FC2ブログ

Enjoy Life, Enjoy Hobby

趣味の人生を楽しむサラリーマンの日記

ピアノ・レッスン 第34回



諸般の事情により、今回は7週間ぶりのレッスン。

チェルニー Op.777 第24番は、ほぼ終わっていた曲ながら、前半の装飾音符のところをスムーズに弾くのが難しく引き続きの課題として残っていたもの。特に2つ目の5連続になる部分が#シラソラ#シ、指は43234の順でサラッと流れるように運ぶわけですが、黒鍵と白鍵の高さが違うこともあって#シが強めに、ソとの間に入って位置が落ちる格好になるラが弱めになってしまう。ある程度練習をしてもなかなか思うように動かない。ここはもう場数というか、まずは右手だけでスムーズにできるように何度も繰り返して、左手も合わせられるようになってからも更に何度も繰り返し練習した結果、自分としてもイメージの70点くらいの完成度で弾けるようになり、先生も合格認定。ただし、この右手の動きを実現するために、自分的にはどうしても右手首をやや右側に押し出した形(曲げる・傾ける)ほうが弾きやすかったんですが、先生のお手本を見るともちろんまっすぐに手を前に差し出して弾いているので、こんなふうに傾けても良いのか尋ねてみたところ、少しくらいなら大丈夫とのこと。アマチュアの趣味レベルなら多少のごまかしは良いようです。

これでチェルニー Op.777 は全24曲を修了。1年半かかりました。49歳で初めてピアノに取り組むにあたり、先生が用意してくれた練習用の曲集だったわけですが、サブタイトル「5つの音による」「左手のための」が示す通り、右手はポジションを移動させずに5音だけで単音のみ。ポジション移動がないとはいえ、ハ長調、ト長調(ファが黒鍵)、ニ長調(ドとファが黒鍵)のバリエーションがあり、たった5音の中でも様々な指の動かし方を要求するため、初心者にとっては決して簡単ではない。左手は単音から和音までバリエーションに加えてポジション移動もあって、より難しいけれど、心が折れるほどまでは行かない。難しいと感じつつも、乗り越えて行けるレベル感がちょうど良く、初心者用の指の練習にとても良い曲集だなと思います。しかも、曲がチャーミングで、弾いていて楽しいところが良い。これからピアノを始めようという人に強くお勧めできます。

次の練習曲として先生が選んでくれたのは、「チェルニー やさしい20の練習曲」という曲集。1曲目は、ハ長調で黒鍵がなくなって簡単かと思うとまったくそんなことはない。右手は、音階こそドレミファソをひとつずつ上って下ってを繰り返すだけながら、16分音符をメゾフォルテで57個ずっと連ねなくてはならない。左手は2種類の和音だけと易しいはずなのに右手で精一杯で合わせるのが精一杯。後半は右手と左手が入れ替わり、左手で16分音符をメゾフォルテで57個連ねるという苦行。右手は前半同様に2種類の和音だけながら、やはり左手の忙しさに気を取られてしまう。練習する時間は結構あったので、音を取るだけ、指を回すだけならそれなりにできるようになりましたが、ただ単に譜面通りに鍵盤を叩いているだけになってしまっていました。このような曲でもやはり細かい強弱をうまくつけることで曲として綺麗な形になるもので、先生のお手本と自分の雑な音とのギャップに唖然としてしまう。音の強弱をうまく付けるポイントを教えていただいて次回に持越しとなりました。その後、2番の譜読みをしてこの日のチェルニーは修了。ちなみに、指を綺麗に動かすことを目的としている曲なので譜読みは簡単です。この1年半で譜読みのスピードが多少上がったということもありますけど。

月光は、譜読みは終えてほとんど頭に入っているので、曲の表現の領域を教えていただく。ポイントになるところを教えてもらうわけですが、要は音を出していくところと引くところを押さえることが主目的で、譜面で表現されていないポイントを指導していただくのは良いとして、よくよく見ると譜面にしっかりと強弱の指示が書かれているではありませんか。クレッシェンド、デクレッシェンド、p、ppの指示を注意深く守れば結構格好がつくことがわかる。というかちゃんと指示通りやりなさい、ということ。譜面を見なくても音が取れる(覚えた)からと譜面を見ないで弾けるようになったせいで基本中の基本の譜面をしっかり読むという行為を疎かにしてしまっていたのは反省点です。

実は最近、左手に痛みを感じるようになっていました。原因は、主に月光の練習を重ねたせいと思われます。左手はずっと開いた状態で、1番(親指)と5番(小指)は常に鍵盤を押さえっぱなしで、無駄にがんばって力を入れっぱなしであるためと思われます。この第1楽章は僕が通して弾くと8分くらいかかり、途中で引っかかってやりなおしたりしていると10分くらいかかってしまい、ずっと力を入れっぱなしで手を開いて親指を小指を押さえ続けるのは負担が過ぎたようです。もちろん音の変わり目で鍵盤を押さえる最初のところはしっかり打鍵しないと音が出ないわけで、ただし、そのまま力を入れて押さえ続けるのではなく、最初に音を出した後は鍵盤に手を置いたまま、力を抜いてしまって良いとのこと(ペダルを踏んでいるので音は当然持続する)。無駄な力を使わないことも今後の課題になりそうです。

今回のレッスンまでの教訓
●弾きやすさを優先して多少は手首を左右に傾けても良い。
●指の回転と音取りばかりを気にせず、音の強弱にも注意を払うべし。
●鍵盤を押さえ続けるところでも力を抜くところは抜いて良い。(手を痛めないためにも)

「ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ」(ネタバレあり)

ファウンダー201810

昔々、「ファストフードが世界を食いつくす」という本が新刊で発行されていたときに読んだことがある。調べてみたら、2001年の発行なのでもう17年も前の話。この本には数多くのマクドナルドのネガティヴ情報が書かれていて、読んだあと数年間はマクドナルドを食べることはなくなり、ハンバーガーじたいもあまり食べなくなってしまった。それまでファーストフード産業がどのように成り立っていたか考えたことがなかった僕は、利益が最優先される資本主義ビジネスの暗部にうんざりして、あえてハンバーガーなんて食べなくてもいいや、と思うようになっていた。

というわけで、マクドナルド兄弟が経営していた独自のシステムのハンバーガー・ショップを、フランチャイズでビジネスモデル化したレイ・クロックという人物がいたこと、商業主義についていけなくなった兄弟が降りてしまったことも知っていて、「ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ」もそういう話だろうと思っていたら、実際そのような話でした。

だから面白くなかったかというとまったくそんなことはなく、レイ・クロックという人物を描くことを中心に据えた話にしたことで、人間の強さと弱さを見事に表現した、なかなか見応えのある映画に仕上がっていた。

映画の最後にマクドナルド兄弟の弟がレイにこう尋ねる。「マクドナルドのシステム、ノウハウを知ったのに、なぜ自分でビジネスを起こさなかったのか」。これに対して「マクドナルドという名前がイイから。クロックという名前の店で食べたいと思わないだろう?」と嘯く。

名前がいいから、というのは確かにその通りだったかもしれないけれど、それは小さな理由のひとつだったにすぎない。映画前半では、投資家に持ちかけてオープンさせたフランチャイズ店が、メニューやハンバーガーの内容を勝手に変更していることにレイが怒っているシーンが描かれている。注文してすぐに提供されるシステムも味も気に入っていたことはレイが最初に店を訪れた時点で描かれていて、それこそがレイが一番惚れ込んだ理由であることがわかるはず。ではその惚れ込んだものに対するレイの思いはどうなったのか?品質などどうでも良いと思うように変わってしまったのか、品質が重要なのはわかっているけれどビジネス拡張のためには優先順位を下げるのも仕方がないと思っていたのか。はたまた、同じ品質のものでも粉というだけで拒絶反応を起こすマクドナルド兄弟の非合理的な頑固さに愛想を尽かしたのか、などの細かい描写はされていないものの、結局、名前だ良いだけが理由でなく、それらが複雑に入り混じったものであったであろうことがなんとなく想像できる。

事実はどうだったか知らないけれど、この映画でのレイは自分の頭では何ひとつ斬新なアイディアを出していない。店の土地を所有して不動産運用すること、ミルクシェイクを粉末にして冷凍庫の電気代を節約することなど、他人のアイディアを実現化したにすぎない。そもそも、映画の最初のシーンのレイのセールストークが、胡散臭くてまったく買いたいと思わせてくれないからセールスマンとしても一流とは言えない。つまり、口数は多くても大したセールストークができない、斬新なビジネスのアイディアを思いつくわけでもない、つまり飛び抜けた才能の持ち主ではない。あるのは成功のためなら、嘘をついたり人を裏切ったりしてもいいから突き進むという「執念」だけ。執念も行くところまで行ったら、こうなれるという讃歌の側面もあるように見えてくる。

尚、マクドナルド兄弟の感覚と同様に、「そこまでして大儲けしたいと思わない」と感じる人は、僕を含めて多数いるはず。でも見方によればそれは負け犬の遠吠えにすぎない。レイを批判できるのは、人に恥じることのない方法で、レイと同様な成功を得る方法を考えた人だけだと思う。レイが酷い人間だと批判だけしている人は、だからきっと何も成し遂げられないはずだ。

尚、さほど優秀とは思えないセールスマン、人を裏切ってまで自分の利益を得ようとする器の小ささ、しかしそれでも前に突き進む意思の強さと精神力があるという、強い部分と弱い部分が同居したキャラクターを演じるマイケル・キートンが素晴らしい。大物感がありすぎたり、スマートすぎたりしてはいけない、でも単細胞の小物でもなく、押しの強さもある程度必要というバランスのキャラクターをこれほどうまく演じられる人はいないでしょう。間違いなくキートンにとってのベストアクト、今後もこれ以上の映画を残せるかどうかわからないほどの見事な演技でしょう。

マクドナルドは、世界的有名企業であり、何かと標的にされてしまう。「スーパーサイズ・ミー」という映画は、毎日マクドナルドを食べ続け「スーパーサイズはいかがですか?」と訊かれたらスーパーサイズを注文しなくてはならないというルールを課して、最終的には健康を損なうという内容になっているんだけれど、マクドナルドでなくても同じものばかり毎日食べて健康でいられる食品なんてものはない(バランス良い食事が健康に一番良いことくらいみんな知っている)わけで、企画からして悪意しか感じない。

ちなみに、今は普通にマクドナルトを僕は食べる。平均すると月に1回程度、時間がないときに小腹を満たす目的で利用している。「ファストフードが世界を食いつくす」で、あのポテトの匂いは香料で虫も近寄らないとか、低賃金労働者から搾取していることとかを知って酷い企業だとあの当時(34歳くらいのとき)は思ったものだけれど、どんな企業にも闇はあるし、多くの食事には体に良くないものが含まれていて、要は物事をバランスよく見渡すことができるようになると、過剰に摂取しなければ体に悪いなんてことはないと気づき、悪徳企業だという偏った思いもなくなって行く。こういう映画を見て、ただ「もう食べない」という思考停止に陥ることは避けたいもの。

それはともかく、この「ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ」、ビジネスマンとしてどう生きるかをまっとうに、そして丁寧に描いており、映画としての完成度も高い。なかなか良くできた映画です。主役に共感できるかどうかという視点でなく、人間を人間らしく、丁寧に描かれている映画に面白みを感じる人にお勧めです。



サブ・オーディオを刷新した

拙宅は、じっくり吟味して、本気で音質を追い求めて選んだオーディオがリビングに据えてある。まあ、2LDKなので専用ルームなんてのは夢のまた夢、映画鑑賞も含め、リビングがオーディオ・ルームになっている。マンションではあまり大きな音量で鳴らすこともできませんが。

寝るとき以外は妻と一緒にリビングで過ごしているのが通常の生活で、2人揃って普段はあまりテレビを見ないこともあって自由に音楽を聴くことができる。8年前に結婚してからそのような生活パターンだから、気合を入れて選んだオーディオで好きなときに好きなだけ音楽を聴けるという恵まれた生活することができています(妻が自由に聴かせてくれているおかげ)。

なのに、実は寝室にもサブのオーディオ・セットがある。DENON RCD-CX1というSACD/CDプレーヤー
一体式アンプに、ブックシェルフ型スピーカーのベストセラー B&W CM1という組み合わせのコンパクトなシステムで2008年に購入したもの。2010年からはSqueezebox Touchを再生機としていたので、RCD-CX1は実質アンプとしての使用だったんだけれど、このシステムは価格の割にはなかなか良い音で音を鳴らしてくれている。その音の中心であるB&W CM1は、この価格、このサイズでありながら華やかな高音とローエンド域まである程度出る低音(その分能率は低い)、そして奥行きのある音場が魅力的なスピーカーで、ジャズとロックだけでなくクラシックを聴くようになってからもサブ機としては上々の再生能力があった。

このサブ・システムは独身時代、まだ両親と暮らしていたときに、親がテレビを見ていたりすると音楽が聴けないことから自分の寝室用に購入。前述の通り、結婚して妻と2人で暮らすようになってから使う機会が激減したんだけれども、機材に愛着もあって引っ越した今でもそのまま寝室に鎮座していた。引っ越し前は妻がリビングでビデオ通話(仕事)をしているときがたまにあったので、そんなときにまだ使う機会があったものの、引っ越してからは洋室のひとつを仕事部屋として使えるようにしたため、いよいよ使う機会がなくなってしまった。

ならばもう売ってしまえばいいじゃないか、と思うんだけれども、メイン機以外でも何か音が鳴るシステムがないと寂しい(苦笑)。あと、仕事可能な部屋とした洋室は今後自分の自宅勤務でも使う可能性があり、ここに音楽を聴ける環境がないのも寂しい。

というわけで(?)、従来のサブ・オーディオ環境を刷新し、新しい生活に合った新しいサブ・オーディオ環境を導入しようではないかと思ったわけです。仕事用デスクはそれほど広いというわけではなく、ブックシェルフ型のスピーカーでも邪魔になるし、場所を取るスピーカーをデスクに置くことは妻も望んでいない。となると、ある程度スペース効率に優れつつも、そこそこ良い音で鳴らしてくれるシステムが望ましい。更に言うならば、これまで同様にサブ・オーディオ・システムとして寝室でも使いたい。即ち、寝室と仕事部屋で気軽に移動できるものであって欲しい。

そんな要望に一番近いのは、今や星の数ほど製品が溢れているモバイル・スピーカー。とはいえ、サイズ的制約(ポータブル用途前提なので当然小型)により音場が狭く、どんな製品であっても箱庭的になってしまう。また、検討している用途にバッテリー駆動も必要ない。

そうやって条件をいろいろと付けて行くと選択肢はどんどん少なくなって行く。ようやく見つけたのが B&O BeoPlay A6というスタイリッシュなネットワーク再生対応のスピーカー。壁掛け、天吊り可能であればデスク・スペースを取ることもなく、パソコンの奥に設置すると直接音が聴こえなくなるという問題も壁掛けなら回避できる。しかもDLNAに対応しているため、拙宅のNASに蓄えてある音源をそのまま再生できる。A6は既に発売から2年も経過している(既に生産終了しており在庫品で販売終了らしい)にもかかわらず、発売時にはまだ日本でサービスが始まっていなかったSpotifyやGoogle Chromecastにも対応していて、現時点でも仕様が古びていない(B&Oの先進性が現れている)。

尚、旅行のときに持ち歩くモバイル・スピーカーとしては、同じくB&OのBeoPlay A2を愛用している。このスピーカーはモバイル用途としてはなかなかの高音質で音の響きもナチュラル。いや、実は厳密に言うとナチュラルではない。注意深く聴けば実はそれなりに加工された音であることがオーディオに精通している人ならわかる。でも、限られたサイズで、ある程度広い音場感を出しつつ、情報量豊かで、Fレンジもそこそこ欲張って、ひとつひとつの音をしなやかに出すのは無理な話というもので、それら要素をバランスよく満たすためにはそれなりの加工が必要になるのは仕方がないこと。B&Oの製品は「ナチュラルに聴こえるように巧みに加工・演出された音質」であると僕は思っている。加工・演出されているということは、特性が音源に合っていないとショボい音に聴こえる場合があることを意味しているんだけれど、サイズなどの制約のある中で、B&Oの音はなかなか上手く作ってあって、僕はその音質を愛好している。

そんなBeoPlay A6を家電店で視聴して、納得できる音であったので購入と相成りました。BeoPlay A2と同じ傾向の音色を持っていて、まずまず豊かな情報量、低音域の充実、モバイル・スピーカーより広い音場を実現していて、まさに今回望んでいる音質だったから。豊かで自然な響きを要求される金管楽器・木管楽器、艷やかで柔らかい響きを要求される弦楽器の表現は、この価格帯、サイズではなかなかのもの。

ちなみに同価格帯の競合製品としてDYNAUDIO MUSIC 5という製品があり、こちらも店頭で視聴できた。ところが予想外にモバイル・スピーカー特有の箱庭的な鳴り方でちょっとガッカリ。所謂ピュアオーディオ用のスピーカーではクオリティの高いモデルをラインナップしているディナウディオだけれど、この種のスピーカーではまだノウハウが足りていないのかもしれない(あるいはJBLのように同じブランドでもモバイル系はまったく異なるコンセプトにしているのかも?)。

余談ながら、B&OにはBeoPlay A9という上位モデルがあり、こちらも一応試聴してみたところ、これが実に素晴らしい音で一瞬これにしようかと思ったほどでした。サイズ的制約が少ない(言い換えると大きくて重い)ことで音に余裕があり、小型ハイコンポに引けを取らない音質。いや、小型ハイコンポにも部分的には大型のシステム的な音を出そうという演出があることを考えると、むしろA9の方が無理がなくて自然であるように思える。ネットのレビューではコモリ気味という意見もあり、確かに高音の抜けが特別良いわけではない(見通しが良いわけではない)ものの、音のきめ細かさと柔らかみがあって総合的なクオリティは高いと思いました。こういう傾向の音質は聴き疲れしないもので、そういう意味ではBOSEも似た特性があるんですが、B&Oの音作りの方がより自然で音の情報量が多い。尚、個人的な意見ですが、B&OはBOSEの高級版の位置づけと言って良い性格のスピーカーだと思います。BOSEやB&Oの製品は、機器の正面に姿勢良く座って本気で聴くというよりは、BGMとして心地良く聴くためのものという製品コンセプトなので、本気のリスニングを目的とするのでなければA9の音で不足を感じる人は少ないでしょう。

というわけで音質的にはBeoPlay A9が断然気に入ったんですが、今必要としているのは、あまり使用頻度が高くないサブ・システム用、状況に応じて寝室の仕事部屋を移動させるという用途だったのでA9のサイズと重さはちょっと無理があり、価格も倍以上ということでこちらは見送り、当初から第1候補としていたBeoPlay A6を選ぶことになったというわけです。

さて、持ち帰って早速セットアップ。付属のクイックスタート・ガイドは最低限のことしか書かれていない(オンライン・ユーザーガイドもたいしたことは書かれていない)ものの、無線ルーターへの接続は記載通りの操作ですぐに完了。音を出してみると、店頭で聴いたときよりも好印象、カジュアル聴き用途ならこれで十分と納得できる音質。まあ、騒々しい家電店の店頭ではごく大雑なに音の傾向を知るのが精一杯なので当然と言えば当然です(それでも試聴してみないと何もわからない)。

もともと望んだポイントでもありますが、やはりモバイル・スピーカーよりは音場が広いところが良い。オーディオ機器への要求度がもっとも厳しくなるオーケストラの再生では、金管、木管楽器の響きもまずまず、弦の艶も及第点、A9と較べるとすべてにおいて格落ちは否めないものの、サブ用として聴くには納得できるレベル。低音がモバイル・スピーカーより余裕があるのも期待通り。BGM用、カジュアル用途としては総じて満足できるサウンドで気分良く聴けます。とはいえ、やはりフルサイズのオーディオではないのでスケール感はそこそこ、大編成のオーケストラよりは、音数が少ないジャズやロックの方が上手く鳴ってくれるのは間違いないところ。念の為に書いておきますが、リビングにあるオーディオのように本気でHi-Fidelityを求めて開発された製品を基準にすると、較べることが憚れるくらい音場は狭いし、音質も落ちます。そもそも狙っている方向が違うし、価格も全然違うからそれは当たり前のこと。また従来のサブ機(RCD-CX1+CM1)と較べても、解像度と高音の見通しは劣っています。こちらもA6の方が価格が半分以下であることを考えればこれも当然のこと。特にBeoPlay A6はA9同様に高音域が控えめで、シンバルなどの金物系はあまり響かせない音作りになっているので派手な音色が好みの人には向いていないでしょう。もう少し高音が欲しい場合にはイコライザーで高音を上乗せすれば、シンバル系の抜けが良くなるものの、音の見通しの良さはそれほど変わりません。例えばソニー製品のようなクッキリ、ハッキリ系の音ではなく、あくまでも柔らかく響かせる音作りです。尚、こうした音質傾向のせいか、Wi-Fiでの再生(DLNA、AirPlay)とBluetooth接続での音質差は極小で、恐らくほとんどの人がブラインドで聴き分けるのは難しいでしょう。

そのまんまの名前である「Bang & Olfsen」というアプリで操作することで、BassとTrebleの調整、ラウドネスON/OFF(これも小音量でのBGM用途を想定している証)、ボリュームの調整が可能。設置場所によって「Free(前後左右に壁がない場所)」「Wall」「Corner」の音設定は本体下部のスイッチで切り替える。このセッティングの違いは想定通り、Freeでは低音域全体が強調され、Cornerでは控えめになる設定で、音場感などスピーカーの基本特性が変わるような極端な違いをもたらす設定にはなっていない。このネーミングの指定に合わせなくても好みで選べば良いと思います。尚、このアプリでDLNAから音源再生が可能ではあるものの、曲の検索性はいまひとつ。「ジャンル」から全アルバムを表示できるのは僕にとって必須項目でこれができるのは嬉しいんだけれど、リストされるアルバム一覧にアーティスト名が併記されないため、例えば Beethoven: Symphony #5 が20以上並んで出てきてもどれがどの演奏家であるかわからないところは残念。あと、アルバム一覧でアートワークが表示されないため、ジャケットから直感的に目的のアルバムを選べないところも改善してほしいポイント。ちなみに、拙宅のネットワークプレーヤー YAMAHA WXC-50をレンダラーとして認識してくれるLUMINアプリでA6は認識してくれませんでした。

BeoPlay A6は本体上部をタップやスワイプすることで、曲の再生/一時停止、音量調整できるスタイリッシュさがウリのひとつになっていて確かに操作している様は見た目にも「おっ」と思わせるものがある。一方で、本体からひとたび離れると(普通のリスニングではそうなるはず)何かしらのリモート・コントロールが当然必要になり、DLNA再生の場合は純正アプリからということになる。ところが、iPad(もちろんiPhoneも)ロック画面に簡易操作画面は出てこないし、iPad本体のボタンで音量を変更することができない。DLNA再生はレンダラー操作になる(iPadじたいが音源ファイルを再生しているわけではない)ため、これは仕方のないこと。しかし、アプリを開いたときでもボタンで音量調整できず、再生/一時停止を含め、音楽再生画面を呼び出さないと操作できない。これはかなり不便。しかもこのアプリ、開いてからA6へのネットワーク接続をし直すため、操作できるようになるまで5秒くらい待たなくてはならないという特性もある。リモート・コントロールを前提とするなら音楽再生アプリを使ってAirPlayかBluetooth(それぞれiPadのボタンで音量調整可能)を選んだ方がずっと便利。純正アプリは、曲の検索性と合わせ、DLNA環境での操作性は今ひとつです。DLNA再生だとギャップレス再生もできないので、iPengでAirPlayでの再生がメインになりそう。

ちなみに、BeoPlay A6には物理スイッチがどこにも見当たらない。スイッチとケーブル差込口類は本体中央底辺に集約されていて、蓋で閉じられているので、これらのスイッチは通常の利用では触れないことを前提とした設計ということになる。3.5ミリの入力プラグもこの中にあり、有線での外部入力に使うことはできるけれど、カバーを外さないとアクセスできないということは、それがメインの使い方ではないという製品からのメッセージということ。電源スイッチもこの中にあるため、電源オン/オフも通常はしない使い方を想定しているようです。一応タッチ操作、またはアプリでスタンバイにはできるものの、基本的には電源入れっぱなし、聴きたいときにすぐに聴ける状態で使う(電源コードを差し込んでから聴ける状態になるまで1分かかる)ものという、いかにも外国製品的らしい割り切りがなされています。

尚、無線の接続性については、iPhoneなどではWi-Fiが途切れてしまうところ(拙宅は無線LAN親機が部屋の端にあるので反対の部屋の端までは届かない)、無線ステイタスがPoorの状態でも粘ってDLNA再生を続けてくれています。データ転送量が多いと思われるハイレゾ音源でも途切れないので、無線の接続性は良好と言って良いでしょう(でWi-Fiが切れてしまうとiPadなどで操作できませんが)。

旧来スタイルのオーディオがミニマル・デザインの無線オーディオに変わると部屋がこうなる、の図↓

A6-201810-1
A6-201810-2

NAS音源を再生するためのプレーヤーとして使っていたSqueezeBox Touchは撤去して、こちらはメインオーディオ故障時のバックアップ機として保存。STAXヘッドフォンとアンプがなければもっとスッキリするけれど、これは愛用機なので手放すつもりはありません。余談ながらNAS音源をSTAXで聴くために昔使っていたAirMac Expressを復活させました。

仕事部屋で聴くときは、とりあえずこんな感じで吊り下げる感じにしてみた。手元にあったS字フックとホームセンターで用意した金具と紐であつらえたもので見た目が悪いんだけど、聴かないときには全部外してしまうからまあこれでいいか、という感じです。

A6-201810-3

というわけで、用途を考え、オーディオ的パフォーマンスよりもデザインと機動性、機能性を優先したオーディオ製品選びというのもあっていいんじゃないか、という話でした。もともとミニ・コンポの音質は本格的なオーディオ・システムにはやはり敵わないので、サブ・オーディオと割り切ってスタイル優先の製品選びというのもアリだと思います。

ラトル指揮 ロンドン交響楽団 2018年日本公演

ラトルLSO201809

2018年9月24日
サントリーホール
指揮:サイモン・ラトル
演奏:ロンドン交響楽団
【演目】
バーンスタイン:交響曲第2番「不安の時代」
(ピアノ:クリスチャン・ツィメルマン)
ドヴォルザーク:スラヴ舞曲集 op.72
ヤナーチェク:シンフォニエッタ

僕がクラシックのCDを初めて購入したのは2012年の11月こと。

その2年前に結婚した妻は、独身時代は国内オーケストラの定期会員だったことがある(ライトな)クラシック愛好家で、ジャズとクラシックはもう十分聴いた、他の音楽にチャレンジしてもいいかな、と思っていた僕が妻と暮らすようになってクラシックに関心を向けるのは自然の流れだったかもしれません。

ハマりはじめるととことんハマる性格なだけに毎日の通勤はほぼクラシック、オーケストラ音楽オンリーになり、家で聴く音楽もクラシックばかり。また、NHKでは有名指揮者、オーケストラの放送が定期的にあり、CD以外でも聴ける機会が多くあるところがハマり具合を加速しました。

そのNHKの放送は、超有名どころのものが多く、最近はそこに物足りなさを覚えるようになってきたんだけれども、聴き始めた当初はすべてが新鮮な体験で、中でも目にする機会が多かったのがサイモン・ラトルとベルリン・フィル。

ちなみに、最初に購入したCDというのはラトル指揮ウィーン・フィルのベートーヴェン交響曲全集で、選んだ理由は有名指揮者と有名オーケストラだから間違いないだろうと思ったから。クラシックのファンならご存知の通り、この全集はラトルが当時流行りのピリオド奏法を積極的に採り入れて伝統のウィーン・フィルに演奏させたものであるため、今となっては個性的、悪く言うと色物扱いされているもの。僕のクラシック体験は、幼少時代に父が聴いていたものがベースになっていて、つまり70~80年代の録音が中心だったせいか、このラトル&ウィーンフィルの演奏は違和感があってあまり好きになれず、ラトルという指揮者にそれほど良い印象を抱いたわけではありませんでした。

それでも、テレビで何度も見たりしているうちに慣れるというか洗脳されるというか、徐々にラトルの音楽に馴染み始めるようになっていったようです(巨人戦ばかりテレビ中継している地方で巨人ファンになる人が多いのと同じようなものか)。ビジュアル的には、楽しそうに、情熱的に指揮をする人の方が好きなので、その点でラトルへの印象が良かったということもあります(だからビジュアル的にはカラヤンはあまり好きじゃない)。

一方、クラシックにのめり込む前にオーケストラの生演奏体験は実は済ませていて、2010年に新婚旅行でロンドンに行ったとき、初めてオーケストラのコンサートに行きました。そのときに観た楽団がロンドン交響楽団(指揮はゲルギエフ)。もちろんそのときに演奏の良し悪しなどわかるはずもなく、それでも初めて聴く生のオーケストラの音には感激したものでした。

そんなわけでサイモン・ラトルもロンドン交響楽団も、短いクラシック歴の僕にとって縁のある演奏家なのです。

日本のクラシック・オタクはドイツ、ウィーンに関心が偏っていて、英国のオーケストラを話題にすることは少ない。しかし、英国のオーケストラに実力について演奏家達の評価は高く、視野の広いクラシック・ファンからの評価も高いため、今回のラトル、ロンドン交響楽団のコンサートを楽しみにしていました。この9月24日のプログラムも、あまり海外オーケストラで聴けない曲ばかりで、その点も楽しみにしてサントリーホールへ。客席は8割以上埋まっていて、プログラム内容を考えると健闘と言って良いと思います。

まずは、今年生誕100年を迎えたバーンスタインの交響曲第2番から。現代音楽の響きを備え、ジャズのテイストも採り入れたこの曲を好きかと訊かれると、正直なところそれほどでもない。それでも大編成でダイナミックな曲は生で聴くとやはりスケール感が倍増。繊細な弱音をかくも美しく響かせる(ピアノを習ってから弱音とその表現の難しさがわかるようになった)ツィメルマンのピアノ、そして雄弁なオケの響きが一級品の音楽となって、良いものを聴いた感に満たされる。オケのレベルは世界でもトップクラスで、僕がオケの実力の判断基準のひとつとしている、弱音での音の美しさも申し分ない。

次は、より気軽に聴けるドヴォルザークのスラヴ舞曲。躍動感とスラヴ臭漂う哀愁の表現はラトルの得意とするところで、この曲でオケな見事の歌いっぷりがより明確になる。楽しさと美しさを備えたこの曲は、単曲でアンコールに演奏されることはよくあるけれど、このレベルのオケで通して聴ける機会は少なく、躍動と美を交互に配した構成の良さを再認識。ロンドン交響楽団は弦に品位ある艶を備えた美しさがあり、金管木管も技量的に優れていてオケ全体がよく歌う。更にオケ全体のバランスが良いところが素晴らしい。初めて生で観たあのオーケストラがこんなに素晴らしいオーケストラだったとは。今年観たコンサートではクリーヴランド管弦楽団も素晴らしかったけれど、ロンドン交響楽団も素晴らしいオケです。

3曲目のシンフォニエッタはP席の最後列、パイプオルガンの前に9人とトランペット奏者がズラリと並ぶ。冒頭のトランペットによるファンファーレは、それなりの人数によるものだろうとは思っていたものの、9人も居て、しかもこの高い位置から放出されるファンファーレの響きと音圧は相当なもの。CD(オーディオ)ではどうやっても再現できない音響とはまさにこのこと。オーケストラが放出する生のありのままのサウンドをCDに収めることが無理であることはほぼすべての人が知っていることで、やはり生演奏は次元が違うという当たり前の感想は誰もが抱くものです。でも、この日のシンフォニエッタほどCDで聴く音とのギャップを大きく感じた曲はこれまでにない。正直なところCDで聴いてもそれほど良い曲だと思ったことがなかったんだけれども、この日の演奏で、この曲が内包していた魅力を教えてもらえたような気がします。


2018年9月25日
サントリーホール
指揮:サイモン・ラトル
演奏:ロンドン交響楽団
【演目】
ヘレン・グライム:織り成された空間(日本初演)
マーラー:交響曲第9番

というわけで、やや迷った末に当日券で翌日もサントリーホールへ。

1曲目は典型的な現代音楽で、聴いて楽しいものではないんだけれど、20分くらいとあって前菜として楽しめました。あと、この種の音楽は生でホールの響きを感じながら聴かないと曲の面白さがわからないんじゃないかと思います。このような曲を日本で採り上げる意欲的なプログラムは、他のオケにも見習ってほしいところです(有名曲ばかりを要求する主催者と観客にも)。

マーラーの9番は、2年前にバイエルン放送交響楽団で凄いものを聴いてしまったのでしばらく生で聴かなくてもいいと思っていた曲。それでも、前日の演奏を聴いてこれならきっと素晴らしい演奏になるんじゃないかと思ったのと、ラトル&ベルリン・フィルのCDが素晴らしかったこともあって、期待を以て当日券を買い求めた次第です。

この曲は表現の振幅が大きく、大げさにやりすぎると低俗に、抑えすぎると物足りない、ということになりかねないので、そのバランスをどう取るかか指揮者の腕の見せどころ。ラトルは重くなりすぎることなく、しかもスケールの大きい表現をオケから引き出す。この日もオケのパフォーマンスは前日と全く同等(2日続けて同じオケを聴くとデキに差があることも少なくない)の素晴らしさ。

ただし強いて言うならば、バイエルン放送交響楽団に比べると、(前日も感じたところではあるんだけれど)木管がやや弱い。決してダメなわけではく、十分に高い水準に達している。でも、ベルリン・フィルやコンセルトヘボウのような超一流オケと比べると少し弱い(というか木管の一級品は超一流オケでしか聴けない)。繰り返しになりますが、あくまでも欲を言えばの話、頂点の世界で比較した場合の話であって不満というわけではありません。

しかし、この日は「事故」が少々ありまして。

RB席の一番RC寄り左端がこの日の席。一列上がるごとに横に席がズレて行くレイアウト故に目の前は誰もいなくて、前列はひとつ右寄りの右斜め前が左端の席。ステージ右寄りに視線を落とすとその右前の席シートバック上あたりになります。マーラーの9番が始まるとこの席の人が前かがみの姿勢を取り出してステージ右寄りを視界を遮るように。これがオケを見るためにそうしているんだったらまだ理解できるんですが、しょっちゅう1階客席を観察するかのように見ていて、そのために前かがみになって眼の前にその人の横顔がドンっと鎮座するわけです。しかも落ち着きがなく、頭の位置が頻繁に動いたり左側の手すりにつかまったりするものだから演奏に集中できない。堪りかねて第1楽章終了時に肩を叩いて「前かがみにならないでください」と伝えると、外国の方で、面食らいながら「Don't move front side」と咄嗟に言うのが精一杯。それでも伝わり、第2楽章からは快適に見れるようになりました。ちなみにこの方、コンサート慣れしているようには見えず、その後も演奏中にプログラムを読み始めるなど終始落ち着きがありませんでした。

第4楽章はご存知の通り、最後は静かに、消え入るように進みます。ここで誰かが盛大にモノを落とす音が。まあ、これは当然意図してのものではなくアクシデントだからある意味仕方ないことと言えるかもしれません。最後の音が消え、ラトルが手を降ろして頭を垂れたまま直立の姿勢となったとき、1階後方で1人、大きな音で拍手をはじめました。観客の多くは静寂の余韻を噛み締めている最中、唐突な拍手に追随する人はおらず、その人も手を叩くのをやめて再度の静寂、ラトルが姿勢を崩したときに会場全体から拍手が沸き起こりました。

はっきり言って台無しです。フライングの拍手を一番してはいけない曲でやってくれました。3年前のミュンヘン・フィルのブルックナー4番で音がまだ残っていて指揮者が手を降ろす前にブラボーをやられたときも気分が悪かったんですが、今回は曲が曲なだけに、音が消えたから、指揮者が腕を降ろしたから、という一般的な目安だけで勝手なことをしてほしくなかった。

それにしても、フライングで拍手、ブラボーをする人の精神構造ってどうなっているんでしょうか?何のためにそんなことをするのかサッパリわかりません。他の人に先駆けて拍手やブラボーの声援を送ることで何を得られるんでしょうか?拍手は自己満足のためにするのではなく演奏者に対してするものであるという当たり前のことまで言わないとわからないんでしょうか?腹立ちが収まりません。

せっかくの良い演奏も、こうした「事故」があると本当に気分が悪い。演奏者に対しても失礼極まりない。本当になんとかならないもんですかね。

安室奈美恵引退フィーバーで思い出した2つのこと

安室201809

【1】騒いでいるのは本当のファンではない

僕はQUEENのファンである。世の中にある音楽はクイーンとそれ以外に大別できるといっても良いくらいクイーンのことをこよなく愛している。初めて聴いたときからフィーリングが合ったし、聴けば聴くほど好きになり、音楽に詳しくなってから聴いても新しい発見がある奥の深さを持っており、その勿体つけた音楽は好みが分かれるとはいえ、ポップミュージックとしてとても完成度が高いところが最大の魅力。

そんなQUEENの人気は日本から火がついたというのは有名な話で、しかし、僕がQUEENを知ったのは82年。髭面短髪になったフレディの外見的変貌と、「フラッシュ・ゴードン」の商業的失敗、中心的存在だった10代女性ファンの成長などが重なって、日本では人気が下降しはじめた時期だった。更に、ニューウェーブから派生して、よりキャッチーでフレンドリーで大衆的なグループとして、ワム!(Wham!)、カルチャー・クラブ(Culture Club)、デュラン・デュラン(Duran Duran)などが次々に台頭しはじめ、日本でも若いファンが急増しはじめていた時期でもあった。

高校に入った頃(83年)には、周囲は完全にそれら新しいグループの話題一色のムードで、QUEENは完全にオールドファッション扱いになっていた。僕がいくら力説しても、時代遅れの音楽なんて聴く気がしない、というのがほとんどすべての人の反応で、大げさにではなく本当にそのくらい極端に時代遅れ扱いされていた。86年のある日、オリジナル・アルバムを1枚ずつレコードで買い集めていた時期に、レコード店から家に戻る途中に中学の同級生に偶然遭遇、雑談していると自転車のカゴに入っているレコードに手を伸ばし、「何買ってきたの?」と袋から出てきた「世界に捧ぐ(News Of The World)」(77年発売)を見て「ヘッ、まだこんな古いの聴いてんの」と嘲り笑われたことを昨日のことのように覚えている。

80年代の日本におけるQUEEN人気はそんなものだったので、東芝EMIに移籍してからのQUEENは新譜が出たことさえ話題にならなかった。移籍第一弾の「The Works」のときはまだそこそこプロモーションされてたけれど、「The Miracle」「Innuendo」に至ってはレコード店でプロモーション用ポスターが貼られることもなく、目立つところにCDをディスプレイされることもなく、ひっそりと他のCDと同じ場所のラックに新譜が1枚だけ置かれていた。もちろん話題に上ることはなく、特に「The Miracle」は、(当時は知られていなかったけど)フレディがHIVキャリアことをメンバーが知ってから制作され、バンドとしての一体感を取り戻した完成度の高いアルバムだったにもかかわらず、評価されていなかった、否、評価の俎上に載せる人すらいなかった。

ところが、フレディ・マーキュリーが亡くなり、残された録音から制作された「Made In Heaven」が発売されると、CDショップには特設コーナーが設けられ、新聞でも採り上げられるほどの話題になった。「Made In Heaven」はフレディが世に出してほしいと願って残していた音源を元に残りのメンバーが仕上げたアルバムだっただけに、特別な意味を持つアルバムだったとはいえ、純粋なQUEENのアルバムと捉えるのには無理があり「The Miracle」に及ぶ内容とは言えなかったにもかかわらず、「The Miracle」よりも遥かに売れた。特にここ日本においては何倍も売れたんじゃないだろうか。

と、長い前置きはここまで。

以前の記事で書いた通り、僕は日本の音楽は聴かない(http://buhaina.blog.fc2.com/blog-entry-270.html)。洋楽とJ-POP(歌謡曲)の質の違い、日本人の音楽との距離感と合わせて、パフォーマンスのレベルの低さと、この程度の客(日本人)にはこの程度のものでいいだろうという作り手の志の低さを理由に挙げた。でも安室奈美恵にはそのような思いを抱いたことがない。もちろんショービズ本場のアメリカでも通じる世界一級品のレベルとまでは言わないけれど、プロとして歌も踊りもしっかりしているし、聴衆に質の高い娯楽を提供しようという志があるから。芸能界という日本特有のジメジメした狭い世界で生きるのではなく、表現者であることを第1優先で活動している姿にファンでなくても好印象を抱いていた。

引退宣言をしてから最後のツアーを収めたDVD(ブルーレイ)が記録的な売上であることがニュースで採り上げられる様を見て、前述のQUEENのことを思い出してしまった。100万を超えるその最後のDVDの購入者で、前作のDVDを持っている人はどれだけいるんだろう?タイトルすら言えない人がほとんどなのでは?小室時代を終えた後の曲を歌える人がどれだけいるんだろうか?ずっと追いかけているファンはむしろ小室時代が彼女のキャリアの中では異端と言っているというのに。人気のあった閉店前のラーメン屋に行列したり、販売中止が決まってカールが在庫切れになったのと似たような、本当は好きだったわけでもないのに「ファンである自分」と主張しはじめる身勝手な人が多くてとても嫌な気分になる。

ちなみに、今ではもっとも広く聴かれている洋楽アーティストといっても過言ではないQUEENでも、熱心なファンと思える人に実際には一度も会ったことがない。熱心なファンを目の当たりにしたと思ったのはミュージカル「We Will Rock You」の会場、新宿コマ劇場だけだ。ファンが多いと言われているアーティストでも本当のファンというのはそれほど多いわけではない。僕はビートルズはあまり好きではなくて知識もないけれど、僕よりビートルズのことを知っているな、この人はファンだなと思った人はこれまでに2人しか会ったことがない。

以前、X-JAPANのHIDEが亡くなったときに葬儀に行列するファンがテレビのニュースで報道されていたけれど、あれにも強烈な違和感を感じた。並んでいる行列にカメラを向けると3~4名のグループが目立つ。ある特定のアーティストの熱心なファンというのはそう周囲に多くいるものではない。本当のファンが行列をなしていたのなら、数名のグループなど存在しないだろう。

【2】小室哲哉の重い罪

先に書いた通り、安室奈美恵のキャリアの中で小室哲哉プロデュースの時代はむしろ異端の時期だった。にもかかわらず、ニュースなどで流れるのは小室時代の曲ばかり。まあ、でもそれは仕方がない。みんなが知っている曲はすべて小室時代の曲なのだから。

一世を風靡した小室哲哉は、才能のある音楽家だったと僕は思っている。しかし、今では懐メロとして聴く人はいても小室哲哉の音楽が好きで今でも聴きたいと思っている人はほとんどいない。ゼロとは言わないけれど、売れた枚数と今でも愛好しているという人の比率統計が取れたら、他を寄せ付けぬ記録的な低率になるんじゃないだろうか。つまり音楽家としては完全に終わっている。理由は簡単、音楽を舐めて、音楽を金儲けの道具にしたから。

まだそれほど有名でなかったときに小室哲哉が作っていた曲は歌のメロディ、骨格がしっかりしている。わかりやすく言うと、最初から最後まで歌を口ずさむことができる。渡辺美里の"My Revolution"を思い出しみれば、最初から最後まで通して鼻歌で歌える曲であることがわかるはずだ。

小室哲哉がキース・エマーソンから影響を受けたことを割と知られるところで、学生時代には論文(雑誌の投稿だったかな?)まで書いていたという。他にも様々な洋楽アーティストの音楽を吸収して、TMネットワークで才能を開花させた。キーボード(あるいはピアノ)奏者というのは譜面や音楽理論に強く、感覚だけでなく理論的もしっかりしていて、さらに才能を持っていたからこそ成功した。

しかし、「小室哲哉プロデュース」ブランドになってからの楽曲は、曲の構造が非常に貧弱である。ある程度印象に残るメロディが少しできてしまえば、編曲能力があり、打ち込みで自分だけで制作できるから、曲として形をつくることができてしまう。もちろんそれも才能があるからできることとはいえ、その「ある程度印象に残るメロディ」の部分以外は、おざなりのメロディがチョロっとあるだけでほとんど頭に残らない。わずかな素材を元に引き伸ばして曲の体裁を整えるだけなので中身が薄くなる。

「小室哲哉プロデュース」は別にプロデューサーとして優れているのではなく、短い歌メロを元に編曲で誤魔化して曲に仕上げ、伴奏も打ち込みで作るという成り立ちからそうなっただけのもので、歌メロの断片を元にしているだけだからそもそも他人に委ねることができない。打ち込みというテクノロジーができて、イージーに曲を作ることができてしまうようになったから、他の人が介在しない、他人の手間をかけない、省力化された音楽、それを「小室哲哉プロデュース」と呼んでいたにすぎない。少なくとも彼は歌をプロデュースしていたとは思えず、たとえば「~が」と歌う場合に、綺麗に発音するために「が」を「んが」のように濁らせるのが基本のところ、はっきり「があ」と汚く発音させていてそのまま放置していたりする(意図して狙った効果も感じられない)。

そんな状況でも、周囲がちやほやして次々に作曲を依頼、それがまた売れて、無名時代からは想像できない大金がバンバン入ってくる。似たような歌メロやコード進行のものが増え、歌メロは更に簡素化されていった。そもそもポップミュージックの作曲というのは12音という限られた音階を組み合わせて作るだけのシンプルなもので、技法や構成に凝って、必ずしも時間を積み上げれば良い曲ができるというものではない。一方で、誰でも作れるシンプルなものだからこそ、閃きや創造力や独自の感性が要求されるわけで、編曲はもちろん、得意とも思えない作詞までして、演奏家として活動してテレビに出演して芸能活動までして、作曲以外の仕事を大量こなさなくてはならない忙しい状況であんなにハイペースで質の高い楽曲を次々に作り続けることができる作曲家がいるはずがなく、商業主義に流された小室哲哉は消費されるだけの中身の薄い音楽しか作らなくなった。彼が不幸なのは、ダウンタウンの浜ちゃんの歌や沖縄サミットのような曲に「手抜きが酷いですね。もう一度書き直してください」と言う人が誰もいなかったことだろう。

歌詞になると手抜きは更に凄まじく "Feel Like Dance" という文法間違い(正しくはDancing)に始まり、"Can You Celebrate?" という、ネイティヴが聞いたら「あなたはドンチャン騒ぎできますか?」という意味の迷タイトル曲を日本歌謡曲史に永久に残すことになった(一時期は結婚披露宴の定番曲だったそうで)。この曲がまた、安室奈美恵引退フィーバーでヘヴィローテーションされてしまっている。

要するに、この程度の曲をチャッチャと作ればいいんでしょ、どうせ聴衆の程度が低いから手抜きしてもバレずに売れちゃうし、という姿勢で彼は音楽を金儲けの道具として利用した。小室人気絶頂期に僕はそう思っていたので僕は小室哲哉のことを心の底から軽蔑し、「先週Globeのコンサート言ったけど最高だった」という友人に対して「手抜き音楽ばかり作っている小室はすぐに消える。10年後には誰も聴いてない」と言い放っていた(嫌な奴だねえ、まったく。でも事実そうなったよ)。ちなみに小室人気絶頂の当時、トーク番組に出ていた松山千春が小室哲哉に触れ、客に向かって「お前ら可哀想だよ。10年後に風呂場で湯船に浸かって鼻歌で歌える曲がないんだから」と言っていたのは僕とまったく同じ感覚から来たものだったんだと思う。

でも実際、懐メロとしてカラオケで歌われたり、懐メロとして聴かれることはあっても、今でもあの「小室哲哉プロデュース」の音楽を求めて聴いている人がどれだけいるというんだろうか。手抜きで作られた引き伸ばし加工品音楽に長く親しまれる奥深さがあるはずがない。そうやって手抜きが板についてしまったから、音楽家としてその程度のものに小室哲哉は成り下がってしまた。今、新たに小室の音楽が聴きたいという人がどれだけいるというんだろう?安室奈美恵が小室哲哉から離れたのは、自分の方向性を持って物事を客観的に見て、ブームが長続きしないことを見越していたからのように思える。もちろんこれは勝手な想像だけど。

確かに音楽は売れて、広く知られてナンボという要素はある。でも金儲けの道具として作られた音楽が長く愛され続けることはない。セールスの記録が残り、その功績が消えることはないであろう小室哲哉。今でもカラオケの印税だけで年に数千万以上は入ってくるであろう成功を手に入れたかもしれないけれど、本当に優れた音楽は何世代にもわたって聴き続けられて行くもので、今の若い人に小室哲哉プロデュースの曲に聴かれているかどうかは調べるまでもなく皆が知っている。

才能を無駄遣いして、音楽家として恥ずかしい生き方を選び、音楽を金儲けの道具にして消耗品を大量生産し、この程度の客にはこの程度の音楽でいいだろうという悪しき文化を定着させた小室哲哉の罪は重い。