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趣味の人生を楽しむサラリーマンの日記

AVアンプを刷新 - PIONEER SC-LX701

LX701-201909

僕がホームシアターなるものに興味を持ち始めたのは今から20年くらい前のこと。

それまであまり関心がなかった映画の良さがわかるようになり、映画館で後ろから音が飛んでくるサラウンド体験にまずはショックを受けてしまった。そして、新しいメディアとして登場したDVDにはそのサラウンド音声が収録されていた。5.1chサラウンドを家庭で楽しめる環境、製品が出始めた時代でした。

早速、安価ながらサラウンド環境を実現する機器を導入、最低限のものだったとはいえ、家でサラウンドで映画が観れることに喜びを感じたものです。

その後、ブルーレイの時代になると、サラウンドの音声フォーマットはロスレス収録になり、WOWOWの映画も5.1chで放送されるようになるという、本格的な「家庭でサラウンド」時代が到来、2007年に導入したのがそうした当時の最新の技術トレンドを押さえていち早く商品化したオンキヨーのTX-SA805というAVアンプでした。

このアンプを使い始めて気がつけば12年。その間、多くの新しい規格が策定され、新しい技術、装備が現代(2019年)のAVアンプにはどんどん盛られていきました。それほど熱心にオーディオ&ビジュアルの技術トレンドを追いかけているわけでもない僕でも思いつくものとして、

・9.1chや、7.1.2chへの多チャンネル化
・4K対応
・LAN、無線LAN機能
・HDMI多ポート化(複数出力)
・HDMIパススルー機能

あたりが挙がります。

拙宅では4Kプロジェクターを使用しているものの、プレーヤーから映像と音声を2系統分けて出力できるため、AVアンプのHDMIが4Kに対応していなくても問題はなく、WOWOWの映画鑑賞(AACサラウンド)、音楽系映像ソフト、SACDやDVD-Audioマルチチャンネル再生はすべて5.1chであり、多チャンネル化の必要性もない(というかこれ以上リビングにスピーカーを並べられない)ため、実は新規格への対応という意味では、これだけ新しい規格が毎年出てくる中でも12年前のアンプで困っていません。

一方で、12年前のAVアンプのHDMI周りの仕様は少々心許ない。当時のAVアンプは最上位機種を除いてHDMI出力は1つしかなく、ブルーレイ・レコーダーやプレーヤーも出力は同様にほとんどの機種で1つしかない状態で、テレビとプロジェクターの2台ディスプレイ体制の拙宅では、HDMIセレクターを導入したり、利用する機器に応じてHDMIケーブルをいちいちつなぎなおしたりする必要がありました。AVアンプを通したい場合、通したくない(バラエティ番組など見るときにいちいちアンプの電源を入れて良いスピーカーで聴きたいとは思わない)場合があり、そうなるとHDMI配線はいよいよ複雑になってきてしまう。更に半年前にサウンドバーを追加したために、HDMI周りの配線は、配線した自分でもすぐには図示化できないカオス状態になってしまってるのです(AV凝り性あるある)。

AVアンプの機能として今や当たり前すぎて売り文句としては前面には出てこないHDMI出力2系統+HDMIパススルー機能が、この状況をすべて解決してくれます。もちろん現在発売されているAVアンプであれば4K(あと3Dも)対応なので、プロジェクターにつなぐHDMIケーブルもAVアンプからの出力からで済むようになり、利用形態によっていちいち切り替えていたHDMIセレクターも不要になる。言い方を変えると旧機種、旧規格でやりくりを考えて現代の機器を接続するとHDMI配線が複雑化せざるを得ない。この状況を抜け出したいということをきっかけにAVアンプを刷新することにしました。尚、BOSEのサウンドバーは期待したほど効果がなかったので、これを機会に外して更に配線をスッキリさせます。

正直なところAVアンプはそれほど上位機種でなくてもイイ音で聴けるんじゃないかと思っているんですが、エントリークラスだとプリアウト端子が省略されるので選択肢から外れてしまう(フロント左右チャンネルは音楽鑑賞用オーディオアンプをパワーアンプとして使っているため)。ミドルクラス以上となると、今やオンキヨー、デノン、ヤマハ、パイオニアのみが製品販売を継続中で、その中から選んだのがパイオニアのLX-701。3年前に発売されたモデルとはいえ、ファームウェアのアップデートで現在でもほぼ最新の技術に対応しているため、古さについての懸念はない。消費税が上がる前、そしてパイオニアで開発された製品を入手できるのも最後のチャンス、定価の半額以下という在庫処分モードという条件が、LX-701の購入を後押ししました(購入後にパイオニア・ブランドでの後継機種の発表があった)。AVアンプは、今後ますます市場が縮小、メーカーも減り、中級クラスが手薄になることも考えられるため、そういう意味でも、良いミドルクラスのアンプは今後選択肢が減るだろう、というのも購入を決めた理由です。

いざ、納品。そして設置、配線。これまでお世話になった重たいアンプをラックから出し、新しいアンプを入れて配線というのは面倒で体力的にキツいものですが、新機種への入れ替えなんてそうそう機会があるもんじゃありませんから、この作業を楽しめない人はいないでしょう。

フルオートMCACCというパイオニア独自の音場設定をまずは完了。さて、どんな装置であってもワクワクする最初の音出し。

ところで僕は、所謂(この呼び方好きじゃないんだけど)ピュア・オーディオのアンプというものはそれほど大きく音質が変わるものではないという考えの持ち主です。もちろんエントリークラスからミドルクラスに上げた場合には音質向上を実感できる場合が多い。でも、それ以上のクラスになるとそれほど大きく変わるわけではない。拙宅のオーディオ・システムは、定価ベースで68万円と3万円の製品を含む3つのアンプで音出し(もちろん同じスピーカーで)できますが、妻はどれも違いがわからないと言うくらい、その差は小さく、僕もブラインドで当てることができるかちょっと疑わしい。ただし、ある程度の音量(小音量だと情報量の差や低音の力感の差が出にくい)で同じ曲で聴き比べてみれば違いはわかる。でも、それはアンプごとに音質傾向が違うからであって音のクオリティという意味では差はごく小さく、その程度の差しかないのがアンプというもので、それでもお気に入りのスピーカーをできるだけうまく鳴らしたいという欲望に抗えず、オーディオ愛好家はアンプに散財するわけです。

というわけで今回のAVアンプに入れ替えでも、音質傾向、性格の違いは出るかもしれないけれど、音のクオリティじたいはそうは変わらないだろうと思って、いろいろなソースを聴いてみる。従来通り、フロント左右はプリアウトで音楽鑑賞用のKRELL KAV-400xiというアンプを通して鳴らす構成になっています。

もともと使っていたONKYO TX-SA805というアンプは、ミドルクラスの上位という位置付けで、ロスレス・サラウンドの時代を迎えるにあたってメーカーも当時相当力が入っていたのではないかと思えるもので、重量は23キロもあります。現代のAVアンプだと、チャネル数が増えているにもかかわらず各メーカーの最上位機種でも20キロを超えるモデルはないので、そこまでコストをかけられないんだろうなあ、と勝手に想像していました。一方で、技術的に進化しているのでミドルクラスの下位機種でもかなり音が良くなっているという話も聞きます。

さて、実際のところはどうか。

まずは、アバド指揮ルツェルン祝祭管弦楽団のブルーレイ(DTS-HD Master Audio)でマーラーの交響曲第5番、そしてヤンソンス指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団のSACDでリヒャルト・シュトラウスのアルプス交響曲を聴いてみる。「なんとなく良くなったような気がする」レベルを超えた、ハッキリと体感できる音質向上で、それほど音質が良くなることはないだろうと思っていた僕にっては嬉しい誤算。音は明瞭で透明感が高く、それでいて自然でスッキリした響き。弦の美しさ、木管の豊穣な響き、金管の落ち着きがありつつも華やかな響きに思わずウットリしてしまう。また、ローエンド(低音の中でも一番下の重低音音域)がソリッドで力感に溢れ、サブウーファーはもういらないかも、と思わせるほど。ホールトーンの響きの再現も秀逸で、もともと録音の評価が高い音源とはいえ、その素晴らしい音質が確実にワンランク向上していることがわかる。

次にキング・クリムゾンの「Islands」ブルーレイでリニアPCM 5.1chを聴いてみる。こちらも同様の印象で、クリアで緻密かつ締まった音を聴かせる。ベースの輪郭が明瞭で、シンバルの緻密な響きの再現も素晴らしく、声(歌)のリアリティにも目を見張るものがある。ああ、ここでこんな音が出ていたんだと再認識する場面も少なくない。楽器ひとつひとつに無駄な付帯音がなく、とにかく純粋かつ愚直にありのままの音を綺麗に再生してくれる。解像感が強調されすぎることなく、情報量が多く、音の瞬発力やスピード感があるところは好みにピッタリ。

これまで使ってきたTX-SA805でも、イイ音するなと満足していたのです。AVアンプは映画を観るためのものであり、音楽のマルチチャンネル再生はボーナス程度に思っていたけれど、ここまでクリアで繊細な音の表現ができるとなると、単なるサラウンドを体験するためのものではなく、音楽に没頭するためのマルチチャンネルであると認識が変わってしまいました。手持ちのマルチチャンネル音源を全部聴き直したくなります。LX-701の音を味わってしまうと、TX-SA805がモッサリした音だったことに気付かされて、もう元に戻ろうという気にはなれません。

パイオニアのLX701はサラウンド・モードがいくつか用意されているし、アプリからいろいろな設定ができたりもするけれど、基本的にはAutoでソース音源の音をそのまま表現することを信条とするマジメな製品という印象で、そこも僕の好みに合っています。

機能面では、現代のAVアンプならネットワーク再生は標準機能のひとつで、Spotifyなどのストリーミング系サービスはもちろん、DLNAでのNASライブラリ再生も当然対応。ネットワーク・プレーヤーとして使う場合、テレビ画面(=リモコン)からの操作性はあまり良くなく、アプリは閲覧性が高くない(要は選択画面が小さくて表示される文字数が少ない)という弱点はあるものの、このアンプさえあればネットワーク再生はまかなえてしまう。再生プレーヤーやアンプの付加機能でネットワーク・プレーヤー機能があることは今や珍しくありませんが、LX-701はギャップレス再生にも対応しているため、プレーヤーとしての機能にも弱点は見当たらない。このアンプ一台(とスピーカー)さえあれば、映画を含めてあらゆる音源を高音質楽しめることを考えると大変コストパフォーマンスが高いオーディオ機器だと言えるんじゃないでしょうか。

注:マルチチャンネルの音楽ファイルは再生できないとの情報あり。また、どういうわけかネルソンス指揮ボストン交響楽団のブラームス交響曲全集、内田光子とベルリン・フィルのベートーヴェン・ピアノ協奏曲全集のハイレゾ音源(FLAC、96KHz/24bit)はすべてトラックの冒頭が切れるという不具合が出ています。

というわけで、AVアンプの世界において12年の進化は結構大きかった、という話でした。

ピアノ・レッスン 第56回


(ピアノレッスンの記事は自分のための備忘録を主目的としています)

少々間が空いて3週間ぶりのレッスン。今日は久しぶり、そして2回めのグランドピアノ部屋で。

チェルニーop.823-No.38を通しで。前回も書いた通り、指の回りが早いわけでもなければ、動きが複雑なわけでもない曲。しかし、どこか乗れない曲でもある。最後の4小節が特に乗れない。それでもなんとか通してみて、一部強弱の指摘があるところ以外はこなして合格をいただく。それにしてもこの曲は乗れなくて、運指の難しさや曲の流れとは違う練習でモチベーションを上げるのが難しかったです・・・。

次の課題曲チェルニーOp.821-No.3の譜読み。3度の重音と左手のアクセントがポイントであるところを認識しつつ、前半までの譜読みまで。

リトルピシュナ46番、左手のみの練習。以前と比較するとだいぶ滑らかさは増したものの、まだまだひっかかりがあるのは仕方のないところ。先生曰く、これだけの長さだと途中で手の動きが固くなってしまいがちとのことで、それでも通してある程度弾けていることにお褒めの言葉をいただく。あとは徐々に音階が上に上がってくることで体の入れ方や手首の動かし方は柔軟に変えても良いとのアドバイス。

リトルピシュナ第41番右手のみの練習、2小節目まで。ハ長調の白鍵だけで、ドレミファソラシドレミファソラシドと2オクターブ上がり、下がってゆくだけ。指の返しが2通りあって、そこをスムーズにこなせればそれほど難しくない。もちろん、とても速く弾くと難易度は上がってある速度以上だとついていけないけれど、そこそこのスピードでも白鍵だけならこなせる。内心、やや得意げになっているところで先生から「では、弱めに弾いてみましょう」と言われ試してみると、あれあれ? 指がうまく回らない。譜面上はフォルテ指示なので、最初の弾き方でできれば問題ないのですが、あくまでも練習でもあることから、先生からの弱め指示。弱めに弾くことで音が転がるような感じに弾けるかという練習になるとのこと。同じ速度で指を回しても、強さが変わることで指の回り方がまったく変わってしまうことに自分でも驚いてしまいました。今後、この右手の練習を進めて行くにあたって、譜面通りのフォルテの指示と弱めで転がすように弾く練習をしていきましょう、とのこと。

あと、今回はこれまで練習してきた曲でうまく弾けないところの悩み相談に。ラ・ラ・ランド「ミアとセバスチャンのテーマ」で後半の大きなポジション移動を伴う速いところで音がうまくつならないところについては、右手と左手の指使いを変えてみることを提案してもらい、その練習を。かなり長い間練習してきた指使いを変えるのは結構難儀で、また新しい指使いで練習を積むことが次のステップ。

「ワルツ・フォー・デビー」は3つの和音で上昇して行くパートが2つあり、ペダルの踏み方が良くなくて音が途切れ気味になってしまう。ペダルの足を上げるときに、グイっと上げきってしまうのではなく、緩やかに、そして完全に上げてしまわない範囲で次に踏む動作をすると問題解消するとのことで、実践、これまでにないくらい綺麗に音がつながるようになりました。とはいえ、何度か弾いてみてたまたま一度できただけなので、その精度を上げる必要があります。

今回のレッスンまでの教訓
●フォルテで指が回せるフレーズでも、弱く弾くときは転がすように、異なる感覚が必要。
●うまく指を運べない場合は左右の手の分担、指使いを変えてみるのも良し。
●ペダルはオン、オフだけではなく中間の感覚をうまく使うべし。

年齢による落ち着き志向のせい? - ハワイの居心地の良さにハマる

Hawai201907


42年間独身だった僕は、趣味と言えるほどではないにしても、多少の海外旅行経験はある。旅行慣れしておらず、英語がまったくできなかった(今でも片言の会話レベルだけど)若い時は、単純な観光目的で、しかも現地に友達が仕事で滞在していたり、住んでいたりしたときに宿泊費がタダだからという理由でその地を訪れるという、気軽なものでした。

ただ、もともと異国文化への好奇心は旺盛で、思わぬことを体験できる海外旅行は、行けば面白く、のんびり過ごすよりも刺激があった方が楽しいと感じるタイプということもあって、行き先は都市ばかり。独り旅だと思い付きで行くところを決められるし、思い付きで楽しめるアクティビティがあるところとなるとやはり都会の方が楽しめるわけです。

オーストラリア人の英会話の先生に、「競馬が好きなら一度行ってみたら」と言われた行ってみたのがメルボルンカップ。(記憶が確かなら)スポーツキャスターの青島健太さんがプロ野球選手を引退したあとに、オーストラリアの田舎町で小学校の教師をしていたときがあって、メルボルンカップ当日(11月の第1火曜日と決まっている)に生徒の半分が休んでいたことに驚いた、という記事を読んだことがあったし、The Race That Stops A Nationなんて言われると競馬ファンとして行かないわけにはいかない。行ってみると、街中には前年にワン・ツーを決めた日本のデルタブルースとポップロックがドンと写ったポスターが至るところに貼られ、レース前日には街の中央の通りで出走馬関係者(調教師、騎手など)がパレードをするなど、まさに街全体がお祭りムード。当日はヴィクトリア州は祝日(有馬記念の日に千葉県が祝日になるようなものか)になっていて、レース後に街に戻ってみたら多くのレストランが閉まっていて困ったことも、今となっては良い思い出として記憶に刻まれているのです。

その後もロンシャン競馬場やベルモントパーク競馬場などに行ったりもしました。自分が好きなこと、好きなものを現地で体験するという目的があると旅行は俄然楽しくなる。好きなこと、ということで言うとジャズを聴くようになってからのある日、ボストンに出張に行った帰りにニューヨークに寄って、毎晩ジャズ・クラブをハシゴしたこともありました。日本のジャズ・クラブとはまた違う雰囲気と、日本では無名でも実力あるミュージシャンを毎晩のように楽しむなんてマンハッタンに行かないと味わえない。クラシックにハマってからは、ウィーン・フィルとベルリン・フィルを現地で観るための旅もしました。素晴らしい演奏の数々を毎日のように味わい、音楽が生活に浸透していることを肌で感じることも現地に行ってはじめてわかるものです。

このような、文化的な趣味に浸るための旅行だと、行くところが都会に偏ってしまうのは仕方のないところ。もともと田舎より都会が好きなので、いろいろな音楽、芸術、スポーツ(アメリカに行くと野球観戦が楽しい)がある都会の旅行の方がやはり楽しい。

そんな僕が、海外リゾート地を初めて旅行したのが47歳のときに行ったプーケットで、偶然まとまった休みを取れる状況になって海外のビーチ・リゾートに一度くらいは行ってみようかなと思ったから、というあまり積極的でない動機でした。毎日ビーチサイドで横になって過ごすという、これまでの海外旅行とはまったく違うダラけた過ごし方に「こういうのもたまには悪くないかな」とは思ったものの、次また来ようというよりも、いつか気が向いたらまた来てもいいかな程度のものでした。

2017年に、ハワイに行こうという話がどこからともなく夫婦間で出てきた理由は今となっては思い出せない。単に7回目の結婚記念日をどうやって祝おうか、1度くらいはハワイに行ってもいいかも、というノリだったような気がします。妻は1度、自分の弟の結婚式で行った経験があったので、プーケットよりも気候がいいから久しぶりに行ってもいいかな、という感じだったような気もします。

正直に言うとハワイは、「フフンッ」という感じでした。日本語通じちゃうんでしょ、海外旅行慣れしてない人向けの安楽リゾートでしょ、競馬もジャズもクラシックもないんでしょ、何を楽しみにすればいい?と、これまで行った海外旅行もほとんど不便のない都会ばかりのくせに、偉そうにそんな不遜な態度を取っていたわけです。

で、行ってみたらこれまでに体験したことのない快適さだった。オアフしか見てないし、ほとんどホノルルにいただけだけれどリラックスできて、しかも楽しかった。

まず、なんと言っても気候が素晴らしい。湿気が多くて風がべったりしているアジアの南国と違い、欧州のようにカラカラというほどではないにしても湿度は控えめで風が爽やか、気温がそれなりに高くても快適で気持ち良いことこの上ない。

街に出かければ、観光客の都会的な賑わいと、それでいてのんびりしたムードが漂う。若い頃は英語でコミュニケーションすることも楽しかったけれど、歳を取るとだんだん面倒になって日本語が通じる方が楽だと思う(ところどころ英語でないと通じないところもあるけど)ようになってくるし、ホノルルは治安が良いからスリなどに神経をすり減らすことなくボーっと街を歩けることも、ハワイが快適と思える大きな要因だと思います。

とにかく安楽で快適、リゾートでありながらショッピングやグルメといった都会的な楽しみにも溢れている。こんなに居心地が良いところは、そうはないんじゃないか、ということに今頃気づいたというわけです。日本人のリゾート旅行地として不動の人気がある理由が、50歳を超えてようやくわかるようになってきた。ま、こんなことはハワイに行ったことがある人ならみんな知っていることで、単に食わず嫌いだったというだけのことですが。

で、先月は3回目のホノルル旅行へ。出張も含めて、同じ場所に3回も行くのは初めてのこと。前回は高齢の両親にとって最後の海外旅行になるであろう、親孝行旅行としたために、気を遣うばかりでほとんど楽しめなかったので、今回は自分たちの行きたい所を押さえつつのリラックス旅行にしました。

行きたい場所を事前にグーグルマップでマークしておいて、準備も万端。今回は始めてレンタカーを借りてノースショアまで足を伸ばしてみた。カーナビがなくてもグーグルマップがあればまったく困らないというのは、小旅行をする者になんとも良い時代になったものだと感じる。ラニアケアビーチでウミガメを見て、ハワイポロクラブで海辺を乗馬(すぐに草を食みに行く馬を御すのが大変)して、海のリゾートを満喫。ハレイワに寄ればローカルタウン独特の緩いムードの中、やはり観光客で賑わっていて、美味しいものやローカル色満載の小物やアクセサリーを扱うショップが揃っている。クルマがあれば少し外れにある隠れスポットもありそう。人っ気がほとんどないような静かさを求める人には賑わいすぎているけれど、オアフだけでも落ち着きに浸れるスポットはいくらでもある(らしい)。いろいろ巡っても、1時間少々でホノルルに戻れるコンパクトさも、観光客にとって気持ちが軽くて良い。

ハワイは人気スポット故に、情報にも事欠かない。ブログで旅行記を書いている人が多数いるし、有名ホテルの情報を調べるのはそれほど難しくない(どの部屋だとどんな眺め、とか)。

行ってみようかなと思える場所、お店などがまだまだ沢山あって、更に新しい注目スポットが次々と出てくるから、何度か行ったくらいではたぶん飽きないんじゃないかと思えます。

過去2回は5月に、そして今回は7月に行ったハワイですが、暑さと日差しの強さが結構違っていて、一口に「常夏の島」と言っても時期によって違うことがわかると、他の時期に行ったらまた違う気候が味わえるんじゃないかと関心が膨らみます。冬はさすがに暑くはないみたいですが、日本の気候とハワイの気候を見比べて、どの時期に行くのが一番快適に過ごせるかなんて考えるのも楽しいです。

世界にはまだ行ってみたことがなくて是非行ってみたいところもいくつかありつつ、齢50を過ぎてみるとハワイの居心地の良さに惹かれてしまいます。人と違う趣味や楽しみを多く持っている僕も、ずいぶん平凡になったものです。

ピアノ・レッスン 第55回

(ピアノレッスンの記事は自分のための備忘録を主目的としています)

チェルニーop.823-No.38の後半。前回も書いた通り、指の回りが早いわけでもなければ、動きが複雑なわけでもない曲。ポイントは左右両手で曲のメロディが構成されていてそれをうまく繋げるところ、強弱の付け方を含めてバランス良く、少し粋なムードを出して弾けるかとうか、というところ。したがって、ただ譜面通りに音を出すだけなら難しくない。今回の課題部分もその点はクリア。あとは、強くべったりと弾いているところを、もっと力を抜いて、伸ばさずにという指導をいただく。あとは、最後の4小節の譜読みへ。

リトルピシュナ46番、左手のみの練習。ある程度イイ速度で弾けるとはいえ、ところどころスムーズさに欠ける状態に進歩がないまま、何度か繰り返してみる。手首を固定し、しっかりと音を出そうと指を残しすぎる部分があることが、その結果に結びついていることが先生のコメントからわかってきた。どこで手首を柔らかく開放して、どこで固定して、またどこで捻ってということを意識しないとこれ以上の上達が望めない感じがしています。この曲、譜面通りの音を進めることにこころを砕いて練習してきたんですが、本当のポイントは手首の使い方や指の残し方のポイントを掴むところにあることがようやく実感としてわかってきました。一旦、速度を落として、どの音階のときにどのように手首を使えば良いのか、どのように力を入れずに弾けば良いのか研究する必要がありそう。最後の3小節まで進めて、ようやく全曲通し終える。

先生がリトルピシュナの譜面を眺めて次の練習曲に指定したのが第41番で今度は右手のみの練習。最初の2小節はハ長調の白鍵だけで、ドレミファソラシドレミファソラシドと2オクターブ上がり、下がってゆくだけ。ゆっくる弾くぶんにはまったく難しくないけれど、速度が上がると返しが2度入るところの繋がりがもたつくので、ここを練習するためのパート。

「ワルツ・フォー・デビー」は、通しで弾いて表現のポイントの確認。左手のワルツのリズムを「こんな感じで強調して良いんでしょうか」と弾いてみながら尋ねる。(大方のピアノ教室の先生と同様に)先生はクラシックの方なので、クラシックならワルツの2、3拍目は弱めに弾くけれど、ジャズならそこもしっかり弾いてしまって良いと思う、とのこと。あと、一番むずかしい3音の上昇パートがどうしてもテンポを上げて弾けなくて、そこはもっと躍動感が必要なのに、音使いが複雑故に慎重に指を置く弾き方をしているので、なかなか跳ね上がって行く感じが出ていないことが先生との会話からわかってくる。それ以外に部分は、「音間違えずに良く通して弾けますね」とお褒めの言葉。あとは、この難関部を克服して、表現をもう少し磨き上げることを目指したいところです。

今回のレッスンまでの教訓
●左手返しの練習は、手首の動かし方、指の残し方の習得が真の目的であることを意識すべし。
●ジャズらしい躍動感は、思い切って感情を乗せた方がそれらしく仕上がる。

映画における「共感する」とは?

映画を観たあと、ネット掲示板でいろいろな人のレビューを読むことが良くある。サイドストーリーが書かれていたり、自分で受け止めきれなかったこと補足してくれたりすることもあり、映画の理解が深まるから、というのが1番の理由。あとは、他の人の感想を読むことで、自分以外の別の視点や考え方を知ることができる、というのももうひとつの大きな理由。

映画レビュー掲示板でよく見かける感想が「共感できなかった」というコメント。その文言を補足するならば、「共感できなかったから面白くなかった」「共感できなくて感情移入できなかった」ということを言っているらしい。

ここで少し自分自身の話に転じます。

僕は若い頃から正義感が強く、曲がっていることが嫌いだった。最初の会社を辞めたのは、曲がったことをコソコソ隠れてやっていた上司に正面から反論して「あなたがチームメンバーに謝罪しないのなら私は辞める」、という経緯で辞めたほどの(正義感の観点で)潔癖症だった。正義感が強いことは今でも悪いことだとは思っていない。でも、行き過ぎると組織的な利害に配慮できなくなったり、「自分(の価値観)だけが正しい」という思い込みに陥ったりしやすいものである、ということは今では一応わかっているつもりではある。

一時期、70名のチームの運用責任者を担っていたときがある。お客様からまず要求されるのは業務の品質を高いレベルで維持することで、特にヒューマンエラーによるオペレーションミスはもっとも問題視される。だからヒューマンエラーについてはいろいろ勉強した。ヒューマンエラー対策は、人間とはどういう生き物なのを掘り下げて理解することがまずはスタート地点になる。「ミスをしない人間はいない。怠けたり、周囲に流されて誤った方向に走ったりする特質を人間は持っている」という、不完全な生き物であるという理解から、それを踏まえた上でミスを防ぐ対策をしましょう、というのが根幹的な考え方になる。気が緩んでいたから注意力を上げるという精神論ではミスが減ったりはしない。ヒューマンエラーの勉強をしていると、人間がいかにダメな部分を沢山抱えてた生き物であるかを思い知ることになる。

そうした研究の末に、ヒューマンエラー対策をいろいろ作り上げたあと、今度はチーム全体に落とし込む作業がある。これがまた難物で「どうしてそんな面倒なことをやらないといけないんだよ」という反論が出ることも少なくなかったし、新ルールとして展開したはずなのに、現場の理解がバラバラだったりすることもよくあった。直接声を聞くと、よくもまあそんな自分だけに都合の良い考え方をするものだと驚いたり、呆れたりしたことも一度や二度ではない。

そうした経験をしていると、つくづく痛感させられてしまう。ホント、世の中にはいろいろな人がいる、いろいろな考え方があるということを。また、掘り下げて行くと、なぜそのような考え方に至ったのかという背景もおぼろげながら見えてくる。客観的に見れば悪い行為であっても、背景や人間の弱さによって、そうせざるを得ない状況になってしまう。追い詰められたら、本音では不本意と思っていることでもやってしまうのが人間という弱い生き物だと思えるようになるには、それなりの(苦い)人生経験を積まないとなかなか理解できるようにならない。特に正義感が強い人ほど、そうした理解に至るまでに時間を要するのではないかと思う。

映画レビューで登場人物に「共感できない」と言っている人のほとんどは、自分ならそんな考え方をしない、自分ならそんな行動を取らない、だからこの人物のやっていることは理解できないし、理解できない人物を映画で観ていても面白くない、という意味で書かれているように見える。

僕は30歳になってから映画を良く観るようになった遅れてきた映画ファンで、話題作程度しか観なかった20代や、映画を観るようになりはじめた30代くらいまでは、自分の考え方に共感できるか、できないかという視点で映画を観ていたように思う。でも、今ではそんな幼い視点で映画を観ることはないし、映画ファンで自分が共感できるか否かを視点に映画を観ている人はまずいない。だから、映画掲示板で「共感できない」「感情移入できない」というコメントが多い映画ほど、ニワカ映画評論家が多く観に行く話題作なんだなとわかる(最近だと「天気の子」が最たるもの)。普段ほとんど観ないニワカ映画評論家が、「話題の映画をこき下ろすことで自分の格が上がると」と勘違いして書く批評、その内容が「共感できない」というのはあまりにもお粗末だと言わざるを得ない。

映画を数多く観ていくと、「自分ならこうする」と思えない人がどんどん出てくる。それは脇役に限らず、主役ですらそういう人物が無数に現れる。

例えば、以前記事にも書いたことがある2014年の「ナイトクローラー」。素直さがなく、社交的でない主人公は何かと嫌われている。それでも人並みに承認欲求を持っている。パパラッチという仕事を知り、少しずつ仕事がうまくいくようになる。その仕事で喜ぶ人が現れ、お金も手に入るようになってくることで、徐々にそのパパラッチぶりがエスカレートして、人でなしとも言えるところにまで踏み込んでしまう。このパパラッチに共感できる人はまずいないと思う。だから面白くない、だと自分の価値観の枠にハマるか否かを分別するだけで話が終わってしまう。行くところまで行ってしまった、もはや人でなしとも言える主人公は、決して天罰を受けない。しかし、世の中には人としてろくでなしでも、天罰を受けず、富を謳歌している人なんていくらでもいる。それは、そんなろくでなしを必要とする人がいるから、という社会の縮図を見せつけられている気分になり、まあ、映画(架空の話)だから「酷いやつだな、まったく」と呆れながらも、しっかり人間を描けている映画として楽しめる。

例えば、2005年にカンヌでパルムドールを獲った「ある子供」という映画の主人公は、若くして恋人との間に生まれた赤ん坊の父親となる。決して悪い人間ではないが、とにかく自分のことしか思考が回らず、恋人のことも赤ん坊のことも考えていない。そんな主人公が、ある日その赤ん坊を世話しなくてはならないことになり、いろいろ事件が起きて行く。それをフランス(とベルギー)映画らしく、淡々と描いている。この主人公に共感できる人も恐らくほとんどいないと思う。だから面白くないのか、というかとそんなことはない。部分的な行動は他の人でもやっているようなことだし、「ああ、ダメだよ、そんなことしたら」と思いつつ、人間がいかに自分勝手な部分を持った生き物なのかと我に返ってしまう。

ウディ・アレンの「男と女の観覧車」(2017年)に至っては、出てくる人物すべてに共感できない。ああ、あの人の気持ち、よくわかるという気分にさせる人がまったくいない。自分勝手な人ばかりが、自分勝手なことばかりをしゃべりまくり、自分勝手なことをやってしまう。でも、それぞれの自分勝手な言動の中には、人間誰もが抱く人としての身勝手さがあって、「自分にも部分的にはこういうところがあるよな」と我に返ってしまう(余談ながら、自分勝手を極めたほぼノーメイクで出ているケイト・ウィンスレットが放心する最後のシーンの表情の美しさが秀逸)。

映画というのは、自分がその世界に入り込んで、自分ならどうするというシミュレーションを楽しむ娯楽ではないと思う。いろいろな考えの人がいて、自分なら選択しない人生を選択する登場人物の生き方を疑似体験して、人間の多様性を見て楽しむもの。それは自分の価値観と合う「共感」ではなく、人間という生き物への「共感」であり、多様な人間を描くからこそ映画は面白い娯楽として愛されているのだと僕は思う。