない仕事絡みの話なんて長々と聞いていても楽しくもなんともない。

普段あまり顔を合わせないメンバーの場合の近況報告は、仕事であってもなにかと面白いケースが多い。でも、「昔は良かった」という話ばかりになるとやはりここでも興醒めしてしまう。

同じ会社の人でも外人と飲みに行ったりすると話題が仕事一辺倒ということはまずない(国での生活の話、家族の話、世界中を出張しているときの面白経験談、趣味の話などが多い)し、海外生活を紹介している本などでも飲み会で仕事の話ばかりという話は聞いたことがない。

そもそも日本には文系娯楽の愛好家が少ないので、本や映画や音楽を話題で盛り上がるということはほとんどないし、仮に持ち出しても白ける人がほとんど。ちなみに以前通っていた英会話教室では何十人という講師からレッスンを受けたけれど、「どんな映画が好き?」「好きなアーティストは誰?」という話題で話が弾んだことがよくあった。「この前飲みに行ったら The Bad Plus というグループのメンバーと盛り上がってさあ。彼らのこと知ってる?」なんて話もあったくらい。彼らは特別な音楽マニアでもなければ映画オタクでもなく、娯楽の一部として楽しんでいるという感じで話してくれていた。お互いにお気に入りの映画や音楽を薦め合うなんてことも何度もあった(その分、本題のレッスンが疎かになっていったけど)。他にも絵画や本、スポーツなどの話題で盛り上がれるインストラクターも少なからずいたんじゃないかと思う。

日本のサラリーマンの飲み会がツマラナイのは、たぶん人生を楽しんでいないからじゃないだろうか。いや、楽しみ方を知らないと言った方が正しいかも。日本人に2週間休暇を与えたとしても「何をしたら良いのかわからない」という人が多い、という話もこの話と通じているように思える。

娯楽でなくたって話題はいくらでもある。

・原発は稼動させるべき?
・死刑制度は維持するべき?
・集団的自衛権は是か非か?
・共謀罪は危うくない?
・自衛隊を軍隊と呼ばない矛盾をどう考える?
・移民を殆ど受け入れていない日本はトランプ政権を批判できる?
・民進党がどうしようもなくダメなのはどうすれば良い?
・幼稚園の園児の声がウルサイと苦情を言う社会ってどうなの?
・石油があと何十年で枯渇するって本当なの?

などなど、こうやって手を動かしながらでもどんどん思い浮かぶ。しかし、僕の周囲にいる人がこれらをどう考えているかなんてまったく知らない。なぜなら日常会話や飲み会のネタになることが皆無だから。事なかれ主義な人は、こういうネタで話し合うことは望まないし、むしろ避けたいと思っているはず。

日本人は議論が苦手であるとは良く言われることで、周囲に合わせて穏便にという国民性がそうさせているというのが一般的に言われる理由。たとえばフランスのように「自分の意見を言わなければ自分に価値がない」と育てられる国だとだいぶ事情が違ってくるらしい。某書によると家族親戚の飲み会でも政治をテーマに言い争いになって、人生経験が浅い若者が言い負かされキレてその場を出ていってしまうなんてこともあり、そんなとき、喧嘩していた年配者も「彼女は将来立派になるよ」なんて評価するらしい(そう、女性でも意見を闘わせることを厭わない)。僕は正直、そういう体験ができる親族の集まりがうらやましい。

もちろん飲み会の話題が社会ネタである必要なんてないし、議論になる必要なんてないですよ。家族との出来事や子育てについての話だっていいし、あそこに旅行に行ったら楽しかったという話、航空チケットの得な買い方の話でもいいし、美味しい食べ物の話だっていい。面白い話なんていくらでもあるじゃないですか。

当たり障りなく、中身のない話しかできない。そんな退屈な人間が日本人なんだとすればなんだかなあ~と思ってしまう。かく言う僕も、「こんなツマラナイ話題はもうやめよう」なんてことは言わず、楽しいフリして周りに調子を合わせているんだけど。

この退屈さ、孤独さは結構キツイです。サラリーマンに向いてないんでしょうねえ、きっと。

ブログ開設3周年

myself201512

早いものでこのブログを開設して3年が過ぎました。

僕は、小学生の時代からごく平凡で普通な人間だと思ってきました。運動(体育)と美術(図工)はやや苦手ではあるものの、通知票はオール3に近く、クラスでも目立たない存在でした。中学2年生のとき、「◯◯(僕のこと)ってもっと頭がいいかと思った」と言われたことがあります。頭が良さそうに見えるのに、試験の結果を見ると中の上くらいだったことをその友達が知ったからです(笑)。そんなわけで平凡で特技のない人間であることが僕のコンプレックスになっていました。

しかし、社会人を25年もやっていると自分がかなり普通でないことが徐々にわかってきて、今では特殊な人間だとすら思うようになってきました。

まず、僕は周囲に流されません。みんなが言っているからそうに違いない、という考え方をせず、自分で調べて考えて結論を出します。物事の真理を見抜くためには当然のことだと思っていたんです。そしてみんなが言っていることが違うと思えば、公然と「違う」と言ってしまいます。何かの集会で話がまとまりかけたとき、しかし明らかに意味不明な決着に向かっているときに「それはおかしいでしょう」と空気を読まずに正論を展開してしまうのです。僕にとって正しいことは良いことなんです。何も自分が常に正しい行動をしていると言っているわけではありません。何が正しいかを理解した上で、日々の生活の行動でできること、できないことを取捨選択しているだけで、基本的には正しいことをした方が良いよね、と思っているだけです(ドイツ人的思考かな?)。

今年の3月まで70名のあるシステム運用チームのデリバリー責任者をやっていました。よく問題となるのがオペレーション・ミスです。だからヒューマン・エラーのメカニズムをかなり勉強しました。書物や教材によると、人間はミスを犯す生き物であることがまず説明されています。まあ、そうでしょう、ミスをしたことのない人間などいるわけないのですから。もう一歩踏み込むと、人間特性というキーワードでいろいろと例を挙げて説明されます。たとえば、前述のように集団で議論しているときに「みんなが言っているから、そうだ」と思い込むこと(あるいは違うと思っても何も言わずに従うこと)は集団浅慮と呼ばれるもので人間の特質のひとつだと紹介されます。また、3.11のとき津波警報が発信されたのに逃げなかった人がいたのは、人間というのは受け入れたくない事実、自分にとっての不都合から目を背けるという特性があり、根拠もなく「津波なんていう起きてほしくないことが自分の身に振りかかるはずがない」と思ってしまうからと説明されます。人間というのはいかに不完全で、怠け者で、意思が弱くて物事を正しく見極めることができないかということを学び、それを踏まえた上で業務の仕組みを作りましょう、というのが簡単に言ってしまうと究極のヒューマンエラー防止策になるんです。

そうやって人間特性を学んでいくと、僕のような「みんなが言っていても、違う」と言ってしまう人はかなり珍しい存在だと改めてわかります。しかし、集団で生活し、しかも上下関係のある組織でそれをやると結構ストレスが溜まります。サラリーマンをある程度長くやっていれば、管理職、しかも部長以上のシニア・クラスのポジションにいる人が必ずしも優れた判断力を持っているわけではないこと、難題を乗り越える頭脳を持っているわけではないこと、理念を持って仕事をしているわけではないことが往々にしてあることはご存知でしょう。当然そういう人はパフォーマンスが出るわけないんですが、その中身のないシニア・マネージャーが上から言われたことそのままに現場のためにも顧客のためにもならないことを言い始めたとしても課長クラスのマネージャーがあれこれ意見する、なんてことはこの経済が停滞していて転職が決して楽ではない現代社会ではまずありません。みんな正しいことをするよりも自分の身を守ることの方を優先するからです。僕は若いとき周囲に恵まれていたのか、そういう自己保身のためならなんでも言うという人が少なかったんだけれど、転職し、自分が課長クラスになってみると、自己保身の塊のような人がどんどん周りに増え、「どんなことして顧客や会社に役立つか」という行動よりも「どうやったら上司の機嫌を取れるか」の人の方が圧倒的に多いということがわかってきました。もちろん今でも僕は前者が行動指針なのですが、そういう人はやはり珍しいようです。周りにそういう人があまりにも多いので僕もあまり自分の主張を推すことをしなくなりました(不正や人の道から外れるような指示があったりしたらその限りではありませんが)。仕事のパフォーマンスより媚びることが優先される会社、組織に正しいことを言っても何も変わらないから、自分で吸収できるならがんばるしかない、と思うようになったわけです。

ソクラテスが正論ばかりを振りかざし、最後は死刑になってしまったのは有名な話ですが、これも「いろいろと至らない人間」が痛いところを突かれた結果、嫌われていったからです。このように正論は嫌われます。それは人間の持つ弱さが原因なのです。

人生経験を積んだおかげで、僕は他人に期待しなくなりました。馬鹿にしているわけではありません。人間というのはそれほどまでに弱い生き物だと思えるようになったということです。そんなこと人としてできて当たり前だろう、会社のその組織の担当者としてやって当たり前だろうということができなかったとしても腹を立てなくなりました。僕は常にお客様の最前線に立つ仕事をしてきたので、当然そういう人たちがいると自分が苦労する。でも、それがサラリーマンなんだと思えるようになってきたわけです。

何やら大げさな話になってきましたが、つまり僕自身は不特定多数の人が持っている感覚を共有していない人間なわけです。物事の見方は、いわゆる大多数の人たちと違っていることが多い。そして、それは普段周囲にいる人にはいちいち言わない。馬鹿げていると思う一般世論だって論破できてしまうけれど、そんなことしても嬉しくないし、言われた方も嫌な思いをするだけ。

ちなみに、親戚や古くからの友達など、付き合いの長い人たちと集まったときによく出てくる「そういえばあの時、あんなことあったよね」的な思い出話が多すぎるのも好きじゃありません。社会で今起きていること、自分自身に最近あったことなど、話せることなんていくらでもあるじゃないですか。昔話しかできない人って、今の生活が充実してないってことを吹聴していようなもので、それに気づいてないなんて気の毒にすら見えてくる。ま、こんなところもたぶん普通の人と違うところなんだろうと思います。もちろん、そういう場にいてもそんなことは言わずに調子を合わせていますが。

そう、このブログはそのように周囲の人と感じ方が違う故に行き場のなくなった自分自身の気持ちを吐き出すという目的で始めたのです(冷汗)。もちろん、読んでくれた人にとって役に立つ情報になってくれるだろうという内容を書くことが基本ではあります。ああ、こういうふうに考える人もいるのね、と見てくれる人がいればそれでいい。もちろん、反論したくなる人も多々いらっしゃるでしょうが、文章で議論をすると揉めるし、気に入らないことを書くと感情だけを押し付けてくる人がきっと現れると思って、このブログはコメント欄を設けていません。あくまでも僕の独り言、ボヤキの場なのです。

にもかかわらず、1年で9000件ほどもカウンターが上がっていることに僕自身とっても驚いています。ま、見た人がポジティブに感じたかどうかは知りませんが、そんなことを気にせず、これからも書き続けていこうかなと思っています。もし、楽しんでくれている人がいたら(あまりいないと思うけどなあ)ありがとう!

以上、3周年記念の言葉でした。

足の裏が痛い-足底筋膜炎との付き合い

今から5年位まえ、41歳のころから左足の裏に痛みを感じるようになってきた。症状は朝の寝起きのときだけで、そのうち痛みは消え、出勤するころにはすっかり問題なくなっていたので特に気にすることもなく日々を過ごしていったものの、そこから2年くらいかけて徐々に悪化していき、朝の痛みをピークに1日中痛みが引かなくなっていた。

この状態に至ってようやくネットで調べ見ると「足底筋膜炎」あるいは「足底腱膜炎」という聞き慣れないキーワードにすぐにたどり着くことができる。症状についてはWebのいろいろなところで解説されているので状況を理解するのにさほど時間はかからなかった。平たく言えば足底筋の衰えということで、ああ、ついに自分もこんなところまで衰えてくるようになったのかとガッカリしたところまではまだ良かった。困ったのはその治療方法がどこにも書かれていないということ。

朝一番の寝起き直後は、いよいよ顔をしかめたくなるような痛みが走って足を引きずりながら歩くのが当然のようになり、日中でも席を立ったときの一歩目でかなりの痛みを感じるようなってきたので、ついに整骨院に通うことに。以下は、その後2年にわたってこの怪我(?)と闘ってきて得た経験と知識の記録。

先に結論を言うと、痛みは消えなかった。ただし、ピーク時に比べるとだいぶ痛くなくなり、顔をしかめるようなことはなくなってくれた。とはいえ、未だに長時間立ちっぱなしのときなどは痛みが気になるレベルでもあるので今でも気遣いが欠かせない、そんな感じに落ち着いている。(2016年9月追記: 現在はほとんど痛みはなくなりました。ただし、歩き方の改善は続けています)

【治療はやはりほとんど無意味】
整骨院には週2回、昼休みを少し長めに取る形で半年くらい通った。最初は患部を直接強くマッサージしていたものの、痛みが更に悪化するようになったので先生も「う~ん、どんなマッサージが良いのかは人それぞれなので患部周辺のマッサージと足首や膝下を積極的に動かすようにしましょう」と方向転換。以降、この治療方針でずっと続けていった。

その期間中、痛みは一進一退しながら徐々に良くなっていった。ただし、後述のような歩き方対策も並行してやっていたのでこの治療が本当に効いていたのかどうかはなんとも言えない。治療開始時期の最初の2ヶ月くらいは、週に1回のジョギングも控えて治療を再優先にしていたのにまったく良化が見られなかったのと、それまで10年以上続けてきた軽度なジョギングが問題だと思えず、よほどハードな運動をしない限り悪影響はないと判断してジョギングは再開。それでも症状が悪くなるようなことはなかった。


【足の使い方が問題だった】
人間にとって当たり前の行動のひとつ、「歩く」こと。どのように歩くかに注意を払っている人はモデルとかでもない限りほとんどいないと思う。

一方で、人間は体のどの部分であったとしても左右が完全に対称でもないし、使い方も左右で異なる。たとえば肩こりが右だけ強い、なんてことは決して珍しいことではない。

僕の場合、歩くときに右足の指先、特に親指の先に力を入れて歩いている。ところが左足の指先には力を入れておらず、むしろ上向きに開放するように歩いていることがわかった。もちろんこれは無意識にやっていること。

足底1

歩くときにはこのように指先に力をまったく入れていない。

実は、無意識と言いつつ、指先に力を入れて歩いているときと歩いていないときがあるなあ、と漠然と気づくこともあって、そんなときには指先に力を入れずに歩くように心がけていた。指先に力を入れて歩くのはなんとなく無駄な力を入れているように思えたし、無駄であればどこかに不要な負担がかかるように思っていたから。

ところが、整体師に言わせると指先に力を入れながら歩くのが本来の歩く形ということで、力を入れずにペタンと歩いているから左足の足底筋が使われなくなり、衰えたのではないかと説明。「だから土踏まずが左足の方が下がっているでしょう?」と言われ、触ってみると確かにそのとおり。

そこで、左足の指先に力を入れて歩くように心がけることにしてみた。ところが長年の習慣で身についてしまった歩き方がそう簡単に変えられるはずもなく、右足のように自然な感じで指先に力を入れることができない。そうこうしているうちに左足の別のところが痛くなり始めてしまった。無理はよろしくないので、気持ちだけ左足の指先に向けるような感じで歩く方針に頭を切り替える。とにかく、土踏まずをベタっと地面につけるような歩き方が一番良くないらしい。

足底2

こんな感じに指先で掻き込むように意識して歩く。

これをサポートするために、整体師の勧めで、土踏まずの部分が大きく盛り上がっているソールを靴に入れることにしてみた。このソールを入れると指先に力入れる歩き方になりやすい。また「座っているときに足の指先を掻き込むような動きを繰り返してみるのが効果的です」と治療当初から言われていたので、風呂に入っているときや家でボーっと映画を見てるときに床を掻き込むこともときどきやってみた。

【まとめ】
これらの対策によって、ある程度自然に左足も指先にある程度力を入れて歩けるようになっていった。ただし、今でも意識していないと左足指先に力が入っていないときがあるし、未だ完全に自然にというわけにはいかず、左右の力の入れ方が微妙に違っていて、歩くという当たり前の行動として身に付いた行動を変えるのは容易ではないということを実感しながらの毎日。

治療方法を総合すると、どれもこれも衰えた足底筋を鍛え直すことに集約されているように思える。通院を止めてから症状が悪化したということはなく、歩き方を意識し続けたことで痛みは軽くなっていったので、足底筋を鍛え直すという方法は多分高い確率で合っているんじゃないかと思っている。

週に一度、5キロ程度のジョギングなら足底筋に悪いことはなく、ここでも足の指先を掻き込むように走ればむしろ足底筋を鍛えることにもなっているのかもしれない。

というわけで、やるべきことは意外とシンプルだったという結論ではあるんだけれど、歩き方の習慣を変えるのはなかなか容易ではなく、身に付くようになって半年以上経ってから、「そういえば最近は痛みが少なくなってきたな」という感じだったので、地道に続けて、効果が少しずつ現れるという忍耐を要するものであったのも事実。また、症状が軽くなったといっても完治したわけではなく、たぶんこのまま一生付き合っていかないといけない類の怪我でもあると思う。ちなみに筋の衰えなので温泉に浸かったとか湿布を貼るなどの治療で急に良くなるということはなさそうです。

人によって原因も適切な治療も違うと思うので、誰もが試行錯誤をしながら適切な方法を見つけていくことになると思いますが、有効な特効薬的なものがないこの怪我で悩んでいる方に、僕の経験が少しでも役に立てば、と思います。

「野心のすすめ」林真理子・・・そこから自分を考え直してみる

林真理子 野心のすすめ


帰宅途中の乗換駅で少し待ち時間があったので、駅内の本屋を覗いてみるとこの本が目に留まった。

著者は僕の世代(40台半ば)なら知らない人はまずいない有名人ながら、どんな人なのかはよく存じ上げていない。大昔のテレビの記憶を辿ると、なんとなく「あまり感じの良い人ではなさそう」という程度。あとは、一部に熱心な女性ファンがいるようなのできっと何かを持ち合わせているんだろうなというかなり曖昧な印象しか持っていなかった。正直なところ特に好きというわけでも嫌いというわけでもない。

最近、仕事が非常に悪い方向に向かっていて少し精神的に弱っていた。自分で言うのもナンだけれど、社会人を23年やってきて仕事は常に高く評価されてきた。ただし、それは才能に溢れた人が目覚しい成果を残すといった類のものではない。サポート系、サービス系の仕事でどちらかと言うとクレームを言われるのが基本という地味な職種の中、与えられた使命はどんなに困難であってもやり遂げてきたことを評価されてきた。大火事になっている案件を何件も消火して実績を積み上げ、それを評価されてそれなりのポジションまで上ってきたという自負はある。

ところが、今の仕事では「そんなに与えられた使命をキッチリやり遂げなくてもいい。そこそこでいいから契約外のことをやってくれ」と客に言われたのである。いや、実際に言われたのならいろいろ僕もいろいろ考えることができたんだけれど、遠まわしにウチの会社の上層部に言ってきた。ちなみに、その仕事において我々が与えられた使命を成し遂げるべきことは、本来はそのお客さんの組織の業務目標に直結していることであり、契約が始まったころはその人から口酸っぱく「しっかりやってほしい」と言われてきたことである。だから今更表立って「やり遂げなくてもいい」とも言えない。でも本音は「業務目標のためなんていいから緩くやってくれよ。その代わりウチの組織がだらしなくてできていない部分、本当は契約外だけどそっちで吸収してよ」ということだったようだ。

この本音を受け止めてあげた場合、お客さんの組織は楽できるが70人にも及ぶ僕のチーム全体にしわ寄せが来てしまう。パートナー企業の曾孫請け以下で働く人が大半の僕のチームで、理不尽で永続的に負荷増が続くと辞める人が続出し、業務を回せなくなってしまう恐れがある。完全なボディショップ案件なので増員するのが唯一かつもっとも効果的な方法だが、契約書外の追加業務のためにパートナー企業のメンバーを増やすことはコスト増になり、顧客から追加料金をいただけないコスト増を認めれくれるほどウチの会社は寛大ではない。

ともあれ、客は表向きには不満を言わずに裏から手を回して、僕のチームが契約を守ってしっかり仕事をやりすぎているという不満を社内上層部に言ってきた。繰り返すが、契約内容をしっかりとやり遂げることがお客さんの組織の業務目標に直結しているにもかかわらず、である。表向きに言えないのは契約文書で業務区分を謳っていて、署名までしているからだ。ところが契約更新時期にさしかかっているため、うちの会社の上層部はそんな要求にすら「はい、ウチが至りませんでした」と言われるがまま。もちろん、その担当者はそういう時期を狙って言ってきている。

ここに来て、僕は初めて仕事ぶりが悪いと評され、案件から外されそうになっている。

これはなかなか堪える。もちろん仕事でお客さんから叱られたことは山ほどある。至らない部分があったとしても最終的には「よくやってくれました」と言わせるのが僕の「やり遂げる力」だ。熱意と誠実さは必ず相手に伝わり、最終的には満足してもらえていたし、それを歴代の上司には評価してもらっていた。与えた仕事をきっちりやり遂げて上司が欲しい結果を出すという意味で「計算できる」と評されたこともある。

そういう仕事の仕方が通用しなかった。理由は何であれ「使えない人」扱いされたのは屈辱である。

僕は仕事がうまくいかなかった場合に徹底的に自分の悪かったところを洗いなおす。平たく言うと反省しまくる。自分を責めることで自分を成長させようとするのが僕のスタイルだ。だから叱られれば叱られるほど最終的には良いパフォーマンスを出すことができる(余談ながら、「僕は褒められて伸びるタイプなんです」なんて自分で言う人は、成長しない人間だと自ら宣言しているようなものだと思っている)。

かような不満をぶつけられたことに対して、いつも通りに何がいけなかったのかを考えに考えた。でも、根本的な部分において「こうしておけば良かった」という答えが出てこない。

前置きが長くなってしまったけれど、この本に遭遇したのは、そういう状況のときだった。

ページをめくって目次を見ると「屈辱感こそ野心への第一歩」という、今の自分にピッタリなテーマが目に飛び込んでくる。というわけでそのままレジに持って行き、昔から名前だけは知っている作家の本を初めて読むことになった。そんな経緯なのでベストセラーになっていることも話題になっていることも知らなかった。

そもそも著者のことを僕はよく存じ上げていないので、その押し出しの強さと言いっぷりの良さにまずは「ほお」となる。この本はエッセイなので、野心について自分の経験を元にいろいろとお書きになっている。しかし、残念ながら著者の生きてきた時代のことでしかないので、例えや価値観がいちいち古い。どうのし上がってきたかを説明されても、それはバブル時代だったからなんじゃないの?と言いたくなってしまう(ご本人も一部認めていらっしゃる)。

経済が停滞しているからってあきらめて、とりあえず食っていくには困らない程度の低い安定を求めるなんてそんな人生でいいの?というようなことが書いてあり、それは確かにその通りだと思う。僕のチームにもパートナー企業から派遣されている若い人がたくさんいて、しかし、向上心を持っている人が非常に少ないことを常々感じているから尚更そう思う。彼らに対して「40歳になっても今のままの仕事やっていたくないだろう? ただ毎日仕事をこなすんじゃなくてに目標を持って、少しずつレベルアップしようよ」と言ってもまるで自分には関係ないかのように無反応な人が多い。まさにこの本で標的になっている「毎日ユニクロを着て松屋でいい」「50歳になって居酒屋で働いて20代の正社員に使われるという想像力がない」タイプの人たちが驚くほど沢山いる。

ただ、彼ら(ほとんどは曾孫請け以下の会社に所属)の境遇を見ると、やる気がしないのもとてもよくわかる。なぜならがんばっても何も報われないから。実は若い人たちの中でも一部には大変前向きで優秀な人材もいる。彼らは学歴がなく、恐らく勉強もあまりできないと思われるが、自分のチームには何が求められているかを常に意識して、規定されていないことであっても自分で考えて積極的に行動することができる。有名大学を出て、大企業に勤めていても実はこういう行動が取れない人が圧倒的に多い中で、15人に1人くらいの割合でそういう逸材がいる。

優秀で前向きに行動する人を、その現場の財布を管理している立場の僕としては大いに報いてあげたい。でも、会社同士の契約の壁、運用コストの厳しい締め付けによって個人に対して単価を上げたり、その人の給料を上げることはできない。更に、ウチの会社の購買もえげつないのでしょっちゅう値引きを要求して無理やり飲ませることもある。そうすると減るのは彼らの給料というのがこの世界の仕組みなのである。

がんばっても、いい仕事をしても給料が上がらない。それどころか下がる場合すらある。あるとき優秀な人材が所属会社を辞めるのでチームから離れるというので話を訊いてみると、どんどん年収が下がっていると言う。今の仕事はやりがいがあるけれど、結婚して子供が生まれたばかりなのでこれじゃあやってられないから会社を辞めざるを得ないと諦めたように言われてしまい、こちらも言葉を失ってしまう。

著者の「野心を持ってがんばれ」という主張は、このように徹底的に給料が上がらず、ポジションも上がらない人たちの世界においてはまったく響かないはずだ。どんなにがんばっても報われないのだから。彼らは書類上は正社員だけれど、どこかの会社の仕事のために派遣されているただの駒に過ぎず、そういう人を送り込むだけの会社がこの世にはゴマンと存在する。そういうリソースを大手の会社が使い、価格を叩く。そして、この仕組みの中に組み込まれている人は何万人、いや何十万人、何百万人もいる。

ならば転職してステップアップすればいいじゃないか、というのもバブル時代の発想だ。自分で考えて仕事をする力を持った優秀な人材は、履歴書やたかだか1時間程度の面接でわかるはずもなく、経済低迷の時代に虐げられ、閉塞した社会に閉じ込められてきた人目を引かない紙面上のキャリアで結局は評価されてしまう。もちろん、100人に1人以下のごくひと握りの優秀な人はそんな壁をも乗り越えることができるかもしれない。でも、そこまでエクセレントな人でなくても、15人に1人という人でも十分に良い仕事ができる。そしてそのくらいの人たちが一番社会に虐げられている。こんな世の中の構造を常に目の当たりにしている僕からすると、著者の物言いは少し世間を知らなさすぎると思う。著者が思っている以上に世の中の労働環境は悪くなっていて、若い人たちのやる気をとことん奪っているということはもう少し知っていてもらいたいなと思う。

このような重大な欠点を内包しているとは思いつつ、僕はこの本に書かれている基本的な部分には大いに共感した。

簡単に言えば「向上心を持て」と言っているだけで、それを自らの経験に重ねて面白おかしく書いている本、しかし向上心を持っている若い人がどんどん減っていることを嘆き、危機感を持つように言葉を投げかけている。

いつだったか、テレビの情報番組で「よし、今日はオレが全部おごってやる」と飲み会の席で上司がいうと今の若い人は「みっともないお金の使い方だ」と思うのだと紹介していた。昔は「いつかはオレもこうやっておごってやれるように出世するぞ」と思ったのに、と中年コメンテイターが嘆いていて、僕も同じように思ってしまった。確かにお金があれば心が豊かになるかといえば必ずしもそうではない。でも、そこを逃げ口上にして「だからお金に執心するのはみっともない」と飛躍して向上心のない自分を正当化するのもちょっと違うんじゃないかと思ってしまうのである。

この本に書かれているのはそういうことだと思う。

それで結局、仕事で凹んでいた僕にとってこの本はどのように有益だったか。たどり着いた結論は、「次の仕事で高い評価を勝ち取ろう」だった。うまくいかなかったことは先に書いた通り、反省しない。そんな嘘とまやかしの組織に加担して評価なんかされたくない。とはいえ、できない人間と評価された事実に対する屈辱は、よりできる人間と評価されるためのバネにしようと思うことにした。つまり、この本で言う「新規まき直し」に気持ちを切り替える。

この本を読んでいなかったら、たぶん反省し続けて、いつも以上に苦しんでいたに違いない。でもやっぱり、どう考えても自分がやっていたことの根本的な部分が間違っているとは思えない。もちろん世の中には自分と違う考え方をする人がいるのはわかっている。でも正しいことをして正しい評価を受けるのが僕の生き方だと、改めて思いを強くした。嘘やまやかしで保身に執心する人に評価なんてしてもらわなくていい。

さて、本そのものについても少し感想を書いてみたい。

先にも書いた通り、書いてあるエピソードはどう贔屓目に見ても古い。でも自分で体験してきたことしか書けないし、そこで言いたい本質的なことはわかってくれるだろう、というある意味図々しささえ感じさせる物言いで一貫している。たぶん、この作り方がアンチの人にとってもっとも揚げ足を取りやすいところだと思う。でも、普通に読めば言いたいことの本質は十分読み取れると思う。表現が古いというだけのことで、これに対して鬼の首でも取ったかのように批判している人はちょっと大人気ない。

また、みんながみんな、そこまでして野心を持たなければならないと言っているようにも読めない。偏見なしで読み進めていけば、現状維持でいいと諦めている人の中にはまだまだやれる人がいるはず、そんな人たちの潜在意識を呼び覚ましたいというメッセージが読み取れるはずだ。

正直に言うと、数々のエピソードを読んでいくと林真理子という人は少々品がないし知性もあるとは言い難いように思う。ただし、作家ならではの鋭い審美眼で人物を観察していて、品と知性がどんなものか、どういう人が一流に見えるかがわかっている人でもある。その両面が時と場合によって代わる代わる顔を出すところがなかなか面白い。

この本一冊だけで著者のすべてをわかったなどとと言うつもりはないけれど、自由に言いたいことを言っていることが伝わってくる(だから一定のファンがいるのですね)ので、ウケるのを計算して捏造したネタを工作しているなんてことはたぶんないでしょう。

よく、一流の人は自分を客観視できると言われるけれど、林真理子は明らかに自分を客観視できている人だと思う。ただ、「自分のスタイルはコレ」というものがあって、それが万人ウケする性質のものではないので批判も受けてしまうようだ。

でも、だからこそこの人の言いっぷりを聴いていると清清しい気分になってしまう。

僕も「ある程度ポジションも上がったから現状を維持できればいいか」と思い始めていた時期だったので、著者の煽りに乗せられて、まだまだがんばれるんじゃないかと思えるようになったという意味でも読んで良かったと思う。

まあ、ファンになったわけではないし、本の中にも同意できないことが少なからず書いてあるし、何度も読みたいと思う本ではないけれど、著者はなるほど注目を集めるに値する才能と個性の持ち主だとは思う。いずれにしても久しぶりに面白く読めた本だった。

(その後、仕事の契約がまとまると他に僕の代わりになる人がいないので案件に残ることになった・・・会社上層部というのはかくもいい加減で自分勝手なものである)

自己紹介

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まずは自己紹介を。(写真は1歳当時のワタクシ)

1967年生まれの現在45歳。

普通のサラリーマンで、趣味を楽しむことを生きがいにしている。

家族は、2010年5月に結婚した妻(3歳下)。そこに2012年9月には猫が加わった。
結婚が遅かったのは、お互い、いろんなことにこだわりがあって相手を選んでいるうちに、こんな歳になっていたと、というところだと思う。

でも、いろんな感性がうまく共鳴しあうことができる相手に巡り会うことができたと思っている。まだ会ってから3年半の時点でこんなことを言っていては、長年結婚生活を送っている人に笑われるかもしれませんが。

趣味はたくさんあります。困るくらいに。傾向は完全にインドア系です。工学部出身で元エンジニアなんだけれど、趣味が完全に文科系。そしてやりだすと結構とことんまでやってしまうタイプ。

ロックは中学生の頃(82年)から聴いてきた。最初に好きになったのはクイーン。今でもクイーンは僕にとって特別なグループで、世にある音楽はクイーンとそれ以外とに大別されるといって差し支えないくらいの存在。それ以外の音楽もたくさん聴いてきたからこそそう言える。ロックでは他に、レッド・ツェッペリン、フリー、キング・クリムゾン、ジェフ・ベックあたりを特に好んで聴いてきた。

34歳のときに突然ジャズを聴いてやろうと思い立ち、狂ったように連日聴き続けてきた。マイルス・デイヴィス、ジョン・コルトレーン、ウェイン・ショーター、アート・ブレイキーは、プレイはもちろん作り出す音楽が好きで、プレイヤーだとリー・モーガン、フレディ・ハバード、エリック・ドルフィー、エルヴィン・ジョーンズ、ジョー・ヘンダーソン、ケニー・ドーハムあたりも好きです。現役バリバリの人はあまり聴かないけれど、ジョシュア・レッドマン、ブラッド・メルドーもお気に入り。

そして齢45になって、クラシックにハマリはじめる。もともと、父が好きだったので子供のころから聴かされてきた音楽で、しかし興味をそそられず。ところが妻がクラシック好きで、一緒にコンサートに何度か行っているうちにどんどん良さがわかるようになってきた。とにかく生オーケストラの音の響きの美しさは筆舌に尽くしがたい。

音楽以外だと、映画も少々。薀蓄を語れるほどではありません。それでも本数だけは結構観ていて、WOWOWで録画して月に4本くらいは観ている。

その他にもオーディオ、競馬、クルマも凝っている方です。

クルマを除くと、挙げたものはこの世になくてもまったく困らない。でも、僕は趣味にずいぶん助けられている。楽しいことよりは辛いことの方が多い仕事のストレスを和らげ、精神を保つのに欠かせないんです。

人生を豊かにするものは趣味。趣味があってこその人生。

こんなワタクシですが、よろしくお願いします。

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