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趣味の人生を楽しむサラリーマンの日記

ピアノ・レッスン 第37回

(ピアノレッスンの記事は自分のための備忘録を主目的としています)

「取り組み始めてから6週間経過している「チェルニー やさしい20の練習曲」Op.262-No.1、No.2。なのに、右手も左手もまだスムーズに指が回らず、つっかえたり転んだり。」と書いた前回から2週間、今もってうまく指が回らず、つっかえたり転んだりが続いています。

ちなみに右手がメロディで左手が和音、後半は左右入れ替わるこの曲、片手のメロディだけだと結構スムーズに指が回る。もう片方の手で、リズムを合わせて同時に弾くとこれが乱れてしまう。レッスンで先生といろいろやりとりしているうちに、和音側の手を移動するときに横に水平に移動させてなぞっていることで、うまくリズムが取れず、そこに意識が行ってしまっているために、メロディ側の手の動きも悪くなっていることがわかってきました。

和音側の手を、和音を引いて次の和音に移動するときに上方向に緩やかの持ち上げて、手が中に舞うように柔らかくアクションすることで音の硬さが取れ、リズム感も取りやすくなるという指導をいただいて試してみると、すぐにスムーズに急変するとまではいかないものの、ガチガチに鍵盤を押さえることだけに注力していたときと比べると曲として滑らかになるではありませんか。メロディの手の方も、がんばろうとしすぎて強くバンバン鍵盤を叩くやり方になってしまっていて、もう少し弱く、柔らかく弾いてみるようにアドバイスをいただき、その通りやってみると、曲が別物のように上品に、大げさに言うならば格調高く聴こえるような変化が得られます。

ピアニストの映像を見ていると鍵盤から手を上げるときにフワッと上方に持ち上げているシーンをよく見かけますが、まさにアレをやってみたほうが綺麗で滑らかに弾けるようになるということです。ピアニストは何も格好つけてアクションしているわけではなく、ちゃんと意味があってやっていることが身をもってわかりました。

この2週間、とにかく指を回すことを目指して練習してきて、ちっともうまくならずに、それでも同じ思考で続けていたのは間違いで、やはり先生に指導していただくことはとても為になるものだと再認識。

このような(腕を含めた)手の所作は、並行して取り組んでいる Op.262-No.9、No.10も同様に必要で、これからは指を回すことだけでなく強弱や手や腕のアクションまでを含めての練習が必要です。あるべき姿が何かがわからずに練習を繰り返しても得られるものが少ないということを実感しました。

今日も、ほぼこの練習曲だけでレッスン時間を消費してしまい、「月光」は、前回レッスンの最後に簡単に教えてもらったエンディングのペダルの踏み方を再確認。徐々にペダルを上げて行くそのやり方は問題なく、それで良いとのこと。最後の最後の打鍵で、手を離してから少ししてペダルを離すことも教えていただき、その通りにやってみると、音の収まりがとても良くなって自分でも驚きました。曲は始まりと終わりをしっかりさせることでよる上手に聴こえるということも教えていただいて、なるほどと納得。

それでも「月光」は自分なりにある程度上手く弾けるようになり、通して弾いても格好が付いてきたのでこれで一旦修了と言える感じです。

次の課題曲「ワルツ・フォー・デビー」は、練習曲に集中して棚上げしていたので、触りの部分を少し教えていただいて本日のレッスンは修了。

今回のレッスンまでの教訓
●練習曲はどんな弾き方を求められているかを理解した上で練習すること。(繰り返し)
●キレイに指を運ぶためには腕や肘の動かし方もそれなりの方法が必要になる。(繰り返し)
●教訓で得たと思っていたことでも、具体的な方法論がわかっていないと練習しても身に付かない。

続「ボヘミアン・ラプソディ」(ネタバレあり)

ボヘミアン・ラプソディ201812


クイーン・マニアの端くれとして、公開直後に観に行った映画「ボヘミアン・ラプソディ」。Facebookで繋がっている人が続々を感想をUPし、ネットでのレビューは目を疑うほどの高評価。朝の情報番組から報道ステーションまでが採り上げ、新聞にも記事が載るという、過去に見たことのないクイーン・フィーバーに戸惑うばかり。

僕がクイーンを知り、ハマり始めた82年ころからの80年代は、日本では完全に時代遅れ扱いされていて、僕がいくら周囲に力説しても「ああ、クイーン?」というのがほとんどすべての人の反応。いくらクイーンが素晴らしいと言っても賛同する人は皆無、話題はデュラン・デュラン、カルチャー・クラブ、ロック系で言えばヴァン・ヘイレン(ちょうど "Jump" がヒットしていた)、モトリー・クルー、ジャーニー、ナイト・レンジャーなどだった。更に言うと、どういうわけかレッド・ツェッペリンやディープ・パープルは古いと言われずに一目置かれているという状況でもあった。

遡ってクイーンのレコードを買うようになり、注文してあった「News Of The World」を引き取って家に帰る途中に会ったクラスメートが言い放った「まだこんな古いの聴いてんのかよ」の言葉は今でもその場面が思い出せるほどに傷ついたものです。89年の「The Miracle」や91年の「Innuendo」がまったく話題にならなかったこともあって、クイーンなんて誰も聴きたがっていない音楽というトラウマが僕の中でできあがっていたのだと、最近になって気づきました。

だから、今こうしてクイーンの音楽が持て囃されるのは本当に嬉しい。そうか、ようやく世間もクイーンの素晴らしさを認めてくれたか、と喜ばずにはいられない。

一方で、もう一度冷静に考え直してみても映画「ボヘミアン・ラプソディ」が映画としてデキが良いとは思えない。フレディのジェンダー問題、家族との関係、メアリーとの関係などを描くにしても、悲しみや苦悩していたことの描写が浅く、映画として物足りないと言わざるを得ません。ここで言っている描写は、エピソードや説明を加えるとかそういう意味ではありません。脚本、演出、カメラワーク、照明、役者の演技、編集など総合的に作ってそうした描写が初めてできるわけで、フレディとバンドの長期に亘る活動を2時間で収めるとなると、相当優秀な監督がいないと良くできた作品にはならないでしょう。

この映画での家族のシーンはじめ、各エピソードの撮り方は、表面的でそこにいる人物の内面の心情が見えてこない。同じ時間を使っても、優れた映画はその人が何を考えどんな気持ちを抱いているかが手に取るようにわかります。それがわかるからこそ、「ああ、この人はそう考えたのか」「この人は酷い心の持ち主だかけど弱さも抱えているんだな」と理解し、見る人の立場によってその人の捉え方が変わったりするという多面性も描かれて、そこに自分の人生経験を照らし合わせることで物語に深みが出るわけです。クリント・イーストウッド作品やウディ・アレン作品はそうした心情の描写が実に上手い。先日記事にも書いた「スリー・ビルボード」なんてそうした人物、心情の描写が最上級に上手い。人間描写ができているから、(それぞれアクが強いので好みはあるでしょうが)映画ファンは高く評価しているわけです。人間をどう描くかこそが映画にとって一番重要なことだと、映画ファンは言われなくても認識しています。そういう意味で「ボヘミアン・ラプソディ」はハッキリ言って映画としてはB級。最後のライヴ・エイド、続く"Don't Stop Me Now"で涙したあと、頭を冷やして考えてみて出した結論です。

「ボヘミアン・ラプソディ」で高評価となっている最後のライヴ・エイドのシーンは、完全再現を狙っており、そこには何の演出もありません。言ってみれば、単なるモノマネ芸に過ぎない。僕も、大画面、大音量で接するライヴ・エイドには圧倒されました。涙腺が緩みました。モノマネ芸で感動するということは、クイーンの音楽が持つパワーに底力があるからに他なりません。そんなクイーンの底力を世間に知らしめてくれたことは嬉しいんだけれども、モノマネ再現が映画最大のハイライトというのは、映画として優れていると言えるんでしょうか?

また、ライヴ・エイドに向かう設定が、
[1] フレディのソロ活動のせいでバンド内部の不和があった
[2] しばらくバンド活動をしていなかった
[3] フレディがエイズであることを告白しバンドが再度結束した

という状況になっていてライヴ・エイドの感動を底上げをしたことは間違いありません。[1]は実際にどうだったかはともかく、僕が知る限りそのような発言は誰の口からも聞いたことがないし、[2]はライヴ・エイドの2ヶ月前に日本ツアーをしていたことから創作であることがわかるし、[3]はライヴ・エイドの2年後であることが定説になっている(ジム・ハットンの著書などや、その後ライヴ活動を停止したなどの状況から)。

もう一度考え直してみても、クライマックスを盛り上げるための状況設定がすべて創作というのは、いくらなんでもやりすぎなんじゃないかというのが僕の意見です。ネットの掲示板を見ても、これらを事実と信じている人が多く、ネットを見ない人なら真実だと思って疑うことすらしないでしょう。

(以下、「ジャージ・ボーイズ」のネタバレあり)
ちなみに「ジャージー・ボーイズ」では、フランキー・ヴァリが娘を麻薬過剰摂取で亡くし、前を向いて立ち直る曲として "君の瞳に恋してる" が歌われます。歌詞を聴き(字幕を読み)ながら、このときのフランキーの心情を思うと、この明るく能天気とも言える曲が、悲しみを根底に抱えた哀愁漂う曲に聴こえてきて、涙が出てきます。ネット掲示板でも、「あの曲にこんな背景があったとは!」と皆さん驚きを隠せない。ところが、実際に娘が亡くなったのはこの曲が発表されてからずっと後のこと。流した涙は一体なんだったんだろうと、僕は思いました。

(以下、「ソーシャル・ネットワーク」のネタバレあり)
何度も言いますが映画は作り話なので、実話ベースでも創作や改変、盛り、ケレン味があって当然です。「ソーシャル・ネットワーク」にはエリカという女性(有名になる前のルーニー・マーラ)が出てきます。彼女をきっかけに行動して、アイディアを膨らませ、最後のシーンで放心しながら友達申請の返信を待つその女性は架空の人物で創作なわけですが、この映画の本質、描きたい要点(人々のニーズを捉えてアイディアを具現化して行くことで最大のSNSを作り、成功して周囲に翻弄されて、自分勝手な行動で周囲を翻弄するザッカーバーグの人生を描く)には影響がないので、このくらいは文句言う人もいないでしょう。むしろ、エリカの存在でザッカーバーグの子供っぽいキャラクターを描き出して、エンディングはジョークとして笑って見れる演出の絶妙なスパイスになっていて、上手く作ったと賛辞を送りたいほどです。

でも、「ジャージ・ボーイズ」や「ボヘミアン・ラプソディ」は、一番盛り上がる場面で、感動する背景要素を捏造、改変している。もちろん、架空の話、フィクションと観ている人が理解しているのであれば問題ありません。ネット情報によるとブライアン・メイは「伝記ではなくアート」と言っているそうですが、実際に存在したグループ、人物を描いた映画だと認識している以上、基本的なストーリー、もっとも重要なエピソードが事実でないと思う人などいるわけがないから、観た人にはそれが事実として刷り込まれてしまう。映画はウソ、作り話とわかっていても超えてはいけない一線というのはあるんじゃないでしょうか。

そもそも、フレディを映画化するという話が最初にあったとき、僕は「アメリカと日本で、晩年はあんなに冷たかったのに誰が観に行くんだろう?単館上映になるだろうから、わざわざ都心まで足を運ばないと観れないんだろうな」と勝手に思っていた。こんな卑屈になったのも、前述の通り「クイーンなんて誰も聴きたがっていない」というトラウマのせいなわけですが、蓋を開けてみればバリバリのハリウッド映画。ハリウッド映画というのは事前に試写で、観客にアンケートを取って、ウケが良くなるように結末を変えるようなことをするわけです。某監督の言葉を借りると「そういうことをすると映画が低俗になってしまう」。そう、大衆が求めるもを第一優先として作ってしまったら、作り手のクリエイティビティなんてどうでも良いという話になってしまう。大衆が求めるストーリーでなくても、大衆を唸らせるものを創ることが、映画という芸術に携わる人間のプライドというものでしょう。

僕の勝手な予想だけれど、この映画はブライアン・メイが立ち入りすぎているように思う。そりゃ、自分たちのこと、家族の一員であるフレディのことを美化したいという気持ちはわからないではない。でもそれで、捏造された大団円ストーリーを正当化することをアートと呼んでいるのだとしたら、この人の頭の中は相当お花畑だと言わざるを得ない。この映画が完成するまでに、監督やら主役やらが変わって、時間を要したことは、アートから低俗なものへ改変しようとするブライアンが干渉しすぎたからではないだろうか。

クイーンは純度100%の娯楽バンドで、だからこそ素晴らしいと僕は思っている。キャッチーでトリッキーで派手な音楽は、音楽に詳しくない人の心までをも掴む一方で、音楽に詳しくなってからでも、個性的なアイディアに溢れ、他のミュージシャンでは到底できない音楽を作っていることに感心してしまう。つまり、大衆にウケる要素がありつつ、音楽に詳しい人をも唸らせる奥深さがある。クイーンが一番素晴らしい点はまさにここにあると思っている僕に、映画「ボヘミアン・ラプソディ」は大衆ウケ要素だけで作られたものに見えてしまう。

ま、その大衆ウケ要素だけでここまで多くの人の心を掴むというのも、そう簡単にできることじゃないのは事実です。それもクイーンの音楽が持つ偉大さ故。それを世間に改めて知らしめた映画として、ライヴがここまで人の心をつかむという、当たり前でありながら忘れがちなことを思い出させた映画として、評価することは吝かではありません。でも、感動したから、爽快な気分になったから良い映画と評価してしまう、普段あまり映画を観れていない人をターゲットにした映画では、目の肥えた映画ファンを唸らせることはできません。映画批評家の点数が低いのは、つまりそういうことなんじゃないでしょうか。

「スリー・ビルボード」(ネタバレあり)

スリー・ビルボード201811

(ネタバレあり、としていますが、ストーリーにはほとんど触れずに以下、書いています。ただし、この映画は白紙の状態で観た方が良いと思います)

原題は「Three Billboards Outside Ebbing, Missouri」。

レイプ惨殺された娘の操作が進んでいないことに業を煮やした母親が、町外れの看板に抗議の意思を掲示して闘う、という紹介をされているこの映画。そうか、怠け者である警察と闘う強い母親の話なのか、と勝手に想像していたら警察署長が人格者で周囲の信頼が厚く、決して怠けて操作が進んでいないわけじゃない(んだろう)とわかってきてから、おや、これはちょっと思っていたのと違う話だぞ、となってくる。

いや、ストーリーとしてはその通りなんだけれども、主要登場人物や周囲の人物、彼らが生活している街の設定がしっかりしていて、その描き方が実に緻密で複雑。1つの田舎町と限られた登場人物だけで、

●人間が持つ善良さ
●人間の愚かさ
●差別主義者の人間性の酷さ
●収まりのつかない感情が招く行動の愚かさ
●復讐の連鎖の虚しさ
●愛すべき家族への愛情のかけ方の難しさ
●他人を手厳しく批判できるほど人間は完璧ではないこと
●純粋な心がもたらす善き行動と悪しき行動

といった、人間の業をえぐり出し、あぶり出し、表現してしまう。どの登場人物も感情移入できるような人はおらず(署長はできすぎていて親しみを感じない)、ああ、この人はこんなことをしてしまう残念な人なんだな、と思いながら観て行くことになる。

これが初の長編映画というマーティン・マクドナー監督、カメラワーや編集、演出、ストリーの見せ方などが良く練られていて、とてもレベルが高い。とにかく脇役を含めて登場人物に一切のムダがなく、どの人物をどう見せてストーリーの中枢を表現して行くかの構成が巧い。

また、どの役者も演技が素晴らしい。気丈に警察に抗議するミルドレッド(フランシス・マクドーマンド)は、時折弱気になったり、恐れを抱いたりするところを、ほんの少しだけ垣間見せる表現が巧いし、ただのイカレ差別主義者に見えるディクソン(サム・ロックウェル)は実は単に精神的に幼くて純粋すぎるだけの青年であるところまで表現しきれていた。ミルドレッドの元夫のガサツな人物表現と、ジェームズ(ピーター・ディンクレイジ)の雑に扱われ続けた人生から漂う諦観も巧い。

なんにしても、この映画ほど人間の持つ素晴らしさと愚かさをたっぷり描いている作品はそうはない。これだけ人間の持つ複雑な要素を描写しておきながら詰め込み過ぎな印象を抱かせないところも素晴らしい。

最後のシーンは、ミルドレッドもディクソンも実は内心では「こんなことをしても虚しいだけ」と悟っていることが垣間見えていて、恐らく目的を達成させずにそのまま引き返すであろう、と思わせる。決して良い話ではないこの映画、観終わったあとにどこかスッキリするのはそんな2人の雰囲気から、この先、2人はきっと立ち直って行くだろうと思わせるからであるように思う。

映画ファンであれば是非見ておきたい作品。この監督は今後も要注目です。

ピアノ・レッスン 第37回


(ピアノレッスンの記事は自分のための備忘録を主目的としています)

今回は2週続けてのレッスン。

取り組み始めてから6週間経過している「チェルニー やさしい20の練習曲」Op.262-No.1、No.2。なのに、右手も左手もまだスムーズに指が回らず、つっかえたり転んだり。前半後半の締め部分はドレミファソレシドと上がって最後に最初のドに戻るんだけれど、後半に向かって音を徐々に強くして最後は弱く、という先生の指示通りになかなかうまく弾けない。

以前のチェルニー Op.777のときは、先生はテンポを指定せず、弾けるスピードで指が運べればOK(強弱の注意点はありましたが)、というスタンスだったのに、今回はある程度のスピードを要求している。つまり、指がしっかりと、正確に回ることが練習の主眼になっているのだとようやく気付きました。また、「ドレミファソレシドと上がって最後に最初のドに戻る」ところも、指を返してから手首を下げずに肘から右にもって行くような動かし方をすることでキレイかつスムーズに弾けるようなることも教えていただく。

ポイントに気づいたらできるようになるかといったらそう簡単ではないんだけれど、そこが目的とわかればそこに意識を集中させることができるので、頭を切り替えてまた練習しなおすとにしました。これまで6週間練習してきて、今回はこの曲だけで50分くらいずっと練習して、それでも指が回らないんだから、今の自分の力はこんなものだということです。まあ、まだピアノを始めて1年半だから当然とはいえ、4週間くらい譜面の音が取れるように漠然と練習していれば弾けるようになるというこれまで曲の考えを捨てて、何ができるようになることがポイントかを意識して練習しなくてはいけないんだと学びました。今日はこの曲だけでレッスンの時間を使い切って修了。

あとは前回「月光」最後の部分でペダルを抜くことを教えていただいた部分で、ペダルから足を離すと急に音の伸びが消えてつながりが悪くなってしまういところを相談。これは、ペダルを一気に離しているからとのことで、徐々に抜かないとそうなってしまうようです。これまでオンかオフかという踏み方しかしていなかったし、そういう踏み方しか知らなかったので自分で気づくことができませんでした。デリカシーをもってペダルを離して行く練習がまた必要です。

今回のレッスンまでの教訓
●練習曲はどんな弾き方を求められているかを理解した上で練習すること。
●キレイに指を運ぶためには腕や肘の動かし方もそれなりの方法が必要になる。
●ペダルの抜き方は、単純に一気に離すだけではなく、徐々に抜かなければいけないところもある。

ピアノ・レッスン 第36回


(ピアノレッスンの記事は自分のための備忘録を主目的としています)

まずは「チェルニー やさしい20の練習曲」Op.262-No.1、No.2。繰り返しになりますが、この曲の譜面を見たときには「まあ、練習すればわりとすぐに弾けるようなるだろう」と思っていたもの。右手はドレミファソを使うだけで左手は簡単なコード、左右入れ替えて今度は左手でドレミファソを使うだけの、譜面上ではシンプル極まりないこの曲。

速度の指定はアレグロ(快速に・陽気に)よりやや遅いアレグレットと、それなりに早く弾けることを要求される。やってみると早く弾くと、右手の場合は力が入りにくい薬指と小指がおざなりに、左手の場合は薬指が明確に転んでしまう(転ぶ=先走って早めに押してしまう)。ならば、腰を落ち着けてしっかりやろうと思って、テンポを落として1音ずつ丁寧に弾くと、レガートの指示通りに滑らかに流れない。つまり、ある程度のテンポ感を維持してレガートで指が転ばないように弾くことがゴール。これがなかなかうまくできない。

この練習曲に取り組む前のチェルニー Op.777は今思うと、指が滑らかに動くかという意味ではそれほどハードルが高くなく、まったくの初心者にとっては動かし方がやや難しい運指を随所に織り交ぜて、右手は5つの音による、左手はコードやアルペジオのパターンで指を動かすための練習曲。譜面を読み取って、楽譜の通りの鍵盤に指をしっかり乗せることができるかがポイントだったように思います。

今の曲、Op.262-No.1、No.2は譜面通りの音を出すことじたいは簡単、でもある程度速く、一定のテンポで、強弱もそれなりにつけて、指を転ばせず、スムーズにという要素がとにかく難しい。何度練習しても上手く弾けず、家で練習していると徐々に煮詰まって、むしろ時間をかけるほど指が上手く動かないときさえある。これはもう純粋に指を動かすための練習曲で、ここで躓いていることで、基礎ができていないこと、素養がないことを思い知ることになりました。でも、ここで基礎をある程度やっておかないと、これからもゆっくりテンポの曲しか演奏できないということになりそうなので、焦らず、じっくり取り組もうと心に決めました。ちなみに、以前のチェルニー Op.777は4週間以内でクリアして次の曲に進んでいましたが、今回は5週間経過してまだ終わっていません。ピアノを始めて1年半で、スタート地点に立ったということなのかもしれません。

残りの時間は「月光」の仕上げ。音をつなげたいのに切れてしまう6小節目、なぜ切れてしまうのか、自分なりにがんばって考えた結果は小指を中心に指を離すのが早い、というか早くなってしまうからなんだろうという予測をしていたら、単にペダルを離すタイミングが少し早いだけなんだと判明。ペダルを離すタイミングも右手の動きと同期していた方が楽に合わせられるんですが、ここはもう少し我慢して踏み続けている必要があり、その我慢の結果うまく音がつながるように。ようやくCDで聴いていたあの流れが自分の手から生まれるようになりました。これがあるからピアノって楽しいんですね(→だから好きになれない曲はやはりモチベーションが上がらないかも)。

あとは、出すところ引くところの再度の確認とエンディングの左手のみのメロディのどここでペダルを離したら良いかのアドバイスをしていただく。「月光」は音を取るだけならもう1ヶ月半くらい前にできるようになっていたんですが、自分で聴いていて「なんじゃこりゃ」という曲にしかなっていませんでした。先生のアドバイスを盛り込んでいった今、格好がついてきて、これなら人に聴かせてもいいかも、と思えるくらいになってきたのは自分でも感じるところです。

今回のレッスンまでの教訓
●練習曲はどう弾くことが目標なのかを見定めて練習しないとズレてしまう。
●Legato指示の練習曲は、やはりLegatoで弾かないと練習にならない。
●つながるべきところの音が切れてしまうときはペダル離れが少し早いのかも。